12月5日 「終末のイメージ」 マタイによる福音書
25章31-40節東方敬信牧師
31
「人の子は、栄光に輝いて天使たちをみな従えって来るとき、その栄光の座に着く。32
そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33
羊を右に、山羊を左に置く。34
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36
裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お尋ねしたでしょうか。』40
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
アドベント(待降節)は、主イエス・キリストが生まれていないかのように待つのではなく、既に二千年前に誕生された救い主イエス・キリストを待つ時である。また、アドベントは曖昧な歴史が最後に裁かれる終末の時を待つという意味で緊張感をもって待つ時でもある。
本日の聖書の物語では、自分の好みで選択することに慣れている私達が逆に選ばれ・裁かれる基準が明確に示されている(三四節〜)。自己中心が当たり前の世の中に生き、自分を第一に考えて自分以外の事には無責任である人々に対し、神に選ばれた人達は、神の溢れるばかりの愛に満たされ、自分を自慢したり誇ったりする余地が全くなかったことがわかる。つまり神の愛に満たされることが信仰者の姿なのである。
主イエス・キリストという隠された王権がはっきりと示されることが終末のイメージであり、その意味では私達の裁きは主イエスの十字架により既に終わっており、私達は罪の重荷を肩から下ろして、主イエスの十字架の前で悔い改めつつ、赦しの愛に感謝する暮らしを送るべきである。
この主イエスの十字架の愛に感謝して立つ時にのみ、どのような人とも交わり和解して、民族を超え、文明を超え、全ての利害関係を超えて共に生きることができる。そして「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」この言葉から始まり、この言葉の示す道を歩むことが平和への道である。