1-3 Good Night

 

 

 

 A.M.3:00

 ようやくデータの整理を終えた涼介は、パソコンの電源を落としながら、ため息をついた。

 すでに2時間ほど前に気分転換と休憩を兼ねて風呂はすませているので、あとは寝るだけ、なのだが。

 いやいやながら自分のベッドを振り返れば、そこにあるのは、イルカの形をした抱き枕――3日ほど前に、自分が啓介に与えたものだ。

 

 

 

 「アニキ〜」

 「なんだ?」

 「お願いがあるんだけど」

 いつものように自室でパソコンに向かっていた涼介のところへ啓介がやって来たのは、日付が変わった頃だった。

 週末締めのレポートがある、と言い渡してあるから、いわゆる“夜の誘い”ではないはずだし、それは口調からもわかるのだが、では、こんな時間になんの“お願い”だろう?

 怪訝に思いながら振り返ると、寝仕度をした啓介の腕には、件のイルカが抱かれていた。そしてそれを差し出しながら啓介が言った台詞が――

 「これ、アニキが使ってくれねぇ?」

――だった。

 気に入らなかったのか、とか、だからって何でオレが? とか。言葉にはしなかったが、可愛らしいイルカを抱きしめて眠る自分をうっかり想像して、涼介は無言のまま眉を顰める。

 そんな涼介の不機嫌を察し、啓介があわてて続けた。

 「あ、ずっとじゃなくていいんだ。2、3日……できれば1週間ぐらい……」

 弱々しくなる語尾と、耳と尻尾を垂れて許しを請う大型犬のような姿。これには涼介も弱かった。

 「何故?」

 せめてそんなことを言い出した理由ぐらいは聞いてやろう、と問うた涼介に、啓介は俯きがちに答えた。

 「新品の枕とかってさ、なんか、消毒薬みたいな臭い、したりしねぇ? よそよそしいっていうか……落ち付かなくってさ……」

 思っていることを言葉にするのが苦手な啓介が、懸命に言葉を探す。そんな様子も微笑ましい、と思ってしまう涼介は、猫好きが猫を見るような目で弟を眺めていたのだが。意を決したように顔を上げて、きっぱりと告げられた台詞に言葉を失った。

 「アニキの匂いがすれば、きっとちゃんと眠れると思って」

 

 ――匂い?

 

 目の前にいる弟は、実は本当に大型犬だったのだろうか……。

 ふとそんな疑問にとらわれて、反応をし損ねた。

 すぐに拒否しなかったのがまずかったのか、啓介は、2、3日でいいから、と言いながら逃げるように出ていってしまい――その結果、イルカの抱き枕だけが涼介のベッドに残されたのだった。

 

 

 

 そんな訳で可愛らしいイルカと同衾する羽目になってしまった涼介だったが、やはりそれを抱きしめて眠るのは抵抗があった。

 いっそ何食わぬ顔で2、3日ただ預かって、そのまま返してしまおうか、とも思ったのだが、それでは啓介は納得しないだろう。そういった感覚の鋭さは侮れない。  

 

 ――とにかく、匂いが付けばいいんだよな。

 

 涼介は電気を消すと、イルカをベッドの壁際に押し付け、それにぴったりと背中を合わせて横になり、諸共に布団をかぶって目を閉じた。抱きしめるのには及ばないが、それなりに密着してはいる。これで匂いも移るだろう。多分。

 短い睡眠時間を有効に使用することで超多忙な生活をこなしている涼介は、そこで思考を半ば強制的に終了させ、不眠症の人間に恨まれそうなほどさっさと熟睡を始めたのだった。

 

 

 

 

 

 ……いつもなら涼介は、一度寝付けば決めた時間まで絶対に起きない。

 例外は、隣に啓介がいるとき。小さい頃から寝相の悪かった啓介は、よく布団を蹴り除けては体を冷やしてしまっていた。夜中に何度となくその布団を直してやるのが、涼介の身に付いた習慣。2歳年下の弟は、すっかり大きくなった今でも時々その寝相の悪さを発揮するから、涼介もいまだにその習慣が抜けない。

 

 だからその日も、夢うつつの状態で、涼介は無意識に弟を探した。

 

 ――よかった、今日はちゃんと布団の中にいるな。

 

 それでも、より確かな感触を求めて、腕を伸ばして抱き寄せる。

 腕の中の存在の、どこか懐かしいその匂いを感じながら、今度こそ涼介は深い眠りに落ちた。

 

 

 いつもの時間に目を覚まし、しっかりとイルカの抱き枕を抱えて眠っていた自分を発見した涼介が、憮然とするのは、もう少し、後のこと。

 今は、幸福な眠りの中……。

 

 

 


 

 

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