1月25日  「弱さを受け入れるとき」  マルコによる福音書1427-31

「ペトロの離反を予告する」

27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまづく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。』と書いてあるからだ。

28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。

30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

「自分は、悩み、苦しみにある時こそ礼拝から離れないこと、忙しいと思う時こそ奉仕をすること、この二つが大切だと思う。なぜなら、教会で自分の力の弱さを覚える時、もう一度、神の愛を深く知らされ力を与えられるからである。」とある信仰の先達が証しされた。

今日の聖書の箇所で、主イエスから離反を予告されたペトロは、必死になって、たとえ一緒に死ぬことになっても,イエスを裏切ることはないと自分の強さを主張した。イエスは、ご自分が十字架の道を受け入れる時、弟子達が自分を見捨てて逃げ去ること、即ち、人間の弱さをご存知であった。そして、裏切られるにも拘らず、復活の後、ガリラヤへ先に行って待っていると弟子たちに愛の手を差し伸べられている。

ペトロの主を愛する姿勢は真実で素晴らしいものと見える。しかし、そこには自らの力のみに頼ろうとする姿がある。主イエスは、そうしたペトロに対して神の救いの業を受けよと言われているが、ペトロは、その主のみ心を知ることは出来なかった。

私達もペトロと同じように強さを装う姿勢から自分を解放できないでいる。しかし神が求めているのは、あるがままの自分を神の前に差し出す、即ち自分の弱さを受け入れることである。主イエスが待っていると約束されたガリラヤの地、言換えれば、どんな力によっても変わることのない礼拝の場所、教会で、あるがままの自分を神の前に差し出すとき、本当の神の愛が私達にしっかりと示される。そして本当の平安を得て、世の光となって歩むことが出来るのである。

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