2月8日  「真実の祈りによって」  マルコによる福音書1432-42

「ゲッセマネで祈る」

32 一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、

34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」

35 少し進んでいって地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。

38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。

40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったからである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。

41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。

42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

聖書をよく読み理解することは恵みではあるが、それが時には落とし穴になることもある。筋書きのわかっている物語のように読んでしまうことはないだろうか。しかしゲッセマネの出来事は物語のひとつの場面ではない。私たちは主の心の痛みを知らなければならない。

イエスはこれが自分ひとりの死であったならこれほど苦しみ悶えなかった。イエスのこの姿は弟子達だけでなく私達にとっても不思議なものだろう。神の子なのになんと弱い姿か、と。しかしそれは主が直面している重圧と事態の重大さを理解していないゆえである。イエスは自分には罪がないのに人類の罪を背負って、天の父より呪われ、怒りの裁きを受けられたのである。だから弟子達に目覚めて主と共に祈り、支援することを求められた。これは私達に対する求めでもある。

イエスの苦しみに対して神は父としての痛みを沈黙を通して示された。イエスはその沈黙に従順であることで唯一の正しき方を示したのである。弟子達はこの素晴らしい姿を示されているにも関わらず、目をさましてはいられなかった。いつも弱さゆえにつまづいてしまう弟子達をイエスは見捨てずに「共に行こう」と招いてくださった。主イエスは弱さを後悔する私達のためにいつも祈り、導いてくださる。主の真実の祈りによって罪のあがないは完成され、私達は一緒に祈る幸いを与えられている。

 

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