カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№145(13年5月号)より 半世紀無実を叫ぶ石川一雄さん 50年目の冤罪・狭山事件 安田 聡 半世紀無実を叫ぶ石川一雄さん 1963年5月1日の夜、埼玉県狭山市のNさん宅に封筒に入った脅迫状が届けられたことが事件の発端でした。翌2日深夜、警察は指定された身代金受け渡し場所に40人の警官を張り込ませながら犯人を取り逃がし、4日には女子高校生は遺体となって発見されました。警察の大失態に警察庁長官が辞任し、国会で政府が追及されるまでになりました。捜査にいきづまった警察は市内の被差別部落に見込捜査を集中し、石川一雄さん(当時24歳)を別件で逮捕し、強引な取調べでウソの自白をさせたのです。石川さんは「殺しを認めても10年で出られるようにしてやる」などと取調べの刑事にだまされ、「兄を逮捕する」と脅されて自白させられたのでした。 別件逮捕、見込捜査、長期の取調べによる冤罪の背景には、「あんなことをするのは部落の者に違いない」という差別意識、それをあおったマスコミ報道がありました。1審の浦和地裁はわずか半年の裁判で翌年3月に死刑判決。警察にだまされていたことに気づいた石川さんは控訴審の冒頭で「おれはやっていない」と無実を叫びますが、東京高裁は無期懲役の判決をおこない、1977年、最高裁の上告棄却で無期判決が確定し千葉刑務所に下獄しました。石川さんは、1994年12月、再審請求中で仮出獄し、半世紀たったいまも無実を叫びつづけています。 市民常識からの疑問 そもそも、狭山事件では、市民常識からして多くの疑問がありました。たとえば、犯人の残した脅迫状には多くの漢字が使われ誤字がありませんが、部落差別の結果、小学校にも満足に行けなかった石川さんは当時、ほとんど読み書きができず脅迫状を書けなかったことが明らかです。素手で書いたことになっているのに脅迫状にも封筒にも石川さんの指紋がありません。(証拠物のどれにも石川さんの指紋はない)。犯人の残した唯一の証拠物である脅迫状がどう考えても石川一雄さんと結びつきません。さらに、活発な高校生だった被害者が下校途中に見知らぬ若い男にいきなり自転車を止められ、だまって雑木林の中まで付いて行って殺されるなどという自白の内容がそもそも常識で考えておかしいことです。 2006年5月に石川さんと弁護団は東京高裁に3回目の再審請求を申し立てました。この現在の第3次再審請求で、弁護団は、①犯人の残した脅迫状は石川さんの書いたものではないとする複数の専門家の筆跡鑑定、②殺害現場とされる雑木林の隣の畑で事件当日、農作業をしていたOさんの被害者の悲鳴を聞いていないという証言、③自白のような殺害方法ではないとする複数の法医学者の鑑定書、などの新証拠を裁判所に提出し再審開始を求めています。 証拠開示と事実調べが再審のカギ 2009年9月から裁判所、弁護団、検察官による三者協議が始まり、同年12月の第2回三者協議で東京高裁の門野裁判長が東京高検の検察官に8項目の証拠開示を勧告、翌年5月13日、石川さんの事件当時の筆跡資料や取調べを録音したテープなど36点の証拠が開示されました。その後も弁護団の要求で証拠開示がすすみ、これまで120点を超える証拠開示がおこなわれました。しかし、検察庁には狭山事件の証拠は積み上げると2,3メートルあると言われ、弁護団はひきつづき徹底した証拠開示を求めています。 開示された証拠の中でもとくに、石川さんが逮捕当日(1963年5月23日)に警察署長あてに書かされた上申書は重要な新証拠です。事件当時、石川さんが漢字もほとんど書けず、文章を書くこともできなかったことがはっきりあらわれており、犯人の残した脅迫状とまったく筆跡が違うことが一目瞭然です。このような重要な無実の証拠を検察官は47年も隠していたのでした。 2012年9月には、自白通り発見されたとして有罪証拠の一つとされた腕時計が被害者のものではないことを示す新証拠が出されました。証拠の時計は被害者が使うはずのないバンドの穴が使われており、被害者のものではない疑いがあるという事実を専門家である時計修理士が明らかにしたのです。証拠の開示や専門家の科学的な分析によって有罪証拠とされたものがつぎつぎとくずれています。弁護団は筆跡鑑定や法医学者など鑑定人の尋問をおこなうよう東京高裁に求めています。 現状と今後の課題 ことし3月、狭山事件の再審請求を審理する東京高裁第4刑事部の裁判長が交代し、河合健司裁判長が就任しました。4月は残る2人の裁判官も交代しました。5月8日に13回目の三者協議がおこなわれ、河合裁判長は、証拠開示についてこれまでの考えを踏襲し、検察官にあらためて柔軟に対応するよう促しました。弁護団、検察官の双方から証拠や意見書が出され、今後、東京高裁が事実調べをおこない再審を開始するか判断することになります。狭山事件発生から50年を迎えることしは第3次再審請求の大きな山場でもあります。石川一雄さん、早智子さんは裁判所の前での宣伝行動を続けています。徹底した証拠開示と鑑定人尋問を実現し、一日も早く、石川さんの冤罪を晴らすためには、わたしたち一人ひとりが声をあげることが必要です。みなさんの支援をお願いします。 (部落解放同盟中央本部) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№144(13年3月号)より 狭山事件50年とイエスの復活の体 小さい兄弟会 太田 勝 狭山事件で石川一雄さんが、不当逮捕されてから今年5月23日で満50年になります。多くの方たちが、狭山事件を自分のこととして、痛く記憶されているのですが、1963年当時、わたしは情けないことに、部落差別の存在にやっと気づき始めたばかりでした。1989年に関西に引っ越してきて、部落問題に具体的にかかわるようになって、狭山現地研修にも行き、徐々に石川さんの存在はわたしの視野に入ってくるのですが、それでも、2回目の狭山研修を島本要司教とともにした折に、島本司教が「石川さんは無実の身でありながら、死刑判決を受けられた。まさに現代のイエスです」と解放ミサで説教されたときには、「それはそうだけど、イエスと同じ、とはオーバーだよな」と声には出さずに心では思ったものでした。 しかし、再審請求はなかなか認められず、これほど無罪がはっきりしているのに、いっこうに形にあらわれてこないのには驚きを感じ始めました。毎年、石川さんが逮捕された5月23日と寺尾判決(東京高等裁判所1974年)で裏切られたことを記念して10月31日に設定されている狭山集会に参加し、日比谷野外音楽堂(東京・千代田区)から1時間のデモ行進をして東京駅北口付近で解散するのですが、この時、石川一雄さんはデモ参加者が流れ解散していくのを1人ひとりに握手をして感謝を表していました。この姿勢の低さと真摯さにすごく感銘を受けました。狭山裁判闘争は石川一雄さんでもっている、と強く感じました。 2005年9月横浜で行われた「カトリック正義と平和全国集会」の分科会に石川一雄さんに来ていただいたことがありましたが、分科会のあと中華街で夕食をしました。夕食の時、健康を維持するため、といわれてお酒も飲まず、食事もほとんどとらないでわたしたちと付き合ってくれました。 当時は、ビールとかを飲まないで食事をするなど考えられない自分でしたので、石川さんが修行僧のように見えました。部落差別問題にもとづく冤罪を晴らすために、無罪判決まで、何歳までも生き続けていくんだ、という気迫が、にこやかに話されている身体全体にみなぎっているように感じ、忘れられません。 一審(浦和地裁)の死刑判決の後だまされていたことに気が付いて、「やっていない」と無実を主張し始めたころは、部落解放同盟も支援はそれほどしていなかったようですが、獄中から無罪の訴えを10年続けたあと、部落解放同盟が石川さんのことは自分たちのことだと気が付いてからは、運動は石川一雄さんを乗り越えて、再審請求運動は部落解放同盟の運動になっていきました。“部落問題の解決は国民的課題である”との同対審答申が1965年には出され、予算措置がついたのが1970年。石川さん逮捕の1963年から10年にして、石川さんをめぐる運動はピークを迎えます。小学生までが「狭山再審要求」のゼッケンをつけて同盟休校をするまでになります。そして、2007年には再審を求める署名は100万筆を超えました。さらに、2009年には門野博裁判長(東京高裁)が検察に証拠開示を勧告するまでに運動は進みました。そして、情報公開をうたった民主党政権が2010年9月に発足しますので、いよいよ証拠開示が実現し、石川一雄さんの再審に大きく道が開ける、と期待が高まったのでした。大げさに言えば、イエスのエルサレム入城みたいに群衆は石川さん支持に傾いたように思えました。 しかし、日本の裁判制度の改革は容易なものではありません。検察がなし崩しに証拠開示を始めてきたので、もっとたくさん出てくると期待された動きも、民主党の情報公開の動きが本物ではないことと相まって、動きが鈍くなり、寺尾判決で殺人現場とされた林のなかで血液ルミノール反応検査をした書類(寺尾判決は全くのデッチあげで、殺人は行われていないのですから、ルミノール反応が出るわけはないのです。だから証拠書類さえ出せば、ルミノール反応なし、と記されているに決まっていて、石川さんの無実が証拠立てられるのです)は「不見当」(=見あたらない)と人を馬鹿にしたような検察側の回答で動きが止まってしまっているのです。 イエスの死刑判決は、偽証人やらローマ人やらを動員した無理やりの判決でしたが、石川一雄さんの裁判も鞄・万年筆・スコップ・いも穴・遺体・自転車など無数の物証の語る真実を恐れて、一度も現場検証しないでの、無理やり判決です。イエスがまさにこのような不当な裁判をうけている人々のために死なれた救い主であることをわたしたちは確認することができるのですが、狭山事件はわたしたちの信仰を固めるために起きているのではなく、イエスのように不当な判決により殺される人が二度と出ないように、わたしたちが働くように、とイエスから求められている、ということではないでしょうか。石川一雄さんが再審を勝ち取り、無実を勝ち取り、「罪の潔白を両親に墓参りで報告できるよう」支援し続けたい。 石川さんの死刑判決は無期懲役にかわり、現在、仮釈放中です。しかし、普通に生きる幸せな人生を50年間、全く奪われた死刑判決同等の状態にいることも確かです。この状態を逆手にとって、石川さんは解放運動のために自分の人生を捧げて、それを生きがいとして頑張っておられます。逆境をマイナスのままではなく、プラスに化学変化させての石川一雄さんの生き方に、わたしたちは復活のイエスの姿を見出します。このように表現したからといって、石川さんだけが偉い、というわけではなくて、わたしたちも同じように復活のいのちに招かれていることを改めて想いをいたしたいものです。石川一雄さんの再審獲得のために働かないと復活の体はイエスさんからもらえないよ、とおどかすわけではありませんが、わたしたちの日本カトリック部落差別人権委員会の規約に「狭山裁判支援は信仰の求める大事な活動」と書かれていることを忘れないでいたいと思います。 |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№143(13年1月号)より 2013年 あれから50年目 日本カトリック部落差別人権委員会委員長 平賀 徹夫 毎年、年頭に当たって「今年こそ」との思いを新たにしてきたのだったが、また、年が改まり、2013年となってしまった。あれから50年目となる年だ。 聖書で50年目という年は「ヨベルの年」と呼ばれ、全住民に解放が宣言される年とされていた(レビ記25・10)。そこで、なんとしても「今年こそ」、石川一雄さんに再審の道が開かれ解放の宣言がなされる年となるよう、昼も夜も叫び求め(ルカ18・14)なければならないと固く決心したところである。 昨年10月30日、日比谷野外音楽堂での「狭山事件の再審を求める市民集会」に参加した。集会では石川さんへの連帯アピールのために、6回の再審請求の末、死刑判決から再審無罪を勝ち取って生還された免田栄さんが登壇されたが、アピールの口調が淡々として穏やかであればあるほど、冤罪というもののむごさに言い知れぬ腹立たしさを覚えた。次いで、狭山事件の再審を求める市民の会事務局長・鎌田慧さんによる「まとめ」の報告がなされ、「石川さんは、50年間も殺人者という烙印を押されてきたのだ」という一言がズシンと心に迫って、再びやり場のない腹立たしさに覆われてしまった。腹立たしいといえば、狭山事件の犯行が行われたとされる場所の位置関係や、「秘密の暴露」とされている証拠の万年筆発見の場所等々を見て回る現地学習を重ねるごとに、年月とともに現状が全く変わってきているにもかかわらず現場での事実調べがなされてこなかったということへの腹立たしさが膨らんできたことも思い出す。 最近まったく唖然としたことがある。2012年12月23日号のカトリック新聞第3面に袴田事件の記事が載っていた。「(巌さんの実姉)ひで子さんを勇気づけたのは、袴田事件の元裁判官の熊本典道さんが、2007年、袴田さんの無実を訴えた出来事だった。1968年の第一審当時、熊本元裁判官は、袴田さんの無実の確証を得ながらも、死刑を求める他の2人の多数意見に屈し、死刑判決文を書いたと告白したのだ」とあった。過ちては則ち改むるに憚ること勿れ、との諺がある。過ちの告白には大変な勇気が要ったことだろうが、告白までに39年経ったのはいかにも長すぎた。石川一雄さんの場合はさらに長く50年経ってしまっている。裁判所も検察も正義を行う所だろうと思うのは全くの素人考えだろうが、正義に反して故意に人を陥れる選択だけは願い下げだ。 この1月下旬、第12回と思うが、第3次再審請求の三者協議が開かれる予定と聞いた。弁護側からの証拠開示請求が認められ、再審開始の決定が一日も早くなされることを心から望むものである。弁護団、がんばれ。裁判所も検察も真の正義を実現する勇気を持て。 |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№142(12年11月号)より 語るべきときには語る勇気を (大阪教区) 宮内 陽子 前回のこの欄のニュースで、「宗教的な話」と題する吉岡司祭のお話を読みました。ラジオ放送で原発廃止を訴える司教団メッセージに触れたら、放送局から「原発関係は控えてほしい」と告げられたことや、警察の教会への無断立ち入りについての話が政治的だ、という理由でカットされたことに対し、いのちが踏みにじられる現実から目を逸らすことなく「波風を立てる宗教」を語っていきたいとのお話でした。 確かに政治的な話は敬遠され、場合によっては警戒されます。とはいっても、時の政治を批判した場合のことです。どんなに政治上の問題があっても何も言わないでいれば、もちろん政治的とは言われません。教育の場でも何となく政治批判はしにくい雰囲気があるようです。かつて、学校が軍国主義の推進機関の様な役割を果たしていた時代がありました。その反省として、教育基本法にも「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」とありますから、強い立場にある教師が、特定の政治的考えを子どもたちに押し付けるべきではないということは良く分かります。でも、一切の政治的発言を避け、まるでこの世の人ではないかのような態度を取ることまでは求められていません。教育基本法の第14条第1項は「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」(改定される前は「・・・教育上これを尊重しなければならない」でした。「しなければ」と「されなければ」の違いは、単に言葉の違いだけではない、教育する側の覚悟の違いをも表しているような気がします)と決めています。向き合う児童、生徒たちに、その時々の政治的な問題に対する大人としての考えを語ることは、政治的教養を育むうえで大切なことだと思います。 子どもは大人の考えに左右されると危惧する向きもありますが、それを言うなら、社会全体で左右させているということが言えると思います。わたしたちは政治の真っ只中で生きています。政治がわたしたちの生き死にをも決定することがあるということは、先の戦争の歴史、また、原子力政策を見れば容易に分かることです。政治的なことは避けると称して、反対意見を押さえることにより、「原発は安全だ」という誤謬をまき散らし、国民を欺いたのは政治そのものではないでしょうか。わたしたちは騙されないためにも、自身の政治的見解を持つことが必要ですし、折に触れてそれを子どもたちに投げかけ、政治的感覚を育てていかねばならないと思います。 「食事の席で、政治と宗教の話をするべきではない」と言われます。共に激しい意見の対立を招きやすく、食事を台無しにしてしまうことから、このように言うのでしょう。しかし、そんな大人の知恵を後生大事にしていれば、部落差別人権委員会にかかわる人などは食事中はずっと黙っていなければならないのではないでしょうか。激論になり決裂というような未熟さではなく、意見の違いは違いとして、認め合うところは認め合い、人間として尊重し合うことができればと思います。そしてどの場合でも、キリスト者が判断する軸は、常にキリストです。イエス様が今かたわらにおられたら、現在の状況をどう思われるだろうか、わたしに何を語られるだろうか、それがわたしたちが世の中を判断する時の基準です。その基準に則して、語るべき時に語る勇気を持ち続けたいと思います。 |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№141(12年9月号)より 「宗教的な話」~ある体験から突きつけられたこと~ (大阪教区司祭) 吉岡 秀紀 わたしは年に何度か、ラジオでカトリック司祭としてお話しさせていただいています。関西に本社をもつ、大きな放送局のいわゆる宗教番組です。 その8月分の収録で放送局を訪れた際のこと。番組制作会社の方によると、今年3月の放送で、わたしが「日本に住むすべての皆様へ」ではじまる日本カトリック司教団メッセージ『いますぐ原発の廃止を~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~』について触れたことが局内で「過激だ」という意見がでたとのこと、「電力会社もスポンサーなので原発関係は控えてほしい」とハッキリ告げられました。 そして8月の放送分では、カトリック新聞でも詳細に報じられた、横浜教区の教会への地元警察署の無断立ち入りに関して、日本における外国人の人権(特に改定入管法の問題)と重ねて話そうと準備していました。この事件についても、日本カトリック司教協議会として、国家公安委員会委員長と警察庁長官に、抗議と再発防止の要請書を提出するに至り、既に両者は過失を認め、謝罪しています。 しかし、これまでなかったことですが、放送局側による事前の原稿確認が行われ、「内容が政治的で放送できない」「もっと宗教的な話をしてもらいたい」と言われました。 対してわたしは「これらのことになぜ司教団や司教協議会、つまり日本のカトリック教会として声を上げたのか、それは人のいのちと心に関わることだから。これは政治などではなく、わたしたちの信仰の根幹が問われる問題で、まさに“宗教的な話”である」と答えましたが平行線。スタジオの使用時間も迫り、そのまま収録して編集の上、放送ということになりました。 さて、実際の放送を聴いてみますと……横浜教区の事件については完全にカットされていました。日本のカトリック教会の公式見解すら話せないなんて! どうやら宗教とは波風立てぬもの、「現実から目を逸らす装置」という捉えかたがされているようでした。 わたしたちは、ある種の「仮想現実」が与えられ、現実から目を逸らし、思考停止の罠の中にあることを身近に実感させられた体験でした。原発事故も、除染と復興の美名にすり替えられつつあります。 キリスト者=イエスの生きざまをみずからの生きかたとすることを宣言した者として、いのちが踏みにじられる現実から目を逸らさないよう喰らいつき、波風を立てる“宗教”を語り、生きていく。拙いながらもブレずにありたいです。 |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№140(12年7月号)より 低みからの見直し (日本カトリック部落差別人権委員会委員) 矢中 幸雄 6月初め、人権学習会が前橋市であった。講師は有馬理恵さん。どんな方なのか全く知らず参加した。講師紹介になり、水上勉作「釈迦内柩唄」の一人芝居を演じる舞台女優その人であった。また4年前、山梨県甲府市で見た、フィリピンの元日本軍「慰安婦」をテーマの市民ミュージカル「ロラ・マシン」の主役で、唯一のプロの女優その人であったことも知る。 「釈迦内柩唄」は昨日の講演で12年、462ステージとなる。だが、会場でその芝居を見た人が1人もいなかったこともあり、1時間30分の芝居を20分にまとめた短縮版を初めに演じ、内容を少し理解出来たところで講演に入った。有馬さんは高校2年生の時、「釈迦内柩歌」を初めて見て強い衝撃を受ける。その背景に、彼女の父親が貧しさのため赤ちゃんの時捨てられ、被差別部落の女性に拾われ部落で育てられる。成人し大恋愛をして結婚しようとするが、女性の家族から猛反対され、「部落に嫁ぐのなら縁を切る。2度とこの家の敷居を跨ぐな」と言われ結婚する。そして彼女は生まれた。16才の時母の実家の祖母が危篤となり、母は姉妹から会っておいたらといわれ、母と彼女2人で実家に行く。しかし祖父から「玄関までだ。中に入るな」といわれ目の前で戸を閉められた。悔しさと怒りのあまり、涙も出なかった。血の繋がった父子でさえ、これだけ拒否されるのだとしたら、自分の住む地域以外の人達からはどれだけ拒絶されるのだろうと恐怖で凍りついた。そして1年後の「釈迦内柩唄」との出会いだった。 火葬場の父の手伝いをしている主人公「ふじ子」が大恋愛をする。しかし火葬場の娘と知ると男は逃げた。「お姉ちゃんもそうだった。私は結婚も出来ないのか―」と絶叫するところで、客席にいた彼女は1年前の光景が甦り、そこで気絶してしまう。この1年間差別に対する怒りと恐怖感に嘖まされ生きてきたが、この舞台上のふじ子をはじめとする登場人物の生き様は自分と全くちがうと感じた。あらゆる苦悩を引き受け消化し、「あなたは今何をしたいの」と聞いてくれているように感じた。そんな生き方が出来るのなら自分もしたいと思った。ふるえるような怒りの奥底に、すがるような生命の願いがあった。そして自分をここまで変えてくれた芝居が人を動かし、世の中を動かす力になると信じ、この道を歩むことを決意する。低みからの見直しによって人の痛みの分かる彼女の演じるふじ子が人に感動を与えているのだった。 |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№139(12年5月号)より 主の復活にあずかり 新しく生きる (日本カトリック部落差別人権委員会委員) 佐藤 恵 四旬節を迎え過去を振り返る時、わたしにとって忘れられない記憶が、痛みとともに甦ります。わたしは、福祉関係の仕事に従事しています。それは、ある利用者の怒りの電話がきっかけでした。利用者から当日の出来事を聞き取り、何が彼の怒りを誘発したのかを検証しました。そして、彼の支援に入られた方にも確認をし、おそらくこのことが問題だったのではないかと指摘しました。馬鹿にされたと感じた利用者の憤りは激しく、報復の欲求は執拗でした。わたしたちは彼の自宅へ謝罪に行き、支援の仕事を辞めるよう怒鳴りつける利用者の前で、その方は退職を約束されたのです。 しばらくたってから、見直しをするために事務所に来て頂くことになりました。約束の時間が来て、その方が現れました。活動を続けて頂くようお願いするつもりでしたが、その方を一目見たとき、それが絶対に不可能なことを、わたしは一瞬で悟ったのです。それほどに打ちひしがれて、傷ついておられる様子が見て取れたのです。再びその日のことが確認されていく中で、悪意を持たずになされた行為だったことが明らかになっていきました。活動依頼の電話を掛けたとき、いつも応対してくださったお連れ合い、優しい声を思い出していました。どれだけ、その方に助けて頂いたことか。利用者の怒りの原因を突き止めたことに得意になって、その方の痛みに気付かないばかりか、結果的に利用者と一緒になってその方を追い込んだのです。過ちを正直に打ち明けて謝罪したい衝動と、一方で、一連の対応を擁護する言葉が浮かんでくる自分がいました。その方の苦しみに直面しながら、まだ自分を守ろうとしたのです。わたしはこの出来事を、自分への戒めとして一生忘れないでしょう。 外に向かって不正を訴えることはたやすいのですが、自分の中の過ちを認めて向き合うことは苦痛以外のなにものでもありません。でも、差別を許さない社会の実現を願うわたしたちだからこそ、弱い自分を認め、「過ちを犯さない正しい自分」という呪縛から解き放たれることが、先ず必要なのでしょう。無意識に誰かを傷つけ、犠牲にして生きている人間同士、互いの弱さを認め合い、生活者として豊かにつながっていく努力を絶え間なく続けていくことを誓って、主の復活に与り、新しくなる春を共に喜び合いたいと思うのです。 |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№138(12年3月号)より 殉教者がその荊冠を祝福されるとき (日本キリスト教会大阪北教会 牧師) 森田 幸男 部落問題に取り組むキリスト教連帯会議(部キ連)では2月27日に「加盟教団・教派代表者部落差別問題研修会」を大阪の「日本基督教団いずみ教会」で行い、講師を通して今も絶えない結婚差別の実態などを痛切な思いで聞きました。また3月5日~6日には「日本基督教団狭山教会」において、「第20回狭山現地調査・学習会」並びに「第14次狭山再審開始・証拠開示要請」を行い、石川一雄さんと早智子さんの訴え及び安田聡さんの情勢報告を聞き、現地案内をしていただいた。その間3月3日には全国水平社創立90周年記念集会が京都会館でありました。 近年種々の冤罪事件が解決を見ていることは誠に喜ばしい限りです。当事者の長年の懊悩、鬱憤を想えば、冤罪再発防止のために、ぜひとも可視化・証拠開示法制化を急ぐ必要があります。それにしても余りに明白な狭山の冤罪が、何故半世紀近くも晴れないのか。安田さんの報告の中に、「司法村」という言葉がありました。これだと合点がいった。 これが部落差別に基づいて仕組まれた冤罪であることは、「無期懲役」の判決を下した裁判所も、警察・検察のでっち上げであることは、百も承知であった。真犯人を取り逃がした警察の威信を保つために、被差別部落の一青年を犠牲にしたのである。ひどい差別、人権無視で、冤罪が仕組まれたことは、今や誰の目にも明らかである。 狭山事件は来年5月で、発生以来50年です。事件当時24歳であった石川青年も、今は73歳になっておられる。この間の葛藤、苦悩、悔しさを思えば、何としても石川さんがご健在な内に冤罪を晴らしたい。集会の度に石川さんは色紙を用意して来られる。今回の色紙にこう記されていた。「雪冤も 49回 年を超え 三次に懸けて 凛と立つ」。そして別れ際にこうも言われた。「裁判はまだ長いですから、引き続きご支援を宜しくお願いします」と。司法村に早期の自白を期待するのは甘いのかもしれない。 しかし、荊冠の主イエス御自身がこう言われます。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られないものはない」と。従って、殉教者がその荊冠を祝福されるときは必ず到来するのですから、その時の来るのを固く信じ、またその時の1日も早いことを願いつつ、石川一雄さん・早智子さんとともに更に誠実に、熾烈に、無罪獲得、差別廃絶に向かって歩んでゆきたく思います。 |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№137(12年1月号)より 年は明けてしまいました 平賀 徹夫 東日本大震災という大艱難に見舞われた2011年から、年は2012年へと改まりました。しかし新しい年になったからといって、大震災でもたらされた苦しみが去ったわけではありません。被災地の2万人にも及ぶ数の死者・行方不明者を悼む悲しみは癒えず、大地震と大津波によって生活の基盤を失い避難所に身を寄せて緊急時はしのいだものの、その後、仮設住宅や借り上げ住宅(みなし仮設)等に入っての不便な生活を続けている方たち、損壊しても一部は使用できる自宅の方がよいとしてそこに戻っての不自由な暮らしに耐えている方たち、それに福島第一原発大事故による放射能被害から逃れるために、先が見えないままに故郷を離れさせられている方たち等々、その数十万の人々の苦悩や不安は続いています。 一方、この大災害を通して、善意とは人の心を打つ尊いものであることが明らかに見えてきたのも事実です。救援のために、まず、公的な組織の力がその本領を発揮したと言えましょう。被災地の大変な惨状からの復旧にあたって、第一に大量の重機を投入し且つ強力な組織力を駆使して目ざましい働きを見せ、また、行方不明となった被災者の捜索のためには人海戦術の形で多数の隊員を動員して事に当たった日本全国からの自衛隊、警察、消防関係者等の働きは絶大でした。被災地を行き交う救援車両とその人員に対する住民からの感謝の念は非常に深いものがあります。 同時に、被災地・被災者に連帯し支援しようと志願してくる数知れないボランティアの人々の動きもすぐ起こり、今も連綿と続いています。医療関係の仕事に従事している方たち、職業や社会的立場などを表に出さずにグループや個人として参加する方たち、学生、親子で等々、総数はどれほどになるものなのか見当もつきません。この方たちは被災者といわば顔と顔を合わせて関わる支援に当たり、互いの信頼関係も強くなっています。 ところで、石川一雄さんにとってはこの大震災にも匹敵するとんでもない大艱難に、全く突然に見舞われてから年が改まること49回にもなります。このようなとてつもなく長い期間、公的な組織が発揮してきた本領はどういうものだったか。上記の被災地・被災者救援とは正反対で、正義にももとる姿勢以外の何物でもない仕打ちにしか見えません。裁判官自身による「事実調べ」の請求は無視され続け、検察による証拠のねつ造は疑い得ない状況のまま事態が続いてきました。ようやく近年になって三者協議が開かれるようになり、裁判所の検察側への証拠開示勧告がなされたものの、弁護側から開示を求められる証拠について「不見当」という回答で済ませるハラは、人の心を打つ善意のかけらもないものとしか言いようがありません。昨年12月12日、袴田事件で検察側から176点の証拠開示が静岡地裁でなされたことが報道されました。そして12月14日には、東京高裁で狭山事件の14点の証拠開示がなされたとのうれしいニュースもありました。しかしこれはまだ恣意的な形でのことです。それで済ませておくわけにはいきません。 昨年12月1日に開かれた日比谷公園での狭山支援集会の終わりに、「公正な証拠開示の法制化を求める」27万筆にも及ぶ署名簿を国会議員会館の社民党議員に届けましたが、法制化のためにもっともっと議員方にも動いてもらわねばなりません。石川一雄さんに固く連帯し支援するボランティアたるわたしたちは、嘘のない善意を結集して、署名活動でもハガキ作戦でもなんでも、知恵を出して働きかけて行くべき最後の詰めのときが来たような気がしています。 |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№136(11年11月号)より 脱原発をめざす人々の輪に 野中 泉 10月8日、岡山カトリック教会で「岡山宗教者九条の会」発足5周年記念シンポジウムが「3.11福島原発事故とわたしたちの未来~原子力と文明、命の尊厳を考える~」というテーマで行われました。 案内のチラシの文を少し紹介します。「いま、私たちは、『生きる意味』『働く意味』『社会を築く意味』『文明の意味』を正気で語られるでしょうか。被爆の実態を苦汁の中から語り始めた芸術家・田中稔子さん、大自然の摂理に生きるため川内村に入り住んで突如地震と被曝で追放された大塚ご家族、世界一の『原発銀座・若狭』に在って長年原発とたたかい続けてきた宗教者・中嶌哲演さんのお話から、その答えを追求していきます。(シンポジスト・プロフィール)田中稔子さんは広島在住1938年生まれ。広島原爆では爆心地より2.3キロメートルで被爆(当時6歳)。1960年代七宝焼を学び、芸術活動を開始。以来、数々の権威ある賞を受賞。1981年広島市長よりローマ教皇ヨハネ・パウロ二世に自作が献上される。近年はアメリカ国内で被爆証言活動を実施するなど、核兵器廃絶を主とする平和活動を行う。大塚愛さんは岡山県出身。福島県川内村で自然農法やソーラー発電を利用した自給自足の暮らしを家族で実践。3.11福島第一原発事故を受け、岡山に避難。子ども未来・愛ネットワーク代表を務め、東日本大震災被災者の避難受け入れサポートと、放射線についての正しい情報を発信する活動を行う。中嶌哲演さんは福井県小浜市若狭明通寺住職(真言宗御室派)。1942年生まれ。高野山大学仏教学科卒。原子力発電に反対する福井県民会議代表。原子力行政を問い直す宗教者の会。小浜への原発誘致を阻止するなど、長年にわたり若狭で反(脱)原発運動を続ける。著書『原発銀座若狭から』(光雲社)」 このとき印象に残ったことを少し紹介したいと思います。哲演和尚は反原発運動をしてきたきっかけを、平和行進での1人の被爆者との出会いでしたと言われ、原発が事故なしで正常に動いても毎年広島原爆の何倍もの死の灰を作り出すことで反対するに十分な理由だと言われました。田中さんは新しい被爆者を作らないために働いてきたのに、原発でこの40年の間に累計45万人もの被曝労働者を生み出していたことについて考えていなかったことを、悔やんでいると言われていました。大塚さんは、川内村での生活(ソーラー発電による電力の自給や、自分で作った家、薪を使う生活など)を紹介しながら、労働者に被曝を強いるような形で作り出すエネルギーでないものを使いたいと話していました。また、このときちょうど大塚さんを訪ねてきた川内村で自給自足の生活をしていて今もそこに残っている大塚さんの先輩夫婦の話も、聞くことができました。20歳の頃に、消費主義的な生活から自然の恵みを大切にし、自分で物を作り出す生活を目指してここに移り住み、原発と最も関係ない生活をしていた自分たちがなぜ原発の犠牲にならなければならないのか、というやりきれない気持ちを、言葉を詰まらせながら訴えていました。 このシンポジウムの後、今回の事故で原発を思うように動かせなくなったことにより、自治体が経済的に困ってしまっているというニュースを聞き、安価でクリーンなエネルギーを印象付けるためにどれほどの税金が使われていたか、また、原発を正常に動かすためにも被曝者を作らなければならない事実に目を閉じ、耳をふさいでいたかをあらためて気付かされました。この原発を日本は海外に売ろうと画策していることを思うとかなしくなりますが、脱原発のために、1つ1つの命が大切にされる社会をめざしてたたかっている人々の輪につながっていたいものだと思います。 (カトリック広島教区司祭) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№135(11年9月号)より 当たり前でないことが、当たり前だった 石川 治子 部落差別人権委員会の夏季合宿が7月に新潟で行われました。はじめに部落解放同盟新潟県連合会委員長の長谷川サナエさんが導入の話と現地学習の案内をして下さいました。 地域の道路は、大人が2人並んでは歩けない位狭い。ましてや消防車も救急車も入れない。佐渡市では「せめて霊柩車が入る道幅がほしい」と... 。今までだったら、消防車とか、救急車が入れないから道を拡幅してほしいといっていたのが、高齢化してこんな言葉がでるようになったとか。 川の堤防というものは両岸が同じ高さであるはずなのに、地域の河岸は、地域外の側と比べて低い。洪水になれば、水は河岸の低い方へと当然溢れ出る。 川の側の道路、被差別部落を覆い隠すように作られた生け垣。地域のプライバシーのためとか言われたが、それならなぜ、ずっと生け垣が続かないのか。なぜか地域のところだけで終わっている。 長谷川家の墓石には、どんな辞書にもでてこない創作の漢字の入った戒名が。 このような様々な差別の話の中で、「当たり前でないことが、当たり前だった」、という長谷川さんの言葉がとても印象的でした。地域に住んでいると、地域外の人が当たり前に享受していることが、享受できていない。それでもそれが当たり前だと思って生きて来た、と言われたのです。差別を受けているという感覚が麻痺させられ、不公平だとか、不正義だとか気づかないようにされたということでしょう。 「寝た子を起こすな」という考えがいまだに深く浸透しているとの印象を受けました。何も知らない人に、わざわざ問題を知らせたり事を荒立てたりすることをせず、そっと放置しておけば自然に解決するだろうと考えるわけです。ですから、差別だと声をあげる人をうるさいと思うのです。 長谷川さんの話を聞いて、この感覚って、女性差別と共通するな、と思いました。日本では、当然でないことが当然であるかのようにまかり通っている男女間の差別がありますが、それに気づいていないという現実も多々あります。それが普通のこと、当たり前のこと、と思って、感覚的に麻痺してしまっているのです。 部落差別にしても、女性差別にしても、その他諸々の差別にしても、差別をされている実態と、それが本当に人間らしく生きさせない現実に気づき、少しでも声をあげていかれたらいいな、と感じた現地学習でした。 (カトリック中央協議会社会福音化推進部) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№134(11年7月号)より 部落解放東日本研究集会に参加して 根津 正幸 7月6日、JR東日本の高崎駅から水上駅までのローカル線の旅を楽しんできました。みなかみ町は群馬県の最北に位置し、利根川の源流域であり温泉が豊かで風光明媚な町です。旅の目的は、「部落解放第43回東日本研究集会」に参加することでした。 今回の研究集会の1日目は、みなかみ町観光会館で全体集会があり、シンポジウム「一人ひとりに寄り添う復興支援~被災地にみる人権~」が開かれました。そして2日目はホテルなどを利用して8つの分科会が開催され、わたしは「宗教と差別」の分科会に出席しました。 今年が「『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議(以下「同宗連」)」が結成されて30年にあたるので、「宗教と差別」の分科会のテーマは、「同宗連結成30年の成果と課題」でした。講師は、丹波二三夫さん(日本基督教団)と訓覇浩さん(浄土真宗大谷派)、司会を高橋典男さん(NPO人権センターながの)が担当しました。 丹波さんは「『同宗連』30年の歩みを振り返って」と題して講演。その中で、「同宗連」が宗教者の課題としてきたのは、「信心(信仰)第一主義」の克服であると述べました。宗教者にとって信仰は最も大切なものです。しかし、信仰さえあれば、すべてのことを解決することができるという考え方(「信心(信仰)第一主義」)は、ともすれば観念的なすくいを説く結果を招きがちです。なぜなら、自らの差別意識や差別の現実に目を向けず、現実の差別に苦しむ人びとの気持ちに共感することがないからです。「信仰があれば、差別、差別と言わなくてもいい」という「信心(信仰)第一主義」の立場から、「信仰があればこそ、差別、差別と言わざるをえなくなる」という社会的課題を自らの信仰課題とする立場へと、自らの変革をめざしていかなければならない。そのために、差別を見抜く力を養うとともに、自分自身の差別意識に気づくことが不可欠です、と強調しました。 訓覇さんは「宗教者に問うもの、問われるもの」と題し、「問われるもの、願われるものとしての解放運動」と「信心の課題としての差別問題に向き合うこと」の2つの観点から講演しました。差別問題は、わたしたち宗教者への根源的問いかけであり、宗教者自らの主体性を照らすものである、と述べました。 久しぶりの充実感を味わえた研究集会でした。利根川の川音を聞きながら、新たな課題を抱いて帰路につきました。 (日本カトリック部落差別人権委員会事務局) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№133(11年5月号)より 社会を底辺で支えてきた無名の人たち 本柳 孝司 横浜の京浜急行の日ノ出町駅から末吉町教会へと向かうみち沿いの前を流れる大岡川のほとりを歩きながら、ふと小学生の頃の風景が思い浮かびました。その頃、多くの小型船が、川岸一面に停泊しているのをよく目にしていました。それらの船には、洗濯物が干してあり、そこで家族が水上生活をしている光景が見受けられました。当時、横浜の中区、南区、西区、神奈川区等の多くの河川では、水上生活を営む人たちが多く住んでいました。子どもながら好奇の目で彼らを観ていた気がします。私が中学生ぐらいになると、次第に川から船が消え、どこに行ってしまったのかと思っておりました。 去年の夏、横浜西区の自宅に帰省した際に、母と色々と話す機会を持つことが出来、小学校低学年の頃まで、家族が、横浜の馬車道辺りの川で水上生活をしていたことを初めて聞かされました。今まで一度もこのことについて話してくれたことはありませんでした。なぜなのかと考えたのですが、水上生活者についてネガティブなイメージがあったので、語ることが無かったのかもしれません。母の家族が水上生活をするようになった経緯は、祖父が、貧しさから1910年代後半頃、木更津から職を求めて横浜に来て、港湾関係の仕事に就き、運搬船で運搬の仕事をしていたことから、そのまま家族で、その船に住むようになったということです。 横浜は、今でこそモダンな大都市となっていますが、元々は小さな漁村でした。江戸末期に外国人居留地を横浜に置くときに多くの人々が地方から移住し、彼らの労働力をもって海を埋め立て居留地の建設を始めとして、港町横浜が形作られて来たのです。更に港が整備されてくると、明治から大正にかけて、地方から港湾関係、それに伴う副産業の職を求めて多くの人々が移住してきました。被差別部落の人々も移住してきたと言われています。被差別部落出身の山上卓樹も明治初期に横浜に滞在し、パリミッションの宣教師に出会い、キリスト教の洗礼を受け、その後、彼の出身の村で多くの人が洗礼を受けています。当時の横浜は、細民地区がいくつか点在し、貧しい労働者が多く居住していました。その労働者向けの遊郭が、西区の中にも作られ、戦前まで営業していたようです。いわゆる下層社会に属する名もない人々によって、横浜の発展が支えられてきました。 高度成長期の中で、港湾労働法の改正により船に住む事が禁止されたため、横浜の河川から水上生活者の船が撤去され、また、1989年の横浜博覧会の開催、その後の港未来地区の開発へと近代都市化が進む過程で、桜木町駅から野毛にかけての戦後の闇市の跡地に出来た商店街、飲食街が開発から取り残され、また、風紀を乱すという理由で、大岡川沿いに立ち並んでいた京急ガード下の居酒屋が撤去され、かつての横浜を底辺で支えていた人々の痕跡が消し去られていることは、何ともやり切れません。2009年の開港150周年でも、イベントばかりが目立ち、横浜の発展を支えてきた下層社会の歴史が検証されませんでした。祖父たちが生きてきた人生を否定されているように感じられました。 横浜に限らず、私たちの社会を底辺で支えてくれてきた無名の人たちが、かつて居て、今も居るということを私たちは、忘れてはいけないと思います。それは、明治以降の教会の歴史においても言えると思います。明治の初期、再宣教の過程で、被差別部落の人々や貧しい労働者たちが宣教司牧の担い手となっていたことを忘れてはいけないでしょう。 (日本カトリック部落差別人権委員会秘書)) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№132(11年3月号)より カトリック部落差別人権委員会に派遣されて 小野島 照子 日本女子修道会総長管区長会からの依頼を受けて、私共の管区長から、突然、部落差別人権委員会に出席するよう要請を受けました。私の最初の応えは、「何も貢献できるとは思いませんが、月謝を払って学びたい分野です。毎回興味深くニュースを読ませていただいているのですが、私のようなものが出席させて頂いて良いのでしょうか? それに、広島から行くと旅費がかかるので、近くの人で適任者がおられるのではないでしょうか? 東京で行ける人を見つけてくださいませんか?」と断りました。管区長は、「東京の人は皆忙しく行ける人はいない」との返事で、「あなたが引き受けてくれないならお断りするしかない」とまで言われ、「そんなもったいない。修道女にこのような機会が与えられるのは大きな恵みですから、私で良ければ出席させてください」となぜかお願いしていました。こんなはずではなかったのに…と後で不思議に思いました。もうこれ以上仕事は増やせない。パンパンなのに…なぜ即答したのだろうか? と自問しています。 20年余り前に、マニラのスラムで10年間働かせてもらい、小さくされている人々からたくさんのことを学びました。搾取され続けた労働者たちや沼に橋げた掛けて住み家をつくり広大なスラムを土地なき所に造った都会の貧しい人々との聖書の分かち合いを通して、聖書の読み方も大いに変えられ、20年間続いた独裁者との対決を「善悪の戦い」として信仰を証すために立ち上がった民衆の力PEOPLE POWERも目撃させてもらいました。小さくされた人々の視点からの福音理解が解放をもたらすと信じるようになったからかもしれません。 私が小教区で毎日出会う人々は、自分に責任がないことで差別され、心も縛られて苦しんでいます。年齢も性別も関係なく、共通して周りの人々と違うことを理由に差別され、いろいろ素晴らしい能力を持っていても、個性は尊重されず、劣等感を抱かせることで発言させないよう圧力を掛けるランク付けによる管理体制のもとで疎外されて苦しんでいます。育ち盛りの青年たちも育ててくれる場がなく、社会に出ても知らないこと、できないことが恥であるかのように感じるように強いられます。しかし、苦しみながら彼らが見詰めている視点は、確かに今の社会を変える力を持っていると私は信じています。 これから部落差別人権委員会で、混乱した世界で今なお差別されている人と共に居られるイエスと出会えるよう、自分の中の差別意識に光を当ててもらいたいと希望しています。差別の構造を知ることで、小さくされている人々との連帯を生きさせてもらいたいと切に願っています。どうかよろしくお願いします。 (援助修道会) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№131(11年1月号)より 2011年を迎えて―今年こそ 平賀 徹夫 年が改まり2011年を迎えました。新年の初めにあたりご挨拶を申し上げ、これまでの日本カトリック部落差別人権委員会の活動への連帯、ご支援・ご協力に深く感謝いたします。そして、本年もより一層、心をこめ力を尽くして、人権を守り1人ひとりを本当に大切にする働きを推進して参りたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。 当委員会では毎年合宿を開き、部落差別および人権の問題を抱えてきた歴史のある各地を訪ねてその地方の方の講演を伺いまたフィールドワークを行って、問題についての学習やそこに住んでおられる方々との交流を深めるなどをしています。昨年は春季合宿では和歌山県新宮市を訪ね、新宮教会の方々と共に、「大逆事件」の問題とそれに巻き込まれて処刑された大石誠之助や高木顕明らの足跡をたどり、また、中上健次の思想や生き方に触れてきました。夏季には栃木県足利教会を足場に田中正造の生涯を学び、差別を受けている人々を徹底して大切にするその生き方に打たれてきました。今年は、春には水平社運動の発祥の地、奈良県の御所市を、夏には初めて新潟県を訪ねることを計画しています。多くの方のご参加をお待ちします。 当委員会が広く呼びかけて行う活動にはシンポジウムもあります。これも各地を回って開催しています。昨年からの3年間の大テーマを「福音と差別」とし、昨年は9月に東京のニコラ・バレ修道院を会場に「女性とイエス」をテーマとして開き、研修しました。今年は長崎市での開催を計画しています。これにも多くの皆様のご参加をお待ち致します。 ところで今年の新年を迎えるにあたっては、月日は実を結ばせないままにさぁっと過ぎてしまう、まさに「光陰矢の如し」を実感したことでした。昨年1月のニュースレターでわたしは、「今年こそ、狭山事件・石川一雄さんの再審と無罪判決による解決を見るべく、当委員会の存在意義にかけて、できる限りの働きに取り組んでいきたい」と書きました。日比谷野外音楽堂での市民集会やデモ行進などに参加はしましたが、解決へのあまり良い進展は見られなかったかと思います。ただ、昨年12月16日の東京・日本教育会館での市民集会では、多くの発言者の言葉から、「そのときは遠くない!」という期待をもってもよさそうな雰囲気が感じられ、いくらか明るい気持ちになりました。しかし実際にそのときが来るまで気を緩めることはできないとも思いながら帰りました。わたしなど一般の者には短い1年です。しかし石川一雄さんにはとんでもなく長い1年でしょうし、今やその47倍の年月となるのです。 聖書『エレミヤ書』の一節に、命を狙われ続ける苦難の中にいる預言者エレミヤの叫びがあります。「万軍の主よ 正義をもって人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け お任せします。(20:12)」と。神は「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方(エフェソ3:20)」であると信じるわたしたちは、人生が引き裂かれる中であげ続けている無辜の人の叫びを聞き届けてくださるように、石川さんとの連帯を強めながら、より一層心をこめて、父である神に叫び祈りたいと思います。1日も早く、石川さんが再審無罪の判決を勝ち取る日をみることができますように。 (日本カトリック部落差別人権委員会委員長) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№130(10年11月号)より 関係の再生 竹之下 雅代 人を傷つけたり、自分が差別する側に立つことを怖れていた私は、過ちを犯さぬよう、小さくなっている必要があった。自分は繊細ではないから人を傷つけやすいと考え、人と深く親しくなることも避け距離をとっていた。とても不自由だったと思う。裁かれることを怖れていた。 30歳代前半の時、中学時代からの友人を亡くした。彼女は長年摂食障害を抱えていた。私はちょうどその頃心理学を学びなおしていて、摂食障害、性暴力、夫婦間暴力、依存症、…という様々なテーマが彼女の死と重なった。抑圧されている立場の女性の心理について考えることは、その友人への弔いの意味が加わった。彼女の生きづらさを私に教えてくれたのは、フェミニズム(ジェンダー)心理学だ。フェミニズムと言うと、教会では革新的と敬遠されるかもしれないが、私にとっては、全ての人の解放のための心理学と同義である。 この学びの中で、私自身がさまざまに抑圧されていたことに気づき、解き放たれた。私の個人的な欠点、失敗ととらえていたことが、人と共通のことであり、それが社会問題とつながっていることがわかった。結婚までは親しく交流していた彼女に関われなかったことを悔やみつつ共通の問題がたくさん見つかり、彼女の死と私の生は地続きとなった。 なぜ私は彼女に近寄れなかったのか。摂食障害という私が経験したことのない病を抱えた彼女につながる手立てを私はもっていなかったのだ。孤立していた私たちは性差別という視点を得て、起きた出来事を知ることだけではなく、その怒り、悔しい思いを共有し、憤る力をもった。このままの私を開示して、それに応答してくれる相手がいて、そこからつくっていく関係があると今なら考える。 しかし、彼女とはこの世では手がつなげなかった。その悔しさを抱き、多くの人と喜び、悲しみ、怒りを共有して連帯してきた。なぜ神はこの世に理不尽なことを起すのか。それは、人がつながれるためであり、関係の再生を人とつくり出すためだと今は実感する。キリストは「裁くためではなく、愛を伝えるために来た」と言われた。 (ウィメンズカウンセリング京都) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№129(10年9月号)より 日本カトリック部落差別人権委員会・夏季合宿 渡良瀬川をのぞんで 梶山 義夫 足尾山塊の水を集め静かに流れる渡良瀬川を、研修会の間、幾度も渡った。7月17日、足利市駅を降りて教会に向かう際に渡った渡良瀬川と、研修会が終わり帰宅の折に渡良瀬川を見る目はまったく異なるものだった。この変化は、研修会の中で出会った人々のおかげである。 その1人は、田中正造である。倉橋克人さん(日本基督教団高崎南教会牧師)と坂原辰男さん(田中正造大学事務局長)は、ご自分の田中正造に対する篤い敬意と徹底した研究に基づいた講話によって、見事に田中正造を私たちの前に甦らせてくれた。そのため、正造の命に少しでも触れることができた。佐野市立郷土博物館を訪れた際に、正造の遺品として3つの小石が置かれていた。坂原さんによれば、正造にとってその小石はいつも人々に踏みつけられている存在の象徴であり、しばしば自らの胸に抱いて、踏みつけられている人々の痛みを心で感じていたという。正造は渡良瀬川流域に住む人々の窮状を自ら体験し、苦しみの体験を深く省みて、自らの実践と思想を形成してきたのであろう。またその説明の背後に、正造と同じく、坂原さんご自身がご自分の苦しみを捧げて、さまざまな人々の痛みを共感してこられたと感じ取った。倉橋さんの話の続きは、委員会のニュースに記載されるという。楽しみである。 17日の福島義昭さん、18日の石塚儀重さん、19日の石井正勇さんは、ご自分やご家族、そして地域の苦渋に満ちた経験を分かち合ってくださるとともに、部落解放同盟での活動にたずさわる中で希望の道を切り開いてこられた人生を伝えてくださった。その話を伺いながら、まず私自身が差別するメンタリティを伝えられたいくつかの具体的な場面を思い起こし、今もさまざまな事象において差別する動きが私の中にも、教会の中にも、社会の中にも力強く働いていることにさらに気づかせてくれた。同時に、福岡県の部落解放同盟の方々や人権擁護運動に参加している方々との出会いなど、この運動に関わった私の経験を思い起こし、その方々に出会うことができたことへの感謝の念を新たにした。毛里田地区の祈念鉱毒根絶碑の前では、鉱害の深刻な被害、鉱毒溜め等の工夫、政府、県、企業に対して協力して抗議することの大切さ、そしてご自分の地域を超えて世界各地で進展している深刻な公害への関心、その公害に苦しめられている人々への共感が伝わってきた。また、この研修会に参加された方々に出会い、その方々の豊かな経験に触れたことは、大きな励ましとなった。 教会の使命は福音を告げ知らせることにあるとよく言う。私はもちろん教会の構成員からも豊かに福音を受けているが、部落解放同盟やさまざまな人権擁護運動に関わっている人々からも豊かに福音の光を受けてきた。この研修会でも、出会った人々から福音の光を確かに受けた。充実した研修会を企画してくださった委員会の皆様に心から感謝する。 (イエズス会司祭) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№128(10年7月号)より 狭山事件 5月13日東京高検が36点の証拠を開示 「本当の闘いはこれからです」-1日もはやく再審開始決定を- 石川 早智子 2009年12月16日、2回目の弁護団、検察官、裁判官との3者協議で東京高裁・門野博裁判長から検察庁に対し、8項目の証拠開示勧告が出されました。裁判官自身も「このままではフェアではない」と判断したと思われます。石川一雄は「弁護団からこれだけ無実を明らかにする証拠が出されている。皆さんから頂いた公平・公正な裁判を求める署名が100万筆を超えて提出されている。証拠は必ず開示される」と大きな期待を持っていました。これまで司法に裏切られ続けてきましたので、楽観はしていないといいながらも、それでも石川は司法の正義を信じたのです。 2010年5月13日、3回目の3者協議で検察側から5項目・36点の証拠が開示されました。20年以上も証拠開示が無かったことを考えると大きな1歩でした。石川は「待ちに待った日」と大きな喜びと共に、「まだ隠されている証拠はある」「1日も早く事実調べをして、再審開始決定を出してほしい」と訴えました。私自身もやっとここまでたどり着くことができたという実感と共に、本当の闘いはこれからだとの思いを強くしています。狭山弁護団のご努力と、支援して下さった多くの人たちの公正裁判を求める声や、司法の不正義は許されないとの闘いが狭山を動かしましたが、しかし、まだ多くの証拠が隠されています。これらの証拠を出させること、そして事実調べを実現させ、再審開始されることを願っています。 足利、氷見、布川事件など、相次いで冤罪事件が発覚しました。これらも検察の証拠隠し、それを見抜けなかった裁判所の誤判があります。このような冤罪を2度と出させないためにも取り調べの全面可視化、証拠開示、代用監獄の廃止など司法改革が必要です。これまで狭山は司法の民主化を牽引してきた闘いの歴史でもあったと自負していますが、しかし、夫も71歳。半世紀に及ぼうとする無実の訴えに今度こそ終止符が打たれ、心の底から笑える日が来るよう、今大きな山場を迎えた狭山の闘いにお力を貸していただけますよう心からお願いいたします。 |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№127(10年5月号)より 6月が就職差別撤廃キャンペーンの ときである事を伝えて 水野 松男 東京都は6月を毎年就職差別解消月間として取り組みを行なっています。また、就職差別撤廃東京集会実行委員会は6月4日(金)13時30分から第11回就職差別撤廃東京集会を豊島公会堂でひらきます。多くの人に6月が就職差別撤廃キャンペーンの時である事を知っていただきたいのです。 きっかけは、1998年6月におきた大規模な部落差別を始めとする身元調査事件でした。この事件で、1400社の顧客を持つ(株)日本アイビー社と、その子会社リック(株)が多数の企業から依頼を受け、就職希望者が被差別部落出身かどうかなどの身元調査をおこなっていました。この会社は、就職希望募者が採用選考のために会社に提出した履歴書に「解放会館のとなり」「町の革屋」と書き込み、部落出身であると企業に報告し、差別身元調査をしていました。 加害側の企業は「履歴確認は当然だと思っていた。当社だけやっているわけでないと考えていた」「昔からの慣習としてやっていた」「職安の指導に違反していることはわかっていたが、新会社設立でやむをえず…」など採用時の身元調査は当たり前という認識でした。東京アイビー社(東京所在の日本アイビー社と設立者が同一の調査会社)は「会員企業が280社ぐらい、売り上げは採用調査が多く、取引のあった企業は1000社以上。東京の企業の7割は、採用調査をしている」と就職差別の実態を明かしました。 また、厚生労働省が100人以上の企業に選任を勧奨している「公正採用選考人権啓発推進員」は「雇用における差別の排除」を目的とし、都内でも12000社が対象で、「人権」を会社の重要な業務とする時代になっています。これは日曜学校やキリスト教学校で育った子どもたちや青年が将来会社勤めをし、起業するようになった時、会社の重要な業務として人権のとりくみがあるという事です。だから、教会やキリスト教学校では、人権の取り組みをもっと教えていく必要があります。 今年3月国連人種差別撤廃委員会は、日本政府に対して部落差別の撤廃を求めました。今年9月に作られるISO26000も国際社会の重要課題として「雇用における差別の排除」を掲げています。人権の取り組みは私たちの生活に直結した身近な課題であり、国際的な課題になっています。(㈳東京部落解放研究所 研究員) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№126(10年3月号)より 部落差別人権委員会に関わって 住田 省悟 カトリック管区長協議会の関連で、カトリック部落差別人権委員会に関わらせていただき、ちょうど4年目を終えるところです。 管区長協議会と委員会とのパイプ役とはいえ、この分野において根を下ろした活動を一切したことがありませんでしたから、当初は参加の積極的な理由を自分自身見出せないでいました。けれども、委員会への参加を重ねるにつれて、何らかの貢献をすることよりも、「現実に目を開いて、何が起こっているのかを知る」ことが自分自身に課された第一の勤めではないかと考えるようになりました。 昨年8月、委員会主催の合宿「芝浦と場に行ってみよう」に初めて参加してみて、その思いをいっそう強くしました。合宿では、と場の歴史、と畜解体現場の見学、と畜という職業の認知、認知を困難にしている偏見や差別について学習する機会が与えられたのですが、講師の「なぜ、食肉として店頭に出るまでのプロセスが人々にほとんど知られていないのか」という問題提起に深く考えさせられました。 そこに偏見や差別を生み出した歴史があり、今なおそれを乗り越えることが困難であること、それを乗り越えていくために講師が自分に課しておられることは「啓発である」と、吐露してくださったことはとても印象的でした。 人の置かれた社会の現実を深く知ること、このことは、委員会で強く意識させられたことです。外からではなく、現実に触れて、そこからものを見てみる。そして、そこにいる人を限りなく自らに近い人として体験する。そのような出会いこそが、自らの偏見や歪みを正していくプロセスであること。今、4年間の委員会への関わりを通して、そのように啓発されたことを委員会の皆様に心から感謝したいと思います。 (イエズス会司祭) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№125(10年1月号)より 2010年を迎えて 日本カトリック部落差別人権委員会委員長 平賀 徹夫 21世紀となってから10年目の年となりました。明けましておめでとうございます。 年が改まり新年を迎えるとわたしたちは「おめでとうございます」と慶賀の挨拶を交わします。時節の大きな区切りですから、心機一転、多幸の年となるようにと互いに善意を交わし合うよい機会ではあります。しかし、思えば“21世紀”を迎えるとき、何の根拠もないのに、さあこれから希望にあふれた明るい世紀になりそうだ、というような気分になったりしたものでしたが、2001年9月11日に勃発した世界を震撼させる大事件に象徴されるように、現代世界には差別や憎悪、分裂や紛争・戦争が厳然と、あるいはもっと先鋭化・巨大化した形であり続ける現実を突きつけられたのでした。そしてそれは日本も巻き込まれるイラクやアフガンの戦争へと続き、さらに今もって世界各地での紛争・戦闘も絶えることがありません。日本の中にも一向に解決しない分裂や差別問題が山積しています。年のはじめにあたり、根拠のない気分や感情ではなく、「わたしをあなたの平和の道具としてください(聖フランシスコ)」という祈りに裏打ちされた意志や行動をもって、身の回りの具体的なひとつひとつの問題に関わっていきたいと思います。その業が人を大切にするものであるかぎり、世界の平和のための働きに連なるものだからです。 日本の中で山積している問題、その中でも特に、わたしたち日本カトリック部落差別人権委員会は「狭山事件」をまず挙げなければなりません。委員会の規約は、<目的>と<活動>について次のように謳っています。 <目的> 第4条 日本社会の福音化のために働くカトリック教会の一翼を担う本委員会は、被差別者の立場に立ったイエス・キリストの生き方に従い、日本の歴史の中で意図的に作られ、今なお日本社会に差別の実態として現存し、かつ人々の心の深層を束縛している部落差別構造からの人々の解放を目的とする。 <活動> 第5条 本委員会は、上記目的達成のため、次の活動を行う。…… ⑨ 部落差別による冤罪事件として、全国の運動体・市民の会・宗教団体が一丸となって解決へ向けて闘っている狭山事件に積極的に取り組み、部落差別の典型としてのこの事件を本委員会の取り組みの中心課題として展開する。 このように、わたしたちは狭山事件を「部落差別による冤罪事件」として取り組みます。石川一雄さんが1963年5月24日に別件逮捕されて以来47年。事件の年表を見ると、被差別部落への偏見・差別から辻褄の合わない証拠が並べられ、1964年3月11日に浦和地裁で“死刑”判決、1974年10月31日に東京高裁で無期懲役判決、1977年8月9日に最高裁は上告棄却、そして無期懲役が確定。高裁に再審請求するが棄却され、2006年5月23日第3次再審請求を申し立て、現在、検察に対して証拠開示を求める運動が進められています。昨年の10月、裁判所・検察・弁護団の三者協議が行われ、ごく最近12月16日裁判所が検察に証拠開示を勧告しました(毎日新聞)。 わたしたちは人権を本当に大切にするという意識でいつも目覚めていたいものです。そして、21世紀の初めの10年の終わり、今年こそ、狭山事件・石川一雄さんの再審と無罪の判決による解決を見るべく、この委員会の存在意義にかけて、できる限りの働きに取り組んでいきたいと思います。 (仙台教区司教) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№124(09年11月号)より 部落差別問題とわたし 渡邉 泰男 わたしが初めて部落差別問題に関わったのは、以前に働いていた郵便局での研修でした。確か、「同和研修」というものです。司祭になって部落問題委員会の委員に司教様から任命されました。わたしは郵便局時代、全逓という組合運動に多少関わってもいましたので、部落差別問題関係者らの集まりが、どことなく組合運動的な方々、むろん、いろいろな組合の方々も集まりに来ますが、そういう雰囲気に安堵しました。口は悪いが、どことなく、本音で生きていく人たちの交わりのように思えるからです。 初めは、世間一般的な知識しか部落差別問題について知らなかったので、すべてが新鮮な学びでした。特に昨年、東京教区部落問題委員会主催で狭山事件の現地学習会のことが印象的でした。なぜかというと、法学部出身のわたしがかつて学んだ「冤罪事件」判例の当事者で、被告にされた石川一雄さんに直接お会いできたことです。直接石川さんから事件についての話を伺い、且つ事件現場とされたところに案内していただけたことです。そのとき、かつてわたしが社会正義に対する渇望した熱い思いが甦ってきました。この狭山事件の現地学習会で、司祭になった今も、心の底からの熱い思いが甦ってきたことは、わたしにとって思いもよらない経験でした。かつて忘れていたわたしの中の正義感、それは当時としては結構未熟なものだったと思えますが、司祭となった今、わたしにとってそれはまさに主キリストの示された福音とともに、神の義を求めて行くことのように思えたのです。 ところで、わたしたちの日常の営みでは、部落差別や冤罪事件とは無縁なところに生きています。全く関心を持たなければ、知らない世界のことのようです。マザーテレサは、「愛の反対は無関心である」と言われました。わたしたちがキリストの愛に、具体的に応える1つにはこの無関心という心にかぶせているベールを取ることのように思います。 わたしはどういうわけか部落差別問題に関わる者となりました。というより関わる者になりつつあります。いろいろな方々との交わりを通して、わたし自身も多くを学び続け、また、多くの信者の方々に少しでも部落差別問題に関心を持っていただけるように働きかけをして、共に神の国の実現のために働いていきたいものです。 (東京教区司祭) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№123(09年9月号)より 知る、ということ… 吉岡 秀紀 昨秋よりカトリック大阪教会管区部落差別人権活動センター(部活センター)に関わらせていただくようになりました。とは言え、これまで部落差別、人権についてしっかりと学ぶことはありませんでしたが、部活センターの意向で本年6月より12月まで、(社)部落解放・人権研究所による“部落解放・人権大学講座(解放大学)”の第97期を受講する機会をいただきました。 8月現在、受講生(=企業、自治体の方が多い)1人ひとりの差別・被差別の体験を助言者の方々と分かち合い討議する、自己啓発学習を終えたところです。 全日程の約半分を終えて、差別問題、人権に向き合うということは、「人に向き合う」ことなのだと改めて実感させられています。「部落で事故を起こすと、住民に囲まれて大変なことになる」、「校区内に部落のある学校は荒れている」…共に学ぶ仲間の“体験”は自身の実体験によるものではなく、人づてに聞いただけ、など誤った情報やイメージからの思い込みによるものがほとんどで、“相手を知らない、知ろうとしない”ことから生じていました。「知らない相手を排除する、蔑む」…なんともおかしな話ですが、それこそが偏見を生み、差別につながっていきます。 分かち合いの中でわたしが何気なく「白い目で見られる…」という表現をしたところ、助言者に「それ、視覚障がいの人が聞いたらどう感じると思う?」と問われました。「そんなつもりで言うたんやない!」そう思ったわたしに後日、ある司祭が話してくれました。「差別いうんは“つもり”なんて言い訳は通じへんのや」。思えば、そのとおりです。自分がどんな“つもり”であろうが、自分の言動に傷つき、憤る人がいるなら、それは紛れもなく自分がした差別です。解放大学で、当初わたしは、日頃、野宿者支援や平和運動に関わる者として「正解を出すこと」、そして自分の正当性に捕らわれていました。まず“解放”されなければならないのはわたし自身でした。 差別や偏見、人権について知ることは、等しくこの世界に、この社会にいのちを受けたわたしたちが、人を知り、人に向き合うためなのです。弱く、脆く、自分の正当性に捕らわれた、欠点だらけの“裸の自分”に構えなく向き合わせてくれた学びの場は、自分の中で放置していたある人間関係に、まったく新しい思いで和解に向けて歩んでいく決意に導いてくれました…。 (大阪教区 司祭) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№122(09年7月号)より 裁判員制度 よく分からん! 河野 淳 裁判員制度が、始まったようです。しかし、なぜ、何のためにこの制度がつくられたのか、新聞などを読んでもよく分かりません。憲法には定められていない新たな義務を課せられることにも、抵抗を感じます。 日本カトリック司教協議会からは、『「裁判員制度」について─信徒の皆様へ─』と、『裁判員制度に関する聖職者、修道者、使徒的生活の会会員への指示』というふたつの文書が出ました。後者は、聖職者、修道者、使徒的生活の会会員に対して、教会法の規定に従い辞退を申し出るように勧める、という内容です。しかし、現代の日本社会にあって、この問題に対して教会法を持ち出すことに、何の意味があるのでしょうか。また、そもそもこの制度はどういうものなのかを、特に人権の観点からしっかりととらえることをせずに、キリスト者としてどうすべきかなどと生真面目に考えてしまうと、また、間違いを犯すことになりかねません。 最高裁判所で出している『よくわかる!裁判員制度Q&A』という冊子があります(法務省のホームページにも出ています)。表紙には「あなたの疑問にお答えします」と書いてありますので、疑問を解消すべく、読んでみました。 結論からいうと、「なぜ、何のために」という疑問に対する答えは見つかりませんでした。今までのやり方に何か問題があったからこの制度を導入して改善したいのか、特に問題はなかったけれどもより良くするためなのか、それともまったく別の意図があるのか、まったく分かりません。それが分からなければ、この制度が良いのか悪いのか、判断のしようがありません。 私の疑問に対する答えにはなっていないのですが、「裁判員制度とはどのような制度ですか?」に答えて、次のように書かれています。「裁判の進め方やその内容に国民の視点、感覚が反映されますので、その結果裁判全体に対する国民の理解が深まり、裁判がより身近に感じられ、司法への信頼が高まっていくことが期待されます」。 また、裁判員候補者名簿に記載された人に送られてきた書類には、次のような言葉があります。「裁判の内容や手続きに国民の良識が反映される」。 くじ引きや、質問手続きなどにより絞り込まれて、たまたま選ばれた裁判員に何を期待しているのでしょうか。その人たちに、ただ漠然と求められる「国民の良識、国民の視点、感覚」とはどのようなものなのでしょうか。良識とか感覚という言葉は、時と場合によっては、差別意識と同義語となります。選ばれた裁判員がそういう意識に無自覚でない人であることを期待するのは、一か八か、当たるも八卦当たらぬも八卦といったところでしょうか。 また、「裁判が身近に感じられ」とはどういうことでしょうか。それが良い事なのかどうなのか。民事裁判や、行政訴訟なら、身近な方が良いかなとも思います。しかし、裁判員制度で対象にするのは、「ある程度重大な事件」「一定の重大な犯罪」と説明され、殺人などの刑罰の重い刑事事件がリストに挙げられています。このような事件が身近でないのは良いことですし、それらの事件を扱う裁判が身近でないのは当たり前なのではないでしょうか。 とにかく、目的自体が分からないので、判断が難しいのですが、ほかにもいろいろと問題がありそうです。やはり一番気になるのは、冤罪の問題。冤罪は、それ自体が犯罪的であるだけでなく、元の事件の被害者は、二重の被害を受ける結果を招いてしまいます。裁判員制度は、裁判員が参加しやすいように、裁判員が理解しやすいようにという工夫がなされています。証拠や論点をあらかじめ絞る、裁判が早く終わるようにするなどです。しかし、それらは冤罪を防ぐという観点からは、マイナスの要素にしかならないのではないでしょうか。 とにかく、私には疑問ばかりで、理解できない制度です。理解できないのはお前の勉強不足だと、いう人もいるでしょう。しかし、公式の解説を読んでも分からないような制度ではしょうがないと思います。 (横浜教区司祭) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№121(09年5月号)より ハンセン病問題基本法の行方 森元 美代治 「癩予防ニ関スル件」(1907年法律第11号)に基づいて1909年に設立された多磨全生園など、5つの療養所が創立100周年を迎える本年、4月1日に「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」(通称ハンセン病問題基本法)が施行されたことは歴史のいたずらか、皮肉の極みである。1世紀にわたる終生隔離から解放へ。 現在13の国立療養所の入所者は約2700人、平均年齢80歳。家族との関係は依然として絶縁状態が続いており、帰郷はおろか死後も偽名(園内名)のまま所内の納骨堂に葬られるのが大半である。彼ら、彼女らの最大の関心事は、最期を誰が、どのように看取ってくれるのか。国賠訴訟で敗訴した国は、最後の1人まで面倒を見る在園保障の履行を義務付けられているが、もはや、絵に描いた餅になりつつある。患者減による医師不足、看護力や介護力の顕著な低下はどこも深刻である。 この状態を打開するための基本法だが、国は果たしてどうか。終焉期の療養所の統廃合か自然消滅を目論んでいるのは明明である。しかし、われわれは国のこうした対応を認めず、基本法の理念である熊本判決に基づく医療機関として恒久維持発展のための将来構想を樹立しなければならない。各療養所の地域性や特質を活かすべく、ほかの疾病や障がい者、その他の施設との共生を急がねばならない。入所者自治会を中心に地方自治体や各団体と協議検討中だが1、2の例を除いて結論は見えてこない。遅きに失した感もあり、また、絵に描いた餅になりはしないか、懸念しきりである。 IDEAジャパン理事長 |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№120(09年3月号)より 弱者の苦しみを我がものとしているか 丹波 二三夫 『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議(以下同宗連)は世界宗教者平和会議におけ る部落差別発言をきっかけに、1981年に結成されました。その目的は部落差別をはじめ とするあらゆる差別の解消ですが、主体的には「同和問題解決の取り組みなくしてはも はや宗教者たりえない」という自己認識がその基盤になっています。 世界宗教者平和会議の後、それに参加していた日本の宗教教団は部落解放同盟から厳 しい問いを受けました。「平等を説くはずの宗教者がなぜ差別するのか」「あなた方の宗祖 は、人間を差別することを教えているのか」「あなた方は宗祖の教えを本当に守っている のか」「教義の根本に立ち帰って検証してほしい」。この頃は「差別戒名」を刻んだ墓石 が次々と発見され、死後も人間を差別するものとして宗教者は社会から厳しい指弾を受 けていた時でもありました。そのような時に根源的な問いに直面した宗教教団は、それ ぞれ教えの本源に立ち返り、経典や教義、さらに自教団の長い歴史を見直す作業をはじ め、その過程の中で、被差別者や社会的弱者の抱える苦しみをわがものとしてこなかっ たという苦い反省にたどり着きました。 こうして同宗連は誕生し、以後28年、各種研修会の開催や機関紙の発行、人権諸集会 への参加や啓発資料の作成等、地道な取り組みを続けてきました。この同宗連に日本基 督教団は今年4月から2年間議長教団に就任します。日本基督教団は他の加盟教団と比べ ても小さな教団にしか過ぎませんが、この決断をした指導部を讃えます。私は同宗連事 務局長の任を負うよう申しつかっており、現在その準備にいそしんでいます。 宗教者とは、どういう存在でしょうか。いろんな定義が可能でしょうが、私は「自分は 生かされている存在である」ということを誰よりも深く知っている人たちであると思っ ています。私たちは今、人間の欲望が生み出した金融資本主義の崩壊により、一昔前の 言葉で言えば「路頭に迷う」人たちを大量に生み出している社会の只中に生きています。 こういう時代にあって、いやこういう時代だからこそ私たち宗教者は、生かされている 存在として、神様の御旨を求め、いのちの尊厳を主張すべきであると思います。同宗連 結成当時に突きつけられた問いに立ち帰り、「主イエスは何を教えているのか」「私たち は主イエスの教えを本当に守っているのか」と問いつつ、また「被差別者・社会的弱者 の抱える苦しみをわがものとしようとしているのかどうか」を常に念頭に置きつつ、行 2 動していきたいと思います。具体的には、事務局長に就任すれば、まず「狭山事件」の 再審実現に向けて、同宗連加盟教団の方々とあい携えて、東京高裁に事実調べと本人尋 問を行うよう、要請に行きたいと密かに願っています。 (日本基督教団事務局職員) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№119(09年1月号)より 年の初めに 平賀 徹夫(仙台教区司教) 2009年の年が明けました。年の初めに当たり、今年も、一人ひとりの人を大切にすること、互いに大切にしあうことを第1のこととして生きる年とできたら良いと願いながら、父である神からの祝福と導きを祈りつつ、ご挨拶を申し上げます。 さて、一人ひとりを大切にする、本当に人権を擁護することを心がけて生きたいものです。昨年12月10日、日本カトリック司教団は「すべての人の人権を大切に」というメッセージを発表しました。1948年の第3回国際連合総会で『世界人権宣言』が採択されてから60周年となることを記念しての発表でした。メッセージは、国連のこの宣言によって個人および全ての民族の権利を等しく尊重することが平和の基礎であると確認されたのだ、としながらも、「しかし宣言が採択されてから60年を経た今もなお、国内外で人権が侵害されています」と続け、さらに「人権が侵害される事件は後を絶たないばかりか、その背景となる問題は深刻化し、わたしたち人類は世界的規模でこれまでにない新たな事態に直面しています」と、いっそうの警鐘を鳴らしています。 日本カトリック部落問題委員会は昨年9月、名称を「日本カトリック部落差別人権委員会」と改めました。人権侵害以外のなにものでもない部落差別問題をはじめとする差別事象に取り組むにあたって、「人権」を根本に据えて活動することを目指すという姿勢を明らかにしたものです。実際、差別問題を克服していくためには、制度や組織という面の対応もさりながら、長い時間の流れの中で慣用や感じ方として染み付いてしまっている、それだけに意識されないまま見過ごされてしまっている差別事象について、それを人権の侵害として感じ取る感覚や見抜く目を養う必要があります。それは隣人(すぐそばにいる人に限らず、どのような形であれ出会い関わり合う一人ひとり)を大切にするのだというはっきりした意識や心の涵養から始まるのではないでしょうか。 今年で5年目となりますが、当委員会では部落差別問題、ハンセン病問題を取り上げて、差別を主題としたシンポジウムを開いてきました。また、現地学習のための合宿も重ねてきました。そしてあらためて気付かされるのですが、人権侵害そのものである差別問題というのは現にあり続ける重大問題であるにもかかわらず、一般的に言えば無知や無関心がそれを許してしまう最大の原因なのでしょうが、巧妙に形が変えられていたり、問題などは無くなった、もう存在しないと錯覚させられるぐらいに覆い隠されてしまったりしていて、その実、根深くしつこく存在し続けているものです。 一番最近行われたシンポジウムについて書きましょう。昨年12月6日の群馬県高崎教会で「ハンセン病問題でたいせつなこと」というテーマで開かれ、3人のシンポジストが発表してくださいました。お一人はこの問題でひどい偏見差別を受け続けてきた当事者である、ハンセン病遺族・家族の会の宮里良子さん。被害に苦しんできた、そして今も続いている苦しみの実情について語ってくださいました。お一人は新潟大学の宮坂道夫准教授。「生命倫理の観点から」として、ご著書『ハンセン病 重監房の記録』の章立てに沿って草津・栗生楽泉園の「重監房」に見られる巨大な人権侵害事件について話されました。もうお一人はハンセン病国賠訴訟弁護団の神谷誠人弁護士。1907年から90年間にわたる「らい予防法」の問題性、国賠訴訟の意義、2008年6月に成立した「ハンセン病問題基本法」の基本理念とそれに基づいて今後取り組むべき事柄等、話されました。当事者の苦しい中の生の声を聞かせていただくこと、学問的、論理的そして実際的に問題を指摘、解説してもらえることは、いくばくかでも目を開かせてもらえることです。シンポジウムごとに必ず新しい視点や問題点などについて気付かされるのですが、今回のシンポジウムの終わり近く、フロアとの質疑応答の中で宮坂准教授が答えられた「『頭でしっかり考え、心でしっかり感じること』を正直に行うこと、そして、心の教育は楽しくやること」という単純明快な言葉が、一人ひとりを大切にする・人権を大切にして生きるための基本原理であると思いました。シンポジウムなり合宿なりに大勢の方の参加があればいいと望む次第です。 「すべての人は神の似姿として造られたものであり、人間の尊厳は人間社会がつくりだしたものではなく、神によって与えられたもの(司教団メッセ-ジ)」という人間観をしっかりと受け止めて歩んで生きたいと思います。神からの恵みが皆様の上に豊かにありますように。 日本カトリック部落差別人権委員会委員長 |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№118(08年11月号)より 狭山事件第3次再審請求はいま 安田 聡 狭山事件の第3次再審請求は、2006年5月23日の申し立てから2年半になろうとしている。審理を担当する東京高裁第4刑事部の門野博裁判長が就任して1年半、いよいよ大詰めをむかえている。 狭山弁護団はこの3年間に石川さんの無実を証明する新証拠をつぎつぎと提出した。あらたに作成・提出された筆跡鑑定(石川さんと脅迫状の筆跡は異なるとする鑑定書)は3通、殺害方法など自白の最重要部分が客観的事実と食い違うことを指摘する法医学者の鑑定書も2通出された。この他にも、有罪証拠とされた目撃証言が信用できないとする心理学者の鑑定なども出されている。 こうした専門家の鑑定について鑑定人尋問をおこなうよう弁護団は求めている。狭山事件では、確定判決となっている2審の有罪判決から34年以上が経過するが、一度も証人尋問などの事実調べがおこなわれていない。これまでの多くの再審請求や先日、再審開始決定が東京高裁で出された布川事件でも事実調べがおこなわれていることを考えれば、あまりに不当・不公平である。 狭山弁護団は、東京高裁に検察官が持つ証拠の開示命令も求めている。東京高等検察庁の検察官の手元に多くの未開示証拠があることは検察官も認めているが、弁護団の要求にもかかわらず、この20年間まったく開示されていない。再審請求は新証拠発見を要件にしており誤判防止に証拠開示が不可欠であることからも、検察官の証拠不開示は許されない。 10月15日、16日にジュネーブで国連の自由権規約委員会が開かれ日本政府の報告書の審査がおこなわれた。自由権規約委員会は、10年前にも日本政府に弁護側への証拠開示の保障を勧告している。日本の人権状況の遅れは世界にも問われている。この審査にあたって、石川一雄さんが冤罪を訴える当事者として、早智子さん、部落解放同盟の片岡中執らとともにジュネーブを訪問し、規約委員会の委員に証拠開示の保障を訴えた。 仮出獄中の身であり初めての海外渡航であった本人にとっても画期的なことであった。石川さんは「アイ・アム・イノセント(私は無実です)」と最後に英語でしめくくった。 石川さんは、こうした取り組みをバネに、弁護団、部落解放同盟をはじめとする支援者とともに、この第3次再審で再審無罪をかちとるべく全力で闘う決意をあらたにしている。全国で再審開始を求める100万人を超える署名が集まり、東北や北海道などでも市民集会が開かれている。市民の声をさらに大きくし、第3次再審で石川さんの思いにこたえて事実調べ・再審実現をかちとろう。 (部落解放同盟中央本部事務局) |
カトリック部落差別人権委員会ニュースレター№117(08年9月号)より 夏季合宿「別府的ケ浜事件」に参加して 麻生 透 今年の5月に神父の浜崎眞実さんから夏季合宿のお誘いを受け、内容が「別府的ケ浜事件」についての学習であると聞き参加を決めました。以前、沖縄に住んでいた時にハンセン病問題と出会い、それから取り組みを続けて来ましたが、「別府的ケ浜事件」のことを初めて耳にしたのは偶然にも今回の講師であった藤野豊先生の沖縄での講演会の時でした。大分県の出身でありながら、これまで地元の歴史や地域的な課題などについて学ぶ機会に恵まれることがなかったので、今回の夏季合宿は私にとってはグッドタイミングでした。 今回の藤野先生の講義は、事件当時の社会背景を踏まえ、ハンセン病者に対する「絶対隔離政策の前哨戦」としたうえで、皇族の存在がもたらす差別、非定住者への差別、ハンセン病患者への差別などが重層的に表出して「差別の連鎖」を作り出していたことを明らかにされました。そして、フィールドワークで焼き払われた集落の跡地などを歩くことで、記憶に深く刻み込みこまれたような気がします。同時に90年近く過ぎ去った現在でも、国民体育大会や植樹祭のような「天皇讃美の全国キャンペーン」ともいえる行事によって、姿かたちを変えた人権侵害が起されていることに思いを巡らすことができました。 私は浄土真宗の僧侶なのですが、浄土真宗は江戸後期以降、「真俗二諦」という説を教義の中心にしていました。簡単にいうと「信心と生活は別物」ということです。やがてこの説が「戦時教学」を生み出し、天皇制の正当化や戦争讃美につながっていきました。ハンセン病に対しても隔離政策を正当化し療養所で不平不満を言わず静かに生活することが信心深い生活態度であるかのような説教を展開しました。戦後、反省点に立った大谷派教団は1987年になってようやく戦争責任を表明し、未来の戦争の防止に努力することを誓いました。その時に教団代表は「日々の暮らしがそのまま、平和運動であるような念仏者の生活実践」を提唱し、「真俗二諦」を乗り越えるべき課題としました。私自身、この課題にどう取り組むのかということがいつも頭の中にありますが、なかなか日々の活動に表しきれません。「仏の願い」とそれに基づく生活実践を明らかにすることの難しさを感じています。 日程2日目の別府教会聖堂での「解放のミサ」からは多くの示唆を受けました。まず、司祭が常に会衆の方を向いて語りかけ、会衆がそれに応える形式であることは、仏教の儀式にはないものです。仏教では意味の伝わりにくいお経を唱える時も会衆にお尻を向けるようにして執り行います。また、伝統的な儀式の中に水平社宣言を取り交ぜて、その宣言の精神が失われることなく全体の祈りに溶け込んでいました。祈りの文言のなかに「私たちの信仰と希望を強めて下さい。キリストに従い平和と解放の働きに参加して行くことができますように」という表現を見つけましたが、まさしく「ミサ」というものが教えと日々の生活との接点となる大切な空間と時間になっているのだと感じました。私も自身が執り行う儀式が「信仰と生活実践」の分離に歯止めをかけるものになるよう色々と新たな試みをしていかなければと思いました。 最後に、門外漢の私にこころよく語りかけてくださった皆様に感謝いたします。おかげさまで貴重で楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。合掌 (真宗大谷派 僧侶) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№116(08年7月号)より 9月、名称が「日本カトリック部落差別人権委員会」に 太田 勝 このたび、委員会の名称を「日本カトリック部落問題委員会」から「日本カトリック部落差別人権委員会」に変更することが、6月の定例司教総会で承認されました。カトリック新聞を読んで気がつかれた方もあると思いますが、実施は9月1日からです。名称変更の理由につきましては、今年のニュースレター1月号(No.113)で詳しく述べましたが、あらためで名称変更の理由を整理したいと思います。 1.「部落問題」は「人権」という視点から取り組まないと克服できない解放運動の状況に至っている。しかし、「人権」だけでは「部落差別」の深刻さを把握できないので、「部落差別人権委員会」とする。 2.解放運動の変遷の状況とは、以下のようなものである。 第1段階:部落問題の存在を日本社会に認知させた時期(糾弾闘争) 第2段階:道路・住宅・教育などの改善を求めた時期(行政闘争) 第3段階(現在):部落差別が根強く存在する現状(結婚・就職における忌避意識は、表面には現れにくいが、日本社会での排除差別意識は強い)を克服するには、「人権」という視点から取り組まねばならない時期即ち、当委員会としては、すべての人に等しく人権があるのに部落差別が未だに厳存していることの理不尽さと、部落差別をされ続けてきた人々自身の人権回復と真の人間解放を求めるという視点からこの問題に関わる必要性を痛感しているので、人権を名称に含めることによってその大切さを訴えたい。 3.社会司教委員会の他の委員会で取り組めていないが、日本のカトリック教会として取り組まねばならないハンセン病問題などの人権問題には、「差別問題との視点」から取り組むが、「部落差別問題の克服」を「日本カトリック部落差別人権委員会」の第1の、主たる活動対象とすることに変更はない。 この名称変更にともない、部落問題委員会のある、さいたま、東京、大阪教会管区などでは、どうしようか?という事になると思いますが、東京にある「日本カトリック部落差別人権委員会」は各地の活動の支援機関ですから、主体は各地にあることを再確認していただいて、それぞれのペースで必要なら変更するという姿勢でいてくださればよいのではないかと思います。よろしくお願いします。 (日本カトリック部落問題委員会秘書) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№115(08年5月号)より 青年への継承がたいせつな取り組み 東谷 誠 私は今、日本基督教団部落解放センターに所属しています。センターは開所しまして25年を過ぎ、昨年東京の信濃町教会で感謝の時をもちました。25年の歩みを神様に感謝しますと共に、どれほど、差別を受けて苦しんでいる人と共に歩んできたか、部落差別やすべての差別がなくなる取り組みをどれほどしてきたかと、問い直しました。日本カトリック部落問題委員会とは、共同して部落解放の取り組みをさせていただいています事を感謝いたします。また、真摯な取り組みに敬意を表します。 部落解放センターは様々な取り組みをしていますが、大事な取り組みの1つに青年への継承があります。青年達に部落差別のことを正しく理解してもらうことです。そして部落解放の取り組みをわかってもらうことです。センターが行っていますのは、青年ゼミナール(夏の青年研修会3泊4日)開催、各大学でのお話、各大学その他の青年グループの研修会実施、青年がセンターに長期間滞在しての研修などです。 2年前になりますが、ある大学の青年グループがセンターに研修にきました。20名のグループですが、学校での呼びかけに、自分で行こうと決めて研修に来ました。研修の始めに質問をしました。1つ目は「同和教育を受けたことがありますか」と聞きますと、12人が受けたと答えました。そこで、「習ったのは江戸時代の身分制度の中でうまれた階級制度としてですか」と聞きますと、12人がそうですと答えます。「狭山事件のことを知っていますか」と聞きますと、全員知らないと答えました。ショックです。一生懸命発信しているつもりなのに全然伝わっていない。やっぱり、マスコミが取り上げないとなかなか伝わらないのかなーと思わされます。次に、「あなたは人をいじめたり、逆にいじめられた経験がありますか」とたずねますと、全員いじめられた経験があると答えました。みんなと個人的にゆっくりと話し合いたい衝動に駆られます。最後に「差別はなくなると思いますか」と聞きました。19人がなくならないと答え、1人は「新たな差別が生まれたら、忘れられるかも知れない」と答えました。 残された3時間の研修の大切さがこみ上げてきて、声が大きくなります。部落の起源のこと、狭山事件のこと、1つ1つ丁寧に説明をします。そして、今も部落差別があり、悲しんでいる人がいる事を話します。 私の友人の子どもが結婚することになりました。しかし、私の友人は被差別部落出身なので、相手の親から反対されました。昔でしたら、なかなか結婚にいたらないのですが、今は本人が親の反対を押し切って結婚することになります。このときも本人たちがどうしても結婚すると言いますので、相手の親もおれて結納へと進みました。私の友人は豪華な品を取揃え持っていきました。相手の家の玄関に入って、挨拶していますと、2階から相手の姉が走って下りてきて、結納の品々を外へ放り投げました。「こんな結婚ゆるしたら私がお嫁にいけなくなる」と言って放り投げました。外は雨が降った後なので、地面がドロドロです。壊れた物もあります。息子の幸せを思い、じっとこらえ、泥を落とし、きれいにして部屋に飾って帰ってきました。私の友人は私に「なんでこんな目にあわなあかんねん。くっちょしくて、くっちょしくて仕方なかった」と話しました。この話は今から6年前の話です。 結婚差別事件については、今も頻繁に起こっています。話終えた後、みんなとフィールドワークへ行きます。そこで、差別の実態を見、身体で感じる事を体験します。そしてできる限り多くの人と真剣な話をします。話をしなかった人も横で聞いています。最後のまとめの時、20人の青年に「みんなに『部落解放の運動家』になってくれとは言わんけど、部落差別に出会った時、家族をはじめ様々な人が部落差別発言をした時、見過ごさず、それは違うよ、被差別部落の人が悪いのではなく、また問題があるのではなく、差別する側に問題があり、正しく理解していないからだと、伝えてほしい」と話し、そして「今日、学んだ事、体験した事、私と出会った事を忘れず、言葉に出せる人」と問いかけると、みんな手を挙げます。この時の快感、酔いしれます。しかし、すぐにこれではイカンもっともっと頑張ろうと思わされます。 多い時には400名の青年の前で話をします。終わった後、何人かの青年が私のそばに来て話しかけます。そしてフィールドワークに連れて行ってと言われるので、一緒にフィールドワークに行きます。また、4日間寝泊まりを共にして研修をもち、出会います。もう5年位続けていますが、何人の青年と出会えただろうか、そしてどれほど伝えられただろうかと思います。専門的な知識もない私が、ただ部落差別が、すべての差別がなくなってほしいという思いだけで歩んでいます。 (日本基督教団部落解放センター運営委員長) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№114(08年3月号)より 部落差別問題研修会参加のビフォアとアフター わたくしの場合 平賀 徹夫 主のご復活祭おめでとうございます。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう(ヨハネ12・32)」と言われた主イエスのお言葉が、わたしたちの間で現実に早くその通りになりますようにと心底から祈りたいと思います。 さて、わたくしは日本カトリック部落問題委員会の担当となってから8ヶ月が経ちました。以前は部落差別問題について全くと言ってよいほど何も知りませんでした。実を言いますと、今もってこの問題の実像がよく見えていないというか、何をどうすればよいのかよく分からないという思いがしている状態です。それで、せめて合宿や研修会にできるだけ参加して学んでいきたいと思ってはいるのですが…。 去る2月8日、大阪人権博物館で開かれた部落問題に取り組むキリスト教連帯会議主催の「第18回加盟教団・教派行政責任者 部落差別問題研修会」なるものに参加してきました。参加者は全部で30人くらい。カトリックからは4人でした。わたくしにとっては見るもの聞くもの初めてのことばかりで、とても興味深い研修会ではありました。 研修の初めは、大阪人権博物館学芸員の太田恭治さんによる「部落問題の歴史から学ぶとは」と題しての1時間40分ぐらいの講演。太田さんは30数年も学芸員として働いてこられたそうで、その博学と幅広い経験・深い洞察力からあふれてくる話しぶりは人を飽きさせず、終わりの時間がきたときにはもっと聞きたいのにと思うほどでした。 講演内容で記憶に残っているいくつかを前後の脈絡なしに紹介しますと、近世の身分制度では農民・町民・「長吏」の各階級内にも複雑な細かい身分秩序があり、また本村と枝村という区分もされたりしての支配の図式が定まっていたということ(封建時代の身分制度はかくもがんじがらめのものだったのだ、とあらためて感じさせられました)、江戸幕府による法令には「穢れ」やその制度についてもともとは記述がなかったということ、皮革は鎧や兜の製造のための必需品であり、皮革業は武士(階級)がいる限り必要な軍需産業であったこと、薬食いと称して皮をはいだあとの牛肉は食されてもいたこと、九州の福岡藩から瀬戸内海を通って大阪の渡辺村まで牛馬の原皮が回送されたが、その枚数は年に10万枚との記録があるくらい盛んであったこと(どう考えてもこの数は誇張だろう、という解説がついた)、渡辺村の皮革産業は近代以降もますます発展し、皮革の専門職人としての皮なめしの知識や技術は相当高度なものとなっていたこと、近代になって部落民の自己認識が高まり、水平社宣言に謳われるように「誇り」をもって名乗ることを主張する動きが起こってきたこと、1950年代の読み書きできるようにとの識字運動は高齢者のためよりも青年たちの仕事保障(運転免許取得)のためという意味もあったこと等々、話されました。 午後は人権博物館の見学でしたが、展示物は丁寧に見て回るなら何日もかかりそうなほどの量があって、わずか2~3時間だけでは消化不良をおこすのではないかと思われました。そして実際ほとんど消化不良状態のまま博物館を後にすることになってしまいました。つまり、差別と人権に関する、それも現在もあり続ける重大問題があまりにも多すぎて、それでオレは何をどうすればいいのだと立ちすくんでしまう、いわば金縛りに遭ってしまったような感覚です。それを解きほぐすためにも、いつかまたゆっくりと訪ねる必要があるかなと思ったことでした。 研修会からの帰路、カトリック部落問題委員会事務長の根津正幸さんのお誘いがあって、人権博物館のごく近くにある大阪人権センターに寄りました。そのセンター内の部落解放・人権研究所を訪問し、所長の友永健三さんや啓発企画室次長の松本信司さんほか所員の方々にお目にかかってご挨拶したのですが、根津さんによれば、その方々との交流があるおかげで部落問題委の研修等のための人材紹介や資料の提供を受けるなどいろいろ助けていただいているとのことです。本当に気さくに明るく応対してくださる方々でした。人間が好きで、人間の尊厳・権利を守り大切にするために働くことを生きがいとしている感じかな、という印象を受けました。 人権研究所を辞去しての道々、「それでこれから何をどうすればいいんだ?」ということへの答えの糸口がチラッと見えてきたという気がしました。とにかく人との出会いということかな、と。わたしたちキリスト信者は人間一人ひとりを神の似姿として、また、キリストの死と復活による救いに招かれている貴い存在として大切にするのだから、その一人ひとり、いま虐げられている人、その苦しんでいる人を助けようとしている人々と出会うこと。同じ信仰・信条を共有しないまでも、人権研究所の人たちのように人を人として大切にして生きている人が沢山いるだろう。そのような人々ともっと深く出会うことを通して学ぶ、そこから始めることなのではないか。第2バチカン公会議以降の教会文書でよく言及される「対話」ということがやはりいつでもキーワードなのかもしれない、などと思いつきました。これからこのアフターの歩みが始まりますが、どうなることでしょうか。 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№113(08年1月号)より 2008年を脱皮の年に 今年から、委員会の名称を部落差別・人権委員会に変更します 太田 勝 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 年の初めにまず取り上げねばならないのは、日本カトリック部落問題委員会としては、会の名称変更の話題でしょうが、その前に、すこし、2007年を振り返って見たいと思います。 2007年の大事件はなんと言っても、安倍首相突然の辞任です。教育基本法に「愛国心」が盛り込まれ、防衛庁が「省」となり、憲法改悪にも自信満々で手をつけようと意気込んでいた安倍首相が参院選の大敗北を支えきれず、辞任したことは歴史的大事件と思います。 安倍さんが目指したものが森元首相のいう「天皇を中心にした神の国」であったのですが、これは明治維新に元勲たちが打ち立てようとした神道国家を建設する方向でした。 明治の元勲たちは、首相に当たる太政官の上に神祇官を立て、祭政一致の神道国家建設を目指したのですが、神祇官たちは浦上四番崩れのキリシタンたちの改宗に失敗し、神道理論家平田篤胤たちの神道理論は、列強にごしていくべき近代国家建設には無力でした。神祇官は2年ほどで格下げされ、4年ほどで消え去りました。 安倍首相の退陣は、制度の面でも精神の面でも平田篤胤らと同じ構造を持っていると思います。精神面については、『官邸崩壊』(注1)という本がでましたが、安倍政権の構造は「何よりも安倍からの評価、そして安倍といかに自分が近いかをアピールすることが優先される。仕事の中味は二の次だ」という、かつての「天皇との距離の近さが全ての決め手」であった国体思想の吹き荒れた時代状態と構造的に同じであることを想起させます。あのまま、安倍政権が憲法改正まで突き進んでしまったとしたら、とんでもない「醜い国」になってしまっていただろうと寒気がします。安倍首相辞任のおかげで、猛暑のせいもあるのでしょうか、冬になってもすこし暖かく感じます。 さて、本題にもどり、名称変更のことにふれます。ネズミ年に、5年先のヘビ年の話をするのは気が引けますが、ヘビは脱皮しないと死んでしまうそうです。日本カトリック部落問題委員会も死んでしまわないように、脱皮して日本カトリック部落差別・人権委員会と2008年から名前を変えることになりました(細かくいえば、常任司教委員会の承認をまだいただいていませんが)。部落問題といって、問題が先にくるより差別を乗り越える人間が大事と言うのが、後からつけた理由ですが、部落問題、部落問題と叫んでいても、行政レベルでは、「もう、予算もないよ。終わりだよ」というし、いわゆる世間も「もう、いいよ」と表面的な反発に終始するし、人々も「人権問題ですよ」という方が受け入れ反応がプラスなのです。ご存知の大阪・奈良・京都での不祥事の余波もあります。差別問題を根本から捉えなおす必要が出てきています。 幸い、ちょうどいい時期に『差別原論』(注2)という本が、手に入れやすい新書版で出版されました。チョット硬いですが、この本にある差別の定義を少し長いですが引用します。(影の声「定義など読み飛ばしてもいいですよ」) 「人々が他者に対してある社会的カテゴリーをあてはめることで、他者の個別具体的な生それ自体を理解する回路を遮断し、他者を忌避・排除する具体的な行為の総体をいう。あてはめるカテゴリーには圧倒的なマイナスの意味が充満しており、それをあてはめる他者や他者が生きる現実を映し出すのではなく、さまざまにマイナスなかたちで『しるしづける』。差別現象を考えるうえで重要なことは、日常生活のなかで普段いかにこうした歪められたカテゴリーの侵入を許してしまっているのかということである。確信犯的な強烈な差別行為から、同情、哀れみに内包されるなかば無意識的なゆるやかな排除まで、現象として差別は多様であるが、『歪められたカテゴリーを無批判的に受容すること』が差別につながる私達の根本的な日常的な実践といえる。そして、この実践と向き合い詳細に解読し解体、変革していくのもまた、私たちの日常的実践なのである」 前半は、聞きなれている文言が並びますが、後半の「歪められたカテゴリーを無批判的に受容しないで、むしろそれを解読し、解体し、変革していく」のが私たちの日常を緊張に満ちた充実したものに変えていく、というところが新しいと思います。差別が多様であり、日常生活は、毎日、毎日生活を続け、さまざまな出来事を処理していかねばならないので、使うエネルギーを経済するために、「このことはこんなもの」「あの人はあんな人」とレッテルをはり、型にはめて、つまりカテゴリーに仕分けして、片付けていくのですが、エネルギーを始末しながら使う分、現実から離れます。まして、他の人が使っているレッテルを、カテゴリーを使うときは、現実からもっと離れる危険が大きいでしょう。「あの人はこんな人よ」と言われたときに、「それはあなたの判断、わたしはまだ白紙、じっくり見ます」と用心することが大切で、確信犯的な強烈な差別行為ではない、同情、哀れみに内包されるなかば無意識的なゆるやかな排除に気付いていくこと、目を覚ましていることが大切と思います。 もちろん、部落差別という平安時代から強くなり、江戸時代で制度化されて、いまだに日本人の深層にしみ込んでいる差別を、日常のテレビレベルでの差別と同じ扱いはできません。しかし、そこまで譲って皆の問題、 人間の問題として意識化し直さねば運動も出来なくなっているということです。先日、住吉の解放同盟を訪ねて若いリーダーたちとの交流の機会がありましたが、20代30代の若者たちは、先輩の経験を尊重しながらも自分たちの納得の行くプラスのとらえ直しをしながら、運動の中で学び成長していきつつありました。 このように、目覚めていることは、信仰者の基本的態度でもあるでしょう。信仰を持っている私たちは、クリスマスの前の待降節を「主はすみやかにこられる、マラナタ、主よ来たりませ」といって過ごしてきましたので、「日常生活における心地よい緊張感」が生きがいを支えるものであり、人生には欠かせない必要なものである事を知っています。差別という砂をのみこみ、真珠貝のようにそのまわりに美しい珠をつくりだしていきましょう。こうして、私たちの信仰生活と差別との戦いを同じ質のもの、目覚めへの招きとして捕らえる事ができるでしょう。神様の現存へのめざめは、人の苦しみへの目覚めにうながされて、現実のものとなっていくのです。人の苦しみから、人間の尊さへの目が開かれ、人権へと関わりがつながっていくのです。人権への深い思いがなければ、部落差別を克服する取り組みも生まれて来ない、ということが、日本カトリック部落問題委員会を日本カトリック部落差別・人権委員会と名称を変えたことの原点です。 このような名称変更のもう1つのきっかけは, ハンセン病回復者との関わりからでした。ご存じのように、ハンセン病回復者たちが、国を相手取っておこした裁判で勝訴し、国側が長年にわたる「絶対隔離政策」を謝罪したことを、きっかけとして、遅まきながら日本カトリック部落問題委員会でもカトリック教会全体の問題として、3教会管区で「ハンセン病とカトリック」というテーマでシンポジウムを開催してきました。 わたしたちの努力は微々たるものですが、それでもカトリック教会の中に、ハンセン病回復者との関わりを深めるきっかけを作ってきたと思います。わたしたちの委員会のレベルでも、ハンセン回復者の森元美代治さんを全国会議のメンバーとして迎えることができ、当事者の声が私たちの活動に反映されるようになってきました。この度、待降節キャンペーンとして、ハンセン病問題基本法の制定への請願署名にカトリック教会として取り組んでいるのも、2005年以来の日本カトリック部落問題委員会としての活動の成果だと思います。 さて、今年の活動の紹介をしておきたいと思います。部落問題委員会の今年の具体的活動は3月の伊勢神宮合宿から始まります。伊勢神宮はご存知のように戦時中の国家神道の頂点です。江戸時代の神儒仏習合の日本教から明治維新の廃仏毀釈による仏教分離・純粋神道確立の理論武装を指揮した平田神道の創立者平田篤胤の理論に基づいて伊勢神宮は国家神道の頂点にたちました。日本カトリック部落問題委員会の「伊勢神宮合宿」は、合宿のサブタイトルを「伊勢神宮のかげ―おおいをとって真実に迫る―」としたのですが、内容は①穢れを清めて聖を演出する観光システムの解明と②平田神道が神儒仏習合を理論的に打ち破る際にマテオ・リッチの「天主実義」(注3)を借用し、特に儒教仏教に無い「天地の創造主」の観念をキリスト教から借りてきた点を解明しようと企画されています。 シンポジウムについては、11月24日の「ペトロ岐部と187人の殉教者」の列福式を視野に溝部司教をお招きして、殉教者を出さない社会・国家の建設、というテーマでシンポジウムを6月長崎で、「難民をうけいれる避難所としての被差別部落」という、10月の姫路シンポジウム、「重監房を必要としてしまった日本国家」という視点で11月高崎シンポジウムを企画しています。2008年の夏合宿は7月別府・的が浜で、部落差別・ハンセン病差別と天皇制の内的関連構造を学び、2009年春合宿は基地の島・沖縄で「国家の差別性」を厳しく問いたいと企画しています。少し、重いなあと思われるかも知れませんが、覆いを取り除いて真実を知れば自由になり、軽く明るい心が与えられると期待しております。 今年も、どうぞ、よろしくお願いします。 2008年1月1日 (日本カトリック部落問題委員会秘書) (注1)『官邸崩壊』―安倍政権迷走の一年― 上杉隆著・新潮社 (注2)『差別原論』わたしのなかの権力とつきあう 好井裕明著・平凡社新書No.367 (注3)イエズス会士の中国宣教の成果・1603年初版 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№112(07年11月号)より 差別原論…わたしの場合 片山 勝子 私の住んでいる兵庫県は、全国一被差別部落の数が多いところです。しかし、神戸市中央区の繁華街に暮らしていると、「部落」は一体どこにあるのか、全くわからないままでした。 夫が仕事を失い、できるだけ安い住居を探さなければならなくなったときのことです。教会の神父さんを通して、信者の不動産屋さんから、狭いながらも風呂なども付いた格安のアパートを紹介してもらいました。そこは、住居の前の道沿いに川が流れていて、春には桜が大変美しいということでした。すぐ近くには銭湯もありました。「早く銭湯に入りに行こう」とよく家族みんなで話したものです。 夫は、毎日仕事探しに奔走していましたが、当時59歳という年齢の壁もあり、思うように見つからず、やっと新聞の夕刊配達として雇ってもらいました。その職場でのお茶の時間のときに、仕事仲間から、「どこに住んどるんや」と聞かれ、住所を言うと、「そこは同和のところや。今はそんなことあまり言わんようやけどな」といわれたそうです。 夫からそのことを聞いて、私はいつのまにか、これまでとちがった目であたりを見回し始めました。確かにこの一画は住宅が密集している。家と家とに挟まれた道は車が通れない。家は、古く、汚れているように見え、生活も大変そうだ。なるほど、これが「部落」なのか…。私のなかでは、これまでに写真で見たり、本で読んだりした「部落」の困窮のイメージが、現実の情景にオーバーラップしていきました。 そんなある日、子どもが教会の友だちの家に遊びに行き、帰る頃に大雨になり、友だちのお母さんが車で送ってくれるということになったことがありました。そのとき、「ここまで送ってもらったら、ここに住んでいることがわかってしまう」と、困ったような顔をして夫がふと口にしました。なぜ、そんな言葉が出たのでしょうか。 そうこうしているうちに夫の就職が決まり、私たち家族は被差別部落と意外に早く別れることになってしまいました。かたまって、仲よさそうに住んでいる、おじさんやおばさんと知り合いになりたいな、銭湯にでも行ったら打ち解けられるかな、などという思いも、2ヶ月間という短期間では、全く実現不可能でした。 ただ、引越しの2日前にちょっとした「事件」が起こりました。私の家族は全員で動物が好きで、数年前から猫を4匹も飼っていました。ところが、やっと見つかった夫の仕事は、住み込みのマンション管理人で、そのマンションはペット厳禁のマンションだったのです。引き取ってくれる人がなかなか見つからず、動物愛護団体の方からは、安楽死を薦められて、家族全員、真っ暗な精神状態がしばらく続きました。奇跡的に、引越しの3日前に、4匹とも引き取ってくださるというご夫婦が現れ、天にも昇る思いで猫を連れて行くことになりました。大きなゲージを2つも積み込むことになり、夫が教会から大きなワゴン車を借りてきたのです。 慣れない車に、狭い道、興奮して泣き叫ぶ猫、事故の起こりやすい条件が重なっていました。案の定、車を動かし始めたときに、川べりにずらりと止めてあった自転車を数台なぎ倒してしまったのです。急いで車から降りた夫は、自転車を元通りに並べて、1台がへこんでしまったと言いました。これは大変と思いましたが、持ち主もわからないし、猫の貰い手を世話してくださった方との待ち合わせ時刻も迫ってきていたので、帰ってから持ち主を捜して話しに行こうということになり、家に残っている高校生の娘に、もし自転車のことで誰かが家に来たなら、謝って、帰ってから挨拶に行きますと伝えるように言付けて私たちは泣き叫ぶ猫たちと共にその場を後にしました。 しばらくたって、娘から私の携帯電話に「自転車のことで、大勢で家にきたよ。私がお父さんに言われたとおりに言ったら、“謝っただけじゃ駄目だ”と付いてきたみんなに一斉に言われた」と電話がありました。それを聞いて私は、よく耳にする“部落では事故を起こすな。みんなで押しかけてくるから、怖い”という言葉を思い出しました。そんなことは、差別のなかで作り上げられたことだと信じていましたので、今、自分自身のことでそのことが検証されると思い、緊張しました。 さて、家に帰ってすぐに自転車の持ち主の方を訪ねていくと、仲良し仲間のおばさんたちに呼ばれて、持ち主であるおじさんが出てきました。おじさんは「自転車が曲がってしまって乗れないんだよ。買い物やお医者さんに行くのに困っちゃうんだ」と言いました。それで、おじさんに1万円ぐらいの自転車を選んで買ってもらうということで話がまとまりました。 一時はドキッとさせられましたが、なんのことはない対応でした。ただ、被害者本人を心配して、お友だちが付いてきたというだけのことでした。それだけのことですが、私の見方や伝え方によっては、この話がさらに誤解を生むのだと思いました。 自分は差別なんかするはずがないと思い込んでいた私でしたが、この出来事をとおして、いざ自分が不安定な立場におかれたときには、ちがう目で見たり、どうしようと不安になったり、さまざまに心が揺れ動いてしまう体験をし、私の心の中は、「きめつけ」が強いということも後になって気付かされました。差別する見方がかなり大きかったことを知ることができました。 (大阪教会管区部落問題活動センター) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№111(07年9月号)より 日本に生きるキリスト者の優先課題 早川 努 名古屋教区で社会的な働きをしている司祭といえば誰もが思い浮かべる由井滋神父が、昨年春ごろから体調を崩し、今に至るまで静養生活を送っている。といっても風のうわさによれば、いたって元気でいるらしい。 その由井神父が静養に入る前に私に託していったのが、愛知同宗連(「同和問題にとりくむ愛知県宗教教団連絡協議会」)の担当だった。「ときどき会議に出てくれればいいから」とか何とか言われて、「まあ、これくらいなら協力できるだろう」と思って引き受けた。 実際、2か月に1度役員会議があって、31加盟教団のうち12教団の代表が役員として出席している。頭を丸めたスーツ姿の男性が10人近くも並ぶとなかなかの迫力である。教団によっては愛知県だけでも名古屋、尾張、三河と三つの事務所を構えて、それぞれが代表者を立てていたりする。協議会運営の経済的負担もそれぞれがカトリックの2倍ずつ、計6倍を負担してくださってたりするので、口を開くのもつい遠慮がちになる。 現在議長を務めてくださっている浄土真宗本願寺派では、教務所の職員1人が協議会の事務局員として研修会の企画立案から会計まで、役員会はその報告を聞いて承認すればいいだけという具合にきっちり仕事をしてくださっている。同じことをやれと言われてもカトリックには逆立ちしてもやれないなあと、遠く手を合わせている。 1年関わってきて感じることとして、加盟教団の7割、役員の8割が仏教で、そのほとんどが関西地方にルーツがあるということ。つまり、部落の人々が檀家となっているお寺を、たいていの教団が抱えている。だから他人事ではありえない。 皆さん物静かで、あまり口も開かないものだから、「本当はあまり関心がないのに、たまたま役についたから出席しているのかしらん」などと疑ったりしたが、それは私の大きな誤解だった。 そんな中にあって、カトリックは部落問題への関心が低いなあと今さらながら感じている。教会の中では、「ブラク」の「ブ」の字も聞いたことがない。 その理由を挙げればいろいろあるだろう。 私がまだ神学生だった頃、ある方が正直に語ってくれた言葉が忘れられない。「もし、自分の娘が部落出身者と結婚したいと言ったとしたら、わたしは反対するだろう。自分の娘が無用な苦労を抱えていくのを黙ってみていることはできない」と。 たまたま話題がこうした内容になった時、誠実なこの方は苦渋に満ちた表情で心情を吐露したのだが、こうした思いを、「子を持つ親の思い」などと受け入れるわけにはいかない。厳然と存在する差別に抗うことをしないのは、差別をゆるし助長することであり、それは差別そのものなのだから。 同様に私たちカトリック教会も、差別への抵抗を実践しないことは、すなわち差別をする側に立っているのだということを、もっと皆が自覚する必要がある。 由井神父から託された時に私がそれを引き受けたのには、じつはもう1つ訳があった。部落差別問題は、在日韓国・朝鮮人差別問題や、アイヌ、沖縄の問題と並んで、「日本に生まれ育ったキリスト者が優先して取り組まなければならない問題」の1つだという意識が、私の中に以前からずっとあったのだ。 差別は、一般に思われているように、たんなる内心の問題なのではない。文化的、社会的、歴史的に根が張っていることが、差別の大きな特徴だ。性差別の問題をとってみても、それは世界中にある問題で当然に共通する部分もあるが、現実化する仕方はそれぞれの社会でさまざまだ。日本の性差別の問題は、アメリカともフランスともエジプトとも韓国とも異なる、日本の文化、社会に特有の問題を多く含んでいる。 部落差別問題は、日本の地理的、歴史的、文化的、社会的な特異性によって形成されている、もっとも特徴的な差別だと思う。だから、福音宣教をインカルチュレーション(福音の文化的開花)と位置づけるなら、部落差別問題は優先的に取り扱われてしかるべきだと考える。 私が私としての尊厳を持つのは、神が私を愛してくださっているというただ1点にあるのであって、私が人間社会の中でどこに属しているか、性別、年齢、人種、一流企業とか、金持ちであるとか、家柄がいいとか、伝統ある国とか、そうしたことはすべて相対的なものである。神以外のものに自分の存在意義を、アイデンティティを見出そうとするとき、私たちは人間の中に差別をつくる。 差別と戦うことは、すなわち神の愛の宣教にほかならない。神を証し信仰を証するということは、人間社会から差別をなくしていくことなのだ。 (名古屋教区 小牧教会・司祭) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№110(07年7月号)より 6・30「狭山事件の再審を求める市民集会に参加して」 広川 二六 <ショッキングな「石川発言」> 「最後の再審(請求)にしたい。今度、再審を(東京高裁に)拒否されたら、(私を)殺して、逆さ吊りにし、人体実験に使ってほしい」 5月23日、東京・千代田区の日比谷野外音楽堂で全国から約4000人を集めて開かれた「狭山事件の再審を求める市民集会」(主催は実行委員会)。石川一雄さん(68)は「無実の訴え」をアピールした中で悲壮感をにじませながら語った。一瞬、会場は静まり返った。 今までのあいさつでは終わりに俳句を吐露して、心境の一端を示したが、今回はかなり切羽詰まった口ぶりだった。44年間、無実を叫び続けた石川さんにとって「命を賭けて闘っている自分の無実を分かってほしい」と強烈に訴えたかったのだろうか。周りは石川さんの年齢や体力から来る焦りを心配した。 <新100万人署名簿の提出> とはいえ、この日、「狭山事件の再審を求める市民の会」代表の庭山英雄弁護士や辛淑玉さん(人材育成コンサルタント)らが東京高裁に対して、100万筆を超す1,000,592筆の署名簿を提出し、再審を求めるのを送り出す場面もあり、私たち支援者を元気づけた。庭山代表は「前日まで100万筆に届かなかったので、やきもきしていたが、ほっとしたよ」と後で語った。 狭山事件で最高裁は一昨年3月、突然、第2次再審請求(特別抗告)を棄却した。75万人の署名簿を持っていく前日だった。石川さんと弁護団は昨年5月、東京高裁に第3次再審請求を申し立てた。 新100万人署名運動はその後の8月から始まった。今度こそ東京高裁が事実調べを行い、再審を開始するよう、多くの著名な文化人や学者らが呼び掛け人となり、大きな国民世論、市民の声として、東京高裁に届けることが署名活動の意義であった。 昨年10月31日の東京集会後には参加者が有楽町をはじめ、山手線、中央線の主要駅頭で街頭署名に取り組み、狭山事件の真相や石川さんの無実を示す新証拠集めや事実調べの必要性、冤罪の恐怖を粘り強く訴えた。 カトリックもこの街頭署名に参加したほか、司教協議会社会司教委員会や部落問題委員会を中心に、教会や修道院に署名を呼び掛け、7000筆の目標を超えることができた。 今年になって冤罪事件が多発したのも署名活動を後押ししてくれた。富山県で有罪が確定し、2年余りも服役した男性が誤認逮捕だったことを警察自身が認め、検察官が再審請求するという驚くべき冤罪が明らかになった。男性はウソの自白を強要され、ずさんな証拠によって裁判所も間違った有罪判決を出していた。 2月には鹿児島県志布志町事件で被告全員が無罪になった。公選法違反に問われた被告にアリバイがあること、虚偽の自白であることを裁判所は認めた。このほかにも佐賀県北方事件の無罪判決など全国で冤罪事件が相次ぎ、現在も石川さんのように、誤認逮捕や警察の自白強要による冤罪が跡を絶っていない現実が改めて浮き彫りになった。 周防正行監督の映画「それでもボクはやっていない」が上映されて、多くの市民が身近にある冤罪の恐怖と裁判の現実を知った。100万人署名活動は10カ月足らずで達成したが、東京高裁も裁判のやり直しを求めている市民がこんなにもいるという「その重み」をしっかりと受け止めてほしいと願わずにはいられない。 <裁判長の交代> 市民集会では狭山事件の担当裁判長が5月23日付けで交代した人事も報告されて、驚きの言葉が漏れた。狭山事件は東京高裁第四刑事部が担当している。ところが、集会当日付けで大野市太郎裁判長を最高裁刑事局長に就け、後任の裁判長に名古屋高裁の門野博さんが就任した。 この人事は昨年秋、安倍内閣によって最高裁長官に昇格した島田仁郎さんによるといわれている。島田長官は一昨年3月、最高裁第1小法廷の裁判長として、狭山事件の第2次再審請求特別抗告を棄却した当の本人である。その島田長官が門野さんを名古屋高裁から呼び寄せたのである。 門野さんは2005年、名古屋高裁で再審開始が出された名張毒ぶどう酒事件(三重県)に対し、検察官の異議申し立てを認め、昨年12月に再審決定を取り消したことで知られる。つまり、再審に厳しい判断をする人といわれており、狭山弁護団は「楽観できない」として、新証拠を積み上げて、説得する以外にはないとしている。 門野さんが裁判長として担当する東京高裁第4刑事部には狭山事件のほかに、布川事件も審理していることを特に付記しておきたい。布川事件は1967年8月、茨城県で起こった殺人事件。目撃情報から2人の男性が別件逮捕された。公判で「自白は強要されたもの」と全面否認したが、70年に水戸地裁土浦支部が無期懲役判決、78年に最高裁で確定した。 被告人2人は96年に仮出獄し、無罪を訴え、再審を請求。01年に申し立てた第2次再審請求に対し、05年9月、水戸地裁が再審開始を決定した。これに対し、検察側が即時抗告し、狭山事件同様、現在も東京高裁第四刑事部で審理中であり、今後の成り行きが注目される。 <袴田事件との連帯> 袴田事件で冤罪を訴え、再審請求中の元プロボクサーの袴田巌死刑囚(71)の姉秀子さん(74)が会場に来て、ルポライターで、狭山事件の再審を求める市民の会事務局長の鎌田慧さんと対談したことも意義深い。 袴田さんは1966年に清水市(現静岡市)でみそ製造会社専務一家4人を殺害したとして、80年に最高裁で死刑が確定したが、再審請求。元世界チャンピオンの輪島功一さんらボクシング界も支援している。 そんな折り、68年に1審静岡地裁で死刑判決を書いた元裁判官熊本典道さん(69)が再審を求める上申書を作成、支持者が6月25日、最高裁に提出した。上申書では自白の任意性に疑問があるなど公判当初から無罪と考えていたとした上で、「ほかの裁判官を説得できず、死刑判決を書かざるを得なかった。良心の呵責に耐えきれず、翌年裁判官の職を辞し、何度か死を選ぼうとした」と書いている。 また裁判官には「評議の秘密」を守る義務があることについては「十分理解しているが、再審実現には最後のチャンスと思い、非難を覚悟の上で公表した」と記述している。熊本さんは記者会見で「もし今、袴田さんに会えたとしても、黙って頭を下げるしかない。最高裁には虚心坦懐に審理してほしい」と語った。熊本さんは今年3月、「無罪の心証を持っていた」と記者会見で告白していた。秀子さんは集会の朝、袴田さんと面会してきたことを明らかにしたが、袴田事件との連帯を深め、「熊本上申書」が良い方に展開することを願わずにはいられない。 <結び> そして狭山事件の証拠開示と事実調べを行い、再審の扉を開くよう求めたい。「無辜(むこ)の救済」よりも司法の権威維持を優先し、誤判を認めようとしない逆行した今の司法の動き、人権無視の風潮がさらに強まるのを懸念する。あらゆる差別、冤罪を許さない司法の民主化と人権確立を目指す国民の声で裁判所を包囲し、変えて行くことが今こそ必要であり、そうあるよう祈らずにはいられない。 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№109(07年5月号)より 07年 春季合宿・大阪 こぼれ話 金原 薫 「合宿についてなにか書いてくれませんか」、ニュースレターの原稿依頼の電話。「ええ、いいですよ」、といつもの安請け合いをしたものの、思いはあふれて言葉にならず、結局以下のような雑文をお目にかける次第。時間があればお読みください。なお、太田勝さんが『大阪管区部落問題活動センターたより』NO.8に、「解放運動の新しい出発点」という副題の素晴らしい総括の文章を書いておられます。参加者の感想文とともに、こちらの方は是非お読みください。 3月3日、全国各地から来られた方々は、多分JR環状線を利用されたと思います。大阪の動脈といえるこの線路の外側には、被差別部落・日雇い労働者の寄せ場・旧「遊郭」・斎場・韓国朝鮮人集住地域がある、決して内側ではない、そんな説を聞いたことがあります。 最初の会場は、浪速人権文化センター。「人権文化」などという妙な名称になる前は「解放会館」と呼ばれ、解放同盟のスタッフと行政が一緒に働いていました。当日は人員削減のためか、展示の説明員も不在で「皆さんの方でお願いします」。下見に来たときは、青年が丁寧に説明してくれたのですが。しかも外壁の塗装工事が行なわれていて、すっぽりとシートに覆われています。隣接するのが例の芦原病院。こちらも経営母体が変わったのでしょうか、名称変更、看板が変わっていました。以前の姿を知っている者としては複雑な思いがしました。劣悪な衛生状態のもとで地域に多発したトラコーマ治療のためのささやかな診療所から始まったこの病院の歩みは全否定されるべきでしょうか。 現地学習では、盛りだくさん(大阪弁でいうテンコ盛り)。①新田ベルト工場壁跡、②「海の玄関口」の碑、③浪速神社、④旧渡辺道、⑤太鼓屋又兵衛屋敷跡、⑥「西濱水平社発祥の地」の碑を歩きました。 ①新田ベルト工場壁跡は地元の実業家新田長次郎の設立した製革工場の唯一の遺構。彼は家父長的な労務管理を実施した反面、1911年私立小学校を設立、部落の子どもたちの教育にも尽力しました。江戸中期、遠く鹿児島の知覧と獣骨取引(骨粉に加工し菜種の肥料にする)を行なっていたことを記念して建てられたのが②「海の玄関口」の碑。③浪速神社は渡辺村の地名の起こりともなった天満の坐摩神社の末社。大阪大空襲(1945.3.13)犠牲者の慰霊碑があります。④旧渡辺道の道は渡辺村と大坂市中をつなぐ当時唯一の道。ここにも厳然たる差別の姿がありました。⑤太鼓屋又兵衛屋敷跡は江戸時代、大坂城の太鼓を作った(1616)功労によって又兵衛を名乗ることになった渡辺村平八の屋敷跡。からくり時計の突然の音色に参加者全員拍手。⑥「西濱水平社発祥の地」の碑は1922年3月京都での水平社設立に呼応して5ヶ月後結成された西濱水平社の本部跡地の記念碑。22年から35年にかけて大阪府下に32もの水平社ができていますが、西濱は初期の設立で、後に全国水平社の本部も置かれました。JRの駅に移動の途中、派手な(?)デザインの公衆浴場がありました。地域の中に入浴料の安い銭湯を見かけることがあります。こうした施設が必要とされた理由、今では近隣の住民も利用している実態を忘れてはいけないはずです。 愛称リバティおおさか(大阪人権博物館)も文字通り駆け足で訪ねました。この施設は旧栄小学校(1878年府下2番目の設立、その費用は地域住民が皮革業の売上金、し尿代金を積み立てたもの)第3期校舎のデザインを受け継いで1985年に大阪人権資料館としてオープンしました。さらに95年日本初の人権に関する総合博物館となりました。2005年リニューアルされましたが、多数の展示のうち「総合展示 私が向き合う日本社会の差別と人権」を見学しました。そのうちコーナー3の「差別を受けている人の主張と活動」では、在日コリアン、ウチナーチュウ、アイヌ民族、女性、性的少数者、障害者、HIV感染者・AIDS患者、ハンセン病回復者、ホームレス、被差別部落、公害被害者、水俣病患者が紹介されていました。「部落差別のテーマが薄められ、差別一般に拡散しているのではないか」「外国(移住)労働者についての視点が欠けているのではないか」など参加者からの声もありました。 《リバティおおさか》では、ちょうど、特別展「部落差別の現在―なぜ忌避し排除するのか」を開催しています(~6/24)。また、特別展「万歳―芸能からみた近世社会」も予定されています(8/11~11/11)。どちらも興味深い催しです。関心のある方は、お近くに来られたときには立ち寄ってみてください。 翌日、宿泊先のホテルのロビーで、何気なく朝刊を読みました。前日、解放同盟の大会が開催されたこと、そこで最近続発した「不祥事」(不適切な言葉に思えますが)の反省と今後の対応への決意を委員長が述べたことなどが、大きく掲載されていました。早速コピーして参加者にお配りし、当日のプログラムにかかわる内容をタイミングよく(?)お伝えできました。 あの水平社宣言が「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と高らかに謳ったのは1922年3月3日、そして今日、2007年3月4日。なんと85年(!)の歳月が経ちました。85年経ってもまだ部落差別はなくなっていない、なお闘い続けなければならない。気持ちが重くなりそうです。でも、差別が生まれ、さまざまに形をかえて存続してきた長い長い年月からすれば、100年足らずは取るに足らない、なお闘い続けようという励ましとも考えることが出来そうです。 この日のプログラムは住田一郎さんと前川修さんとの問題提起、それを受けての質疑応答と分かち合い。これらについては、先にあげた太田勝さんの巧みな要約をお読みください。 最後に、いろんな気づきと出会いの2日間を感謝し、「解放のミサ」を参加者全員でささげ、全国各地の「活動の場」へ散っていきました。 (大阪教区信徒) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№108(07年3月号)より ハンセン病学習交流会に参加して 石井 里恵 1月13日、さいたま教区事務所で開催された「ハンセン病学習交流会」に参加して、荒井英子さん、浜崎眞実神父、森元美代治さんの話を聞いた。聞いてみて分かったこと、分からなくなったこと、考えても考えても答えの見つからないことなどで、今、頭は混乱している。心は重くなっている。 部落問題委員会がハンセン病問題を扱っていると知った当初、その結びつきに「なぜ?」と疑問を持った。そのうち、「部落問題委員会は社会の差別に目を向けるなかで、差別の被害者であるハンセン病回復者に目が行ったのだろう」と安易に納得した。その後、療養所を訪問し、入所者の話を聞き、その信仰の篤さに圧倒されると、今度は、「私の周囲でこの問題に深くのめり込んでいる人たちは、入所者達の篤い信仰から自分の信仰にエネルギーをいただきたくて関わっているのだろう」と思った。それで私の理解は終わっていた。 しかし、今回の学習会で別の理解を得た。それは、ちょうどショーウィンドウに映った自分の姿で自分の体型を客観的に眺めさせられるように、この問題が自分の信仰を映し出す鏡だから、人はこの問題から離れることはできないのではないかということである。 たとえば神谷美恵子の「癩者に」という詩に次のような一節がある。「何故私たちでなくあなたが?/あなたは代わって下さったのだ、/ 代わって人としてのあらゆるものを奪われ、/地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ」。荒井さんは、この詩について、なぜ健康な者が「癩者」に対して「代わって下さったのだ」と考えなければならないのか分からない、と言う。病気に特別な意味づけをし、宗教化することで、かえって患者の人権侵害に気づかなくしてしまう、と言う。 そこで私は自問する。私の頭の中にも、この詩を喜んで受け入れる素地がありはしないか。人間の力で取り除ける不幸を、あえて「お恵み」と喜んで受け入れて、耐えることが「真の信仰」「尊い犠牲」と自分に思いこませ、それで終わってしまいがちなメンタリティーがありはしないか。自分に思いこませるだけでなく、他人にもこのような逆説的転換を押しつけ、それが信仰といってはばからない自分がいないか。 分からないのは、ではどうすれば人権侵害に気付くことができるのか、である。「救癩活動に酔いしれた教会」という言葉を聞いた。しかし、「救癩」事業に携わったキリスト者達は一様に使命感に燃えていた。今、自分が使命感に燃えて○○活動に携わったとき、後の人間から「○○活動に酔いしれた」と評価されたくはない。そのためには、今、何について敏感・神経質でなければならないのだろうか。「時のしるし」に敏感であれ、と言われても、何が「時のしるし」なのだろうか?そんなに簡単に答えが見つかるのだろうか? ハンセン病問題を学習して心が重くなるのは、自分の信仰の見直しを迫られるからである。自分の生き方が問われてしまうからである。ハンセン病問題はキリスト者にとっては社会問題と言うよりもまさに信仰の問題なのである。だから、信仰と社会問題を分けてしまい、教会は信仰だけに邁進すべきだという二元論は、信仰と人権の二元論に陥って究極の人権侵害に気が付かなかった当時のキリスト者達の過ちを繰り返すことにつながってしまう。 「愛や救いに安住することが信仰ではない。なぜイエスは殺されなければならなかったのか。イエスは愛や救いに安住できなかったからではないか」という荒井さんの言葉が私の頭の中で渦を巻いている。私がイエスに従うということはどういうことなのか?私の信仰とはいったい何なのか? (日本カトリック正義と平和協議会定例委員) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№107(07年1月1日号)より 「何をしてほしいのか?」 谷 大二 あけましておめでとうございます。 この2、3年、日本カトリック部落問題委員会は、被差別部落とハンセン病の問題を二本柱にして活動しています。日本の社会での具体的な人間解放の歩みです。こうした歩みのなかで私自身の気づきを1つお話したいと思います。 マルコ福音書に次のような箇所があります。 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。(略)イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。(10:46~52) 救いを求める人にイエスは「何をしてほしいのか?」と尋ねます。彼は「目に見えるようになりたいのです」とイエスに具体的に答えています。 私自身、ハンセン病回復者たちの司牧に長年かかわってきましたが、私は「何をしてほしいのか」と聞き、回復者の具体的な望みを聞いただろうかと反省しました。このことは、日常の教会の司牧でも同じことが言えます。もしかすると、私は理念的な信仰だけを信徒に求め、押し付けてきたのかもしれません。よき司牧者、よき信徒という枠にはめ込んで、それで満足してしまっていたのかもしれません。 信仰と救い、どちらが先か? これは鶏と卵とどちらが先かという問いと同じになるかもしれません。しかし、少なくとも、具体的な救いを求めている人々を前にして、私は「何をして欲しいのか?」という問いをおろそかにしていたような気がします。 新しい年を迎えるにあたって、この問いを大切にして、具体的な解放の歩みを続けている人々とともに歩んでいきたいと思います。それは、きっと、具体的なイエスの解放の業に参与することにもなるでしょう。 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№106(06年11月1日号)より 夏季合宿「会津のキリシタンをめぐって」 会津の旅 斎藤 優 現地を巡ってしか味わえない感動、今でも資料を読み返してはキリシタンの信仰に思いを巡らせています。 日本各地を巡礼しながら先人の受難の話に接し、なぜ為政者がこれほどまでに民衆を苦しめるのか、それは政治と宗教との関わりでもあるが、「信教の自由」がメルクマールになるともいえます。今の社会状況の流れをみると、いつか私たちとも関わってくると予見されます。こうして今の時代から明治の宣教時代、そして16世紀の会津へと回想する道として、鉄道の旅を選びました。 旅の出発は「あかつきの村」のある群馬県前橋市郊外、上毛電鉄の北原駅です。終点の西桐生からJR桐生駅に移動し、両毛線で栃木へ、ここで東武鉄道に乗り換え、以後野岩鉄道、会津鉄道、JR只見線を経て磐越西線の会津若松駅に到着です。所要6時間強、塩田神父との二人旅でした。 1882年(明治15年)に来日したパリ・ミッションの宣教師、カディヤック神父が栃木県足利、群馬県桐生を拠点に宣教し、その後フランシスコ会カナダ管区の宣教によって両毛線沿線(約90キロ)の間に9つの教会が点在するまでになりました。なぜ!と興味を持ち、この地の風土と景観を肌で味わってみたかったのです。横浜港につながるシルク・ロードは横浜線と八高線、その延長が両毛線です。上毛と両毛の命名は、群馬県は上毛野、栃木県は下毛野と言っていたことに由来するらしい。JRはこの沿線を「ラーメン街道」と銘打って観光案内をしていますが、口の悪い友人は「アーメン街道」と言って高笑いしていました。鉄道の旅も県境に入ると険しい山間部を走ります。渓谷沿いには鬼怒川、川治、湯西川、湯野上、芦ノ牧という温泉地が連なります。かつて平家の落人といわれた処もありますが、キリシタン類族とも関係があるのではと考えているうちに旅は目的地に到着しました。道すがら、かつて会津で捕えられたキリシタンがこの街道を歩いて江戸送りになったことを思うと切なくなります。 話しかわって蒲生氏郷について。研修以外のことで私が関心を持ったことは、氏郷は千利休に師事し、「わび」を重用した茶人で「利休七哲」の一人に数えられ、千利休が自決した後、その養子小庵を庇護し、やがて千家の再興に努力したことです。鶴ヶ城内にある茶室「麟閣」を横目で見ながら見学できなかったのが心残りです。 文献によると氏郷の父、賢秀は曹洞宗、息子の秀行は真言宗、氏郷は臨済宗の興徳寺というように蒲生家の人びとは宗派がばらばらであるのは、自由な家風だったと推測もでき、武将の宗教観は脱宗教という考え方で、キリスト教、仏教などの融合を目指す思想であったとの見た方もあるようです。興徳寺には二度足を運び「空風火水地」の五輪塔の前でしばらく考えさせられました。 合宿は七日町駅で解散ですが、谷司教と私は翌日別の所へ移動するため、もう一泊することになり、七日町界隈を散策しながら、夜の宴へと流れました。このことは別にして、七日町通りは会津若松の最大の観光スポットらしく若者がいっぱいです。区画整理事業から除外された「部落」を見聞きした後だけに、「貴」と「賎」を強く意識させられました。 帰路、福米沢に立ち寄り、真言宗常楽院に安置されている「子安観音堂」を拝観、また民家の屋根の下の通気口の壁にかかっていた黒塗りの十字架を発見した時は感動しました。その後、福米沢の巡回教会に立ち寄りましたが、壁の十字架が斜めに傾いているのが何か気になりました。 キリシタン類族、「部落」、そしてハンセン病が一つの糸で繋がります。そして、現代の弾圧は「信教の自由」が脅かされていることです。それぞれの生き方を想うと、氏郷の辞世の句がなぜか心に染み入ります。 「限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風」 (さいたま教区 終身助祭) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№105(06年9月1日号)より 女性の立場からハンセン病国賠訴訟をみる 宮内 陽子 初め、担当のシスターの方から「司会をして下さい」との依頼を受けたとき、とてもその任に堪えられると思えず、替わりに他の方の名をいろいろ挙げてお断りしました。私自身が、ハンセン病問題にきちんと関わったわけでもなく、いわんや国賠訴訟については、何らの尽力もせず、もっとふさわしい方はいくらでもおられると思ったからです。でもお名前を挙げた方は、ことごとく都合がつかず、「この際、もっと勉強するつもりで司会を引き受けて」との、シスターの励ましとも脅しともつかないお言葉に屈して、お引き受けすることになりました。 お引き受けする以上は、何はともあれ、当事者の玉城さんにはとにかくお会いして、まずはご挨拶し、お話を伺わねばと思いました。本来なら、何日か泊り込んでじっくりお話をお伺いせねばならないのですが、勤めの都合で、夕方に神戸を発って、鹿児島に1泊し、次の日に帰るというあわただしい日程になりました。 仕事を終えて学校を出、伊丹でシスターと合流し、飛行機に乗り、鹿児島について、バスで鹿屋まで。バスを降りてから、更に夜道をタクシーで15分ほど走り、やっと星塚敬愛園につくころには10時を回っていました。玉城さんは、起きて待っているとおしゃっていましたが、あまりに遅いので、その日はもう休まれたとのこと。もう少し早く来られたら良かったのに、申し訳ないと悔やみました。 その夜は、タクシーで走った夜道のことが思い出されました。都会で暮らしている私は、街灯もなく、タクシーのヘッドライトだけが頼りという道のりには不慣れです。雨もようの暗い夜空の下、更にそれ以上にくろぐろとした林や山の間を抜け、星塚敬愛園の明かりが見えたときはほっとしました。と同時に、このような人里はなれた場所に、病む人々を隔離した国策の過酷さの一端に触れた思いがしました。道路が整備され、何よりも、隔離政策の過ちが認められた今でさえ、本当に寂しいところなのに、当時はいかばかりであったろうと思われました。 しとしとと降る雨音以外、物音一つない宿舎で1泊した早朝、玉城さんがわざわざ迎えに来て下さったことには恐縮しました。早速お宅までお邪魔し、お話をお聞きしました。過酷な生を生きてこられた方ですから、発病してから、療養所に隔離されるまでのお話だけで優に数時間かかり、話の先を急いでいただくのが本当に申し訳ないと思いました。 お話の中で、とりわけ心に残ったのは、発病したあとのご家族の対応でした。学校こそ辞めざるを得ませんでしたが、おばあさんが、「神経が麻痺する病気だから、この子に荒い仕事はやらすな」とおっしゃり、炊事洗濯もすることなく、また、貴重な漢方薬を処方され、ご家族から本当に大切に扱われたとのことでした。療養所に入って騙されたと知り、わずか20歳の玉城さんが、(男尊女卑、お上は絶対のあの時代に)あごはこわばり、足は震え、それでも泣きながら所員に、「悪いことをして来た訳ではないのに、どうしてこんな扱いをされるのか、園長は嘘つきか」と抗議された話をお聞きし、その権利意識の強さが、60年後の国賠訴訟へとつながったのではないか、そして、人権感覚を育てる基本に、どのように育まれるかが関わっているのだということも感じました。お宅を辞するとき、私たちのために夕べ、ゴーヤとサツマイモのてんぷらを作って待っていたんだから、お土産に持って行きなさいとおっしゃって、丁寧にパック詰めして下さいました。 その後、同じ国賠訴訟の原告として立ち上がられた、上野さんのお宅へお邪魔し、裁判について伺いました。訴訟の準備のために、弁護士や支援者が合宿所のように寝泊りし、狭いので、この台所にも寝たのよ、とおっしゃりながら、サーターアンダギーを揚げてくださいました。手が不自由だからねと、2本のへらを使ってボールいっぱいのタネを、大きな鍋に次々と丸めて落とし、きつね色に揚げていかれるのです。集まりのたびに、このお菓子をつくってみんなに食べてもらい、お土産にも持たしたのよ、とのお話の合間に、この裁判に命を賭けていたともおっしゃいました。「国の世話になっているのに、裁判を起こすなんて」と非難され、判決の日は、もし敗訴なら、帰途のトンネルで身を投げようとも思っていた、私は信者だけどねと話してくださいました。命の尊厳のぎりぎりのところを歩まれた方なんだということを改めて感じました。 雨も小止みになった園内を案内していただき、病身にもかかわらず重労働を強いられ完成させた橋、絶望した若者が首をくくった木、雑草に埋もれた旧火葬場、苔むした旧納骨堂などの前に立ち、説明していただきました。今はもうきちんと整備され、美しく、広々とし、しーんとし、寂しいところです。「こんなに設備も整ったところに居られて、何の文句があるのか」との心無い言葉も言われるそうです。もはや社会復帰も叶わず、このままここで暮らしていかざるを得ない回復者の方々の思いに沿った私たちの対応が本当に必要だと思いました。鹿児島まではあまりに遠いですが、瀬戸内の島の療養所なら訪ねられる、訪ねなければと思いました。 帰る間際、玉城さんにお別れのご挨拶に伺ったとき、小さなお財布からお札を出し、タクシー代だからと言って、固辞する私の手に握らせてくださいました。初対面の私に、思い出すのも辛いお話をしてくださるだけでも有難いのに、こんな心遣いまでと思うと、本当にもったいない気がしました。 さてシンポジウムは…と辿り着いたところで、字数も残り少なくなりました。体験を再び語ってくださった玉城さん、回復者の方々にずっと寄り添い、共に闘い、その中で研究者としても業績を重ねてこられた藤野豊さん、「善意」で関わったキリスト者の問題点を指摘された谷司教さんから、貴重なご発言をいただけたこと、感謝申し上げます。シンポジウムの中で、ハンセン病問題は、決して過去のことではない、形を変えて、たとえば、在日外国人の排斥や、薬害、アスベスト公害として、繰り返しこの国に現れているということも考えさせられました。また、国賠訴訟は勝訴、国は控訴断念という喜ばしい結果ではありますが、植民地時代の朝鮮での政策の誤りは放置されている点(ソロクト問題)は、戦後補償問題としても、見落としてはならないと思いました。 今、「国のかたち」とか「愛国心」とか、はたまた「この国のために死ねるか」とかの言葉が語られ、公意識が盛んに鼓吹されています。そのとき、国とは何かを原点に返って考えねば、同じ過ちを繰り返してしまうでしょう。国とは、一人ひとりの人間の集まりであり、お互い助け合うもの、人権を保障するものであるはずです。国のために隔離されねばならない、国のために犠牲にならねばならないとしたら、その国とは、私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。玉城さんを始めとする、国賠訴訟原告団の方々は、その国の過ちを、誇り高く正されたという点で、私たちに人間のあるべき姿を教えてくださいました。 司会を引き受け、僅かながらでも準備することで、ハンセン病問題はまだ終わっていないということ、また、一人ひとりの人権を保障できる社会づくりはすべてこの国に生きる者の課題、とりわけ、神の国の訪れ、福音を伝えようと願うキリスト者が、イエス様から託された課題だということを、改めて確認させられました。シスターの叱咤激励に少しはお応えできたでしょうか。 (愛徳学園教員) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№104(06年7月1日号)より 「国家と差別」開催にあたって 太田 勝わたしたち、日本カトリック部落問題委員会では、2006年は従来から毎年行っているシンポジウムを「国家と差別」という統一テーマで、東京教会管区・大阪教会管区・長崎教会管区で行おうとしています。「国家と差別」というテーマは、昨年2005年のシンポジウム「ハンセン病とカトリック」において指摘されていた、強制隔離政策に見られる国の責任を深く理解し、追求しようという意図で、設定されたものです。 このような設定は、シンポジウムを通して出会うことの出来た、ハンセン病回復者の方々つまり、国の政策の犠牲となった方々に、学ぶことによって初めて行うことの出来た設定です。と同時に、わたしたち、日本カトリック部落問題委員会が1992年以来、1997年まで企画実行してきた毎年のシンポジウム「聖書と差別」、1998年以来、2004年まで企画実行してきたシンポジウム「宗教と差別」の延長線上にシンポジウム「国家と差別」を5年計画で企画したことの具体化でもあります。 「国家がした差別」の具体的あらわれは、最近の動きでみれば、「胎児標本」の問題となります。2006年6月14日川崎厚生労働相は同省を訪れたハンセン病回復者たちに、「こころからおわびをもうしあげたい。」と初めて公式に謝罪しました。国がハンセン病回復者たちの結婚は許しても、子どもを持つことは禁じて、妊娠中絶を強制し、胎児が大きくなりすぎて母胎に危険が及ぶ時は、生ませてすぐに母親の目の前で赤子を窒息死させてきた事への謝罪でした。 いのちを大切にする観点から、カトリック教会の立場を代表して社会司教委員会は、2005年12月には、厚生労働省に要望書を提出して、積極的にこの問題に取り組んできました。国が、明治維新以来、国民のいのちを大切にするよりも、国家のメンツを人権の上に置いて、行動してきた事への根本的方向転換を求める動きを作りだそうと意図したのです。このような働きかけは、現在の国の動きを見ていると、とても大切に思えます。 つまり、憲法を変えて、従来の「国の暴走を国民が縛る」原則から、国が国民をしばり国家に忠実に奉仕させる方向へと国民の行動様式を動かしていく方向で国が動いているからです。江戸時代の「よらしむべし、知らしむべからず」というメンタリティが国民、特にカトリック教会の信徒のなかに色濃く残っていることに、いまさらながら驚かせられることがこのごろあります。(たとえば、司祭不在の集会祭儀司式者の研修会で、司祭が決めてくださったのだから、式文をひたすら守ればいいのではないかとの意見が出される。) さすがに国の側も、成り行きに任せていては、憲法改悪が出来ないとみて、国民の意識操作をやりやすくする共謀罪法案などを必死で成立させようとしてきているのです。 国の行動様式を深く理解し、国とはどのような行動様式をとるものなのかを、明治維新以来、近代国家となるために、「一等国」となるために、日本という国が何を国民に対して行い、何を近隣のアジアの国に対して行ってきたかを全体的に把握したいというのがこのシンポジウムのねらいです。 日本カトリック司教団が戦後60年を節目としてだしたメッセージにおいて、「かつて、軍国主義政権の圧力の下で、当時のカトリック教会の指導者は靖国神社をはじめとする神社参拝を心ならずも儀礼として容認してしまいました。このことは過去の出来事として葬り去ることはできません。なぜなら、今まさに同じ危機が目前に迫っているからです。すなわち、憲法改正論議のなかで、政教分離の原則を緩和し、靖国神社参拝を儀礼として容認しようという動きが出てきているからです。」と指摘しているように、国は再び国民を動員して、国の政策に盲目的に従わせようとしているのです。国は親のように良い者で、その決めたことに従っていれば、波風のたたない平和な生活が出来るのですよ、神社参拝は宗教ではなくて日本の習慣、社会的儀礼なのですから、キリシタンのように目くじら立てて、否定したり、殉教したりしないでくださいね、と優しく語りかけているのです。 危ない、国の手練手管を見破っていきましょう。 (日本カトリック部落問題委員会秘書) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№103(06年5月1日号)より 中山武敏さん(弁護団主任弁護人)に聞く |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№102(06年3月1日号)より
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カトリック部落問題委員会ニュースレター№102(06年3月1日号)より
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カトリック部落問題委員会ニュースレター№101(06年1月1日号)より
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カトリック部落問題委員会ニュースレター№100(05年11月1日号)より
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カトリック部落問題委員会ニュースレター№99(05年9月1日号)より 瀬下 幸弘 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№98(05年7月1日号)より 太田 勝 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№97(05年5月1日号)より 片山 勝子 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№96(05年3月1日号)より 西野 猛生 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№95(05年1月1日号)より <「わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ」(出エジプト17;6) 谷 大二 (日本カトリック部落問題委員会委員長) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№94(04年11月1日号)より 橋本瑠璃子 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№93(04年9月1日号)より ―春夏の「合宿」に参加した20回を振り返って |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№92(04年7月1日号)より 福音と解放 ―「と」の問題 ― |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№91(04年5月1日号)より 聴く耳あるものは、聴くべし |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№90(04年3月1日号)より 広島に生まれて育って、そして今 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№89(04年1月1日号)より あけましておめでとうございます |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№88(03年11月1日号)より 「よくやるよ、自分をほめてあげたい―この10年を振り返って」 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№87(03年9月1日号)より 民 族 差 別? ん? 宮西いずみ いまどき そんなの はやらないよ ワールドカップでもりあがって みんな水に流したよ ハングルってあの文字だって 私たち好き かっこいいじゃない? Tシャツのデザインにもなってるし クサナギくん、チョナンカン え?知らないの うっそおー? すてきだよ、ソウルの町歩いている姿、テレビ見なかった? 彼、韓国語すっごーっくうまくってさ そう日本人だよ。生の。 大人気 日本人にも韓国人にも なのに、何だって みんぞくさべつなんて言うの? そんなの かんぺき 無いってば! 私に向けられる「あなた、化石だよ」という視線 けれど、でも、でもって 化石は思います 半世紀前の「併合」「植民地政策」「性奴隷制度」 天皇の軍隊による少女集団拉致の被害者は 韓国にも朝鮮民主主義人民共和国にも、たくさんいらっしゃらる そんな重い事実が ワールドカップの興奮くらいで、水に流せたかしら? もし強引に流したとしたら……流された方は、どんな気持ち? この日本社会に、あなたの隣に 「なまじっかこんな世相になってしまったものだから」 日本国への「恨」の持って行き場を失って 片のついていない恨を、自分に向けるしかなくて、 その深い自己嫌悪を、作り笑いで繕っている人がいるのに気付いていますか? その「偽笑」を、日韓友好の笑顔だと思っていませんか? カトリックの神学校で 日本人学生と在日韓国人学生との間で、何か「事件」があったって ほとんどの信徒は知らない。 「賢明な解決」をすべく、受け皿になる「専門家」グループを すばやく編成して 神学校の人権教育のカリキュラムの検討などに着手したのは、 大いなる不幸だったのではないでしょうか? そんなふうに「善処」なんかしないで この<一大事>を、お天道様の光の下にさらすべきでした この<事実>を、日本カトリック教会のメンバー、 特に若い人たちの前にあからさまにして みんなで とことん 真剣に、飽きるほど話し合うべきでした これが私たちの教会の、社会の現実だと、知るよい機会だったのに。 きまじめ売り物の政党が、思いがけない不祥事に直面して 真相究明忘れて大慌てで取り繕いに走ったとき、 私たちの教団がした「善処」も同じだったなあ、と ようやく気付いた愚鈍 み・ん・ぞ・く・さ・べ・つ 残念だけれど、厳然とあるの! 深く深く歴史に根ざした差別。 それは、仲良しごっことは次元の違う関係性です。 そのことをとことん 抉り出すことなくして、真の関係は結べない。 その認識のチャンスをみすみす取り逃がしたのは 「解放担当者」の目の曇りでしたね。 私たちの信仰教会共同体の、 「神の国」にはあまりにも遠いこの現実 でも、やっぱりそこから再出発しましょう! (京都教区・三重) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№86(03年7月1日号)より 「ハンセン病訴訟熊本勝訴判決から2年が経った初夏に」 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№85(03年5月1日号)より なぜ戦争にノーと言わねばならないか |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№84(03年3月1日号)より 10ヵ年計画神林 宏和 わたしが大阪教区事務局勤務を命じられてから10年経ちました。10年前、わたしは、東京四谷にあったカトリック中央協議会事務局での9年間の出向を終えて大阪教区に帰ったところでした。 どこの教区でも似たり寄ったりでしょうが、大阪教区でも、毎月1回午前中に神父たちが集まり、1時間半ほど種々のテーマで講師の話を聞くというかたちで研修が行われており、教区月修と呼ばれています。この月修の中で部落差別問題も取り上げられていました。しかし、聞いてみると、ときどき講師を招いて「やったことがある」ものの、定期的、系統的ではないという印象を受けました。多分、どの講師たちも入門的な話をしていたのでしょう。 散発的に入門的な話を聞くだけでは、いくらやっても玄関を入ったり出たりしているだけで、「研修」という家の中には入っていくことになっていないのではないか、とそのとき思いました。そこで、毎年1回でいいから、10年かけてテーマと講師を選び、これだけ学べばとりあえず部落問題の初歩は分かるというプログラムを組めないかと考えました。 幸い大阪教区には「部落問題を考える信徒の会」というのがありました(今もありますが)。プログラムはそこで考えてもらおう。月修委員(司祭評議会から選ばれて、毎回の教区月修のテーマ・講師を考える司祭たちです。現在は司祭研修委員と呼ばれています)に頼んで年に1回分をこの問題研修に空けてもらおう… 教区月修は毎月行われているといっても、夏休みが入ったり種々の行事があるとなくなったりするので年に10回ぐらいです。そのうちの1回をこれから10年間部落問題に空けるとなると、月修委員としては抵抗があるでしょう。そこで、外から働きかけるよりも、改選のときに月修委員の1人に入れてもらい、中で提案しようと思い、司祭評議会に働きかけました(もちろんそんな下心は言わないで…)。それはとりあえず成功(?)しました。そして、これから10年間は毎年1回やる、と決めて、委員が交代しても、これを申し送りしてもらうことにしました。これで「場」を確保しました。 次は「内容」です。これは上述の「部落問題を考える信徒の会」(以下、信徒の会)に出て、話しました。今から10年先のことまで考えるのは無理だ、講師だって亡くなってしまうかもしれない…。とまどいの発言がありました。しかし、常々、教会でこの問題に取り組むには神父たちの理解と協力が不可欠と叫んでいる人たちです。最終的には、やりましょう、ということになりました。 10回に分けて部落問題を取り上げるとしたら、何と何を毎回テーマにすべきか、どんな講師を選ぶべきか、そういう人が現実にいるか、などなどが話し合われて、次のように決まり、実行してきました。 ①1995年:共感・共生できる教区共同体の形成をめざして、過去の失敗・経験と現状をふまえつつ一歩一歩の前進をはかるために『私たちが部落問題に取り組むまでのこと』と題して故相馬信夫司教の話。 相馬司教は、わたしも親しく存じ上げていましたので、「司教様、遺言として司祭たちに言い残しておきたいことをおっしゃってください」とお願いしました。そして、同司教はそれからしばらくしてお亡くなりになったのでわたしたちにとって文字通り最後のお話となりました。 ②1996年:部落解放のためには、信徒の共同体としての回心が第1であるが、その核としての司祭団の目覚めもまた第1といえるほど重要であるという思いから、信徒の会が行った、この問題に関する『大阪教区司祭団へのアンケート調査結果発表』をしました。 ③1997年:目覚めの第1歩は知ること、出会うことから始まるが、司祭はもう知っていると思いがちなので、教役者の体験・証言とそれに基づく未来展望が必要ということで、栗林輝夫さんに『荊冠の神学を生きて』というお話をしていただきました。 ④1998年:教役者の証言に続いて、小教区教会として司牧者と信徒とが一体になって回心していったケースを学ぶために、日本基督教団明石教会の宮崎達雄牧師と信徒の方々に『部落解放の灯を消すとき明石教会の生命は絶える』と題して体験談をうかがいました。 ⑤1999年:信徒ないし司牧者の差別的対応の原点としての差別事件を学ぶために、日本基督教団部落解放センターの角樋平一牧師から『狭山事件と部落差別』についてお話しいただきました。 ⑥2000年:部落問題の根本的理解を得るため、部落差別の歴史とそこから学ぶべきことを『新しい部落史―その起源から未来に向けて』と題して上杉聰さんからお聞きしました。 ⑦2001年:キリスト教内部から日本全体に視野を広げて、解放運動の現状と展望を浅香人権文化センターの山本義彦さんに『にんげんの街をめざして』と題する実践談をうかがいました。 ⑧2002年:ここからまとめの段階に入ります。その第1段階として、日本カトリック部落問題委員会事務局専従のSr.橋本瑠璃子から『カトリック教会での部落解放の課題』をうかがいました。そしてあと2年、予定テーマは次の二つです。 ⑨2003年:『被差別地域に生まれたカトリック信徒としての自己解放の歩み』 ⑩2004年:『反差別教会共同体への歩み』 全10回が終ったら、それらをまとめて1冊の本にしてはどうかと思っています。 まだ終っていませんが、当初「10年間」と聞いて、「そんな先まで生きていないよ」と言っていた神父たちのほとんどがまだ生きています。長いようですが、やってみれば「延々」という感じではありませでした。ただ現地での体験学習などが含まれていない欠陥は否めませんが、多くの方々の協力を得て続けてくることができました。 10年前に教区事務局勤務を命じられたとき、それぞれの場で問題に取り組むと言われる中で、わたしに与えられた教区事務局という場で何に取り組んだらよいかを考えました。小教区で日ごろ信徒の方々と接する機会がありません。今の立場で何かできることをと考えて、今まで述べた10ヵ年計画を思いつきました。しかし、考えてみたら、これもわたしが「取り組んだ」とはいえません。取り組んでくださったのは「信徒の会」の皆さんであり、講師を引き受けてくださった方々です。わたしの「実践報告」とはとてもいえません。それでも感謝を込めてどこかに記録しておきたいと思いました。 (カトリック大阪大司教区・本部事務局長) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№83(03年1月1日号)より ―新たな10年の始まり―谷 大二 クリスマスと新年のお喜びを申し上げます。 昨年10月で、司教団が『部落差別の克服をめざして』を発行して10年になりました。10年という歳月で振り返ってみると、一歩いっぽは小さな歩みであっても、日本カトリック部落問題委員会は、教会や社会で重要な役割を果たし、大きく成長してきたことがわかります。 『部落差別の克服をめざして』発行10年にあたり、部落問題委員会はこの10年を総括し、新たな10年の活動計画を立てました。事務局体制も見直し、2004年をめどに、東京に事務局を移して新たな展開を図ることも計画しました。これによって「関東」と「関西」に取り組みの拠点ができる見通しがたちました。 そして、新しい10年を私たちは迎えました。その始まりにあたる時期に、「正義と平和協議会全国会議」が長崎で行われ、分科会で巡礼地パンフレットの差別用語使用問題が取り扱われました。それを機に、長崎教区でも本格的な部落問題への取り組みが始まりました。「九州」の拠点作りの新たな一歩といえるかもしれません。 この巡礼地パンフレットの研究等からカトリック教会の「歴史認識の核」ともいえる文書に突き当たりました。浦川和三郎著『切支丹の復活』等です。これらの文書に、抑圧されていたキリシタンと被差別部落との被分断支配の跡が見られます。それが後世のカトリック教会の中に深く影響していったのではないかと考えられるのです。私たちの信仰理解を深めていく上で大きな発見であるといってもよいでしょう。 このことは、差別の解決は「時とともに解消される」という進化論的な考え方では通用しないことを示しています。差別に取り組む人たちが連帯し、闘い続けることがなければ、決して解決には向かいません。また、差別の問題に取り組むことは私たちの信仰理解を深め、私たち自身が解放されていくことでもあります。こうした認識を新たにさせられました。 そして、今年は狭山事件40年にもあたります。いまだに、最高裁は再審を行わないばかりか、検察庁は事件の証拠すら開示しようとしていません。部落差別による冤罪を晴らすことは、石川さんの人権を回復するだけでなく、司法を糾していくことでもあり、また、人権低開発国といわれる日本の汚名を晴らしていくことにもつながります。 新たな10年を歩みだした私たちの使命は、ますます増えています。皆様のご協力をこころからお願いいたします。新しい年の始まりにあたり、私たちの歩みに聖霊の豊かな導きがありますように祈ります。 (日本カトリック部落問題委員会委員長) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№82(02年11月1日号)より ―猫の恩返し―服部 大介 「猫の恩返し」という映画を見ました。17歳の高校生のハルという女の子が、トラックにひかれそうになった1匹の猫を助けて、そのお礼に猫の世界に招待されるというお話です。ハルが猫を助けたその日は、学校には遅刻するし、みんなの前で恥をかくし、好きな男の子に彼女がいることが分かるしというまさに散々な一日でした。そして、ハルはそのような高校生の女の子らしい悩みを抱え、誰もが持っているふと現実逃避したいという思いから迂闊にもネコの誘いにのってしまい、「猫になってもいいかな」と考えます。私の実家にも猫がいますが、いつもゴロゴロ、えさを食べては寝るという毎日で、そのような姿を見ていると確かにうらやましく感じる時があります。「猫になりたい」と一度でも思ったことのある人はきっとたくさんいるのではないでしょうか。しかし、この映画で描かれる猫の国は、時間の止まった国であり、自分の時間を生きられないやつが行くところとして描かれます。はじめハルは、イヤなことも全部忘れて、日がな一日ゴロゴロ、おいしいものを一杯食べて昼寝のできる猫の国にあこがれますが、男爵猫バロンをはじめとする様々なネコに導かれて、何気ない毎日も決して無駄なことではないこと、自分の時間を生きていくということがどういうことなのかに気づいてゆきます。 自分に与えられた時間を自由に生きることができるというのは、ひとつの解放された生き方といえると思います。もちろん生活や仕事に追われている人や、当然与えられるべきことがなされていないがために、与えられた時間を自由に生きられない人が多いのも事実です。そしてその解放のために力を尽くしていくことは、この部落問題委員会を始めとする様々な活動を通して、私たちキリスト者にとって大切な役割となっています。しかし、この女子高生ハルのように、普通に暮らしている多くの人が、変わりばえのない毎日を何となく過ごしていて、自分の時間を本当に生きることができていないのならば、その解放のために導いてくれるものは福音となるでしょう。 キリストは、神様から与えられたあなたはかけがえのないものであり、あなたのあるがままで生きれば良いということを教えられました。あなたがあるがままで神様から受け入れられているのだから、あなた自身の現実を受け入れていくことができる、つまり自分に与えられた時間を自由に生きていくことができることになります。これがキリストの福音です。しかし、このあるがままで神様から受け入れられているということ、愛されているということをなかなか実感することができません。神様のなさり方は、毎日の出会いや出来事を通して働かれます。しかもそれは変わりばえのない退屈なものであったり、逆にすぐには理解することのできない苦しいもの、なぜ他の人ではなくわたしなのかと思うようなこともあるでしょう。しかし、その小さな出会いや出来事を避けようとするのではなく、自らが関わっていくことによって、自分のこととして受け入れていくことによってしか、感じることができないのです。そしてもし、それを受け入れることができるように一緒に歩んでくれるものがあるならば、導いてくれるものがあるならば、福音となるでしょう。 「猫の恩返し」では、ハルが小学生の頃、弱り果てていた子猫に魚のビスケットをあげたという小さな出来事が導きのきっかけになっています。そしてそのきっかけが後のブタネコのムタや、男爵猫バロンのような導いてくれるものとの出会いにつながってきます。関わろうとしたため、聞こうとしたため、そして見ようとしたためにそのような小さな出来事があり、出会いもあったわけです。わたしたちは変わりばえのない毎日の小さな出来事を大切にし、もっともっと関わり、聞き、見ていく必要があるのではないでしょうか。そして、さらにムタのように、そしてバロンのように、それぞれの自分のやり方で、自らが一緒に歩んでいくもの、導いていくものになっていきたいものです。 (広島教区司祭) 島本大司教の急逝を悼むわたしたち日本カトリック部落問題委員会の委員長を1998年より3年にわたり務めてくださった島本大司教さんが、8月31日、肺炎のため急逝されました。青年を率いての聖地巡礼で体の調子が悪いのに、病院に行くのを羽田に着くまで断り通しての急逝と聞きました。 わたしたちの委員長になられたばかりの時は、部落差別についてはあまりご存じではないだろうと1999年春・澁染一揆合宿などでは、司教さんが出席できる日程を組み、勉強をしてもらいました。現地学習を体験してくださり、狭山での2000年春合宿では、石川一雄さんの姿に“罪のないのに皆のために罪を負われたイエス”の姿を見るという説教をするほどの理解を示して下さいました。組織や体面を気にするよりも人間の心に感動できる庶民的牧者の姿を見せてくださいました。 このように、長崎教区という部落問題に関しては、歴史的課題の重い教区を率いての日本カトリック部落問題委員会委員長の務めを立派に果たしてくださったことにわたしたちは感謝しています。特に懸案であった長崎でのわたしたちの合宿を2000年夏に開催できたのは、島本大司教さんが長崎教区の責任者であればこそ出来たことだと思います。キリシタンと被差別部落との対話の窓が開いたのですから、わたしたちはこの窓を通しての交流を強め活かして行くことが島本大司教さんへの感謝を具体的にすることだと思います。ありがとうございました。主のもとでの永遠のやすらぎをお祈りします。 (太田 勝) 皇庁の外交官を務めてから浦和教区司教に任命された時には、ロ-マ任命の長江路線修正者として教区司祭たちから強い反発を受け苦労されておられました。当時、浦和教区の秩父にいたわたしは島本司教さんから叙階されたのでした。 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№81(02年9月1日号)より ―虎の口からのがれるために―橋本 勲 (一) インドに伝わる民話らしいのですが、次のような話があります。 あるところに、一人の仙人が住んでいました。何でも不可能なことはないということを伝え聞いた一人の商人が、この仙人のところにあらわれて言いました。 「いくら先生が何でもおできになると言っても、まさか虎の皮と骨だけで、生きた虎を再生させることはできないでしょう」。 これを聞いた仙人は答えました。「なに、そんなことはわけはない。見ていなさい。いまやって見せてあげる」。 骨と皮だけで生きた虎を再生させた仙人の技術に、そこにいる者たちは全員感動の歓声をあげて仙人を賛美しました。しかしその後、仙人も商人もそこにいたみんな、この虎に食べられてしまったということです。 この話はいろいろな解釈を当てはめることができます。その解釈の一つに現代文明への痛烈な皮肉として受け取ることもできます。 とくに日本は第二次大戦後飛躍的な技術革新によって、現代の物質的繁栄を手にしました。いま少々かげりが見えるとはいえ、その革新の意欲はおとろえてはいません。 これらの技術の進歩によって、さまざまな文明の利器が製造され、人々はこれまで経験したことのない便利な生活を楽しむことができるようになりました。 ただ確かに便利にはなったのですが、豊かになったかどうかは疑問です。その便利さを手にしたことの代償として、人々は異常なほど忙しくなりました。そして忙しいという文字の通り心を亡くしてしまいました。便利にはなりましたが、その便利さに捕らえられ、いまだにそこから解放される気配はありません。まさに自分が造り出した虎に喰われてしまったのです。 (二) いつだったか定年を迎えた一人のサラリーマンの孤独な生活が、テレビで特集されていました。特集されるくらいだから、こんなケースはまれではなくなったのでしょう。 社会のため、家族のため、そして日本のため、身を粉にして働くこと三十数年、ようやく定年を迎えました。家族も心から長年の苦労をねぎらってくれました。これから悠々自適、ゆっくりと自分の時間を楽しむことができると思ったその翌日、愛する奥様が「長い間お世話になりました。」と言っていなくなってしまったというのです。 彼には何が何だかわかりません。そして自分が悪いことをしたのなら謝るからと慰留しても、その理由を言ってはくれません。一年経った今でもその理由が全く分からず、寂しく自分だけの夕食の準備をしているというわけです。 だれが悪くてこんなことになってしまったのでしょうか。急に出て行ってしまった妻が悪いのでしょうか。そうでもないようです。とても明るく、子供の世話もよくし、浮気をするでもなく、平凡だが素晴らしい一人の主婦だったのです。 では旦那様が悪かったのでしょうか。そんなことはありません。それこそ仕事一途、単身赴任の寂しさにも耐え、子供にも不自由させないくらいの稼ぎもし、暴力を振うでもなく、平凡だが素晴らしい夫なのです。子供が悪いのでしょうか。そんなことはありません。非行に走るでもなく、すくすくと育ちました。 つまりみんな良い人ばかりなのです。それなのにどうしてこんなことになってしまったのでしょう。この一家の悲惨さは、こんなに一生懸命それぞれ過してきたのに、どうしてこんなことになったのか、その理由を見つけ得ないことにあります。こうして夫は時々つぶやきます。「おれがどんな悪いことをしたというのだ」と。 (三) 全く誰も悪くない。良い人たちばかりです。つまりこんな良い人たちがその善良さゆえに、実は現代の虎に喰われてしまっているというこの事実を、じっくり凝視する必要があります。 経済の発展はすばらしいことです。しかしそれは経済がちゃんと経済の位置に座り、人間に支配されている場合のことです。 ところが現代は経済がいつの間にか宗教化してしまい、人は経済を自分に従わせるのではなく、経済的価値を最高のものとして拝みはじめました。そしてその価値を追いかけて行けば、人間の真の豊かさが訪れるという教義を信じ、その価値をご本尊として礼拝する経済教の信者となってしまったのです。 まず一家の主人が熱烈な信者となりました。家族もこれに同意し、身も心もこのご本尊に献げてしまったのです。しかし実際は違っていました。信じた豊かさは幻にすぎませんでした。一家は何の絆もなくバラバラになってしまいました。何の心のつながりもありません。ただ一つの時を同時に過ごす同居人にすぎません。虚しさがすき間風のように吹き抜けていきます。いのちのプロである女性はとくに、こんな人生に耐えられるような構造にはなっていないのでしょう。男はまだ、こんなものをよとあきらめることもできます。そしてここまで我慢したのだからこれからだってと、相手に要求もしたくなるでしょう。 だがそんな思惑はもう通用しなくなってしまったようです。どうやら虎のキバにかかってしまったようです。経済教からの脱会も虎のキバから逃れることも簡単にはいかないようです。 (四) いま長崎では殉教祭が盛んに祝われます。自分たちの現在の信仰を鼓舞するためにも、殉教者を賛えることはとてもよいことだと思われます。 ただ賛えられる殉教者側から見るとどうなのかと時々思うことがあります。自分たちが賛えられることはとてもいいことだけれども、殉教の必要のない世界をつくることはさらに良いことです。自分たちはたまたまそういう時代に生まれ合わせ、殉教ということになったけれども、できれば信教の自由を謳歌しながら、神の愛をその時代に証ししたかったというのが本音であると思います。殉教は素晴らしいことだけれども、殉教の必要のない世界はもっと素晴らしいことなのです。 いま殉教の社会問題としての側面にも目を向ける傾向が少しずつ広がっています。ここまで深めていかないと今の時代の殉教のすがたが見えてはこないからです。 信仰を守るために命を捨てるようなケースはないかもしれません。しかし、ひとりよがりであってはなりませんが、信仰の名のもとに社会運動を進める少数派の人々の真実を確かめもせず、気づかずして迫害者の側に立つ場合が起こってきます。 人々のつまらない風評やうわさに付和雷同して、その芽を摘んでしまうことになるとすれば、殉教祭を祝って殉教者を賛えながら、実際は迫害者となっているという矛盾におちいってしまっていることになります。 これもまた虎に喰われたケースということになるのでしょう。 虎の口から逃れるためにイザヤの宣言をじっくり味わってみたいものです。 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力を、圧迫されている人を自由にし、主の恵の年を告げるためである」(ルカ4・18~19) (長崎教区司祭) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№80(02年7月1日号)より 福音と解放福田 誠二 私はフランシスコ会というカトリックの修道会に属するが、それは私が自分の最終的な人生の方向性について悩み、模索していたときに、フランシスコ会第三会員を通して、アシジのフランシスコという人物を紹介され、知り、試行錯誤するうちに、彼の生き方の中に、私が直面している私固有の種々の課題について、それを根源から解決する何か希望のようなもの、解放的な力のようなものを感じ取ったと考えるからである。アシジのフランシスコという人物についてはここであらためて述べる必要もないと思われるが、私も含めて多くの若者がそうであるように、フランシスコもその人生のはじめに、素朴に世間における立身出世を求めて戦争に参加する。しかしながら、彼は捕虜になり、しかも、病気になってしまう。そのような失意のなかで彼は、ある日、ハンセン病者と出会う。初め、フランシスコはハンセン病者を見ることさえも恐怖を感じている状況であったが、あるとき、決心してそのハンセン病者に駆け寄り、口づけする。その瞬間、彼は新しい生き方に出会う。「私がまだ罪の中にいた頃、ハンセン病者を見ることは余りにもつらく思われました。それで、主は自ら私を彼らの中に導いてくださいました。そこで、私は彼らを憐れみました。そして、彼らのもとを去った時、以前に辛く思われていたことが、私にとって魂と体の甘味に変えられました。こうして私は、その後しばらくとどまって、世俗を出ました」(『遺言』)。この物語は有名なフランシスコの召命物語の一部であるが、言うまでもなく、その歴史的な背景も含めてこの物語が持っている様々な意味について、様々な観点および立場から解釈、理解あるいは批判することが可能である。しかしながら、ここで私がこの物語を紹介したのは、誤解を恐れずにいえば、私はこの物語の深層における様々な意味に思い巡らし、解釈するたびに、私の人生の様々な決定的な場面において、実際に、そこから様々な新しい発想と新しい決断への源泉としてのインスピレーションを受けたと感じているからである。 私は約8年前に司祭に叙階された後、私の所属する修道会の意向と私自身の希望が叶って、私はドイツに哲学および神学の研究のために赴く機会を得たが、それは、今から十数年前に、私が神学生であった頃、栗林輝夫氏の『荊冠の神学―被差別部落解放とキリスト教』が出版されたことがその一つの契機であったからである。というのは、当時、私は神学校で神学を学んでいながらも、実際に私自身は何を、具体的にどのように神学するのか、その基本的な方向性さえ全くつかめていなかった状況にあったが、そのとき、私は『荊冠の神学』を手にした。私は日本において日本に固有な問題に対して、独自の観点から一つの「日本神学」ともいえる、そのような研究が可能であり、現実に為されたということに対して非常な衝撃を受けるとともに心から感動した。もしかすると私のようなものにも「神学という営み」が可能であるかもしれない、というかすかな希望が私のうちに湧きあがるのを感じたのである。それから、いくつか試行錯誤と準備の後、身近な兄弟・姉妹たちの導きにも助けられて、結局、私は、私の所属するフランシスコ会の中世の哲学者・神学者であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスという人物の思想を研究することになった。ヨーロッパ中世の思想家であり、もっかの被差別部落解放に関してはなんの関係もなさそうなテーマを選んだのは、ただ、彼がフランシスカンであった故に、フランシスコの霊性の感化を受け、当時の状況において彼の専門である哲学・神学の分野でそれを展開していたからであり、その彼の思想の中になにか根源的な発想の豊かさを感じたからである。このようないきさつから、私は私なりの「神学という営み」というものを始めることになった。 今、私のこのスコトゥス研究が一段落して、日本に帰ってきて、思うことは、重箱の隅をほんの一部をつつくような研究ではあっても、それが真摯な問いかけと忍耐強い探究であるかぎり、このような「神学という営み」の中に、人間を根底から変える、しかもものごとを根源から理解し、思索する何がしかの力、解放への道を歩むことを可能にする根源的なエネルギーのようなものを見出すことができるのではないかということである。被差別部落民の解放を求める「神学という営み」とは、何らかの獲得された源泉から資料が汲み取られ、我々の主体的な営みによって、具体化されるべきものであるということはいうまでもないが、それを担う我々一人ひとりの個性自体こそが「神学という営み」における一つの源泉として重要であると感じられるのである。被差別部落民の解放を求める「神学という営み」は個々の個性あふれる場において、様々な仕方において始められるべきものであり、そのすべての源泉と方法論に対して全く自由に開かれているべきものであると思われる。 私自身にとって、上記フランシスコとの出会いとそれに続くこれまでの私自身の人生の選択と決断において、彼のインスピレーションというものが常にそのような源泉と個性を触発する場であると感じているのである。レオナルド・ボフもその著書『アジアの貧者・解放の神学』において指摘しているように、とりわけ、フランシスコがハンセン病者との出会いを通して、徹底的な回心へと歩んでいったこと、およびその中で培われた人間味あふれる人間性の開花としての神との一致を生きる根源的な霊性こそが、すべてにおける根源的な解放を求める神学的取り組みと実践の一つのモデルであると考えるのである。しかも、このフランシスコの根源的な霊性に触発されて、彼に従った多くの人々の「神学的知の営み」の中にあたかも燃える火が次々と飛び火していって燃え上がっていくように、生き生きとした自由闊達な発想のもとに、活力ある継続する「普遍的な神学的知の営み」としての「根源からの思索」が展開されている事実に、私は被差別部落解放へ向けての「神学的知の営み」の源泉としての大きな可能性と息吹を感じるのである。 つまり私たちが求める「神学という営み」の源泉は、直接的に固有の体験を第一に必要とするとしても、それが被差別部落民の解放を求める「神学という営み」の唯一の源泉であるというわけではないと感じているのである。もちろん当然のことながら、今、このように述べながら、上で紹介した私自身の一つの“固有である”源泉自体もこの主張の最初の検討課題であるべきであるが、今、必要であると感じているのは、我々が自己のうちに持っていて無意識のうちに当然と考えている様々な「思索の前提と枠組み」自体、ある意味で、我々が無意識のうちに逃げ込んでしまっている自己の“固有である”自体を問い直すこと、しかも、それを共同で取り組む「神学という営み」を開始すべきではないかということである。 (フランシスコ会・司祭) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№79(02年5月1日号)より
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カトリック部落問題委員会ニュースレター№78(02年3月1日号)より 「福音と解放」小宇佐 敬二 21世紀 「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの民は言われる」 第二イザヤ(イザヤ40-55)は「解放の知らせ」で書き始められます。バビロン補囚という苦難の時、屈辱と隷属の時代から解放され、新しい時が開かれていくと告知します。歴史を振り返り、歴史的な現実を見据えます。そこには、人間が作り上げてきた、さまざまな歪みが見えます。そこに厳しい批判を置きながら、眼差しを未来に転じます。そして、歴史を越えて遠い未来を展望し、人間の根源的な解放が、圧倒的な神の力によって実現していくことを告げるのです。 「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」 (イザヤ40:4) 「高いものが低くされ、低いものが高くされる」。福音が実現していく大切なイメージです。人間が作ったイデオロギーや制度、自己中心的な力関係によって作られたさまざまな凸凹、搾取、抑圧、虐待、差別、蔑視、……、それらが生み出す身分制度や貧富の差、そのすべてが取り払われ、平らにされる。マリアの賛歌(ルカ1:47~56)にも描かれるこのイメージは「神の国(支配)の実現」の象徴的イメージであると言って良いでしょう。 「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い主の働きの実りは御前を進む」 (イザヤ40:9~10) 「良い知らせ」は「福音」という言葉のもとになっている語です。「福音」のギリシャ語源意は「恩赦に基づく解放の知らせ」ですが、ここはその意味に留まらないようです。 ここで示される「良い知らせ」は民を守り導く神の姿です。解放された民の先頭を導き、同時にしんがりを守っておられる神の姿。羊飼いが羊を導くように、民を守り導いておられる神の姿。この神の姿を「見よ」と示し、この神の現れを「福音」として告げています。この神は「愛とあわれみと赦しの神」、「創造とあがないの神」です。 第二イザヤが宣べる「福音」には、四つの響きがあります。 ①「解放」を告げる。 ②その解放は、人間の業を圧倒的に凌駕した「神の業」である。 ③「解放」により、人々は、本来の自分を取り戻し、喜びに満たされる。 ④この「解放」を実現する神の姿は「愛と、あわれみと、赦し」である。 この4つの中で、最大のメッセージは、④のものです。 「イエス・キリストにおいて、神の約束は現実のものとなっていく」これが、私たちキリスト者の「信仰の礎」です。 イエスの業として述べられている出来事の一つ一つに、「解放の業」を見出すことができます。聖書には、イエスとの出会いを通して、赦され、癒され、清められ、新たにされ、立ち上がり、輝いていく多くの人々の姿が描かれています。 サマリアの女は、三重四重の抑圧状況の中にいました。サマリアの人であること、女性であること、おそらく「娼婦」であること。社会制度や社会通念、習慣、律法、倫理、よってたかって彼女を否定します。彼女の内面には、手ひどい「心の外傷(トラウマ)」が刻まれ、彼女自身も、自分自身を拒否し、自分を取り巻く現実にたいして斜に構え、つっぱっていたのじゃないでしょうか。このようなトラウマは、さまざまな関わりを傷つけていく「関係障害」を生みます。ヤコブの井戸でイエスに出会ったとき、彼女はイエスに反発しました。得体の知れないユダヤ人に、ナンパされたとでも思ったのでしょう。民族の怨念のすべてをイエスにぶっつけるかのように戦います。しかし、ふと、イエスの深みに引き込まれます。そこで神と出会うのです。赦されている自分、受容されている自分を見出し、神との関係を取り戻し、立ち上がらされ、自分をのけ者にしていたはずの町の人々に、イエスとの出会った感動を伝えに行きます。町の人たちとの「関係障害」を乗り越えたのです。 「姦通の現場で捉えられた女」も、「イエスの足を涙で洗った女」も、「空の墓でのマグダラのマリア」も、同じようにイエスの内なる「神性」と出会い、解放されていきます。彼女たちの中に決定的な「実存の転換」がもたらされていくのです。 「死」の捕らわれから「いのち」へ向けた解放。 「闇」の捕らわれから「光」へ向けた解放。 「肉」の捕らわれから「霊」へ向けた解放。 「過去」の捕らわれから「未来」へ向けた解放。 この「実存の転換」を「回心」と呼んでも良いでしょう。イエスとの出会いを通して、「愛されている自分」「受容されている自分」「肯定されている自分」と出会います。そして、人間の前に立つのではなく、神の前に立つ自分の本来を実現し、神の心を世界に実現していく道を歩み始めるのです。 (東京教区司祭・カトリック徳田教会) 狭山再審異議申し立て棄却に抗議狭山事件再審要求に対する、1月23日の棄却決定に大きな怒りをおぼえ、カトリック部落問題委員会として下記のような抗議文をだしました。2002年1月29日 東京高等裁判所第5刑事部 裁判長 高橋省吾 殿 日本カトリック部落問題委員会 委員長 谷 大二(浦和教区司教) 委 員 一 同 人間の尊厳を踏みにじる狭山裁判の棄却決定に抗議 2002年1月24日、私たちは、またもや突然、高橋裁判長が狭山事件第2次再審に対する異議申し立てを棄却決定した、と聞かされました。私たちは、神の前で良心にしたがって生きることを誓っている者として、高橋裁判長のこの棄却決定に対し抗議いたします。 1999年7月8日の棄却決定以後に、弁護団は、石川一雄さんの無実を証明するための新証拠として、斎藤保指紋鑑定、柳田鑑定、足跡鑑定などの科学的鑑定を提出しました。高橋裁判長は、これらの新証拠を前にして、鑑定人の尋問を行うことなく、提出した新証拠に触れることなく、弁護団の主張を退ぞけ、棄却決定を行いました。 特に警察の指紋鑑定人として20年の経歴を有する斎藤保氏が行った、狭山事件唯一の物証である脅迫状の指紋鑑定では、「実際には脅迫状にはふれていないこと以外は考えられない」と指摘され、石川さんが強要されて虚偽の自白をしたことが裏付けられています。 狭山事件裁判の多くの矛盾は、専門家でなくてもわかります。誠実公平ではない、度重なる検察官の交代、証拠の非開示、証人喚問を行わない等、今回の棄却決定は、国連人権規約委員会の勧告を無視するものであり、63歳になった石川一雄さんの、人間としての尊厳を踏みにじる、わが国司法制度にも重大なる汚点を残すものです。 私たちは、多くの宗教者、心ある市民と連帯して、この部落差別による冤罪を晴らすまで闘う所存です。 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№77(02年1月1日号)より あけましておめでとうございます。部落問題委員会委員長 谷 大二 21世紀は悲劇的な幕開けとなりました。21世紀の残した負の遺産をも受け継いで始まったのです。テロと戦争によって犠牲となった人々、新たな難民のために祈らざるを得ません。それは、私たちの生活にも不安を与えました。しかし、それは私たちに失望を与えたわけでわけではありません。むしろ、希望ある世界の創造に向けて教会が果たすべき使命を、より明白にしてくれたのです。 テロと戦争を通して、私たちは宗教が戦争や憎しみ、そして政治に利用されてはいけないことを痛感しました。また、私たちはイスラム教という宗教や、彼らの歴史について無関心だったことを反省しました。 昨年の夏に私はフィリピンのミンダナオでイスラム教徒との交流を持ちました。貧困と差別がイスラム教徒に立ちはだかっている現実を見聞きしました。同時に、貧困と差別の問題を解決していくことが、平和につながると確信しました。部落差別の問題に取り組んでいる私たちとも、共通する課題があるのではないでしょうか。 宗教の違い、文化、価値観、習慣、祈りのかたちなどの違いはあります。しかし、平和を求める心、いのちを大切にする心、祈る心は同じではないでしょうか。宗教や立場の違いを超えて、同じ兄弟姉妹として共に集まって祈ることが、今、私たちに与えられた一つの使命であると思います。 聖霊は私たちを兄弟姉妹としての交わりに、そしてそれを通して普遍的な奉仕へと招いてくださいます。聖霊の導きに従って、今年もともに歩んでゆきましょう。 日本カトリック部落問題委員会 2002年1月1日(世界平和の日) |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№76(01年11月1日号)より 人を「一匹」へと追い込んでいく悪「二人または三人がわたしの名によって集まっているところには、 わたしもその中にいるのである」 (マタイによる福音 18章20節) 宮内 陽子 「テロ」撲滅の大義名分のもと、アフガン爆撃が始まりました。日本も米国支援のためと称して、「待望の」自衛隊海外派遣をエスカレートさせようとしています。反対する者に対して、「テロリストを支援するのか」「平和ボケ」といった言葉すら投げつけられかねない状況です。「正義のためなら核兵器使用も致し方ない」といった考え方さえもが公然と語られるようになりました。あくまでも平和を守ると言う声は、圧倒的少数者のものに思え、正直無力感にさいなまれることもしばしばあります。実際、平和を求めるのは、この矛盾に満ち満ちた世界にあっては不可能なことなのかもしれません。平和が達成されないばかりではなく、平和のために働く者が、暴力に倒れるという現実もあります。本当は、人間は滅びに至るまで互いに戦いつづけてやまないものなのかもしれません。 一方、攻撃した側を「テロリスト」「狂言者」「野蛮人」と断定する論調よりはるかに少ないですが、世界貿易センタービルがグローバリゼーションの牙城であるからこそ攻撃されたのであり、そこで犠牲者も、ペンタゴンでの犠牲者と同じく無垢な市民ではないという見方もあります。つまり、あのビルも攻撃する側からすれば米国が言う「軍事目標」であるということです。世界に広がる経済のグローバリゼーションが引き起こしている事態から考えると、この見方も、概に否定できません。日本もまた、グローバリゼーションの、端をになっています。とすれば、私たちも攻撃されても仕方がないと言えます。北の社会に生き、豊かな恩恵を享受している以上、誰一人無垢な市民でありえないわけです。今の社会で職を得、家庭を持ち生きている一人の人間が否応なく加害者側に立たされてしまう現実、たとえ個人として痛みを感じ、身近にできることから変えていこうと試みていても、所詮、北に生きている以上、ひっくるめて加害者の立場に立たされてしまう、この現実に怒りを覚えます。このことは、「テロリスト」と指弾されている人々についても、同様に言えると思います。彼らも誰かの子であり、親であり、恋人、友人であったのです。貿易センターに突入するとき、客席に乗せている乗客たちのことを、彼らはどう考えたのでしょう。眼前に広がるガラス窓に映る驚愕する人々の姿を、彼らはどんな思いで見たことでしょう。彼らも人間である以上、痛恨を感じたと思いたい。百歩譲って、西側のメディアが言うように「ジハード」を信じ突っ込んだにしても、彼らをそこまで追いこんだものがあるはずです。 「見失った羊」のたとえで言うなら、「テロリスト」は、九十九匹の羊の群から迷い出た一匹の羊です。では残った九十九匹は罪なき羊なのでしょうか。そうは思えません。 九十九匹は一匹を迷い出させたことにおいて罪を負っているのです。圧倒的な力を持つ北の世界の人間による、人種差別、自らと他者の命を犠牲にした攻撃へとハイジャッカーを駆り立てたのです。 この世には、人を「一匹」へと追い込んでいく悪があります。と同じに、人をして他の人を「一匹」へと追いこませていく悪があります。私たちが真に立ち向かわねばならないのは、報復し根絶しなければならないのはこの悪ではないでしょうか。この悪は、社会、経済の中に存在するばかりではなく、人の心の奥底に深く巣喰っているものであるようにも思えます。差別もそのひとつです。この悪はあまりにの巨大で根深いので、これにうち勝つのは、ほとんど不可能に思えるときがあります。 そんな絶望的に思える日々、いつも立ち返るのが、平和の主の、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」の御言葉です。私たちがその悪に立ち向かい勝利できるというのは楽観的すぎるという見方もあります。平和がもろくも崩れ、戦争を止めることができなくなることがあるかもしれません。しかし、そのときに備えて憎しみと猜疑心の虜となって軍備を増強しながら生きる生き方と、戦争勃発のその瞬間まで、平和を求め、平和を創り出す努力をする生き方と、私たちはそのどちらかを選択することを迫られています。イエスのみ名によって、二人、三人で集まり、祈り、行動することによって、平和への意志を強め、その輪を……一歩ニ歩と広げていく生き方を選び取りたいと思います。 (全国キリスト教人権教育研究協議会) |
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カトリック部落問題委員会ニュースレター№73(01年5月1日号)より 現代社会がはらんでいる差別について田中 正史 ●新しい差別化の中でのカトリック教会の使命 今日、様々なメディアの発達によって、情報の量は毎年増えている。インターネットを使えば、世界のあらゆるところにある情報を得ることも可能である。しかし全体としての情報が増えたからといって、個人の持つ情報の質や客観性が必ずしも向上しているわけではない。逆に、多くの情報の中から、有効で普遍的な考えを取り出すことの方が難しくなっている。その結果、異世代間でのコミュニケーションが困難になったり、自分とは異質な他者に対する受容性が乏しくなったり、個人が個人として理解されないことから、人々の間で不安が増殖する。このような時代の中では、すべての人にとって共通する対話の基盤や、理解の普遍的根拠を築くことが大切な課題となってくる。 「カトリック」という言葉は、ギリシャ語の普遍性、すなわち「みんなに通用する」ことを意味する言葉であるが、この普遍性は、全ての人に当てはまるという遠心的側面と、全ての人の存在の根拠に深く関わっているという求心的側面を持つ。そいう意味では、新しいメディアによる新たな差別化が進む中で、異質な考えや文化の間に橋渡しをするという使命をカトリック教会は負っているといえるだろう。 ●人間社会の機能不全を回復させるコミュニケーションの回路を創る。 私たちは21世紀という新しい世紀のスタートを切ったわけですが、20世紀にもたらされたコンピューターなどの様々のテクノロジーが、今までの社会の構造や人間関係を変化させつつあり、現在私たち自身の意識の方が、まだこの急激な変化に対応仕切れていないように思われます。 社会や私たちの共同体は、一つの生きた有機体として、それぞれの時代に応じた秩序を必要としています。しかし、この時代の構造の変化の中で、人間関係の機能不全が起きており、その結果が、今日、学級崩壊やいじめ、そして、家庭難民としての青少年の問題として現れているのではないでしょうか。 差別や人権に関わる問題も、差別する側と差別される側の間の人間関係の機能不全として捉えるならば、双方の間にしかるべきコミュニケーションの回路を創り出すことこそが最も求められているのではないかと思われます。 差別や人権に関わる問題の根っこにある人間関係の機能不全を、あたかも停滞している血液が順調に流れるようにいやしているイエスの姿の中には、現代の我々の社会の中にある差別の問題を考える手がかりがあります。 ●十二年間出血の止まらない女の話 マルコ(5:25~34) 出血の止まらない女は、十二年間も病を患っており、この病気をもっているために、不当に不浄とされ、彼女が触った物や人も汚れるとして社会から排除され、自分が社会に認められないと言う苦しみを担っています。 彼女は肉体的には大人ですが、汚れた存在として結婚もできないでいました。社会の中で、孤立し、自分の苦しみを自分だけで抱え込まなければならないという状態は、まさに他者とのコミュニケーションが絶たれていることを意味します。このような状況の中で、そういう自分を一人の人間として認めてくれる人を探していたのでしょう。 社会の彼女に対する見方は、彼女自身の自己評価の仕方にも影響を与えていたと思われます。女性として他の命を生み出すことができないという苦しみは、彼女自身を社会的な失格者として認めさせてしまったかもしれません。 思うに、彼女にとって本当の病気とは、出血という客観的な病の問題よりも、社会が彼女を汚れた者として見てきたその見方が、彼女の中で内面化され、その結果、ますます病気を悪化させていったのではないでしょうか。 彼女は社会から汚れた者として見なされていたがゆえに、もはや他人の注目を引くとか、優しくしてもらえるとかいった見返りをまったく期待できませんでした。しかし、そのような状態で、なおも、他者とのコミュニケーションを求めているということそのことが、救い主イエスに出会う大きな原動力になったのだと思います。 彼女は他の人々よりも大きな十字架を背負わされた者ですが、彼女の真の解放への望みは、彼女と同じような十字架を背負った人々のさきがけとして、解放への道を開いていきます。すなわち、彼女はイエスに出会ったことによって、社会の差別的な制度から自由な、一人の女性としてよみがえったのでした。そして、今後、この女性の言葉(生き方)はこのような制度からは自由な、一人の自立した人間の言葉(生き方)として、広く社会に開かれたコミュニケーションを創っていくことになるのです。 (高松教区 ドミニコ会司祭・愛光学園) ~ハンセン病訴訟、来る5月11日判決~「らい予防法違憲国賠訴訟の勝利に向けて共に歩む会」 鶴ヶ岡裕一 ハンセン病であるという理由で、強制収容・強制隔離され著しく人間の尊厳を踏みにじられたのは、憲法違反であるとして提訴されていた、「ハンセン病違憲国家賠償訴訟」は、5月11日、熊本地裁で判決が下される。 長い間、ハンセン病患者の方たちを苦しめてきた「らい予防法」が1997年3月で廃止された。私もその時、療養所の人たちと喜びあった。当時の厚生大臣も、「あまりにも遅すぎた廃止を謝罪」していた。が、その時点では、遅すぎたことを謝罪したのか国の政策を謝罪したのかの区別が私にはつかなかったのである。なんとなくそうしている内、療養所の人たちの人生を奪ってしまった予防法の廃止後、その人生への賠償の意味も含めての生活補償という形にすり変わってしまっているような姿に、療養所の人たちの「怒り」が燃え始めたのである。 『療養所での「生活保障」は、国としてするべき最低限の当然のことであり、人生を奪われ、家族を奪われ、人間として生きる道を閉ざされてきた歳月に対する謝罪・賠償とは別のことである』とする本質的な意見をもつ方々が、業を煮やし、1998年7月に13名の原告として第一次提訴が行われたのである。今回の判決は、第一次から第四次提訴の127名の方たち(鹿児島星塚敬愛園、熊本の菊池恵楓園の方たち)への判決である。13名から始まった裁判は全国に広がり、現在740名もの方たちが原告となっている。 戦前は、「無らい県運動」などもあり、「らい患者」は警察まで動員されて強制収容・隔離されていた。戦後も、悪法「らい予防法」は存続し、日本国憲法の下でもその憲法の外側に置かれるような立場で療養所の人たちは生きてきた。もともと感染力の弱い病気であり、治る病気であり、強制収容・隔離の必要はないと力説していた医師・小笠原登氏は、同僚の医師たちからも「国賊」と言われ、仲間はずれにもなっていたのは戦前のことである。社会で差別・迫害され、療養所でも重労者や仲間の看病、男性は子孫を残さないための断種手術、女性は堕胎させられていた。 遺伝でも何でもなく、後遺症として顔面や手足が変形しているところから、恐ろしい病気のように思われていた患者さんたちに、「人にはうつらないよ」と言ってくれた小笠原氏の言葉に、涙する患者さんたちも数多くいたことだと思う。園内ではどうしてこんな目にあうのか訳もわからずに自死したり、また患者を出した家族も周囲からは白い目で見られ、家族離散というケースも数多くあった。 長年の人権侵害に対し、本当の謝罪と国の責任を明らかにするために、立ち上がったのである。平均年齢75歳~76歳の方々に対する、判決は、5月11日の熊本地裁で判決です。 「裁判を起こすことは、過去の死んだ僚友たちへの義務であり、未来においてこのようなことが二度と起こらず、人権が尊重されるようになるための責任だ」とある原告の方は言われている。判決の前日には、熊本市で支援の2000人集会も予定されています。人間として喜べる善き判決を求めるためにも、幅広い声援や支援をお願いいたします。 |
カトリック部落問題委員会ニュースレター№70-71 部落差別の冤罪と叫ばれ37年・狭山事件の再審 勝利の確信を持って石川一雄 みなさん今日は朝早くからありがとうございます。昨日は弁護団から、いろいろ質問が出ました。私は自分の考え方を述べました。検察庁の方でもみなさんの要請行動・再審要求ハガキによって、若干証拠開示するような動きみたいです。検察庁の方は証拠開示といっても、私の冤罪を晴らすような証拠は開示しないのじゃないかと思います。私自身も検察庁の持っている全部の証拠を開示しなければ、この2審での展望は開けないと考えておりますので、ぜひみなさんのお力ぞえで、全ての証拠を開示するような活動をしていただきたいと思います。 なによりも自分自身の後ろ姿を見ていただきたいのは、私自身が刑務所の中で、文字を取り戻して、「部落」の歴史を知り、いろいろな差別があり、そうした差別をなくすために、私はみなさんの先頭に立って闘っていくという意味でいろいろ勉強してまいりました。日本語に関しては、自信があります。ただし残念ながら英語とか、数学とか、社会になるとなかなか追いつくことはできません。 ●夜間中学の夢 実際に私は、この高木裁判長には多くの期待を持っておりました。まあ、冤罪は晴れるだろう、と思っていました。そして、私は人知れずに夜間中学へ行かせていただきたいということで、今の中学生の教科書を取り寄せて密かに勉強しておりました。ところが残念ながらあのような結果になってしまって、第2の夢でありました夜間中学は先に延びてしまいました。これは非常に残念であります。夜間中学は、みなさんのご理解あってのことでありますけれど、ぜひ、みなさんに夜間中学だけは行かせていただきたいな、と思っています。今は、英語も、数学も理科も少しはできつつあります。私の自信は、みなさんに見ていただきたくて、私の場合は全国の支援者の方たちに私の成績を見ていただくために、一生懸命勉強して、石川は立派にこんな成績をおさめられ卒業できたのだな、と言っていただきたくて勉強をしています。おそらくここ2、3年で異議審の結論が出ると思います。でも、実際問題として、先は暗いことも事実です。私には知り得ません。それには今までの証拠を開示させる以外に勝利はあり得ないと思います。 ●再審のむずかしさ 石川一雄の冤罪を示す証拠が改めて検察庁から提示されたということになって、現在の高橋省吾裁判長がどのような判断をするかと、やはり、高木裁判長決定のその論文を見ると、再審制度そのものを否定するような論理で構成されておりますので、隣である高橋省吾裁判長がその隣で裁判をしている高木裁判長のその人物の決定に対しての否定し得るか、どうか、勇気を持って国民のみなさんに答えることができるかどうか、ということを考えてみると、もし仮に私が、高橋省吾裁判長と仮定するならば、私自身も躊躇するのじゃないかと思うのです。なぜなら、友だちは大事にしなければならない、しかも、隣で裁判長として毎日のように顔を突き合わせている、その裁判長の決定を否定するような判断を下すのは、なかなか勇気がいるのじゃないかと思います。そういう意味で、やはり、全国のみなさんの一人でも多くにこの「狭山事件」を知ってもらわなければなりません。裁判長に公正な裁判は当然のこと、法に基づいて判断を下すように、みなさんにお願いしていただきたいと思います。 私自身もいろいろの裁判を勉強してまいりました。ただ、この高木裁判長の13年間の間に弁護団は一度も旧意見書を求めなかった、ということです。この旧意見書というのは、弁護団がこの13年間に出した証拠の中で、どれが事実か、どれが冤罪か、どれが作られた証拠か、ということに対して、裁判所に対して旧意見書220を、それをもう一度出すべきじゃなかったかということを刑法学者から指摘されました。 高木裁判長に代わる前に旧意見書を出してしまったのです。ですから、その後にいかに無実の証拠を出しても、高木裁判長は旧意見書を求めていないのです。「それに対して答える必要はない。」と法律的にはそうなっているみたいです。私も刑法の本をずいぶん読んだと思っていましたけれど、その点までは気づきせんでした。 ●くさいから来るな 私も自分が「部落民」だとは刑務所の中で知っていました。別に自分が差別を受けたからというわけじゃなく、両親が、この地は「部落民」だということを知らせてくれなかったことに対しての憤慨であります。この踏切から向こうは地区外です。昔は地区外に行く道路は一本しかありませんでした。地区外になりますその踏切のすぐそばに、兄ちゃんたちが棒切れを持って私たちのあとを追ってきて、殴りかかり、あるいは石を投げて、(声をつまらされる)そんなこともあったことも思って、自分自身が「部落民」であったためにこういう差別を受けたんだということを、「部落」の歴史を通して知ったとき、これは両親を恨まずにはいられませんでした。もし仮に、小さいころ、自分が「部落民」だということを知らせてくれていたら、違った意味で私は成長したと思うのです。確かに飲まず食わずの生活だったから、学校へ行かせられなかったから仕方がないと思いますが、しかし、自分が「部落民」だということを、知らせてくれなかったということは、私自身にとっては、非常に不幸だったわけです。 私の小さいころ、床屋に行ったときのその理髪店は、今でも駅前にありますが、「お前は臭いから次からはうちの床屋へは来るな」、とそういうことを言われました。当然そのことに対しては、父ちゃん母ちゃんに話しました。そしたら、何といったと思いますか、父ちゃん母ちゃんは、「来るなといわれたのなら、他の床屋へ行かないと仕方ないな」と、この狭山市には床屋が3軒しかありません。もう一軒は柏原の手前のここから約3キロ弱です。来るなと言われたから、3キロ弱のその床屋へ行くようになったのです。その床屋の娘さんが後になってから、私の支援者になってくれました。今でも健在です。お子さんも3人おります。その人は私の小さいころお父さんから、「S」という所から、床屋へ来てくれると聞かされ、それが「部落民」だということを、学校へ行ってから知り、後に石川さんが逮捕されたということも知った、これは差別の結果だからということで娘さんが立ち上がってくださったそうです。 立ち上がって、今ではいろいろご支援くださっています。でもこの地区外の近所では私の支援を一切しません。昔は差別をした人もありますから。でも今は日本中いろいろご支援くださっている人がいます。東京からこちらに来て、私のためにいろいろご支援してくださる人もいます。そういった人たちにお返しするには、やはりこの冤罪を灰色の冤罪ではなく、部落差別に基づく権力犯罪として、裁判所に認めてもらわなくてはなりません。 ●犯人の足跡と地下足袋 「部落」の部の字も裁判では一切弁論をしておりません。そのために、私は一審を維持したにもかかわらず、弁護団は、弁論では無罪を主張したのです。そこまでしたのならなぜ、私自身の心の中を見抜いてくれなかったか、ということであります。たとえば、弁護団は一審の時は、きちっと見ましたところ、石川さんはどうも足袋が違うらしい、ということを弁論の中でも述べております。それだったら、私が一審を維持したにもかかわらず、弁護団はそう言っているのでありますから、足袋が違うと言うのなら、一審で私に履かせてみればよかったのです。履けない足袋でありますから。その時、弁護団が履かせて履けなかったということになりますと、あるいは、その時私は、長谷部警視との約束ごとをくつがえして、無実を訴えたかもしれません。弁護団は一切そのことをしなかったのです。高栽になってからは解放同盟さんと、共産党が喧嘩するようになってしまいました。弁護団も解放同盟から多くの弁護士さんが加わるようになり、でも弁護団長、事務局長は共産党であります。そのためにコミニュケーションはうまくいかずに、足袋のことまで持ち出すことはできなく、現在に至ってしまいました。 その履けない足袋が、裁判所に今も、保管されております。履けないのは取次ぎ員の人以外は誰も知りません。調べ官は私を犯人にでっち上げようと思って、そして私の家から押収した足袋があり、犯人が残していった石膏と同じ足袋だということから、私に当然履かせてみました。残念ながら私は十半で、兄貴の足袋であったために、九七です。私は履けませんでした。ですから履けない足袋は調べ官以外は誰も知らないのです。たんに、私が「履けない」と言っているだけになるのです。裁判所は事実調べをやらなかったのではなく、やれないのです。やると私が履けないことがすぐわかるからです。その足袋のことだけでも、私の事件が冤罪だとわかってしまうから、恐れて裁判所は事実調べに踏み込めなかったと思います。 ●刑務所の32年間 私はこの37年間、人生の中で、一番私はみなさんにお叱りを受けるかもわかりませんが、刑務所の32年間は非常によかったなあと思います。辛かったけど私自身にとっては、これから残された人生は逮捕される前までの24歳、それの何倍も匹敵するいい人生を歩めるのじゃないかと思います。それは単に文字を取り戻しただけでありません。いろいろな社会の仕組みを知って、自分自身を変革できたということは、これからの私にとって、非常にプラスになるのじゃないかと思います。仮に私が逮捕されずに、一生送っていたとしたら、今は恐らく孫もいると思います。孫がいたとしても、私自身にしては一生社会の仕組みを知らないで過ごしてしまったのではないかと思います。そういう意味では、32年間の代償は大きかったけれど、プラスだったなあ、常に私はプラス志向です。現在は後ろを振り返ることはしません。刑務所での32年間を振り返ると、前進はできません。自分の無念の思いがこみ上げてきます。やるせない気持ちになってしまいます。いずれはみなさんに、自分の人生論、あるいは刑務所の中でどういう生活を送ってきたかを文書で残さないといけないと思って書いていきたいと思っています。 私は5年生のときから年期奉公に出されてしまったので、だから読み書きができなかった。ですけれど、そればかりではありません。5年生まで行った学校なら、ある程度読み書きはできます。しかし私の家では、ノートも教科書もいっさいありません。鉛筆も当然ありません。単に学校へ行っていただけなのです。それは、ノートも教科書も買う金がなかったからです。私は3年生ごろから、もう仕事に行っていたのです。夏ですと農家に草むしり、現在は機械でやりますが、当時は手で草をむしるのです。1日1円か2円です。ただし、親父なんかは、金よりも昼と夜のご飯がその農家で食べられるということで、私たちを連れて行ったのだと思います。 ●電車転覆事件の冤罪 私は5年生のとき、すぐそこに踏切がありますけど、踏切からだいたい500メートル先に入曽(いりそ、地名)寄りですけれど、そこで電車転覆未遂事件が起きました。そして私は犯人にされました。今回と同じです。逮捕といいましても12歳ですから、当然手錠はかかりません。警察官が2人来て、「石川さんちょっと来てください」ということで、今は狭山市になっていますが、当時は入間川警察に行きました。そして「お前がこの線路の上に枕木を置いたから、図面を書け」ということで警察官によって図面を書かされました。12本の枕木を線路の上に乗せて、針金でペンチでとめてあったのです。12歳の私が7キロも8キロもある一本の枕木を12本も積めるかどうかということを考えてみても、到底おかしいと思いますけれど、それを警察官は私にやらせてしまったのです。警察官が書けと言ったのだから、確認しに行く必要もないのに、確認をしにわざと行ったのです。そしたら、石川さんが書いたとおり間違いなく、枕木がそこにあった、とそして逃げ回っている奴のもう一人がいると、警察に電話が入った。警察の中には誰もいなくなったので、私は怖くなって逃げてしまったのです。 姉が子守奉公に行った。今は地名が違いますが、さわらぎ荒神(地名)というところにいまして、ここからだいたい10キロぐらいのところです。姉がそこに奉公に行っていることを知っていましたので、家に帰ると父ちゃんに仕置きをされるので、姉のところへ逃げ帰ったのです。そして入間川中大騒ぎになって、犯人が逃げたということで、それが幸いしたのです。 私は先ほど申しましたように、小学校3年生頃から仕事に行っていましたから、仕事がない日は学校へ行っていました。当然雨が降ると長靴や、傘がないので行きませんでしたけれど、その事件が起きた日は、私は高橋四郎さんという校長先生の家に親父と二人で仕事に行っていたのです。それが雇用者名簿に付けてあったのです。その高橋四郎さんが、石川一雄という犯人が逃げたということを聞きつけて、石川一雄という名は聞いたことがあるな、ということで、雇用者名簿を見たらその高橋四郎さんが石川一雄を使っていたとわかって、私の家へ直接こないで、入間川警察へ持っていって、「このように私の家で使っておりました。ただ申し訳ないのは12歳だったということで、それだけは勘弁してください」と警察に言ったらしいです。 そして私は無罪になった。冤罪が晴れたのです。その後一週間後に、犯人が捕まりました。地区外の人でした。菅原二丁目というところの人だったらしいです。警察は私の家に来まして、申し訳なかったと。でも父ちゃんは許しませんでした。私を一度は犯人としたのです。そしてその晩、入間川警察へ乗り込みました。しるし半纏を着て、背中に金太郎まさかりを背負って。これは後に母ちゃんに聞いたことですけれど、「子ども七人を頼むよ」、と出ていったのです。たぶん父ちゃんは、警察の謝り方によっては、所長を刺して自分も死のうという覚悟で行ったと思います。家の親父は、隣の藁一本も盗むな、という精神なんです。逆に家のおふくろは、悪いことをしても怒らない、私たち子どものころは夏になると、食べ物がないから近所の農家のトマトとか、なす、きゅうりとかを盗んで食べたのです。私は赤い帽子をかぶっていたので、すぐに何処の子だとわかってしまいます。私が家に帰る前に苦情が来ています。父ちゃんに知られると怖いから、母ちゃんは自分の胸だけで留めておいて、一切叱らずに、「もう、とるな」と言いました。 父ちゃんに話すと物凄いお仕置きを受けるのです。ところ構わず叩くのです。この電車転覆未遂事件の犯人にでっち上げられたとき、家に帰ったとき、高橋四郎さんは、警察に行っただけで、私の家に来ませんでしたので、姉に連れられて私は家に帰ったのです。父ちゃんはまだ知りませんでしたので、犯人が逃げた、お前が犯人だということで警察が来たよ、ということで、姉に連れて帰ってもらったとたんに、六畳間一間ですが真ん中に柱が一本立っていまして、その柱に後ろ手に縛られて、金火箸をつけられました。親父と仕事に行っていたんですよ。でもそのことを親父は忘れていたので、金火箸を後ろ手に縛られている手につけた。今でもその傷が残っています。(見せられた)もう50年も前ですよ、消えないのです。それで後になってから犯人じゃないとわかったから、親父は怒ってしまったのです。うちの息子にどういうことや、と。幸いなことに、入間川の署長さんは土下座をして謝ったそうです。だから親父も87歳の人生を全うできたのだと思っています。 ●母ちゃんをみじめにした父ちゃんはゆるせない。 私は父ちゃんだけは許さない、その焼き火箸を付けられたからじゃないのですよ、常に母ちゃんをみじめにしたからです。自分の母ちゃんは、1944年頃から、飲まず食わずの生活をしていながら、家の親父はとてもうどんが好きなんです。ですから帰りには、6束買うのです。親父だけはべつに固くゆでるのです。おふくろは目が見えないから、ある程度時間的に判断してゆで上げるわけです。そうすると、うどんが柔らかくなっているときがあるのです。親父は飲まず食わずの生活なのに、もったいないのに土間に投げつけてしまうのです。そしておふくろは殴られるのです。ですから私は父ちゃんを許せないのです。母ちゃんが病気のとき、意識がない人間になっていても生きていてほしいと、刑務所の中で思いました。家のおふくろは、トラホームで病院にも行けずに、ほとんど目が見えなくなってしまったのです。私たち子どもを育ててくれたのです。となりに米軍キャンプがあり、網の向こうからアメリカ人が缶詰の空き缶を外へ投げます。家の弟や妹はそれを拾ってくるのです。六畳一間ですから、いつもそれをおもちゃがわりに遊んでいますし、母ちゃんは目が見えないからそれにつまずいて、しょっちゅうけがをしていました。ですから何が不自由かといって、目が見えないほど不自由なものはないな、と私は小さいうちからそういうことを感じました。 父ちゃんには何も言いませんが、「母ちゃん、大きくなったら孝行するから」と常に言っていたので、母ちゃんが死んだときは、刑務所で聞いて、私は倒れて四日間起きられなかったのです。どんなに意識がなくても生きていてほしいと思っていましたからね。父ちゃんには別れの言葉を書いたのに、母ちゃんには書けなかったのです。父ちゃんが死んだときは、みなさんに申し訳ないですが、「ああ死んだのか」と静かに受けとめました。このとき別れの言葉の中で「部落」ということを教えてくれなかったことに対して、そのことを面々と書きました。と同時に、生前中お世話になったので、全国のみなさんにお礼の言葉と父が死去したことの三つを書きました。天国に行ってしまいました。そのことを私は中央本部に言ったら、後になってから、追悼集会を開いてくださるということがありました。そのときは面々と書きました。私みたいな悲劇の人を二度と起こさないためにも、生ある限り、私は全国各地の解放運動に没頭していくから、母ちゃん父ちゃんそれまで待っていてくれ、と書きました。 幸いなことに、家も焼けてしまってなくなったのに、その書いたものだけが残ったのです。これは神様が残してくださったのじゃないかと思います。しかも、車の中に揃っていました。一番大事だった日記は焼けましたが、母ちゃんへの別れの手紙がどういうわけか残ったのです。今は仮出獄で出てしまったので、時間的にはルーズになってしまいましたけれど、刑務所では4時半に仕事が終わります。9時には就寝です。だから、毎日1時間は日記と、時間割りをしていましたので、たとえば4時半に仕事が終わり5分ぐらいで部屋に帰ります。それから日記をつけます。ときには3万字くらい書きます。これは生い立ちも含めて全部書きます。 ●3つの夢 私は仮出獄してから車の免許をみなさんのおかげで取らせていただきました。それが第1の夢でした。第2の夢は夜間中学です。そして第3の夢は解放運動に没頭することです。 冤罪を晴らすことが夢ではありません。当たり前のことを取り戻すのですから、私は兄貴が犯人だと思ったから、自白してしまったのです。兄貴が、事件当日のことですが、遅く家に帰ってきたことを知らなかったなら、私は一貫して無罪を主張していました。一ヵ月からの厳しい取り調べの中にも、無実を訴えつづけたのですよ。足袋も履けないし、だから訴えつづけたのです。 私が一ヵ月間無実を訴えていたら、調べ官が「お前が足袋が履けないのはおれがよく知っている。お兄さんが砂利運搬の車を借りたのもよく知っている、だからお前がずっと無罪を訴えるのなら、お兄さんを逮捕する。」と言われたので、兄ちゃんは当時は一家を支えていたので、だから兄ちゃんが逮捕されるのなら、私が犯人になってしまおうかと思ってしまったのです。兄貴は事件当日、深夜1時ごろ帰ってきたのです。びしょ濡れになって私の寝ている布団をまたいでいったのです。誰よりも私がよく知っているのです。足袋がそうだというし、兄貴は事件当日あんなに遅く帰ってきたので、しかも、被害者のよしえちゃんの、写真を見せられたら、無数の擦り傷があった。砂利運搬の車で運んだのだからそうなった。擦り傷があったということで、兄貴の仕事が砂利運搬の車を借りていたのですから、しかも、私が死体を見にいったときに、兄貴の車がそこにきちっと入るので、そこで私は兄ちゃんかな、と思ってしまったのです。そして、私は他にも9件の悪いことをしていたのを、トマトやきゅうりを盗んでいたということは悪いことをしたという認識がなかったが、逮捕される前半年間は養豚場へ住み込みで働いていたので、半年間に9件の悪いことをさせられていたのです。雇用者は何処そこにあるものを盗んでこい、と雇用者の弟さんと、もう一人雇われていた人と3人で雇い主からもってこいと言われて盗みに行きました。確かにそのつど少し報酬をもらいました。それが9件あったのです。それだけでも合わせれば20年くらい出られない、「これが5年で、これが3年でといって合わせれば20年くらいになるが、しかし、よしえを殺したと言えば、お兄さんを逮捕しないし、10年で出してやる」と長谷部刑事と約束をしたのです。ですから兄ちゃんが逮捕されるくらいならいいな、と思って喜んで「私がやりました」と言ってしまったのです。 その結果今日、みなさんにこんなご迷惑をかけるようになってしまったのです。兄貴が深夜に帰ってこなかったら、私はずっと無罪主張をしていたと思うのです。聞くところによれば、後15日間がんばると、1カ月間無実だとがんばったのですから、45日間証拠なしで放免になるところだったらしいのです。だから、兄ちゃんが夜遅く帰るのを見なかったら、あと15日間がんばったのですが、最終的に兄ちゃんが逮捕されるということで、「私がやりました」といったのです。私がやりましたといっても、私は殺しておりませんから、どういう殺し方をしたのか知りません。しりませんので、私のよく知っている村に、地区外の人で警察官が一人いたので、それが私の友だちだった、その友だちに死体が埋まっていたのはどういうふうだったのかと聞きました。その人は高裁になってから証人に立ってくれました。「確かに石川さんはそのように聞かれたけれど私はわからなかったから教えなかった」教えたんだけれどそんなことを言ったのです。私の友だちです。今現在万年筆を置いたのはその人じゃないかといわれています。ただその万年筆に関しては、私はその人とはいっていません。私はその人はそんな悪いことをする人ではない、と信じています。他の警察官が置いたのじゃないかと思っています。なぜかというと、1,2回の家宅捜索をしたときに、7人の警察官が、1回目、2回目家宅捜索をしたときにはそこにはなかったと、証言してくれると思います。 今回の再審決定は20数年経っているから、にわかに決定しがたい、と信用しがたいと言っています。言っていますけれど、その警察官はなぜ、もっと捜索したときに第3回目に発見したときに、「1回目、2回目の捜索のときになかった」と言えなかったのかと、弁護団が当然質問しました。彼は、「この狭山事件は大きな事件なので、差し障りがあるから言えなかった」と、しかも、「警察官だったから言えなかった」と、「今は退会したから言える、本当のことが言える」と言って、いまさら事実を言ったわけです。でも、これは許されないです。みなさんの税金で警察官は給料をもらっているのです。国民の効果ある警察官であるべきです。確かにそのとき言ったら警察を辞めなければならないでしょう。家族が入れば路頭に迷うかもしれません。でもみなさんの警察ですから、本当のことを言ってもらいたかったです。私はそのことを聞いたとき、刑務所の中で怒りを覚えました。もっと前に言ってくださったらとっくに冤罪は晴れたのじゃないかと思いました。そのときの人たちは健在でおりますので、事実調べが始まれば当然証拠人として呼ばれなければなりません。しかも、その人たちは録音したり自分が捜索したけれどなかった、ということを調書にして裁判所に提出してありますので、かならず言われると思います。それと同時に私に文字を教えてくださった刑務官も裁判所に証人として立ってもらいたいということを、私自身が直接その刑務官にお願いしました。高木裁判長は「人は環境によって、あるいは年月によって字は覚えてくるもんだ」と言っています。「石川一雄は元から文字の読み書きができた」というふうな決定文であります。しかし、私は当時の今から37年前は私は読み書きは一切できませんでした。読み書きができるようになったのは、もう退官されましたけれど、その刑務官が東京拘置所で読み書きの文字を貸してくれたり、8年間マンツーマンで教えてくださったからです。今はその人の名前を発表することはできませんけど、横のつながりはあります。署長さんとして退官されたからです。今は商事会社に勤めていますけれど、55歳で退官したのです。私より3歳年下です。今から3年前です。私は60歳です。「先生は署長さんとして良い給料をもらっておられるのに何故お辞めになるのですか、まだ5年あるのに」といいましたら、56歳になるといい企業に入れなくなる、1年の差でいい企業に再就職できるらしいです。それらを考えられて辞めたということでした。元看守さんの所に行くときは、私は奥さんに頭が上がりませんでした。奥さんが8年間ずっと私の親兄弟になりすまして、ボールペンや万年筆や鉛筆を私に差し入れてくださった、ということをはじめて知ったからです。看守さんですからそのお連れ合いさんが、私の親兄弟の名前を全部知っておりますから、字が一字違っても私のところに差し入れできないのです。ボールペンや万年筆鉛筆は分類課長さんの印鑑がないと使うことができないのです。ボールペンの先に分類課長さんの印鑑のついたテープが巻いてあります。ですから看守さんが勉強を教えているのですから貸すことはできるのですが、10時、12時、3時と看守さんは交代します。わかってしまいますので貸してしまうことができないのです。そのためにお連れさんを通して家の親兄弟になりすまして差し入れてくださっていたのです。それを半月に一回ずっと入れていたのです。ボールペンの芯が切れそうになると翌日かならず入ってくるのです。看守さんが教えているのですから、それをお連れさんに教えることはできるわけですね、私はバカですからそれが全然気づかなかったのです。父ちゃん母ちゃん兄弟の名前で入っていたものですから、面会はできなくて、業者から入れていると思っていました。仮出獄して看守さん宅へいってから、実は主人から「石川一雄が困っているから入れてくれ、と言われたので、私が8年間くらいずっと入れていました」。ただ辛かったのは官舎にいましたから、他の看守さんがお連れさんのお顔を知っているので、髪形変装したり、眼鏡かけたりしてわからないようにして、業者がしまうときの忙しいばたばたしているややこしい時間を見計らって、それを8年間も続けてくださったのです。なくなるころになると入ってくるので、おかしいな、と気づかなければならないのに、私は看守さんの家に行ってはじめてお連れ合いさんから聞いたのです。文字もそうです。漢字は矢印をうって番号をうって、それもお連れ合さんも手伝っていた「父ちゃんだけではなんやから、手伝ってくれと言われて、私も結構手伝いました4年くらいになります。」と言われました。4年くらい経って「石川は字が読み書きできるようになったからもういいよと言われてやめました。」と話されました。そのとき私は涙が出てなりませんでした。 息子さんと娘さんがいるのですが、当時は2人とも大学生でした。10時頃まで5人で話しまして、あとはご夫婦と話泣き明かしました。とても嬉しかったです。そのときは、和歌山の管理部長さんでした。当然命の恩人ですから、仮出獄をしてから電話したのです。「いつぞやは先生お世話になりました」私のためにちり紙なども内緒で指し入れてくださっていたお礼もいいました。「石川もう時効になっているからいいけれど、今は部下がいるから、示しがつかないから、今は言わないでくれ」といわれ、2年くらい経ったら退官するそしたらおおぴらで言ってくれ、とそして2年経って署長になって退官されました。すぐお連れさんから連絡をいただきまして、今でもしょっちゅう行っています。 「石川は立派な手紙が書けるようになったなあ、直接手紙を貰ったわけじゃないけれど、和歌山の刑務所には、解放同盟の新聞を取っている人がいるから、それに時々石川一雄の全国向きのメッセージが載っているので、私も教えがいがあったよ」とその看守さんに言われました。その看守さんに恥じないためにも、私はその看守さんから学んだものを、これからみなさんに、私はお伝えし、かつ、勉強できない人には、自分自身は日本語だったらできますので、教えていきたいな、と私の妹も読み書きができません。私は兄貴でありますから、文字の素晴らしさということを、妹に教えようとしましたが、一週間習ったのですが挫折してしまいました。なかなか難しくてやれませんでした。そいうことから見ると識字学級は素晴らしいと思います。60歳、70歳、80歳と識字学級はしているのですよ、自分の文字を取り戻そうとして、特に2週間ほど前に奈良県に行ったのですけれど、みなもとそのさんといわれる人がおりました。この人も全く読み書きができなかったそうです。識字学級で習ったそうです。もう80歳近い人です。お会いしました。「まだまだ私は漢字は知りませんけれど、それでもひらかがなで、これだけ書けるようになりました。」と言っておられました。その、みなもとそのさんは、私の連れの方が20数年来の交際がある人で、私のために一生懸命やってくださっています。そういった人たちがいるのですからね、私の妹もぜひ文字の素晴らしさということを知ってもらいたいなと思います。 世の中の仕組みというのは確かに耳学問、目学問がありますが文字に勝るものはありません。文字は素晴らしいです。私自身がそうです。いろいろな仕組みを知ったのは文字を通してです。今も差別はなくなっていません。そういった差別はなかなか簡単になくなることはありませんけれど、せめて私たちが生きているあいだに、少しでも差別をなくすように闘っていかなければいけないということで、私自身は一生懸命今は、健康維持と同時に、全国各地に廻って、お子さんたちには一生懸命勉強しなさい、ということを言っております。今のお子さんたちは素晴らしいです。私が刑務所にいる間に、48万通の激励のお手紙を頂いたのですが、三分の一はお子さんたちです。みんな素晴らしいです。素晴らしい文章を構成してきます。5年生しか行っていない私があれこれ言うつもりはないのですが、それでもなおかつ、言わなければならないのは、やはり、落ちこぼれという人が何人か、私への手紙にあったからです。 「私は中学3年です」というような書き出しで、私から見ると小学校低学年かなあ、というようなお手紙があります。学校現場の先生たちは、目がとどかないのだと思います。そういう人がないように、私は学校の先生に手紙を出すときにそういうことを書きます。裁判もこれからどれだけ長くかかるかはわからないのですが、こと、私自身の健康に関しては、みなさんに絶対にご迷惑をかけません。あと、少なくても、30年は生きます。少なくてもですよ。(笑い声)頭は確かに70歳、80歳になるかもしれませんが、肉体はどこへ行っても疲れません。翌日になると疲れが飛んじゃうのですよ、これは何よりの財産だと思っています。お金なんか必要ないのです。健康であればいいのです。何よりも、私には天からくだされた使命があります。この試練を乗り越えてこそ、私の素晴らしい人生が待っているのだと思います。みなさんにご迷惑をかけると思いますが、しかし、みなさんのご期待にそうような、足跡を残していきたいと思いますので、今後とも今まで以上のご支援をしていただきますよう、この場をお借りして私の挨拶の言葉といたします。ほんとうにありがとうございました。 質疑応答 司会者 今のお話の中から学ぶことがたくさんありました。励まされること、人間としての誇りなど生きていく素晴らしいものをいっぱいいただいたということをどうぞ。 ◆お兄さんの罪になるかと心配されて自供されたとおっしゃいましたね、ビデオなど見ると第一審のときに、あなたが自供をひるがえさなかったということは、お兄さんのことを考えて自供をひるがえさなかったのか、自分じゃなかったと言ったのは、どうしてなのか、簡単に教えてください。 ★実は一審のときは自白を維持したわけですが、これはべつに、兄貴のこと云々ではなく、兄貴が犯人だと思っておりましたので、私自身が警察官との間に10年という約束ごとがありましたので、先ほど話しましたように、9件の悪いことをしたので20年は出られないということで、なおかつ、「お兄さんを逮捕する」と言われて、私が自白すると、いうことで警視との約束ごとであったため、ずっと守っていたのです。ところが、高裁になって、控訴しましたところ、それまでは、接見禁止で兄弟たちの面会はありませんでした。接見できるようになって、当然兄貴が来ましたから、兄貴が犯人だと思っていたので聞きました。兄貴は「おれにはアリバイがある。福生(ふっさ)へ集金があって、そこへ集金に行って1時ごろまで、バイクで出ていた」ということを聞いたので、自白をひるがえすことになったのです。おそらく、接見禁止でずっと解けなかったとしたら、ずっと自白を維持していたと思います。弁護団がたとえ無罪を主張したとしても、兄貴が接見禁止が解けて面会にきたので、当然、兄貴も怒って、4年ぐらい面会にこなかった、弟の私を犯人だと思ってこなかったし、自分では兄貴が悪いのにと思っていたし、幸いにおふくろが具合が悪くなって親父が耳が遠かったので、兄貴が一緒に来てそれで仲直りができたのです。兄貴が怒るのも当然だったと思いました。兄貴との接見が解けなかったら、公裁でも無罪をしなかったと思います。 司会者 少しまとめて質問だけいっていただいて、その中から石川さんに順番に答えていただいたらと思います。 ◆いも穴の話がありますよね、あれはなぜ出てきたのですか、他で聞いたのは、よしえさん(被害者)のカバンを包んでいたナイロンの袋が入っていた、そこから自白をよびだした、と聞いたのですが、そのことをもう少しはっきりご本人から聞かせてください。 ◆先ほどのお話を伺っていまして、ご両親が自分は「部落民」だと教えてくれなかったということでしたけれど、自分が「部落民」だと知って逮捕されていたら、そしたら自分の考え方などがどういうふうに変わっていたかと想像できるのでしょうか。 ★それはですね、第一番にいも穴の件に対して、いも穴というのは、確かに被害者のものが、いも穴の中に落ちていたということはこれは事実です。しかしそうじゃなくて、被害者の足に荒縄で縛ってあった、この荒縄がいも穴から吊るすとちょうど同じ長さになるということで、いも穴の逆さ吊りという形になってしまったのです。ですからビニールがいも穴に落ちていた云々じゃなくて、被害者の足に縄が縛ってあったこの縄がいも穴で縛っていたのじゃないかとなったのじゃないかと思います。ですから、縄がなかったとしたら、いも穴じゃなく他になったと思うのです。これはあくまでも、警察の想像でありますけれど、荒縄が足に縛ってあったとなると、どこかで吊るしたということになるので、あそこになったんじゃないかと思われます。 ★家の父母が「部落民」であったということを小さいうちに教えてたとしたら、これで逮捕されたとしても、自分は「部落民」のためにでっち上げようとして、逮捕したんだということで、ある程度の抗議ができたと思うのです。自分が「部落民」とわかっていたとしたら、というのは先ほど話しましたように、5年生のときに逮捕されましたね、これは「部落民」であったために逮捕され犯人にされたので、あるいは「部落」とはどういうものかということが読み書きはできなかったとしても、どうして差別を受けるのだということを両親や隣近所の人に聞いたと思います。ある程度抗議ができたんじゃないかと思います。そのためになんら「部落民」ということがわからずに逮捕されてしまったので、そのことに対しての反論もできなかったのじゃないかと私はそのために、両親を恨んだのです。 ◆二十歳過ぎてもわからなかったのですか、誰かに聞かなかったのですか、 ★そうですね、この菅原四丁目は野球チームがあったのです。私もそのチームの一員でありました。対戦相手は誰もいませんでした。もう一つは柏原という同じ「部落」がありました。300 戸ぐらいある大きな「部落」ですが、そこといつも野球対戦をして、地区外の人とは一切私たちが対戦を申し込んでも拒否されてしまいました。ですからそういう関係で、おかしいな、と思ったけれど、うちの村の人は「部落民」だということは教えられていなかったと思います。そのために、柏原の「部落」の人と常に対戦していたら飽きてしまいますよね、そうすると、一人だけ地区外の人でそのじいさまが、近くではなく遠くの野球チームのある人たちと対戦するために、その方がグランドを借りたりして世話をしてくださったのです。野球チームは恐らく、18名ぐらいの青年で15歳から24歳ぐらいまで家の村にもおりましたが、自分たちが「部落民」だと知らなかったんじゃないかと思います。知っていたらある程度、私たちの中で教えあったと思います。ただ聞いてみると、家の兄貴だけは親から聞いて知っていたらしいです。姉は「部落」と知らなかったようです。 ◆本にありますように、『狭山国際的なひろがりを求めて』とありますが、やはり国外に知らせるということと、逆に国外からの援助や協力というものを求めることもかなり裁判を有利にもっていくいいチャンスになるかなと思いますが、それに石川さん自体はカナダでは入国を認めないだろう、ということですが、それはご無理かも知れませんが、やはり国外でのアピールを協力していただくことはどうですか。 ★私自身はカナダばかりでなく、あちこちで、アメリカでもいいんです。人権問題に関わる活動があれば何処でも出したいな、と、今は文字を書くことに喜びを感じていますので、解放同盟さんを通じて、勝手に今は私は出せないのですよ、いろんな団体がありますので、どうしても変なふうにとられてしまうと困る、ということで解放同盟さんの依頼があれば何処でも私は出したいな、と思っています。私は一通しかカナダに出していないのですが、他にも出せというところがあれば、私はむしろ積極的に出させていただきたいと思っています。他の団体でも集会に行きたいなと、それは、仮出獄の人身時効というものがあって、一応母体が解放同盟になっていますから、全て解放同盟の意向にそって活動しなくちゃいけないのでと、法務省の方で言われていますので、勝手な行動は、今現在はできない状況にあります。たとえば私は被害者のよしえちゃんの家より300 メートル近づいてはいけないのです。これも人身時効の中に含まれているのです。300 メートル先に行ったら、何処までが300 メートルかわかりませんけれど、300 メートル先に行ったとなると、仮出獄を取り消されてしまうのです。そういう人身時効があるのです。 ◆まだ犯人としての拘束があるのですね。 ★そうです。 ◆何か書かれたものをお出しになるようでしたら、協力します。 ★ありがとうございます。ぜひご協力よろしくお願いしたいと思います。どんなものでもみなさんに見ていただけるものがあったら書きたいな、と思っています。幸いなことに、今は書くことに喜びを感じています。解放同盟さんから書いてもいいよ、という場合は是非ご協力していただきたいな、と思います。 ◆普通、私なら、冤罪なんて神も仏もないと思うのに、そのように思われない、ことに感動しました。 ★実際に神、仏もないと、あれば私をこれほど苦しめることはないと思います。しかし、神、仏はいると思います。これは、試練を乗り越えるために私に与えたのじゃないかと思って、私は前向きな思考で闘っていこうと思っております。かならず神様が見ているのですから、かならず冤罪は晴れると確信しています。 ◆私も希望をもっていますが、今の世の中はでっち上げや、警察や、裁判長その他全部それは確執なのです。私は国を相手に市、県宛にも裁判もやって来ましたが、全部負けました。たった一つ勝ったことがありますが、どうぞがんばってください。今日伺って希望が持てました。頭が輝いているのが素晴らしいです。(笑い声)最近、上尾で事件がありました。被害者は殺され、加害者も自殺しましたね、いかに警察は不祥事を隠しているか、その責任は総理大臣です。今の警察代議士全て責任があります。その人たちを選んだ私たちも責任があります。及ばずながら応援させていただきます。 ★ありがとうございます。 勝利の確信を持って つづき ●兄ちゃん逮捕されたらこまる 兄貴が深夜に帰ってこなかったら、私はずっと無罪主張をしていたと思うのです。聞くところによれば、後15日間がんばると、1カ月間無実だとがんばったのですから、45日間証拠なしで放免になるところだったらしいのです。だから、兄ちゃんが夜遅く帰るのを見なかったら、あと15日間がんばったのですが、最終的に兄ちゃんが逮捕されるということで、「私がやりました」と言ったのです。私がやりましたといっても、私は殺しておりませんから、どういう殺し方をしたのか知りません。知りませんので私のよく知っている地区外の村に、警察官が一人いて、それが私の友だちだった。その友だちに死体が埋まっていたのはどういうふうだったのかと聞きました。その人は高裁になってから証人に立ってくれました。「確かに石川さんはそのように聞かれたけれど、私はわからなかったから教えなかった」。教えたんだけれどそんなことを言ったのです。私の友だちです。今現在万年筆を置いたのはその人じゃないかといわれています。ただその万年筆に関しては、私はその人とはいっていません。私はその人はそんな悪いことをする人ではない、と信じています。他の警察官が置いたのじゃないかと思っています。なぜかというと、1,2回の家宅捜索をしたときに、7人の警察官が、1回目、2回目家宅捜索をしたときにはそこにはなかったと、証言してくれると思います。 今回の再審棄却決定は20数年経っているから、にわかに決定しがたい、信用しがたいと高木裁判長は言っています。かもいの万年筆について、警察官はなぜ、もっと捜索したときに第3回目に発見したときに、「1回目、2回目の捜索のときになかった」と言えなかったのかと、弁護団が当然質問しました。彼は、「この狭山事件は大きな事件なので、差し障りがあるから言えなかった」と、しかも、「警察官だったから言えなかった」と、「今は退職したから言える、本当のことが言える」と言って、いまさら事実を言ったわけです。でも、これは許されないです。みなさんの税金で警察官は給料をもらっているのです。国民の効果ある警察官であるべきです。確かにそのとき言ったら警察を辞めなければならないでしょう。家族がいれば路頭に迷うかもしれません。でもみなさんの警察ですから、本当のことを言ってもらいたかったです。 私はそのことを聞いたとき、刑務所の中で怒りを覚えました。もっと前に言ってくださったら、とっくに冤罪は晴れたのじゃないかと思いました。そのときの人たちは健在ですので、事実調べが始まれば、当然証拠人として呼ばれなければなりません。しかも、その人たちは録音したり自分が捜索したけれどなかった、ということを調書にして裁判所に提出してありますので、かならず言われると思います。 ●支えられ文字を学ぶ 私に文字を教えてくださった刑務官も裁判所に証人として立ってもらいたいということを、私自身が直接その刑務官にお願いしました。高木裁判長は「人は環境によって、あるいは年月によって字は覚えてくるもんだ」と言っています。「石川一雄は元から文字の読み書きができた」というふうな決定文であります。しかし、当時の今から37年前は、私は読み書きは一切できませんでした。読み書きができるようになったのは、もう退官されましたけれど、その刑務官が東京拘置所で読み書きの本を貸してくれたり、8年間一対一で教えてくれたからです。今はその人の名前を出すことはできませんけど、横のつながりはあります。署長さんとして退官されたからです。今は商事会社に勤めていますけれど、55歳で退官したのです。私より3歳年下です。今から3年前です。私は60歳です。「先生は署長さんとして良い給料をもらっておられるのになぜお辞めになるのですか、まだ5年あるのに」といいましたら、56歳になるといい企業に入れなくなる、1年の差でいい企業に再就職できるらしいです。それらを考えられて辞めたということでした。 元看守さんの所に行くときは、私は奥さんに頭が上がりませんでした。奥さんが8年間ずっと私の親兄弟になりすまして、ボールペンや万年筆や鉛筆を私に差し入れてくださった、ということをはじめて知ったからです。看守さんですから、そのお連れ合いさんが、私の親兄弟の名前を全部知っておりますから、字が一字違っても私のところに差し入れできないのです。ボールペンや万年筆鉛筆は文類課長さんの印鑑がないと使うことができないのです。ボールペンの先に文類課長さんの印鑑のついたテープが巻いてあります。ですから看守さんが勉強を教えているのですから、貸すことはできるのですが、10時、12時、3時と看守さんは交代します。わかってしまいますので貸すことはできないのです。そのためにお連れさんを通して家の親兄弟になりすまして差し入れてくださっていたのです。それを半月に一回ずっと入れていたのです。ボールペンの芯が切れそうになると翌日かならず入ってくるのです。看守さんが教えているのですから、それをお連れさんに教えることはできるわけですね。私はそれに全然気づかなかったのです。父ちゃん母ちゃん兄弟の名前で入っていたものですから、面会はできなくて、業者から入れていると思っていました。 仮出獄して看守さん宅へいってから、実は主人から「石川一雄が困っているから入れてくれ、と言われたので、私が8年間くらいずっと入れていました」。ただ辛かったのは官舎にいましたから、他の看守さんがお連れさんのお顔を知っているので、髪形変装したり、眼鏡かけたりしてわからないようにして、業務終了の忙しいばたばたしているややこしい時間を見計らって、それを8年間も続けてくださったのです。私は看守さんの家に行って、はじめてお連れ合いさんから聞いたのです。文字もそうです。漢字は矢印をうって番号をうって、それもお連れ合さんも手伝っていた「父ちゃんだけではなんやから、手伝ってくれ、と言われて、私も結構手伝いました。4年くらいになります」と言われました。4年くらい経って「石川は字が読み書きできるようになったから、もういいよと言われてやめました」と話されました。そのとき私は涙が出てなりませんでした。 息子さんと娘さんがいるのですが、当時は2人とも大学生でした。10時頃まで5人で話しまして、あとはご夫婦と話し、泣き明かしました。とても嬉しかったです。そのときは、和歌山の管理部長さんでした。当然命の恩人ですから、仮出獄をしてから電話したのです。 「いつぞやは先生お世話になりました」私のために、ちり紙なども内緒でさし入れてくださっていたいお礼もいいました。「石川もう時効になっているからいいけれど、今は部下がいるから、示しがつかないから、今は言わないでくれ」と言われ、そして2年経って署長になって退官されました。すぐお連れさんから連絡をいただきまして、今でもしょっちゅう行っています。 「石川は立派な手紙が書けるようになったなあ、直接手紙を貰ったわけじゃないけれど、和歌山の刑務所には、解放同盟の新聞を取っている人がいるから、それに時々石川一雄の全国向きのメッセージが載っているので、私も教えがいがあったよ」とその看守さんに言われました。私はその看守さんから学んだものを、これからみなさんにお伝えし、かつ、勉強できない人には、自分自身は日本語だったらできますので、教えていきたい。私の妹も読み書きができません。私は兄貴でありますから、文字の素晴らしさということを、妹に教えようとしましたが、一週間で挫折してしまいました。なかなか難しくてやれませんでした。そいうことからみると、識字学級は素晴らしいと思います。60歳、70歳、80歳の人たちが識字学級をしているのですよ。自分の文字を取り戻そうとして。特に2週間ほど前に、奈良県に行ったのですけれど、みなもとそのさんといわれる人がおりました。この人も全く読み書きができなかったそうです。識字学級で習ったそうです。もう80歳近い人です。お会いしました。「まだまだ私は漢字は知りませんけれど、それでもひらがなで、これだけ書けるようになりました」と言っておられました。その、みなもとそのさんは、私の連れの方が20数年来の交際がある人で、私のために一生懸命やってくださっています。そういった人たちがいるのですからね、私の妹もぜひ文字の素晴らしさということを知ってもらいたいなと思います。 ●文字を知り世の仕組みが見えてきた 世の中の仕組みというのは、確かに耳学問、目学問がありますが、文字に勝るものはありません。文字は素晴らしいです。私自身がそうです。いろいろな仕組みを知ったのは文字を通してです。今も差別はなくなっていません。そういった差別はなかなか簡単になくなることはありませんけれど、せめて私たちが生きているあいだに、少しでも差別をなくすように闘っていかなければいけないということで、私自身は一生懸命、今は、健康維持と同時に、全国各地に廻って、お子さんたちには「一生懸命勉強しなさい」と言っております。今のお子さんたちは素晴らしいです。私が刑務所にいる間に、48万通の激励のお手紙をいただいたのですが、三分の一はお子さんたちです。みんな素晴らしいです。素晴らしい文章を構成してきます。やはり中には、「私は中学3年です」というような書き出しで、私から見ると小学校低学年かなあ、というようなお手紙があります。学校現場の先生たちは、目がとどかないのだと思います。そういう人がないように、私は学校の先生に手紙を出すときにそういうことを書きます。裁判もこれからどれだけ長くかかるかはわからないのですが、こと、私自身の健康に関しては、みなさんに絶対にご迷惑をかけません。あと、少なくても、30年は生きます。少なくてもですよ。(笑い声)頭は確かに70歳、80歳になるかもしれませんが、肉体はどこへ行っても疲れません。翌日になると疲れが飛んじゃうのですよ。これは何よりの財産だと思っています。お金なんか必要ないのです。健康であればいいのです。何よりも、私には天からくだされた使命があります。この試練を乗り越えてこそ、私の素晴らしい人生が待っているのだと思います。みなさんにご迷惑をかけると思いますが、みなさんのご期待にそうような、足跡を残していきたいと思います。 今後とも今まで以上のご支援をしていただきますよう、この場をお借りして私の挨拶の言葉といたします。ほんとうにありがとうございました。 質疑応答 Q& A Q:お兄さんの罪になるかと心配されて自供されたとおっしゃいましたね。ビデオなど見ると、第一審のときに、あなたが自供をひるがえさなかったということは、お兄さんのことを考えて自供をひるがえさなかったのか、自分じゃなかったと言ったのは、どうしてなのか、簡単に教えてください。 A:実は一審のときは自白を維持したわけですが、これはべつに、兄貴のことうんぬんではなく、兄貴が犯人かと思っておりましたので、私自身が警察官との間に10年という約束事がありましたので、先ほど話しましたように、9件の悪いことをしたので20年は出られないということで、なおかつ、「お兄さんを逮捕する」と言われて、私が自白すると、いうことで警視との約束事でずっと守っていたのです。高裁になって、控訴しました。接見禁止で兄弟たちの面会はありませんでした。接見できるようになって、当然兄貴が来ましたから、兄貴が犯人だと思っていたので聞きました。兄貴は「おれにはアリバイがある。福生(ふっさ)へ集金に行って1時ごろまで、バイクで出ていた」ということを聞いたので、自白をひるがえすことになったのです。 おそらく、接見禁止でずっと解けなかったとしたら、ずっと自白を維持していたと思います。弁護団がたとえ無罪を主張したとしても。兄貴が接見禁止が解けて面会にきたので、当然、兄貴も弟から疑われていたことで怒って、4年ぐらい面会にこなかった。幸いにおふくろが具合が悪くなって、親父が耳が遠かったので、兄貴が一緒に来て、それで仲直りができたのです。兄貴が怒るのも当然だったと思いました。 Q:いも穴の話がありますね。あれはなぜ出てきたのですか。よしえさん(被害者)のカバンを包んでいたナイロンの袋が入っていた、そこから自白をよびだした、と聞いたのですが、そのことをもう少しはっきり聞かせてください。 A:それはですね、いも穴というのは、確かに被害者のものが、いも穴の中に落ちていたということは、これは事実です。しかしそうじゃなくて、被害者の足が荒縄で縛ってあった。この荒縄がいも穴から吊るすとちょうど同じ長さになるということで、「いも穴の逆さ吊り」という形になってしまったのです。被害者の足に縄が縛ってあった、この縄がいも穴で縛っていたのじゃないかとなったのじゃないかと思います。ですから、縄がなかったとしたら、いも穴じゃなくなったと思うのです。これはあくまでも、警察の想像であります。荒縄が足に縛ってあったとなると、どこかで吊るしたということになるので、あそこになったんじゃないかと思われます。 Q:先ほどのお話でご両親が自分は「部落民」だと教えてくれなかったということでしたけれど、「部落民」だと知って逮捕されていたら、自分の考え方がどういうふうに変わったと想像できるのでしょうか。 A:家の父母が「部落民」であったということを小さいうちに教えてたとしたら、これで逮捕されたとしても、自分は「部落民」のためにでっち上げようとして、逮捕したんだということで、ある程度の抗議ができたと思うのです。自分が「部落民」とわかっていたとしたら。というのは、先ほど話しましたように、5年生のときに逮捕されましたね、これは「部落民」であったために逮捕され犯人にされたので、あるいは部落とはどういうものかということが読み書きはできなかったとしても、どうして差別を受けるのだということを、両親や隣近所の人に聞いたと思います。ある程度抗議ができたんじゃないかと思います。「部落民」ということがわからずに逮捕されてしまったので、そのことに対しての反論もできなかった。私はそのために、両親を恨んだのです。 Q:二十歳過ぎてもわからなかったのですか、誰かに聞かなかったのですか。 A:そうですね、この地区には野球チームがあったのです。私もそのチームの一員でした。対戦相手は誰もいませんでした。もう一つ別の部落がありました。300 戸ぐらいある大きな部落ですが、そこといつも野球対戦をして、地区外の人には、私たちが対戦を申し込んでも拒否されてしまいました。ですからそういう関係で、おかしいな、と思ったけれど、うちの村の人は「部落民」だということは教えられていなかったと思います。そのために、常に同じ地区との対戦で飽きてしまいますよね、そうすると、一人だけ地区外の人でそのじいさまが、近くではなく遠くの野球チームのある人たちと対戦するために、その方がグランドを借りたりして世話をしてくださったのです。野球チームは恐らく、18名ぐらいの青年で、15歳から24歳ぐらいまでうちの村にもおりましたが、自分たちが「部落民」だと知らなかったんじゃないかと思います。知っていたら、ある程度、私たちの中で教えあったと思います。ただ聞いてみると、家の兄貴だけは親から聞いて知っていたらしいです。姉は部落と知らなかったようです。 Q:『狭山・国際的なひろがりを求めて』とありますが。 A:私はむしろ積極的に出させていただきたいと思っています。仮出獄の人身事項というものがあって、一応母体が解放同盟になっていますから、全て解放同盟の意向にそって活動しなくちゃいけないと、法務省の方で言われています。勝手な行動は、今現在はできない状況にあります。たとえば私は、被害者のよしえちゃんの家より300 メートル以内へ近づいてはいけないのです。300 メートル先に行ったとなると、仮出獄を取り消されてしまうのです。そういう人身事項があるのです。 Q:まだ犯人としての拘束があるのですね。 A:そうです。 Q:普通、私なら、冤罪で、神も仏もないと思うのに、そのように思われないことに感動しました。 A:実際に神も仏もないと、あれば私をこれほど苦しめることはないと思います。しかし、神、仏はいると思います。これは、試練を乗り越えるために私に与えたのじゃないかと思って、私は前向きな思考で闘っていこうと思っております。かならず神様が見ているのですから、かならず冤罪は晴れると確信しています。 A:ありがとうございます。 (2000年3月5日:狭山春季合宿講演・要約文責編集部) |