1031  「土台を固く据える」  コリントの信徒への手紙T 310-15 

10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ,おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。

11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。

12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、

13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火とともに現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。

14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、

15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。

神の用いる器として歩みを赦されること。それは自分の弱さや謙遜で隠してはならない、証にし続けねばならない。「わたしがあなたがたを選んだ」といわれるゆえに神の畑・神の建物と赦されている。試練を受けつつも神によって与えられた救いを全うするのが信仰生活。しかし個人によって全うされるのではなく、まことの隣人としてとして実を結ぶことが私達の信仰生活・教会生活である。

「熟練した建築家のように土台を据えた」というパウロの言葉は、信仰を許された者すべてが口にすることの出来る約束の言葉である。与えられた、目に見えない信仰を表せるのは呼び出された者としての神の教会の歩み以外にない。

神の教会は、神の畑・神の建物が本当に生きることができるところである。信仰の土台である主イエスの御心がどこにあるのかを求め続けて歩むとき、信仰の土台の力強さに立ち戻らされる。「どのように建てるかに注意する」。それは土台に合った建物を建てることに注意することである。弱い時も傲慢になる時も土台を再確認する、即ち主人は誰かを新たにする事が大切である。

私達が主人である神の審きの前に土台を堅く据えて生きる時、審きは恐怖ではなく恵み・喜びとされる。独り子をお与えになるほど世を愛された主人を持ち歩む事の素晴らしさを、終わりの日を通して今朝の御言葉は告げている。信仰を持ち、土台である主イエス・キリストを表す歩みを全うし、走り続けることが御心に叶う歩みである。この歩みの中で私達は拠っている土台の確かさをあらためて見出すのである。

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