11月7日  「神のものとされる喜び」 コリントの信徒への手紙T 31623

16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。

17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

19 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを

その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、

20 また、「主は知っておられる、知恵のある者たちの議論がむなしいことを」とも書いてあります。

21 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。

22 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、

23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

 11月の第一主日は聖徒の日である。聖徒というと私達は「聖」という字に敏感に反応して、特別な偉人や神の道を全うして天の国に入った先達たちを想像して、自分とは関係の無いものとして捉えがちである。しかし、一見この謙遜にみえる考えは、大きな過ちであり、復活の命を軽視することにもつながる。聖なるものとは自らを神の神殿として生きるものであり、我が国籍天にありとの確信をもつことにより、天に生きる先達たちと再会できる大きな喜びが得られる。

 しかしキリスト者は、終わりの日のみを待ち望むものではなく、いつの時代も問われてきた「私は何の為に生きているのか?」との問いに、永遠の神を讃える歩みを与えられ、祈りを通して神と出会う生活を送ることにより、神に良しとされたものと確信して、神の神殿として生きる意味を見出すのである。

 神の神殿は、神に愛され召しだされた聖なるものの集い(=エクレシア・教会)であり、天に帰ったものもこの世に生きるものも一つとなって礼拝する力が表れている。礼拝にはエクレシア(=教会)の総力が表れ、復活の命と共に神を崇めており、教会なき・礼拝なき信仰はあり得ない。

私は神の神殿として歩まされている、そのゆるぎない神の約束により、ありのままの自分の姿と生きる意味を見出し、いつもそこに戻りながら、成長させてくださる神と共に試練を歩み、そしていつの日か神の前で走りきった先達たちと共に喜びの賛美を天の国であげたい。

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