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おまじない
松本あずさ
トン、トン、トン、と軽快な足音が、校舎の吹抜けになった階段に響く。音にあわせて揺れる、逆立てた明るい色の髪は、他者よりかなり高い位置にある。足音は、ためらいもなくさらに上へと昇っていこうとしていたが、
「啓介君?」
脇の廊下からかけられた声にぴたりと止まった。
声をかけたのは、白衣を羽織った、まだ学生らしい若い女性。
立ち止まって振り返った啓介に、にこりと笑って彼女は言った。
「ああ、やっぱり。高橋君――お兄さんなら資料室の方よ」
「あ、ホント? サンキュー、助かった」
普段兄がいる研究室はここからさらに二階上だが、資料室ならこの階だ。
笑って礼を言う啓介も、「どういたしまして」と軽く返す彼女の方にも屈託がない。場所は涼介の通う大学で、相手は涼介の同輩で、啓介は本来完全な部外者のはずなのだが。互いに気に留める様子もない。
それもそのはず、啓介は、自分の車を持つようになってからというもの、涼介が大学から直接赤城へ行くと言えば、一緒に行こうとやって来て、涼介が研究室に泊まり込むと言えば、着替えを持ってやって来る――その結果、三年経った今では、すっかり顔パス状態なのである。
今日も今日とて、啓介は遠征先の妙義に連れ立って向かうべく、兄の大学までやって来たのだった。
迷うことなく資料室の前まで来て、扉をノックする。「どうぞ」と扉越しに答えた声は紛れもなく涼介のもの。それだけで嬉しくなった啓介が「アニキ」と呼びかけながら扉を開けると、さして広くもない部屋には、モニターに向かう兄の姿だけがあった。
「啓介か。あと10分待ってくれ」
モニターから目を離さずに言う涼介に生返事をしながら、啓介は入り口からは死角になる、書棚の向うにちらりと目をやる。はっきりとはわからないが、人の気配はない。
「アニキ、一人?」
「ああ、今日は土曜だからな。今週は作業もあらかたけりがついたし、皆昼過ぎには帰った」
「ふーん」
その答えを聞いて、啓介は入り口近くのパイプ椅子を引き寄せて座った。
10分ぐらい、逆光に映える涼介の秀麗な横顔を眺めていればすぐだ。
ぼんやりと待っていると、やがて聞き慣れたキーボードを叩く音が止まる。時計を見れば、予告通り、きっかり10分。こんなことまで正確なその読みに感心しながら、啓介はコンピュータの電源を落とす涼介に近づいた。気配に気付いて振り返るその美貌に、触れそうなほど顔を寄せる。二人きりの室内とはいえ公共の場でのこの行動に、涼介が制止しようとする気配を察して、遮るように囁く。
「おまじない、してくれよ」
その言葉に、涼介の視線がドアの方へ泳ぐ。だが、啓介だって、いつ誰が入ってくるかわからない場所で応じてもらえるはずがないことは承知しているのだ。そのあたりは抜かりはない。涼介の目に映るのは、しっかりと内側から鍵がかけられたドアだ。
だがそれでも、こんな場所で応じてくれるかどうかはやはり賭けで。少しばかり緊張して兄の出方を待っていた啓介に、涼介はふっと苦笑を浮かべて瞼を閉じてくれた。その許容の仕草に促され、啓介は涼介の唇に、唇で、そっと、触れた。
「おまじないだよ」
そう言って、最初のバトルを前にして、家を出る前からガチガチに緊張していた啓介に口づけたのは、涼介の方からだった。その時は頬に、だったけれど。びっくりして、緊張はどこかに吹っ飛んだ。
その時からだ。バトルの前の、ささやかな儀式。
兄弟の一線を越えたあと、頬から唇に口づけが移っても。人の目があるところでは絶対に応じてくれない上、時にはバトルを見届けることも出来ないほどに忙しい涼介のため、いつも必ずというわけにはいかなかったけれど、「おまじない」をしてもらって、負けたことはない。
何事も理詰めでとらえる兄は、「してもしなくても、そもそも負けたことなんかほとんどないだろ」と言って笑ったが、啓介には大事なことだった。
今日の妙義でのバトルは、どうしても負けられない。先の秋名では、啓介のみならず、それまで不敗を誇った涼介までも敗れている。連敗は許されない。
勝つためにすべきことは、全てこなしてきた。だから、たとえ何があろうと、負けるつもりはない。この「おまじない」にしたって、ジンクスに頼るつもりは毛頭ない。たとえ二人きりでも、他人の気配のある場所で、兄弟の線を踏み越えることをためらう涼介への口実だ。だが、予期せず涼介が一人だったおかげで、こうして触れ合うことが出来た、そのこと自体が、今日の幸運と勝利を約束しているかに思える。
そもそも、この所いつにも増して忙しくしていた涼介に、触れるどころか、顔を合わせるのも久しぶりだった。
だから、かもしれない。つい口づけが深いものになった。かすかな涼介のあらがいを無視して、奥へ逃れようとする舌を絡め取る。ただ、柔らかな甘い感触に酔いながら、涼介の襟元に手を伸ばしてしまったのは、誓ってもいいが、無意識の行動だった。指先に触れるすべらかな感触をもっと味わおうと動いた手を、きつくつかんで止められて、啓介はようやく我に返る。
目の前には、潤みながらもなお、強い意思の光を宿した、漆黒の瞳。
「あまり調子に乗るなよ、啓介」
たしなめられて、啓介はおとなしく手を引いた。
「ごめん。久し振りだったから、つい」
「つい、じゃないだろ、こんな所で。だいたい、もう出ないと遅れるぞ」
悪びれすにあっさりと謝る啓介に気勢を削がれ、きつく出ることも出来ない涼介に、啓介は軽い調子で言い募る。
「せっかく久し振りに二人っきりで会えたってのに、冷たいぜ、アニキ」
お前がもう少し早く起きてくれれば、せめて朝食ぐらいは共に出来るのだが、という言葉は、すでに何度も繰り返しながら、無駄に終わっている。涼介としてもいまさら口にする気にはなれず、代わりに口にしたのは別のこと。
「せめて家まで待てないのか、お前は」
「家に帰ったってどうせアニキ、レポートがあるからってさせてくれないじゃん」
完全にすねた口調で言う啓介に思わず涼介は笑みを浮かべる。甘やかしているという自覚はあっても、喜ぶ顔が見たくて、つい言ってしまう。
「作業はけりがついた、って言ったろ。明日は久し振りに完全にオフだ」
その遠回しの誘いに、啓介は満面に喜色を浮かべて、声を低めて囁いた。
「じゃあ、今夜は最後まで付き合ってくれるんだ?」
だが、甘い囁きの答えは少しばかり素っ気無かった。
「今日のバトルに勝ったら、な」
「えーっ!?」
「負けたら、また一週間はおあずけだな」
さらに追い討ちをかけるような台詞に反射的に泣き言を言いかけ、啓介はふと思いとどまった。口にしようとしている言葉の重みは承知の上で、言う。
「いいぜ、それでも。――絶対に負けねーから」
決意をこめて告げた啓介に、涼介は一瞬目を瞠り――次の瞬間には、啓介が息を飲むほどの凄艶な笑みを浮かべて、言った。
「頼もしいな、啓介――。だがまずは時間までに妙義へ行かないとな。不戦敗になっても知らないぜ?」
後半は明らかにからかいの色を含ませたその声音に、啓介は慌てて時計を見る。もともとたいして時間に余裕があったわけではない。すでに法定速度でトロトロ流していては間に合わないような時間だ。
「やっべぇ。急ごうぜ、アニキ」
啓介はくすくすと笑う涼介を急かして、ようやく本来の目的地である妙義へと向かうべく、兄の大学をあとにしたのだった。
啓介達が、妙義の麓で先に着いていたレッドサンズのメンバーと合流し、頂上に着いたのは、ちょうど指定の時間だった。
待ち構えていたような中里と喧嘩腰の挨拶を交わし、その勢いのままフリー走行に入ってしまった啓介は、スタートの直前、FDの状態を確認に来た兄の姿を見て、少しばかりうろたえた。
涼介は啓介と違って、普段あまりラフな格好をしない。家の中でさえ、それはあまり変わらない。だから、涼介が襟元をくつろげている姿など、弟である啓介ですら、ほとんど眼にした記憶がない。
その涼介が、今日は何故かシャツのボタンを二つも外しているのだ。襟元からは、女でもそうはないほど白い、きめの細かい肌が覗いている。服の上からでもわかる、肩幅のわりに薄い肩。そこに淡く浮かぶ細い鎖骨の陰影が無防備にさらされている様は、ひどく危うげで、そこから視線を外せなくなる。
だが、今はバトルの直前だ。啓介は無理やり意識をバトルに向けて、何気ない振りで涼介の質問に答える。
それでもやはり、気を抜くと視線は相対する兄の胸元へと引き寄せられる。
と、そんな啓介の様子にとっくに気付いていたらしい涼介が、意味深な笑みを向けた。
――え?
何事かと戸惑う啓介に、その笑みのまま涼介は言った。
「じゃあ、俺は頂上にいるから。――待ってるぜ」
そのままFCに向かう涼介の背を見送りながら、ふと啓介は、指先に小さな感触がよみがえるのを感じ、自分の手をまじまじと見つめた。
そういえば、無意識の行動だったのであまり定かではないのだが、あの「おまじない」のとき、兄の素肌の感触を求めた手が、そのシャツのボタンを外したような、気が、する。ほかでもない自分の手が、小さなボタンの感触をかすかに記憶している。
つまり涼介は、啓介が外したボタンをそのままにしているのだ。そして去り際に、「待っている」――と。
――こうなったら、何がなんでも勝って、今夜は昼間の続きだ!
あらためて心の内で勝利を誓い、啓介は並々ならぬ気合をもってFDをスタートラインに並べたのだった。
その日のバトルが、あらゆる意味で負けられないバトルだったことは確かだった。
だが、走り屋としてのプライド、チームの威信、ギャラリーの中にいるはずの秋名のハチロク、そしてゴールで待つ最愛の兄――。
啓介が、突然の雨にも臆することなくアクセルを踏み込んだのはそれらのいずれのためだったのか――それを知る者は少ない――。
END
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