4月11日「行け、生きておられる方の証人として」 ルカによる福音書241-12 

「復活する」

 

1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓場に行った。

2 見ると,石が墓のわきに転がしてあり、

3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。

4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

5 婦人達が恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「何故、生きておられる方を死者の中から捜すのか。

6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。

7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。

9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらの事を使徒たちに話したが、

11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。

12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

教会の歩みは主イエスの復活から始まった。この出来事に最初に出会ったのは婦人らであった。聖書は婦人らが空の墓を見て途方に暮れたと記している。私たち人間は必ず死を迎える。このことについて、創世記には蛇がアダムらを誘惑したことが記されている。蛇は神が死なない存在であるということを知っていた。だが、蛇の目的はアダムらの心を神から自分の方へ向けさせることであった。その結果、アダムらは永遠の命を得るどころか罪と死の影によりいつも途方に暮れるようになった。

死は本来の人間の歩む道ではない。私たちは死の奴隷となってはならない。主イエスの死と復活は罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信じることであり、魂だけではなく体を含めた全体が甦る事である。主イエスは十字架に架かり、この世で最も低いものをお受けになられた。しかし、その死に打ち勝ち甦られた。その生きておられる主イエスが私たちといつも共にいる。その意味において、もはや私たちには意味のない人生はあり得ない。それは、主イエスはどうでもいい私たちの人生のために死なれたのではないからである。そして、生きておられる方と歩むゆえに神がそれぞれに一番良いものを与えてくださるのである。この姿こそが主イエスの復活を本当に受け入れた者の喜びと希望に溢れた本来の力強い生き方である。

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