信仰に救われている

2008年8月16日

久しぶりに
教会へ行った当日に書く日記です(^_^;)

というのも今日はひとりで教会に行きました。

うだつの上がらない亭主に愛想をつかした妻が息子を連れて実家へ帰ってしまったのです(T_T)



というのはウソ(^_^;)

実は、今後のことを話し合いに行ったのです。

今後のこと…

妻の母親のこと


妻の父は15年前に他界しております。

兄が二人いるのですが、いっしょには住んでいません。

私たちが結婚するまでは、1年のうち数ヶ月は妻のマンションで娘と3人で暮らしていました。

私たちの結婚にも、すぐ賛成してくれて本当に感謝しています。

そんな義母、最近物忘れが激しくなり市の職員から再三「病院に診てもらった方がいい」という連絡がきていました。

そして先日、兄とともに病院へ

診断結果は考えてもみなかったことでした。

「アルツハイマー病」

くわしいことはわからなくても、とてもやっかいな病気であることはわかります。

物忘れは多少あっても、普通に生活してるし
まだ大丈夫でしょう!なんて言っていられなくなりました。

そして、昨日から今後の相談に行ったわけです。

話はもどって、今日の宣教

「教会伝道」 使徒21:1〜16

どんなにひきとめられても伝道を続けるパウロの箇所です。

教会…キリストのからだ

クリスチャンになるまでいやつい最近まで
教会といところがわかっていなかった。

パウロの時代から世界中に広がっていった教会

そこに集う人々

人それぞれ役割がある。

私は、何の奉仕もできていない。
そのことがいつしか重荷になっていた。

それでも、今日の話を聞いて少しは自分の役割があるのかな?とも思えてきた。

教会の伝道

宣教、音楽、書物、文章…

だらだらだらだら書いているこの日記

自己満足でしかないと思っていたこの日記

先日、あるところから伝道のために使わせてもらえないか?という話をいただいた。

「教会に行ってたけど行かなくなってしまった人の参考にしたいんです」

最近、掲示板の方にも書き込んでくださる人がいる。

もともとブログ形式にしていない一方通行だったこの日記も
少し相互通行になりつつある。

共感してくれる人、共感できない人

これもひとつの教会伝道かな?(^_^;)ボツになるかもしれないけど…

話はもどり、義母のこと

これから介護が始まる。

誰が診るのかは、話し合っている最中だが
受け入れる覚悟はできている。

こういう思いになったのも信仰のおかげである。

そして、去年映画の仕事を辞めて福祉関係の仕事につきたい!と思うようになったのも

このためだったのではないか?と思えてる。

私は今年、厄年らしい…(^_^;)

もちろんクリスチャンなんでまったく気にしない。
気にする人からすれば気になるんだろうけど
仲間の同級生はみんなお祓いを受けたらしい。

でも大丈夫!俺は信仰によって救われている。


救われている…と言っても病気にならない、災いがおころない、という意味ではない。
この先どのようなことがおこっても受け入れられるということだ。そう!今回のことも。

イエスキリストが十字架にかかって私たちを救ってくれたこと
2000年経った今でも私たちに伝わってきている。




今日は、いつも騒ぐ息子がいなかったことで
宣教もゆっくり聞けたし、讃美歌も歌うことができた。

今日讃美した讃美歌21 499番 平和の道具と

とても心にしみました。

平和の道具と ならせてください。
憎しみに愛を、戦に和解を、

分裂に一致、疑いに信仰、
誤りに真理、絶望に希望、

暗闇に光、涙に喜び
もたらす器と ならせてください。

なぐさめ求めず なぐさめることを、
理解されるより 理解することを、

愛されるよりも 愛する心を、
敵をもゆるして ゆるされることを。

自分のいのちを 献げて死ぬなら、
永遠のいのちに 生きるものとなる。


永遠のいのち、教えてあげなきゃ!

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