11月21日 「義とされた歩み」 コリントの信徒への手紙T
4章1-5節
1
こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。2
この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。3
わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは,自分で自分を裁くことすらしません。4
自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。
キリスト者として生きる私達は三位一体の神を仰ぎ信じて歩でいるか。信仰無くとも持つ良心だけでは真の道を歩めないのが人間の歩みの事実である。人間は、真の神を忘れ、直に自分の都合の良い偶像礼拝・英雄崇拝を歩んでしまう。
今朝は真理の道に歩む自由な歩み、尽きぬ恵みをみ言葉より示されたい。パウロは一節のこういうわけでと自分の歩みを示し、キリストの者であることを確信し、神の秘められた計画の管理者であると示す。これはキリストに仕える者を通して信仰を与えられる者の真の姿を示そうとしている。主イエスの十字架わがためなりと歩む教会にこそ救いの真理があり、神の奥義として生きた形で現されている。パウロは神の奥義を忘れているコリントの教会に豊かに語る。それは忠実であること、神と一体であることであると現している。パウロの自身の歩み通して
4節では「義とされているわけでない」と言っている。信仰の道を歩むことは神に救われていること、神よって義とされていることを確信し神に従うことである。義とされるゆえに平安が与えられ、歩みが許される。信仰は、日々成長しつづけ、走り続けることである。神が我が身に住んで下さるゆえにそれが出来るのである。
義とされた意味を本当に見出す時真の平安と自由が与えられる。今日は教会暦で一年最後の聖日である、
この一年の神の恵みを深く感謝し、新たな一年の歩みを神に忠実な者として信仰を前進させ、ただひたすら神の栄光を現し歩みたい。
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