2月22日  「立つべき姿」  マルコによる福音書14章43―52節

「裏切られ、逮捕される」

 

43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群集も、剣や棒を持って一緒に来た。

44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。

45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」といって接吻した。

46 人々は、イエスに手をかけて捕えた。

47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。

48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕えに来たのか。

49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちは私を捕えなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためてある。」

50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

「一人の若者、逃げる」

51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕えようとすると、

52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

イエスが捕えられる時、居合わせた人々のうちのある者(弟子の一人だろうが)が剣を抜いて立ち向かったが、結局、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。み言葉の前に集う私達は、この現実をしっかりと見なければならない。

イエスはご自分の歩む道を、聖書の言葉が実現する為、即ち、神の御心に適うようにとの祈りを通し受け取られたが、弟子たちはそれを信じることが出来ず、自分の力、自分の信念による姿を示そうとしたが、そのような土台はもろくも崩れ去ったのである。

福音書は、何故このような弟子達の醜い、弱い姿を記したのか?それは、後に弟子達がイエスの愛、イエスの赦し、罪の赦しの福音を知らされ、イエスの許に立ち戻り、自分の罪深さを明らかにして、真の神のみ言葉を伝えんがためであった。             

聖書のみ言葉の上に立つとは、どんな危機の中でも、静かに神を信じ聖書の真理に立って生きることである。

宗教改革者マルティン・ルターは審問にある時、「私は聖書の上に立つ。その他は知らず。神我を守り給わん。」と言った。私達も、そこに居合わせた人々としてではなく、み言葉に立つ者として力強く本当の歩みを歩みたい。

 

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