1017  「神からの霊を受けて」  コリントの信徒への手紙T 210-16 

10 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくさいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。

11 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。

12 わたしたちは、世の霊ではなく、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。

13 そして,わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。

14 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。

15 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。

16 「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。

礼拝に集う私達は、信仰をもつ者、求道の歩みをする者と様々である。私達が神を愛したのではなく、神が天地創造前より私達を愛し続けて今がある。教会は不思議な場、神の前で交わる奇跡の集いの場である。ここに集う恵みを深く知り受けたい。

10節の神の霊によって明らかに示される神の深みとは何か。聖書が示しているのは神が人間を救われるという恵みのことがらある。それは人間が知りえないほど深い。神はなぜ我々をこれほどまでに愛し給うのかは人間の側からは証明の出来ないことである。しかし,まず悔い改め主を信じることにより,神の霊を何時の間にか身に纏って歩みだす。主の教えを伝えたいと願う歩みへと変えられる。いつの間にか主イエスの十字架わが為なりといえる信仰の歩みが許されるのは、これは自分の中に神の霊を受け神の奇跡が起きている姿である。

神の霊を受けることによって知らされ、導かれるゆえに本当に隣人と共に歩む歩みが生まれ、それを実現できる場こそ教会である。神の前に集う喜びは、毎週礼拝の場でありのままの神に愛される自分を取り戻し神に押し出されて生きていく。

神を知るということは神に知られていることを知ることであり、神に生かされている自分を知ることは神の霊の導き以外にない。三位一体の神、父・子・聖霊がひとつの神であることを教会では教えている。主イエス・キリストの十字架の後の時は、聖霊の時・教会の時であり、伝道の担い手は教会にゆだねられている。神に愛されていることを先ず知り、歩む者は神のみ心を知る手がかりを与えられている。教会にこそ本当の救い、真理がある。喜びを持って週の旅へと歩みだしたい。

 

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