4月18日 「十字架の上の叫びによって」 マルコによる福音書
15章33-41節「イエスの死」
33
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35
そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」という者がいた。36
ある者が走り寄り、海面で酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。37
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。38
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。40
また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。41
この婦人たちは、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
私達教会に集うものが見つめるべきものは何か、それは、主イエス・キリストの十字架と復活である。「神の子イエス・キリストの福音の初め」とのみ言葉で始まるマルコ福音書では、今朝の聖書の箇所で初めて異邦人の口からイエス・キリストは神の子であったという告白が生まれた。世界の民への福音の告白が生まれたのである。
十字架のイエスの死は、暗闇の世界を示している。暗闇はすべてのものから光を奪う、人生の中で暗闇を覚えるとき私達は痛みと弱さを味わう。 十字架上の主イエスの叫び、わが神、わが神との叫びには、神の子でありながらまことに人の子として歩まれた主イエスの姿がある。
正しき人が、罪びととなり、罪びとが罪のない者にかえられる、この逆転の姿に主イエス・キリストが示されているのである。
主の死により大きな出来事がおこる。神の祝福のしるしがすべてのものに公にされ、神の恵みがすべての人に等しく示されていく。百人隊長が見たものは、主イエスの叫びの姿であり、そこに真の神の姿を見いだしたのである。
真の十字架の意味と、復活の喜びをこの身の受て歩みたい。
に戻る み言葉に聞くに戻る