1212 「ひたすら神の祝福を祈る者として」

コリントの信徒への手紙T46-13節 

 

6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。

7 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいていたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。

8 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、かってに王様になっています。いや実際、王様なっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。

9 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。

10 わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。

11 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、

12 苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、

13 ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。

 

パウロの立場が4章には記されている。それは信仰によって義とされることのみを基とする歩みである。コリント教会の姿は、神を恐れ信じる姿が後退した結果、神が見えない、キリストの香りがしない姿となり、人間が前面に出るものであった。これは信仰の根幹に関わる問題である。

私達は、この身に神が宿ってくださる故に神ともにいますと言い表し、歩む。パウロは神に創られた人間とは何かを語っている。神が見えないコリント教会を前にして、使徒と教会との真の関係を示さずにはいられなかったのである。使徒としての自分を主張してきたのは、あなた方が書かれているもの以上に出ないこと、そして高ぶることのないようにする為だとパウロは言う。神の体に生きる者として、このことを新たにしたい。伝道とは、神の国の実現が自らのうちに始まっていることを確信し、その完成を待ち望むこと。この伝道の歩みを欠くとき、人は神から離れるのである。この身が衰えても神の成長は止まることがないとの確信は教会にのみ与えられているのである。

 全てを神のものとすることが、神に従う者の力強さである。パウロは神によって見せ物とされた自らの歩みを語り、雇い主・贈り主である神の考えに従って歩む姿を示す。パウロが特別なのではなく、主が既に、まさにこのように歩まれた故に、また神共にいます我々も歩めるのである。だから自らの歩みを通してその事実をただ示すのである。主に従う姿が伝道となり、隣人や世界を変えていく。主イエスは自ら歩む背中を見せられ私達の歩むべき具体的姿を約束される。私達は神の祝福を祈り、歩むことを赦されているのである。

 

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