11月14日 「この世の者ではなく」 ヨハネによる福音書
15章16−19節東方敬信牧師
16
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」18
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。19
あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
社会の中でクリスチャンは一般的に敬遠される傾向がある。その原因は、キリスト教の考え方が、この世とは違うことに原因がある。しかし、その反面、クリスチャンが社会から一目置かれているのも事実です。それは周囲の意見に引きずられずに、変わらない基準をもって生きていると感じられているからです。また、その他者を愛するという姿からもこの世から望まれているのです。このことは全ての人がそう望んでいるということの表れであり、本来、私たちは神の愛によって命を与えられた存在であるが、しかしこれを神話であると言って受け入れられない、愛に飢えていることが多い、私たちはここに信仰の意味、生きる意味を見出さなくてはならない。それは、主イエスはこのような私たちのために十字架にかかってくださったということです。自分を主張するだけで、他者を思いやらなくてはもう人間ではなくなってしまう。人間は愛を失ってしまえば、もはや人間ではなくなってしまう。私たちは本当に人間であるということを止めてはならない。
そこで愛を失わないこと、人間であるということ、そこにはっきりとした基準が必要になる。それは私たちが人間であるということを映し出してくれる鏡が必要となる。この鏡は自分の見たくはないと思われるようなところも、また見づらいところも、ありのままに映し出してくれる鏡でなくてはならない。そして、一番大切なことはこの鏡はそれらをただ映し出すだけではなく、その自分の映し出された欠点を赦し、癒して矯正してくれる愛の力を持っているものということである。この鏡に私たちは主イエス・キリストを見る。私たちはイエス・キリストを見つめている。この方はこの世を越えた力を持っている。ここに本当の愛が示されている。この鏡である主イエスを見つめて、いつも歩んで生きたい。
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