母・貞子(さだこ)の生涯
母・貞子は平成17年10月12日(水)永遠の旅立ちをしました。
大正11年8月31日生まれの、享年83歳でした。

11、幼年期・青年期
大正11年8月31日福島県伊達郡立子山村
阿部善一・ミネの四女として生まれました。
母の生まれた阿部家は立子山でも地主の旧家で、
幼少時代は裕福な暮らしで男の兄弟は当時では当地としては非常に珍しく
長男は旧制中学まで、弟たちは大学まで進学しました。
母も成績は優秀だったと葬式の参列者の同級生から聞かされました。
母は尋常小学校高等科を卒業後、20歳の時に家として昔から交際のあった、
青木村の地主の名家伊藤家に嫁になって来る事になりました。

2、結婚から子育ての時期
昭和17年に伊藤久男の嫁として伊藤家へ入籍、翌年に長女が誕生しました。
当時はもちろん太平洋戦争の最中で、久男にも召集令状が来て戦地へ
伊藤家は母と幼い長女だけが残されました。
終戦になり、昭和21年8月に久男の戦死が伝えられ母一人子一人が残され大変な苦労の時期を迎えます。
その当時は戦後の「農地解放」の嵐が吹き荒れていました。
地主で土地を多く持っていた当家は農民運動の矢面に立たされ、
多くの土地を非常に安い価格で小作の人に明け渡さなければならなくなりました。
また、残った土地であっても地主の意見は受け入れられず安い小作料で小作に出さなければならなくなりました。
母は後々自分たちが女だけで残されたために多く土地を手放さなければならなかったことをとても悔しがりました。
歴史の上では自作農を多く作ったとの評価を受けている農地解放ですが、
それによって辛苦を味わなければならなかった家族が出たのも事実、日本総貧農というものを作ったのも
農地改革だという事実も認識していかなければならない事を私は忘れないようにします。
母一人娘一人だった伊藤家に光を与えてくれたのが、昨年亡くなった父・久です。
父は伊藤家に対しては遠縁にあたり、伊藤久男とは小さい頃から親交があり、
復員して来たこともあり、我が家に婿入りする事となりました。
昭和22年に母と結ばれ、農地解放で大きなダメージを受けた伊藤家の再建に
こつこつとまじめに取り組んでいきました。
昭和23年に二人目の子供が生まれ、その後30年まで生後すぐに亡くなった1人を含め
一男、四女が生まれました。1人を残して一男三女は順調に育ち、昭和53年に最後の私が大学を卒業。
子供たちは結婚したり、就職したり大きく巣立っていきました。
母の話では二女が大学、三女が高校の時が一番お金がかかり苦しい時期だったとのことです。

3、子供たちの巣立ちから孫の誕生の楽しい日々。
昭和46年に長女が結婚し、その後昭和58年に私が最後に結婚、10人の孫にも恵まれました。
孫達に「おばあちゃん」と親しまれる時が一番幸せではなかったかと思います。
しかし、一方では母は非常にまじめで厳格な部分もあり、孫達にも厳しく言う時があり、
内孫である我が家の子供たちはだんだんおばあちゃんを避けるようになって
悲しい思いもさせたことも事実です。
特に私の三男さとは、幼稚園に入るまでおばあちゃんと一緒に寝ていましたので、
母にとってははとても楽しいことでありました。しかし教育上問題があるとう人の意見もあり、
むりやりおばあちゃんと寝ることを止めたことで母を悲しい思いにさせてしまいました。
母は子供たちに手がかからなくなってから、父と良く旅行にも出かけていました。
姉の薦めもあってハワイにも行ってきました。
その当時、母は体調も弱まってきて、あまりのりきではではありませんでしたが、
結局それが最後の大きな旅行になったので、母もたくさんの思い出を作ってきました。

3、病気との戦いそして永遠の別れ
父が大きな怪我をした、約1年前の1999年、母は筍取りに行って足を滑らせ
転倒して、体調を崩してしまいました。
それが引き金となって、白内障が進行したこともあって、一種の「欝(うつ)」になってしまいました。
「頭が痛い」「ボ〜っとする」「頭が重い」が口癖になり、
大きな声でとても元気だった母が一変してしまいました。
その母に父は献身的に手助けをし、「○○の病院がいいらしい」と聞くと
福島や郡山などのたくさんの病院に行って見てもらいました。
風呂にも自力では入れなくなり、父が入浴を手伝う日々になりました。
そんななか、父が大怪我をして、首から下が一切動かない「頚椎損傷」になってしまいました。
母の看病がまったく出来なくなってしまっただけでなく、私達も父に付きっ切りになってしまい、
母には施設に入ってもらうことが多くなってとっても悲しい思いを多くさせたこともありました。
父が怪我をしてまもなくの時、今度は母が転んで大腿部を骨折、父と同じ病院に入院ということも。
周りは「仲がいいんだこと」などといわれましたが、その骨折が母にはその後大きな負担になっていきます。
その骨折で母は極端に歩くことが困難になってしまいました。常に車椅子での生活になって行きました。
リハビリの日々が続き、いろいろな老健施設にも入りました。しかし徐々に体は弱まっていき、
再び歩くことは困難になってゆきました。
そして2004年4月9日父の死、母はその日老健施設に入っていましたが、
母が父のもとに行く時まではどうにか息が持っていました。
母は父の枕元で「おじいちゃん、おじいちゃん」といって大粒の涙を流しました。
これが長年連れ添った母と父の永遠の別れになってしまいました。
父の死後母は極端に体力が落ちてしまい、食べ物も喉をなかなか通らなくなったので、
昨年末に胃に直接食事を流すようになり、寝たきりになってしまいました。
口を開けたりモグモグ動かしたりして物を食べなくなった為に
口の筋肉もきかなくなって来て、ほとんど口をあけることが出来なくなりました。
その結果、話している言葉もなかなか理解できなくなっていきました。
母は訴えたいことがたくさんあったでしょうに私はなかなか理解できなくて
話をすることも少なくなって悲しい思いをさせたな〜と後悔もあります。
この夏ごろからは寝返りも一切出来なくなっていました。
10月12日朝、女房に「おばあちゃんちょっとおかしいから早く起きて」と言われ
母の所にいってみると、若干呼吸が激しくなっていました。
「これは入院しなくちゃならないかな?」と思いましたが、それほど深刻とは思いませんでした。
女房がさとを途中まで送って行った間にすぐ上の姉のところに電話。
姉は「1時間ぐらいしたら行くから」ということで話を終え母のところに戻ったら、
口から泡を吹いて意識がなくなっていました。
泡を吸引機で吸い取ったら少しは呼吸が楽なようになったようでしたが、
これは大変だと思い、さとのところと姉にすぐ連絡してすぐ来るように連絡、
母のところに行って、「おばあちゃん、おばあちゃん」と大きな声で声を掛けましたが、
もう反応はほとんどなくなっていました。それが7:50頃で一番上の姉が来た頃には
心臓は弱く動いているようでしたが、もうほとんど息はしていませんでした。
8:30頃お医者さんがいらっしゃってすぐに検診。
その時点ですべて死亡の反応が出ているということで死亡が確認されました。
2005年(平成17年)10月12日午前8時34分に心不全による死亡が確認されました。
享年83歳の生涯でした。
10月15日に母が生前から言っていた福島斎場で火葬され母は煙になって空に舞い上がって生きました。
残されたなきがらは、父と違って骨は少なく、骨折の時に体に埋めた器具が黒く残っていたのが印象的でした。

4、忘れられない思い出
@母の口癖「ハナかめ! 勉強しろ!」
小さい頃は田舎の子供といえば鼻水を垂らしているのが当たり前のような頃、
特に冬はものすごく寒い中、遊んでいるのでどうしても鼻水が垂れてしまう、
それを見るたびに母は「ハナをかめ!」と言われました。
学校に上がると今度は人の顔を見ると「勉強しろ!」
勉強しろと言われても言われてもダメな私でしたが……。
A特別待遇
お菓子などをみんなに分けると、母は「お母さんの分は敦にあげる」と言って
私に多くくれました。それを見て姉たちは
「あっちゃんばかりずるを言うのが常でした。
母は正直一人息子の私に特に甘かったのも事実ですが、
それを知っていても私はそれに甘えていたし、姉たちも仕方ないか〜と諦めていたのも事実です。
B近所の子にも怖い母
一人息子の私は近所の男の子達に泣かされるのもしょっちゅう、
そのたび母に訴えると、母はそのいじめた人を怒ってくれました。
そんなのが続くと遊んでもらえなくなったことも多かったのですが、
その近所の人は今でも「敦君の母ちゃんにいじめると怒られた」といわれています。
C大学入学のとき
母と一緒に東京神田の私が入学した専修大学本部に入学の手続きに行きました。
その当時は入学金は銀行振り込みではなく、学校に現金で納めていましたので、
母が腹巻に現金を挟んで大学まで行きました。
事務員の前で腹から現金を出して、事務員の人が苦笑したのを覚えています。
入学式や卒業式も父や母は学校に行かなかった(ただ式はどちらも日本武道館でしたが)で
母が専修大学に行ったのはその時が最初で最後です。
Dマウント富士号
大学1年のとき母と一緒に富士山一周の富士急の観光バスに乗りました。バスは8時30分出発。
その日の朝、住んでいた茅ヶ崎の自宅から新宿に2時間があれば十分間にあうものと考えて
茅ヶ崎を6時半の電車に乗って藤沢で小田急に乗り換え順調に登戸あたりまで行きました。
しかしその後ガタンとスピードダウン、その当時小田急はたくさんの電車を入れるために
急行も普通電車も同じ到達時間になる「平行ダイヤ」という運転方法で電車はずっとノロノロ
新宿に着いたら8時15分を回っていました。
小田急をおりてヨドバシカメラの裏にあった富士急バスの乗り場まで母親と一余に走ってどうにか間にあいました。
母は「まだ走れるけど、もうちょっと年をとったら走れなくなる」と嬉しそうに話していました。
その日はなかなか富士山が見えませんでしたが、富士山を離れる頃美しい富士の姿を見ることが出来て
母はとっても喜んだことでした。
E歩行訓練
骨折してからまだ古い家に住んでいる頃は車椅子が使えず、
歩行器を使って一生懸命歩く訓練をしました。それでもだんだん歩けなくなっていきました。
母は「筍採りに行って転んだのがいけなかった」「なんでこんなになってしまったのかな〜」と
いつも悔しがっていました。それが原因で欝にもなってしまいました。
厳しいところもあった母ですが、私のことをとても大切にしてくれた母でした。
父のところでいっぱいお話をしてゆっくり休んでくださいね。
さようならおかあさん。空から私たちを見守っていてくださいね。
「正継院妙慧日貞大姉」の霊、合掌
