1024  「用いられ示される」 コリントの信徒への手紙T 3章1-9節 

1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。

2 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。

3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。

4 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロ」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。

5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。

6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。

7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります、

9 わたしたちは神の畑、神の建物なのです。

パウロはコリントの信徒への手紙の中で「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外に語るべきものなし」と信仰の本質を説き、主イエスの十字架によって示された神の救い、福音を信じる歩みに立ち戻ることにより、“神の霊”を何時の間にか身に纏って歩みだすキリスト者としての歩みを示している。まさにこの時、コリントの教会はこの信仰の本質を見失い、「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる」とパウロに言わしめ、キリストの体である教会を引き裂く歩みを進んでいたのであるが、これはコリントの教会の歩みだけではなく今日の教会の歩みにも起こりうることである。

私たちキリスト者は、イエスキリストを主と信じる群れであるが、肉の人として、弱さを持ち、悩みを抱え、時として傲慢になり、又、この世の様々な誘惑に惑わされる存在である。これが人間としてのありのままの姿である。しかし、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」とパウロが言っているように、私たちキリスト者には神の種、或いは主イエスという隅の親石が与えられている、即ち神がイエス・キリストの十字架を通じて福音を与えて下さっている大いなる恵みに与っている群れである。ありのままの姿を神はそのまま受け入れて、用いてくださることを知らされている。

私たちが週の初めに礼拝に招かれるのは、礼拝を通じて神に相対し、それまでの歩みを懺悔し、悔い改め、神の赦しを得て、本当の自分を取り戻し、新たな歩みを進めるためである。「成長させてくださったのは神です。」私たちは、神を求めることによって正しく成長させ育てられる。キリスト者の歩みは受洗からがスタートである。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ前のものに全身を向けつつ・・・目標を目指してひたすら走る」歩みを共に進めたい。

 

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