この世と調子合わせ
2007年7月22日

台風接近のため先週の礼拝を休んだ。
ひとりだったら行ったけど
息子と妻のこと考えるとここは自宅でじっと我慢

その前の週、叔母のだんなさまが亡くなった。
家族葬をするということで行ってくる。

本当に身内だけの静かな葬儀
それでもお坊さんは呼ぶということで
クリスチャンとしては…いやそうじゃない人にとっても苦痛な数時間

なんとか逃れたいと受付をかってでたものの
家族葬…親族そろえば受付にいる必要などない

本当に苦痛の中、お経を聞きながらいろいろ考える

叔父の魂
従兄弟の気持ち

こういうときお坊さんも親族に対し、慰めのことばでもかけてくれればいいのに…

ほとんどの人が意味のわからないお経をたんたんと唱え聞かされる

気が狂いそうな思いで耐える

なんとか葬儀も終わり
別室で通夜振る舞い

お坊さんもいっしょ…

まわりじゃなんかペコペコ挨拶している。
ひとと〜り食って、お布施もらってそそくさ帰る

クリスチャンじゃなくたって矛盾を感じていると思うよ

「いったい何のためにお経を唱えに来るの?」って

孫とかもいるし、何かわかりやすく「死」について語ってくれてもいいのに…

そんな両親と叔母と従兄弟を乗せて帰路に

途中、叔母が言う 「クリスチャンはお焼香しないの?」

母 「あれ?お焼香してたわよね」

俺 「いや…してないよ」

父 「今はキリスト教だってそんな細かいこと関係ないだろ」

俺 「いや…一番大事なことだよ」


その翌週、父をのぞく同じメンバーで母の実家青森と妻の実家函館に行く

母の実家で仏壇に線香を…と進められる

困っていると先日質問した叔母が「いいわよ」と言ってくれた。

まわりにとっては小さなことでも
少し証しができてた瞬間だった。

今日の宣教は「霊的な礼拝への招き」ローマ12:1〜2

この世と調子を合わせてはいけません。
いや、むしろ、神のみこころは何か、
すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、
完全であるのかをわきまえ知るために、
心の一新によって自分を変えなさい。


なんか、ここ数日おこった出来事を凝縮したようなみことばだった。

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