コンサート雑感(2001年4月)

2001年[1月][2月][3月]4月


15日 リトアニア国立バレエ「ロメオとジュリエット」  NEW
12日 ホール・オペラ「ドン・カルロ」
11日 小澤征爾音楽塾「コジ・ファン・トゥッテ」
9日 グルベローヴァ&米良美一
5日 アルミンク/新日フィル
3日 新国立劇場「ラインの黄金」Bキャスト
1日 ヴェルターヴォ弦楽四重奏団
1日 新国立劇場「ラインの黄金」Aキャスト



リトアニア国立バレエ プロコフィエフ《ロメオとジュリエット》
4月15日 東京文化会館
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団

制作・振付・台本改訂:ウラジーミル・ワシリーエフ(モスクワ)
舞台デザイン:セルゲイ・バルチン(モスクワ)
振付助手:ガリーナ・クラピーヴィナ/ミハイル・クラピーヴィン(モスクワ)
照明:レヴァス・クレイナス
舞台指導:スカイドレ・シパリエネ/ダニエリウス・キルシス
舞踊監督:タチアーナ・セドゥノワ

ジュリエット:エグレ・スポカイテ
ロメオ:イーゴリ・エブラ
ティボルト:アレクサンドル・モロドフ
パリス:ミンダウガス・パウズィス
マキューシオ:ワレリー・ファジェーエフ
ベンヴェーリオ:ライムンダス・マスカリウナス
パルサザール(ロメオの従者)/仮面売り:エリギーウス・プトクス
キャピュレット夫人(ジュリエットの母):エレーナ・グリシヴィナ
キャピュレット公(ジュリエットの父):ヴォルデマラス・クレピンスカス
乳母:ヨラーテ・ソディーテ
モンタギュー公(ロメオの父)/ロレンス神父:ヴィータウタス・クズマ
キャピュレット家の従者:ヨウニュス・カスペラヴィチェス


オーケストラ・バレエと銘打たれた公演である。当然のごとく、オーケストラが舞台上に乗る。バレエはオケ前方の舞台と、オケの後方に設えられた高い舞台上で踊られる。このふたつの舞台は、左右ふたつの階段と通路で結ばれている。ダンサーは、そのふたつの舞台を行ったり来たりしながら踊ることになる。ホール・オペラのアイディアをバレエに応用したもの、ということができよう。

このワシリーエフ版「ロメオとジュリエット」は、すでにモスクワ音楽劇場バレエの来日公演において日本初演ずみである。が、そもそもの発案者であるロストロポーヴィチ氏が日本でみずからタクトを振るのは、当公演がはじめて。

指揮者は舞台中央、客席のほうを向いて座っている。そのまわりを取り囲むように、オケのメンバーたち。したがって大半の団員は、客席に後ろ姿を見せていることになる。指揮者はやや高い位置にいて、とにかく目立つ。この公演の主役がだれであるか、それが如実に物語っている。オケのメンバーは、みなカプチン僧を思わせる衣裳を身にまとっている。ただこの日は初日ということもあり、第1幕でカプッチョをかぶり忘れている者もいたようだ。

ロストロポーヴィチ氏と新日本フィルによる演奏は、いかにもロシア的な恰幅の大きい音楽であった。それでいて繊細さや優雅さに欠けることもない。ダンサーが踊りやすいように本来はテンポの速いところを少し緩やかに振る、といったようなことは皆無。終始、あくまで音楽的要求に根ざしたテンポ設定が貫かれていた。ときどきテンポをぐっと落として表情をつけるあたりも、ロストロポーヴィチ氏らしい。いずれにせよ、音楽の主導権を握るのがダンサーたちであってはならない、あくまで指揮者が音楽をリードしてゆくべきだ、というロストロポーヴィチ氏の主張は、じゅうぶんに実現されていたといってよかろう。ただしオケのメンバーの大半が客席に背を向けて演奏していたので、通常のコンサートのときほど音が届いてこないのは致し方ないところ。オケのメンバーはそうとう演奏しにくかったと思われるが、大きな齟齬なしに乗り切った。健闘をたたえたい。

以上、オーケストラの演奏もなかなか充実したものであった。が、けっきょく舞台が進行するにつれ、私の目はバレエに釘づけとなっていった。バレエについては全然詳しくないのだが、ダンサーはいずれもすばらしいと思った。ジュリエット役はエグレ・スポカイテ氏。1996年の名古屋国際バレエ・モダンダンス・コンクールで優勝したひとだというから、まだ若い。女性ダンサーとしてはずいぶん長身であるが、その表現力は実に繊細で大いに魅せられた。しなやかな肢体を駆使したバレエそのものの魅力もさることながら、顔の演技がまた抜群にうまいのだ。見た目はまさに、初恋に身を焦がす少女そのもの。これでは、感情移入するなというほうが無理であろう。たいするロメオ役は、ゲスト出演のイーゴリ・エブラ氏。彼もまた若いダンサーだが、その貴公子然とした風貌はロメオのイメージにぴったり。テクニック的にも申し分なし。といっても、あくまで素人判断であるが(^_^;)。そして俄然光っていたのが、ティボルト役のアレクサンドル・モロドフ氏。映画にせよ、演劇にせよ、やはり悪役に存在感がないとドラマが引き立たない。バレエもまた同様。その点、モロドフ氏のティボルトは理想的な悪役であった。バレエにおいても、演技においても、圧倒的な存在感を示した。しかし彼、ほんとうにいい顔をしている。ハリウッドに行っても、名悪役として活躍できるのではないだろうか。マーキュシオ役のワレリー・ファジーエフ氏も名演。死のまぎわの演技は、とりわけ印象に残った。パリス役のミンダウガス・パウズィス氏をはじめ、その他のダンサーたちもみなレベルの高いバレエを披露してくれた。

最後に、ワシリーエフ氏の振付について。印象的な場面について、触れておくことにしよう。

前奏曲。すでにロメオ、マーキュシオ、ベンヴォーリオ3人の姿が舞台上に。ロメオはオケのメンバーの一員であるかのごとく、オーケストラのすぐ前におかれた椅子に腰かけ、じっとしている。衣裳は白を基調としたもの。他の2人は、舞台左手に横たわっている。こちらの衣裳はピンクが基調。

第1幕第1場。ヴェローナの街の広場。椅子に腰かけていたロメオがおもむろに立ちあがり、踊りはじめる。「街の目覚め」から「朝の踊り」にかけて群衆が集まってくるのだが、はやくもここでふたつの舞台が有効に活用される。オケ前方の舞台(以下、「下の舞台」と呼ぶ)には、ピンクを基調とした衣裳のモンタギュー家の面々が。オケ後方の一段高くなった舞台(以下、「上の舞台」と呼ぶ)には、緑を基調とした衣裳のキャピュレット家の面々が姿をあらわす。やがて「喧嘩」から「決闘」へ。そのさい、ふたつの舞台をつなぐ階段と通路を、ダンサーたちが勢いよく駆けあがり、また駆けおりる。その運動性は、極めて魅力大。なおティボルトはキャピュレット家の人間でありながら、終始衣裳の色は黒。犠牲者が、上下それぞれの舞台にひとりずつ。「大公の宣言」で赤い衣裳のモンタギュー公が姿をあらわし、とりあえず一件落着。犠牲者は、それぞれ仲間たちに高く担ぎあげられ舞台から姿を消す。

間奏曲。黒い衣裳を身にまとった金管と打楽器のバンダが、下の舞台に登場して演奏。

第1幕第2場。キャピュレット家のジュリエットの控えの間。上の舞台で、キャピュレット家の従者らしき老人がジュリエットの乳母をからかう。胸に触ったりする。乳母が下の舞台におりてくると、そこにはジュリエットが。乳母、ジュリエットともに白の衣裳。やがてジュリエットの母(キャピュレット公夫人)が登場するが、彼女は緑の衣裳。母のくれたドレスが似合うかどうか、乳母のかまえる手鏡に自分の姿を写しながら踊るジュリエットの姿が愛らしい。乳母とのやりとりの最中、鏡が床に落ちる。と、母親がジュリエットに平手打ち。

第1幕第3場。キャピュレット家の外。上の舞台に、キャピュレット公夫妻と招待客。キャピュレット公(ジュリエットの父)の衣裳も当然、緑。パリスの衣裳は上半身が黒、下半身が白。すでにジュリエットの姿も。下の舞台に、やがてマーキュシオが。ロメオの従者と思われる青年が、彼に仮面を手渡す。

第1幕第4場。舞踏会場。上の舞台でキャピュレット夫妻、ジュリエット、パリスが踊る。仮面で顔を隠したロメオも登場。いっしょに踊ったりする。パリスに手を引かれ、ジュリエットが下におりてくる。「ジュリエットのヴァリアシオン」は下の舞台で。緑の衣裳の招待客たちや、仮面姿のロメオも下の舞台に。「マーキュシオ」の踊りは、上の舞台で。いつしか上の舞台に姿をあらわしたジュリエットが、下の舞台にいるロメオを見つけ、階段をおりてくる。ふたりの「マドリガル」は、下の舞台で。顔をなであったり、ロメオがジュリエットをリフティングしたり。初恋の喜びにあふれた、なんともすがすがしい踊りである。「ティボルトはロメオを見つける」も、「ガヴォット」も下の舞台で。

第1幕第5場。ジュリエットのバルコニー。ジュリエットは上の舞台で祈る。黒いマントを羽織ったロメオは下の舞台に。マントは、すぐに脱ぎ捨てられる。「ロメオのヴァリアシオン」は下の舞台で。上の舞台のジュリエットも踊る。「愛の踊り」で、ついにジュリエットが下の舞台に駆けおりてくる。ここの運動性も魅力大。ふたりのパ・ド・ドゥ。愛が盛りあがる。

第2幕第1場。街の広場。「フォーク・ダンス」では、タンバリンを手にした男女も登場。「ロメオとマーキュシオ」では、上の舞台でジュリエットが手紙を書く場面も。書き終えると、その手紙を乳母に手渡す。下の舞台では、そのとき同時にロメオもペンを手にとり、手紙をしたためている。上下の舞台が、それぞれ異なる空間をあらわす。なかなかみごとな演出である。「5組の踊り」の行進曲のところでは、ブラスバンドのバンダが黒い衣裳で下の舞台に登場。ちなみにそのアンサンブルは、少し噛み合っていないところもあった。下の舞台では色とりどりの衣裳を身にまとったダンサーたちが、上の舞台では黒い衣裳のティボルトがひとりで踊る。乳母が下の舞台に登場すると、さっそくマーキュシオたちの餌食となり、からかわれ、衣服の一部を剥ぎとられてしまう。「マンドリンを手にした踊り」では、4名のマンドリン奏者が舞台上に。ここはピンクの衣裳、緑の衣裳のダンサーが、いっしょに仲よく踊る。「乳母」で、先ほど剥ぎとった衣服の一部をマーキュシオが乳母に返還。「乳母とロメオ」で、乳母がロメオにジュリエットからの手紙を手渡すと、ロメオは喜びのあまり乳母にキスする。

第2幕第2場。教会。下の舞台に、乳母とジュリエット。ロメオからの手紙を乳母がジュリエットに手渡す。ジュリエット、嬉しい。上の舞台には、ローレンス神父とロメオ。やがて、ロメオと入れ違うようにジュリエットが上の舞台に。その後ジュリエットが下の舞台におりてきて、ふたりのダンス。音楽が高揚したところでホルンがミスしたのは、やや残念であった。

第2幕第3場。街の広場。「民衆のお祭り騒ぎ」で、下の舞台にティボルトがあらわれる。いったん姿を消すが、「ティボルトとマーキュシオの出会い」で上の舞台に再登場。マーキュシオを見つけると、下の舞台におりてくる。通路の途中で立ちどまり、演奏しているオーケストラの陰に隠れるようにして、しばし様子をうかがう。ロメオも最初、上の舞台に登場。下の舞台におりてきて、険悪なふたりのなかに割って入る。ティボルトがロメオを馬鹿にするように、剣の切っ先を喉もとに。それを見て、マーキュシオ我慢できず。「ティボルトとマーキュシオの決闘」が始まる。マーキュシオ優勢。倒れたティボルトを踏んづけたりもする。が、ロメオがマーキュシオを制止しようとしている一瞬の隙をついて、ティボルトがマーキュシオを突き刺す。「マーキュシオの死」である。倒れそうになるマーキュシオを、ロメオが後ろから抱きとめる。が、けっきょく剣をとり落とし、その場に倒れるマーキュシオ。いったん立ちあがって剣を手にとり虚勢を張るが、また倒れてしまう。いくどかそれが繰り返され、ついには息絶えるマーキュシオ。ベンヴォーリオがロメオに剣を手渡す。「ロメオはマーキュシオの死の報復を誓う」だ。下の舞台で、ふたりの決闘が始まる。ティボルトが剣をとり落とし、上の舞台に逃れる。ティボルトの剣をひろいあげ、後を追うロメオ。上の舞台で、ティボルトに剣を放り渡す。ふたたび決闘が。このとき下の舞台では、同時に群衆の踊りが繰り広げられる。ロメオがティボルトを突き刺すのと同時に、ジュリエットが上の舞台に姿をあらわす。ロメオはいたたまれず、下の舞台におりてくる。と、ティボルトがよろめきながらも下の舞台におりてきて、ロメオの首をしめようとする。が、けっきょく力尽きて倒れる。「第2幕の終曲」では、まずキャピュレット夫人が下の舞台に姿をあらわし驚き嘆く。派手な身振りの踊りである。続いてキャピュレット公も姿をあらわし、夫婦そろって大いに嘆く。と同時に上の舞台では、キャピュレット家の面々も嘆きの踊りを。

第3幕第1場。ジュリエットの寝室。「ロメオとジュリエット」から「ロメオとジュリエットの別れ」にかけて、ロメオは上半身裸。ふたりの辛く切ない心情が、踊りで表現し尽くされる。上の舞台から、途中で下の舞台に移動。「乳母」では、悲嘆にくれるジュリエットを乳母が抱きしめる。「ジュリエットはパリスとの結婚を拒絶する」では、ジュリエットのこまかい手の動きに感心した。ジュリエットの両親は、まず上の舞台に登場。下の舞台に移動してきて、ジュリエットを脅す。父親は、ジュリエットに手を振りあげたりもする。キャピュレット公夫妻の振付は、前幕最終場に引き続き、そうとう戯画的なものであった。「ジュリエットひとり」ではジュリエットが、10メートル以上あろうかと思われる、極端に長いスカーフらしき布を手にして踊る。そのまま舞台左手に退場。「間奏曲」で、ロメオが舞台右手から登場。激しく踊る。

第3幕第2場。教会。上の舞台にローレンス神父とジュリエット。神父がジュリエットに仮死をすすめる場面で、例の極端に長いスカーフをジュリエットの首に巻きつける。

第3幕第3場。ジュリエットの寝室。下の舞台でドラマが展開する。「ジュリエットひとり」のジュリエットの演技が、出色中の出色。とくに、その顔の表情が抜群にいい。ローレンス神父からもらった秘薬を飲み干し、倒れ伏すジュリエット。「朝の歌」から「百合の花を手にした娘たちの踊り」は、上の舞台で。マンドリンや金管、打楽器のバンダも舞台上に。娘たちは、百合の花をパリスに手渡す。その花を手に、下の舞台におりてくるパリス。と同時に、下の舞台の左手から乳母が登場。真っ先にジュリエットの変事に気づく。パリスは驚き、手にしていた花をとり落としてしまう。ジュリエットを抱きあげ、ベッドに見立てた板の上に寝かせる。舞台右手から姿をあらわしたベンヴォーリオが、その様子を目撃する。ジュリエットの両親は、上の舞台で絶望。

第4幕。エピローグ。ジュリエットの葬式の後、上の舞台にロメオが。そこにベンヴォーリオが姿を見せ、ロメオにジュリエットの死を告げる。嘆くロメオ。ひとしきり上の舞台で踊ったあと、階段をかけおり下の舞台に。動かないジュリエットを抱きあげ、踊る。死を決心したロメオは、ジュリエット同様、薬をあおり、倒れ伏す。ジュリエットの目覚め。隣に倒れているロメオは、まだ生きている。これは珍しい演出だ。ジュリエットは、瀕死のロメオを抱きしめる。愛しいひとの腕のなかで息絶えるロメオ。ジュリエットは絶望し、ロメオの短剣をわが身に突き立てる。これぞまさに愛の死である。ふたりは、それぞれ片手を相手のほうに伸ばした姿勢で倒れている。が、ふたりの手はわずかに届かない。と、最後の最後、指揮者のロストロポーヴィチ氏が椅子から立ちあがり、舞台前方に歩いてきた。そして、ロメオとジュリエットの手を重ね合わせたのである。ロストロポーヴィチ氏のアイディアだというが、なんとも感動的な幕切れではないか。私はふと、岡本喜八監督の映画「ブルー・クリスマス」を思い出したりした。

以上、初日ということで多少不備な点もあったようだが、全体的にはじゅうぶん満足することのできた公演である。備忘録を兼ね、またうだうだと長く書いてしまった(^_^;)。来年にはロストロポーヴィチ氏とリトアニア国立バレエ団による世界ツアーが予定されているというから、そのうちこのコンビによる「ロメオとジュリエット」がDVD化される可能性も大きいのではなかろうか。楽しみに待ちたい。

2001.6.21記


ホール・オペラ ヴェルディ《ドン・カルロ》
4月12日 サントリーホール


ダイエル・オーレン指揮、東京交響楽団
アントネッロ・マダウ・ディアツ演出、装置、衣装

フィリッポ二世(スペイン王):フェルッチョ・フルラネット(バス)
ドン・カルロ(スペイン皇太子):ニール・シコフ(テノール)
ロドリーゴ:レナート・ブルゾン(バリトン)
宗教裁判長(異端大審問官):ハオ・ジャン・ティアン(バス)
修道士:イルダル・アブドゥラザコフ(バス)
エリザベッタ・ディ・ヴァロア:フィオレンツァ・チェドリンス(ソプラノ)
エボリ公女:マリアンネ・コルネッティ(メゾ・ソプラノ)
テバルド(エリザベッタの小姓)/天からの声:天羽明惠(ソプラノ)
王室の伝令:中鉢聡(テノール)
レルマ伯爵:村上敏明(テノール)
東京オペラシンガーズ


サントリーホールのホール・オペラが始まったのは、8年前の1993年。グスタフ・クーン時代を経て、1997年以降はほとんどダニエル・オーレン氏が振っている。そのうち個人的に最もインパクトが強かった公演は、CD化もされている1998年の「ナブッコ」である。グレギーナ、フルラネット、ブルゾン、ザレンパ各氏という、まさに世界最高キャストによる声の饗宴を満喫。あまりのすばらしさに、どうしてももういちど足を運ばずにはいられなくなり、けっきょく私は二度聴いた。その二度とも、大満足。その後も、ホール・オペラは好調を持続している。ヴェルディ・イヤーの本年、とりあげられたのは当然ヴェルディ作品。今回も超強力キャストがサントリーホールに集結した。私は大いに期待して聴きに出かけた。

が、しかし、残念ながら、このシリーズの看板というべきレナート・ブルゾン氏が不調であった。知人の話によると、6日の公演では途中で降板し、代役と交代したとのこと。この日は最後まで歌いきったが、肝心の第3幕第2場、ロドリーゴ最大の聴かせどころで声がかすれ、大幅にパワーが落ちてしまった。第1幕から第2幕にかけては、さほど深刻ではなかった。とくに第2幕第2場などは、不調という噂が嘘のように、よく声が出ていた。それで行けると思って全力投球してしまったことが災いしたらしい。ペース配分の失敗である。ただ、声が出なくなってからも、心情表現に重きをおき、それなりにみごとな歌を聴かせるあたりは、さすがベテランの貫禄であった。息絶えるところの顔の表情、くずおれかたも、みごとであった。数年前のボローニャ歌劇場来日公演における「ドン・カルロ」でも、同じロドリーゴ役のパオロ・コーニ氏が絶不調で、不満の残る結果となってしまったが、それに比べればこの日のブルゾン氏にはまだ救いがあった。そしてなりより、他のキャストが想像以上にすばらしい歌唱を聴かせてくれたので、全体的には極めて満足度の高い公演となった。

まずタイトル・ロールのドン・カルロ役は、ニール・シコフ氏。昨年の「仮面舞踏会」に引き続いてのホール・オペラ登場となる。声の威力や役者としての存在感は、この日のキャストのなかでは落ちる。重唱の場面では声が埋もれてしまい、生彩を欠くことも。とはいえ風貌は、悩める貴公子ドン・カルロのイメージにぴったり。歌唱も、第1幕第1場における登場のアリア「私は彼女を失った」は手探りといった感もあったが、徐々に調子をあげていった。いくぶん線は細いが、声はたいへん美しい。第2幕第1場ラストの高音も、びしっと決めていた。全体的な印象は、けっして悪くない。

フィリッポ二世役のフルッチョ・フルラネット氏は、一昨々年の「ナブッコ」以来の登場。声量に衰えは見られなかったが、声の艶は若干後退したような気も。とはいえ歌唱、演技ともに圧倒的であることに変わりはない。とりわけ、その心情表現。第1幕第2場のロドリーゴとのやりとりのさいに垣間見せる一瞬の苦悩。それでも保たねばならない国王としての威厳。第3幕第1場のアリア「彼女は私を愛してくれたことがない」における絶望と孤独。その後の王妃エリザベッタとの白熱したやりとり。いずれも、聴きごたえじゅうぶんであった。この日の男声陣のベストは、文句なしに彼である。

宗教裁判長役のハン・ジャン・ティアン、修道僧役のイルダル・アブドゥラザコフの両氏も申し分のない出来。ただし歌はよかったのだが、宗教裁判長の演技には問題あり。登場するさいも退場するさいも、左右両脇にいるふたりの男の肩に手をあずけながらでないと歩けない齢90の老人にしては、歌っているとき元気がよすぎるのだ。

女声に移ろう。まずはエリザベッタを歌ったフィオレンツァ・チェドリンス氏。今年1月の新国立劇場「イル・トロヴァトーレ」における彼女のレオノーラが、いかにすばらしいものであったかは当欄でも詳述した。今回のエリザベッタでも、彼女は期待にたがわぬ名唱を聴かせてくれた。声のコントロールと心情表現が高い次元で一体化した、まさに完璧無比な歌唱。第1幕第2場のアリア「泣かないで下さい」も、第4幕の長大なアリア「この世の虚飾を知るあなたは」も、聴いていて心底感動した。とりわけ「泣かないで下さい」では終盤、Ti seguira il mio corと歌う場面で、高音の強声を一気にデクレッシェンドさせるところ。「この世の虚飾を知るあなたは」でもやはり終盤、E il tuo col pianto mio reca appie del Signorと歌う場面で、高音の弱声をクレッシェンドさせるところ。いずれも、強く胸を打たれた。これほどクレッシェンドやデクレッシェンドを効果的に歌えるひとというのは、そう多くはないと思う。その他、感心したところを挙げだすときりがないのだが、とりあえず二三。第3幕第1場の夫フィリッポとのやりとりで、フィリッポに激しく責められたエリザベッタが失神し、ばったりと倒れるところ。フルラネット氏のところでも挙げたが、ここは充実のきわみであった。倒れかたも思い切りよく、みごと。その後のエボリ公女とのやりとりが、またまた圧巻。とりわけエリザベッタがAncora!!と激しく叫ぶところ。またエボリ公女と夫フィリッポの不倫を知ったエリザベッタが、エボリ公女に冷たく言い放つところ。こういうところ、もちろん歌もうまいのだが、彼女は顔の演技も抜群にうまい。先ほども触れた第4幕のアリア「この世の虚飾を知るあなたは」の途中で、パリのフォンテンブローの森におけるドン・カルロとの出逢いを思い出して歌うところがあるのだが、このときの、ぱっと明るくなる顔の表情の変化がまた絶品中の絶品であった。その後のドン・カルロとのやりとりでも、シコフ氏には悪いが、目も耳も私はチェドリンス氏に釘づけ状態。最後の最後における Oh ciel! もすばらしく、舞台をひときわ輝かせていた。というわけで、彼女に関しては、もう最初から最後まで、なにひとつ文句のつけようのない出来。王妃としての気品や格調といったものにも不足なし。

続いて、エボリ公女を歌ったマリアンネ・コルネッティ氏について。3月24日のヴェルディ「レクイエム」を聴けなかったため、この日が私にとってのコルネッティ初体験。まったくノーマークだっただけに、その衝撃は大きかった。第1幕第2場の「ヴェールの歌」から、いきなり強力なインパクト。とにかく、声のパワーが半端でないのだ。しかもただ声量があるだけでなく、歌が限りなくドラマティックときている。コロラトゥーラの切れ味にあまり鋭さは感じられなかったが、それでもまずまずのレベル。第2幕第1場は、すさまじかった。のっけから、やたらにハイ・テンション。声が大きすぎ、指揮者のオーレン氏にシーッとおさえられる一幕も。エボリ 公女が激怒するところの、ど迫力ときたら。聴いていて、背筋が震えた。ドン・カルロ、ロドリーゴとの3重唱では、男ふたりを完全に圧倒。彼女の独壇場といった感さえあり。第3幕第1場におけるエリザベッタとのやりとりも、迫力満点であった。まさにこれぞ竜虎、相うつ。などと言ったら、女性にたいして失礼か(^_^;)。それに続くアリア「呪われし美貌」は、圧巻中の圧巻。声の威力もさることながら、歌に心がこもっているのだ。胸を打たれる歌唱であった。とはいえチェドリンス氏と比べてみると、まだ歌唱スタイルが完成されているとはいいがたい。歌が荒削りに感じられたところもあった。演技も、まだチェドリンス級とはいえない。そういう意味では、まだ発展途上の歌手といっていいだろう。しかしいまの彼女も、じゅうぶんに魅力的だ。将来、どこまで高みにのぼりつめるか楽しみでならない。

テバルドと天からの声を歌った天羽明惠氏も、出番は少なかったが、しっかり存在感を示した。女声陣には、まったく文句なし。

ダニエル・オーレン氏の指揮は、いつもながらの飛んだり跳ねたり、しゃがみこんだりのオーバー・アクションが見ていて楽しい。それがただのパフォーマンスに終わることなく、オケがしっかり反応して音になっているところが頼もしい。ヴェルディならではのカンタービレ、そして爆発力。いずれも申し分なし。第2幕第2場で、フランドルの使節たちが歌う場面は印象的であった。もっと心をこめて、とばかりに男声合唱のほうに向き直り、ずうっと彼らに向かって指揮をしていたのだ。チェドリンス氏に向かって指揮をすることもあったが、コルネッティ氏にたいしては、しつこいくらい歌に表情づけの指示を与えていた。これはさすがに、少しやりすぎという感も。

マダウ・ディアツ氏の演出も、すばらしかった。ホール・オペラの常で、舞台上にはオーケストラが乗っている。歌手たちが演じる場所は、その前方と、後方に高くしつらえられた舞台の上。オーケストラの両脇には階段があり、舞台の前方と後方は行き来できるようになっている。後方の舞台に登場した歌手が、歌いながら階段をおりてきて前方の舞台に、ということもたびたび。また舞台奥の左右両脇にスクリーンがあり、それぞれの場面にふさわしい絵画の画像がそこに投影される。たとえば冒頭、後方の舞台上でカルロ五世の埋葬シーンがときどきストップモーションを交えながらパントマイム劇によって演じられるのだが、そのさいに投影された絵画はエル・グレコの「オルガス伯の埋葬」。舞台装置や衣装もセンスよし。とくに衣装は、16世紀スペインの宮廷画家サンチョス・コエーリョの肖像画をもとに、プランカート劇場衣裳というミラノの衣裳工房に特注してつくらせたものだという。たいした念の入れようだ。じっさい、それだけのことをした価値はあったと思う。群衆の動かしかたも、みごとなもの。とりわけ第2幕第2場は圧巻。群衆たちが客席後方から登場してくるのだ。赤旗と白旗をもった男たちがあらわれ、その旗を振ったりする。処刑される異端者たちも客席後方から登場する。その後も、この場面のあいだ群衆たちは客席の廊下に姿を見せている。フィリッポやエリザベッタは後方の舞台に、ドン・カルロとフランドルの使節たちは前方の舞台に、最初登場する。その後、のぼったりおりたりの行き来あり。つまりこの場面では、客席もふくめた3つの高低差のある舞台が、ひじょうに効果的に活用されたというわけだ。火あぶりの場面では、照明で舞台奥が赤く染まる。また舞台奥には、柱に吊り下げられた受刑者の姿も。第3幕第2場のロドリーゴ射殺シーンも印象的。2階LAの客席に、暗殺者がじっさい姿をあらわしたのだ。なお休憩は、第2幕と第3幕のあいだの1回のみ。

以上、細部には不満もないわけではないが、全体的には大満足である。はやくも来年のホール・オペラが楽しみでならない。

2001.6.7記


小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトU モーツァルト《コジ・ファン・トゥッテ》
4月11日 東京文化会館

小澤征爾指揮、小澤征爾音楽塾オーケストラ、小澤征爾音楽塾合唱団
ジョナサン・ウェッブ(チェンバロ)

演出:デイヴィッド・ニース

照明:ギイ・シメル

フィオルディリージ:クリスティーン・ゴーキー
フェランド:ジョン・オズボーン
ドラベッラ:モニカ・グループ
グリエルモ:マリウス・キーチェン
デスピーナ:ステファニア・ボンファデーリ
ドン・アルフォンゾ:ウィリアム・シメル



小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトは、じっさいのオペラ上演を通じて日本の若い音楽家たちを教育していこうという趣旨でおこなわれているもの。昨年の「フィガロの結婚」に続き、2年めの今回は、同じモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」がとりあげられた。オーケストラのメンバーは、オーディションによって選ばれた若い演奏家たちが中心だが、コーチ役として参加したサイトウ・キネン・オーケストラの面々も。したがって各楽器のトップは、かなり豪華な顔触れである。たっぷりとリハーサルを積み、しかもこの日は計5回にわたっておこなわれた当公演の最終日ということもあって、アンサンブルはよくまとまっていた。テンポは中庸ながら、なかなか溌剌とした演奏で好感をもった。

歌唱陣も粒ぞろい。いちばん聴きごたえがあったのは、ドラベッラのモニカ・グループ氏。CDも多数リリースされている、世界トップレベルのメゾ・ソプラノである。今回が初来日。声量は控えめながら、しっとりと丁寧に、そして繊細に、ドラベッラの心情を余すところなく表現。味わいある歌唱を聴かせてくれた。ドン・アルフォンゾのウィリアム・シメル氏は、ベテランならではの貫禄。この役は当たり役だけあって、さすがに聴きごたえじゅうぶんであった。その他の歌手は、まだキャリアを築き上げはじめたばかりの新鋭。フィオルディリージを歌ったクリスティーン・ゴーキー氏は、なかなかスケールが大きい。ただ歌が、いくぶん力任せに感じられたところも。フェランドのジョン・オズボーン氏とグリエルモのマリウス・キーチェン氏は、けっして悪くないが、まだまだこれからといった感。アリアにおける説得力も、いまひとつ。デスピーナのステファニア・ボンファデーリ氏は、とにかく表情が豊か。仕草も、かわいらしい。歌も、なかなか。愛嬌たっぷりで、彼女が出てくると舞台が華やいだ。将来が楽しみな歌手だ。

演出は、小澤氏とのコンビでおなじみのデイヴィッド・ニース氏。といっても装置と衣装は、小澤氏が1969年のザルツブルク音楽祭に同演目でオペラ・デビューしたさいの、ジャン=ピエール・ポネル氏によるプロダクションからの借用だという。となればニース氏の演出も、、やはりその影響下にあるものといってよかろう。ただ私は、そのポネル氏の演出というのを目にしたことがないので、両者を比較対照することはできない。

例によって、印象に残った点を列挙していくことにしよう。

第1幕。第1場は「ナポリの町のカフェ」。フェランドとグリエルモは、フェンシングに興じている。いっぽうのドン・アルフォンゾは、ビリヤードを。従業員らしき男たちは、ろうそくを手にして立っている。舞台の前寄り、3分の1あたりの場所に幅の広い階段が数段。その前方、やや低くなった場所には、いくぶん湾曲した長椅子が。この高低差のつけられた後方と前方の舞台を行ったり来たりしながら、男3人のやりとりがおこなわれる。いいアイディアだが、これはニース氏ではなく、ポネル氏の考えたものであろう。「剣を抜け!」のところでは、長椅子に腰かけたドン・アルフォンソに、他の2人がフェンシングの剣で迫る。

第2場は「ナポリの海を見晴らす高台にある姉妹の邸宅の小庭園」。装置も、その舞台転換も、なかなかみごとであった。が、これもポネル氏のアイディアなのであろう。フィオルディリージとドラベッラのふたりは最初、キャンバスに向かい絵を描いている。まずフィオルディリージが、みずからの絵を眺めながら歌をうたいだす。いっぽうのドラベッラは歌いながらも、まだ絵筆を動かしている。その後ドン・アルフォンゾが姿をあらわし、偽りの悲報を告げる。それを聞いたふたりの反応は、フィオルディリージのほうが派手。彼女たちの恋人、フェランドとグリエルモが登場。やがてドン・アルフォンゾの指示で、太鼓が鳴りだす。「すばらしき軍隊生活よ」の合唱。このときの合唱団、とくに女声陣の動きは、なかなかおみごとであった。溌剌としていて、かつ自然。愁嘆場がやってくる。ドン・アルフォンゾは舞台前方の湾曲した長椅子に腰かけ、客席に背を向けながら、それを見物。「笑わずにはいられない」と客席のほうに振り返って。いよいよフェランドとグリエルモが、舞台奥に停泊中の船に乗りこむ。後を追うフィオルディリージとドラベッラ。いったん相手をとりまちがえ、途中で気づいて慌てたりする。ドン・アルフォンゾに声をかけられ、遠ざかってゆく船にかけよってゆくときも、フィオルディリージのほうが反応が派手。その後の3重唱「風よ穏やかに」の場面では、舞台背景が青くなり、それがだんだん暗くなってゆくのだが、その繊細な照明のグラデーション変化には魅せられた。さすがギイ・シマール氏。

第3場は「姉妹の居間」。デスピーナ登場。ピンクを基調とした衣装で、とにかく目立つ。表情も豊か。指で鼻の下をこするのが癖らしく、この後の場面でも再三再四それを繰り返す。それ以外にも、歌いながら鏡をのぞきこんだり、マネキンの目を指で突き刺したり、と動きまわる。フィオルディリージとドラベッラが入ってくる。フィオルディリージは、いきなりベッドの枕を放り投げたりする。ここでも彼女のほうが、身振りが大きい。ドラベッラのアリア。その最中も、デスピーナは動きまわる。帽子をかぶって、その姿を鏡に映してみせたり。扇子をあおぎ、やはりその姿を鏡に映してみせたり。ドラベッラがベッドに倒れこむと、大げさに彼女を扇子であおいでみせたり。みずからのアリアの最中も、舞台前方までおりてきて長椅子に腰かけ、両足をそろえ椅子の上に乗せ、音楽に合わせて左右に振ったりする。ドン・アルフォンゾがレチタティーヴォを歌っているときには、舞台右手の壇上にすわり、一心不乱にココアをなめている。やがて変装したフェランドとグリエルモが登場。フェランドは青、グリエルモは赤い衣装。フィオルディリージに歩み寄って行こうとするグリエルモを、フェランドが突き飛ばす。そして、みずからフィオルディリージに。フィオルディリージは途中、ペンダントを見ながら歌う。そして、続くフィオルディリージのアリア「岩のように」。ドラベッラは、うっとりとした表情で歌を聴いている。デスピーナは、ばかばかしいといった顔。途中、ベッドにあおむけになる。フィオルディリージはそれを見て、デスピーナの腹に一撃。グリエルモのアリア。ドラベッラは、まんざらでもなさそうな顔で聴いている。ときどきフィオルディリージに向かって歌ったりしていたグリエルモだが、手がはやい。後ろからドラベッラの肩に手をまわし、いまにも抱きすくめんばかりの勢い。それを見たフィオルディリージは、グリエルモにビンタ。舞台は暗転。男3人の3重唱は前方の舞台で。そのまま前方の舞台で、フェランドのアリア「ああ、あの美しい人は」。長椅子に腰かけたグリエルモに向かい、歌って聴かせる。

第4場は「庭園」。背景にナポリ湾。ヴェスヴィオ火山も右手に見えている。これまで白だったフィオルディリージとドラベッラの衣装が、ここで黒にかわる。ドン・アルフォンゾのほうは、最初からずうっと黒。やがて変装したフェランドとグリエルモが再登場し、茶番の自殺騒動が始まる。薬を飲んだふたりは、階段のところに倒れこむ。その様子を舞台右手から見ているデスピーナ。いったん引っこみ、呼ばれて再登場。倒れた男ふたりは「ああ」とため息を吐きながら、階段を少しよじのぼったりしている。高低差が、ここでも生きる。ドン・アルフォンゾが樽状の電極らしきものを押してくる。その後から医者に変装したデスピーナが姿をあらわす。長椅子のところで磁石を試運転していると、バンと爆発音が。と、背景のヴェスヴィオ火山も噴火。これには笑った。大きな磁石を男ふたりに近づけるデスピーナ。うつぶせの男ふたりは、尻を激しく震わせる。やがて立ちあがると、女ふたりを抱擁。ここではフィオルディリージもドラベッラも、それぞれフェランドとグリエルモにビンタ。最後も、やはりグリエルモがフィオルディリージに、フェランドがドラベッラに歌ったりする場面あり。

第2幕第1場は「姉妹の居間」。フィオルディリージとドラベッラは衝立のかげで着替えの最中。フィオルディリージは薄い青、ドラベッラは薄いピンクの衣装。第1幕におけるフェランドの衣装が青、グリエルモが赤だったことを思うと、ふたりの将来を暗示している配色ということか。その後すぐ、ふたたび着替え、ふたりはまた白い衣装にもどる。さて、デスピーナもまじえた3重唱である。イチジクとリンゴという歌詞のところで、デスピーナはじっさいに前かけから実をとりだしてみせる。続く、デスピーナのアリア。フィオルディリージは無関心を装い、ベッドに腰かけ刺繍にはげむ。ドラベッラもベッドに腰かけ、読書をしているが、こちらはデスピーナの歌に興味津々。すっかり聴き入ってしまい、途中で本を落っことす始末。デスピーナは前方の舞台におりてきて、長椅子の上に立って「女王様のように」と歌う。立ち去る前に、その長椅子の上に赤と青の果実をおいてゆく。むろんこの果実は、男ふたりを象徴しているわけだ。続く姉妹の2重唱。ドラベッラが浮気に意欲満々なのはオリジナルどおりだが、この演出ではフィオルディリージもこの段階でけっこう乗り気である。長椅子におかれてあったリンゴを手にして歌う。けっきょくフィオルディリージが果実をふたつとも手にして舞台袖に。それはないでしょ、と後を追うドラベッラ。と、そこにドン・アルフォンソがあらわれる。

第2場は「海辺の庭園」。背景は赤。変装中のフェランドとグリエルモが、舞台奥に到着した船から降り立つ。デスピーナが男ふたりから花の首飾りを受けとり、それをフィオルディリージとドラベッラの首にかける。舞台には前方の湾曲した長椅子とは別に、右手と左手にそれぞれひとつずつ椅子がおかれてある。左手の椅子にドラベッラ。隣にグリエルモがやってきても、彼女は逃げない。いっぽう右手の椅子のフィオルディリージは、隣にフェランドが来ると慌てて立ちあがる。その後、4重唱。デスピーナはフェランドを押したり、彼の両手を合わせたりして、しきりにせっつく。4人は舞台前方におりてきて長椅子に腰かけ、お見合い。フィオルディリージとフェランドが散歩しながら退場すると、グリエルモがドラベッラに迫る。壁のかげに隠れていたドン・アルフォンソが、グリエルモに小道具のロケットを手渡す。グリエルモがそのロケットを振り子のように振ると、ドラベッラはそれに合わせて首を振る。「こうもり」風だ。2重唱を歌いながらロケットを交換するのだが、そのさいグリエルモは何度もドラベッラの胸を触る。なんとも、いやらしい手つきである。続いて、フィオルディリージとフェランドが再登場。激しく迫るフェランド。青いヘアバンドを、床に投げ捨てる。舞台前方の長椅子にすわったフィオルディリージにキスしようとすると、慌てて振り返り彼女は逃げる。フェランドのアリアの後、再度フィオルディリージが登場。歌いながら、舞台後方の椅子の上におかれてあった花の首飾りをいったんに手にする。が、けっきょく床に投げ捨てる。有名なロンド。グリエルモへの愛を歌うところでは、胸のロケットを手にとる。終盤、テンポが速くなると床に落ちていたフェランドのヘアバンドを拾って歌う。なおこの曲はホルンに超絶技巧が要求されることで知られるが、この日の演奏は完璧。演奏後、他のオケのメンバーがホルン奏者に拍手を送っていたのが印象的であった。フェランドとグリエルモ登場。グリエルモは肖像を交換したロケットを、かざしてみせる。ショックを受けるフェランド。グリエルモのアリアは、舞台前方の長椅子で。最初はフェランドに向かって歌う。途中、椅子の上に立ちあがって歌う場面も。

第3場は「姉妹の居間」。第1幕第3場と同じセットだが、ベッドや机の並べかたが変わっている。ドラベッラの愛のアリア。デスピーナは、興味なさそうにベッドにあおむけになる。わかったふうになによ、とでも言いたげ。扇子を派手にあおってみせたりする。いっぽうのフィオルディリージは、なにやら物思い。わかったふうになによ、とでも言いたげ。とデスピーナは興味なしといった態度。フィオルディリージがひとりになると、フェランドとグリエルモとドン・アルフォンソがこっそり後ろから登場。右手の部屋に隠れる。デスピーナを呼ぶフィオルディリージ。ふたりで意味不明に笑いあう。デスピーナが剣と帽子と服を持ってくると、そのうちフィオルディリージは白いマントのみを羽織る。舞台前方の長椅子で、フィオルディリージに迫るフェランド。手をにぎり、後ろから抱きしめ、ついにはキスすることに成功。さきほどの仕返しとばかり、ロケットをかざしながらグリエルモのもとへ。男3人がCosi fan tutte! と歌っていると、舞台右手からデスピーナ登場。彼女の合図で舞台転換が始まる。暗転して舞台転換というこれまでのパターンを、最後の最後で裏切ってみせたわけだ。

第4場は「大広間」。オリジナル台本で指示されている舞台上の楽団は、この演出ではなし。テーブルに左からグリエルモ、ドラベッラ、フィオルディリージ、フェランド。フィオルディリージとフェランドは、やたら幸せそう。それにたいし、グリエルモはひとりそっぽを向いて呪いの言葉を吐いている。それを見て顔がくもるドラベッラ。いたたまれなくなって舞台左手に走り去っていったところに、公証人に変装したデスピーナがびっこひきひき登場。ようやくドラベッラに笑顔がもどる。デスピーナは結婚証書を読むとき、わざと名前をまちがえたりする。まちがえられたグリエルモとドラベッラは、慌てて指をさして訂正。「すばらしき軍隊生活よ」の合唱が聞こえ、慌てる一同。デスピーナはテーブルの下に隠れる。そのさいケーキを手にすることを忘れない。フェランドとグリエルモが登場。このときフェランドがやたら怒っているのが不自然に感じられた。鞄を床にたたきつけたり、歌いかたに妙に棘があったり。流れからいって、ここはグリエルモのほうが怒っていないとおかしいように私は思う。テーブル下に隠れていたデスピーナが見つかる。口のまわりがケーキで真っ白。ドン・アルフォンゾが指さして、それを教えてやる。手渡されたタオルで、慌てて口のまわりを拭う。このときは、まだ共謀者のつもり。ところが彼女もだまされていたことがわかり、プライドを傷つけられる。舞台前方の長椅子に両肘をつき、不満げな顔。ラストの6重唱。最後の最後でフィオルディリージとフェランド、ドラベッラとグリエルモというカップルになったところで幕。

以上、装置と衣装はセンスよし。とりわけ階段による高低差と、舞台前方の長椅子を徹底的に活用したのはグッドである。ただしこれは、ポネル氏のアイディアだと思われる。ニース氏の演出にも、それなりの工夫は感じられた。男女ふたりのカップルが最終的にどうなるのか、けっきょく最後の最後までよくわからない。その、ふくみを持たせた終わらせかたは悪くない。が、どうも細部にあまり新鮮味が感じられないのだ。見ていて、いつも既視感がつきまとう演出なのである。

ということで大満足とは行かないが、とりあえず全体的にまずまず満足といったところか。ちなみに来年5月におこなわれる小澤征爾オペラ・プロジェクトVの概要が、もう発表されている。演目は「ドン・ジョヴァンニ」。タイトルロールは、いまをときめくプリン・ターフェル氏。ドンナ・アンナはソンドラ・ラドヴァノフスキー氏。ドンナ・エルヴィーラはクリスティーン・ゴーキー氏。プリン・ターフェル氏がドン・ジョヴァンニを歌うとなると、これも聴かずばなるまい。

2001.5.26記


エディタ・グルベローヴァ&米良美一 スペシャル・コンサート
4月9日 東京芸術劇場
フリードリッヒ・ハイダー指揮、東京フィルハーモニー交響楽団

パーセル:“羊飼いよ、羊飼いよ”(歌劇《アーサー王》より)
パーセル:“トランペットを吹き鳴らせ”
ヘンデル:“輝けるセラフたちを”(オラトリオ《サムソン》より)
ヘンデル:“今、トランペットが勝利を告げる”(歌劇《リナルド》より)
モーツァルト:歌劇《フィガロの結婚》序曲
モーツァルト:演奏会用アリア“汝らに説き明かさん、おお神よ” K.418

ドリーブ:“若いインドの娘はどこへ(鐘の歌)”(歌劇《ラクメ》より)
ヨハン・シュトラウス:喜歌劇《こうもり》序曲
ヨハン・シュトラウス:“いなか娘の姿で”(喜歌劇《こうもり》より)
ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ“憂いもなく”
オッフェンバック:“森の小鳥はあこがれを歌う”(歌劇《ホフマン物語》より)


米良美一氏のことは、ずいぶん前から知っている。「もののけ姫」でブレイクする数年前、私の知り合いの作曲家が主催する小さなコンサートに出演したことがあったのだ。当時はまだ彼がカウンターテナーであることすら知らなかったので、その最初の一声を聴いて大いに驚かされたことを覚えている。その後も彼には、いくどか驚かされた。「もののけ姫」もそのひとつであったが、それよりなにより最大の驚きは、グルベローヴァ氏とジョイント・コンサートをおこなったことだ。グルベローヴァ氏といえば、名実ともに世界最高のソプラノ歌手のひとり。米良氏の実力を認めるにやぶさかではないが、これはいくらなんでも時期尚早であろう。私には、そう思えた。1998年のブダペストにおける初共演の模様はライヴ録音され、CDリリースされた。じっさいにそれを聴いても、その印象は覆らなかった。よって今回実現した彼らの日本初共演にも、さほど大きな期待を抱きはしなかった。あくまでグルベローヴァ氏めあてで、足を運んだコンサートである。

ひょっとすると米良美一氏の成長ぶりを目の当たりにすることができるかも、という淡い期待もあった。が、残念ながらそうはならなかった。この日の米良くんは、明らかに不調。そのせいか曲目も当初発表されていたものが変更され、彼の出番は大幅に減った。ソロで歌う予定だったロッシーニの歌劇『タンクレディ』より「おお、祖国よ! 大いなる不安と苦しみの後で」。2重唱で歌う予定だった、同じ『タンクレディ』からの「ほっといてくれ〜ああ!彼女の心はなぜまた〜ええそうです、貴方だけが」。そしてもうひとつ、ソロで歌う予定だったヨハン・シュトラウスの喜歌劇『こうもり』よりオルロフスキーのクープレ「お客を呼ぶのは私の趣味で」。いずれも後半に歌われる予定だった以上3曲がすべてキャンセルされたため、米良くんの出番は前半のみとなった。

まずはパーセルの2曲から。「羊飼いよ、羊飼いよ」は2重唱。前述したライヴ盤CDにおいても、冒頭に収録されている曲だ。オーケストラはチェロ2、コントラバス1、フルート2、オーボエ2、ファゴット1、チェンバロ1という小編成。ふだんピリオド楽器の演奏で耳にする機会の多い曲だけに、どうしてもモダン楽器だとやや重く感じられる。出だしということもあって、グルベローヴァ氏の高音がやや不安定。ごくわずかながら、フラット気味であった。米良くんとの息も、ぴったり噛み合わず。続いてグルベローヴァ氏のソロで「トランペットを吹き鳴らせ」。ファゴットにかわり、オケにトランペットが2本加わる。これは彼女お得意の曲だけあって、さすがに聴かせてくれた。トランペットも、みごとな出来であった。

次はヘンデルを2曲。「輝けるセラフたちを」は、前曲に引き続きグルベローヴァ氏のソロ。これも彼女にとっては、お得意の一曲である。ようやくここでオケが、通常の弦楽器編成となる。終盤の聴かせどころ、低音から高音に一気に駆けあがるフレーズも、若干の不安を感じさせるものではあったが、いちおう決まった。トランペットとのかけあいは、ここでも完璧。徐々にグルベローヴァ氏が調子を上げていっている様子が伝わってくる。続く「今、トランペットが勝利を告げる」は米良くんのソロ。これは残念な結果に終わってしまった。声は生彩に欠け、高音はことごとくフラット気味。あわれ、である。よほど体調が悪かったのであろう。連鎖反応というわけでもないのだろうが、これまでほぼ完璧だったトランペットまでよろける始末。演奏曲目はトランペットが活躍する曲を並べたり、オケの編成を次第に大きくしていったりと、なかなかよく考えられていた。

前半最後はモーツァルト。まずは「フィガロの結婚」序曲。むろんオケのみの演奏である。ハイダー氏の指揮する東フィルの演奏は、ややがさつに感じられるところもあったが、そのきびきびとした音楽運びには魅力あり。続いてグルベローヴァ氏のソロで「汝らに説き明かさん、おお神よ」。これは彼女の、十八番中の十八番である。オケの前奏が始まると同時に、はやくも顔による演技が始まった。歌いだしてからは、もうすべてが聴きどころといっていい。恋するクロリンダの心の揺らぎが、その歌からも、顔の表情からも、痛いほど伝わってくる。まず讃えるべきは、アダージョにおける弱声の完璧なコントロール。音色や音量を微妙に変化させながら、限りなく表情豊かに歌ってみせるのだ。レガートも、ポルタメントも実に効果大。そして彼女の場合、なにより声そのものに大きな魅力がある。なんと、やわらかな美声なのだろう。しっかりとした芯はあるのだが、とろけるような甘さがある。それが会場全体を、やさしく包みこむ。聴いていると、まるで天国にいるような気分になってくる。アレグロに入ってからも、ほぼ文句のつけようのない出来。速いパッセージにおける切れ味も抜群。終盤の最低音から最高音に大きくジャンプするところも、びしっと決まった。こうなると、もう天下無敵のモーツァルトといわねばなるまい。なお、オブリガートでからむ独奏オーボエも絶品であった。

後半はドリーブから。グルベローヴァ氏のソロで「若いインドの娘はどこへ」。この通称「鐘の歌」もまた、彼女の十八番中の十八番。余人をもって代えがたしとは、まさに彼女のこの曲の歌唱のためにあるような言葉だ。冒頭から、もういきなり聴衆はノックアウトされる。最高音の強声を一気にデクレッションドさせる、その完璧無比なコントロール力。そして甘く、やわらかな美声。彼女が歌うと、この曲もまたすべてが聴きどころとなる。贅言は無用であろう。よって簡単に。ポルタメントの味わいは格別。劇的な訴求力にも不足なし。コロラトゥーラの技巧も、ここぞとばかりに冴えわたる。会場全体が彼女のコロラトゥーラに共振。演奏が終わると、ブラヴァが爆発した。

次はヨハン・シュトラウスの「こうもり」から2曲。まずはオーケストラによる序曲。けっして悪い演奏ではなかったが、個人的には間のとりかたがやや不十分に感じられたところがあった。少しせっかちな「こうもり」序曲、といった感。続いてグルベローヴァ氏のソロで、アデーレのクープレ「いなか娘の姿で」。この曲では、彼女の芸達者ぶりを存分に楽しむことができた。歌といい、顔の表情といい、ちょっとした身のこなしといい、まさに自在のきわみ。とりわけ、Lalalalalala...のところの歌唱には感心した。最初のLalalaはふつうに、リピートのさいは少しスタッカート気味に。と、がらりと表情を変えて歌ったのだ。またヨーデル風Lalalaのところでも、わざと最初いい加減に歌ったかと思うと、次は完璧に決めてみせたり。と、変化をつける。実に、おみごとな芸である。ここでも聴衆は大いに沸いた。

オケのみによるヨーゼフ・シュトラウスのポルカ「憂いもなく」の颯爽とした演奏をあいだにはさんで、本日最後のプログラムはオッフェンバック。グルベローヴァ氏のソロでオランピアのアリア「森の小鳥はあこがれを歌う」。当日になって追加された曲目ながら、これまた彼女お得意の演目だ。おさげ髪で舞台袖から登場してくるところから、もう演技が始まっている。完全に、機械仕掛けの人形になりきっているのだ。歌も当然、それ風。コロラトゥーラの技巧は、もちろん完璧。途中、何度か人形が動かなくなってしまう場面がある。そこでの演出が、またなかなか面白かった。まずト書きで「口を開けたままでいる」という指示のあるところ。最初は指揮者が指揮棒でポンと肩をたたくと、すぐに歌いだした。ところが2度めは、指揮者が同じことをいくらやっても効果なし。見かねたコンサートマスターが近づいていって肩をたたくと、とたんに動きだした。それを見た指揮者は、コンサートマスターに拍手。またト書きで「スパランツァーニが慌ててオランピアの背後にまわる。ゼンマイの音がする」とあるところ。これも最初はパーカッション奏者によるネジを巻く音で、すぐに動きだした。ところが2度めは、かたくなに動こうとしない。このときの、絶対に動くものかというグルベローヴァ氏の演技が聴衆の笑いを誘った。負けじと、しゃかりきになってネジを巻く音を出し続けるパーカッション奏者。と、ようやっと人形が動きだすのであった。場内、大爆笑。

アンコールは2曲。まずはグルベローヴァ氏のソロで、ドニゼッティの歌劇『シャモニーのリンダ』より「ああ、あまりに遅すぎた〜この心の光」。これも彼女の十八番のひとつ。まったく文句なしの歌唱であった。続いて米良くんが再登場、ふたりのデュオで「猫の2重唱」。昨秋のヴェセリーナ・カサロヴァ氏とのデュオ・リサイタルのさいにも歌われた曲であるが、相手が変わると雰囲気もだいぶ異なる。カサロヴァ氏とのコンビの場合、雌猫同士の意地の張りあいといった雰囲気であったが、今回は甘えん坊の仔猫と姉御分の雌猫とのやりとりとでもいった感じ。これも、なかなか面白く聴けた。

以上、デュオ・リサイタルと銘打っておきながら、米良氏の不調のため、実質上グルベローヴァ氏のリサイタルに米良氏がゲスト出演したような形のコンサートとなった。おかげで当初予定されていたプログラム以上にグルベローヴァ氏の十八番オンパレードとなり、個人的にはかえって嬉しい結果に。よって、この日も大満足。

2001.5.14記


新日本フィルハーモニー交響楽団 第318回定期演奏会
4月5日 すみだトリフォニーホール

クリスチャン・アルミンク指揮
松居直美(オルガン)
菅英三子(ソプラノ)
小畑朱実(アルト)
川上洋司(テノール)
甲斐栄次郎(バリトン)
栗友会合唱団(合唱指揮:栗山文昭)

シューベルト:交響曲第4番《悲劇的》
ヤナーチェク:《グラゴル・ミサ》



クリスチャン・アルミンク氏はウィーン出身、今年で30歳という若手指揮者。24歳のとき、チェコのオストラヴァにあるヤナーチェク・フィルを振って指揮者デビュー。その2か月後には同フィルから首席指揮者に指名され、現在では音楽監督を務めているという。オペラ指揮者としても活躍中で、ヨーロッパではそうとう注目されている期待の若手だ。すでにCDも3枚リリースされており、とくに3枚めのヤナーチェク作品集は好評。1999年にARTE NOVAからリリースされた同アルバムは、今回の来日に合わせ来日記念盤として国内盤としても発売された。

小澤征爾氏のアシスタントを務めていた関係から、彼は過去にも新日本フィルを振ったことがある。が、定期への登場は今回がはじめて。先に3月29日のオーチャード・シリーズでリヒャルト・シュトラウス、リスト、ブラームスというプラグラムを振っているが、私はヤナーチェクをメインに据えたこちらの公演を選んだ。

まず前半はシューベルト。ベーレンライター新版による演奏だという。この版によるシューベルトの交響曲というと、インマゼール氏が手兵アニマ・エテルナを指揮した全集CDのことをすぐに思い浮かべる。が、かたやオリジナル楽器、かたや現代楽器。当然のことながら、両者の演奏は似ても似つかぬものとなった。使用された楽器ばかりでなく、指揮者の資質も両者は大きく異なる。アルミンク氏は最大限、歌心を重要視したアプローチ。そのため疾走感や躍動感、あるいは重厚さといった面では、やや物足りなく感じられるところもあった。たとえば第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェの第1主題など、個人的にはもっと激しく疾走させてほしいところだ。が、同じ第1楽章でも、やさしい歌に満ちた第2主題になると、音楽が俄然生気を帯びてくる。そういう意味で第2楽章アンダンテは、ひじょうに聴きごたえがあった。ppのドルチェによる出だしからすばらしかったが、極めつきは短調に入ってから第1ヴァイオリンと木管がやりとりしながらpからppへとデクレッシェンドしてゆくあたりのニュアンス感。そこには青春の哀しみ、とでもいうべきものが匂い立っていた。第3楽章メヌエットにおいては、トリオの木管が絶品。その優美さ。気品。第4楽章アレグロにおいても、第1ヴァイオリンと木管がpで歌いかわす第2主題に魅力。少しでも歌えそうなところでは、オケを歌わせずにはいられないのだ。いい意味での若さ。気品。そして歌心。それが、この演奏最大の魅力であった。この曲の場合、そうしたアプローチもけっして悪くないと思う。

後半は、いよいよ期待のヤナーチェク。出だしから、びっくり仰天。なんと、いきなり冒頭で終曲の「イントラーダ」が演奏されたのである。終演後あわててパンフレットに目を通すと、指揮者の意向によりそうしたのだという。もともと作曲者自身は曲の両端に「イントラーダ」をおき、全体を枠取るつもりであった。ところが出版のさい、なんらかの事情により冒頭の「イントラーダ」のみ削除されたという経緯がある。よって、これはけっして作品の改竄などではない。とはいえ事情を知らなかったため、驚いたのなんの。しかもその「イントラーダ」の、鮮烈なこと。金管とティンパニが、のっけから力強く炸裂する。前半のシューベルトとは明らかに異なるインパクトだ。続く「序曲」は、ややおさえめ。といっても表情は限りなく豊かで、劇的表出力あり。第2曲「ゴスポディ・ポミルイ(主よ憐れみ給え)」は、通常のミサでいう「キリエ」にあたる。チェロが冒頭で奏でる、限りなく暗鬱なモチーフが印象的。ここにもドラマを感じる。最初弱声で加わってくる合唱は充実していた。ソプラノ独唱も立派。第3曲「スラヴァ(栄光は)」は、イコール「グローリア」である。当然のことながら、明るく華やいだ音楽だ。アルミンク氏は、かなり速いテンポでここを押し通した。祝祭的気分が横溢する。ティンパニ連打には迫力あり。テノール独唱は悪くなかったが、個人的にはもう少しパワーがほしいところだ。第4曲 「ヴェルーユ(我は信ずる)」は、イコール「クレド」。この長丁場においては、アルミンク氏のオペラ指揮者としての才能がいかんなく発揮されることになった。なんとドラマティックかつオペラティックな音楽の展開であったことか。管弦楽とオルガンによる受難の描写の部分で、とくにそれを強く感じた。その他、印象に残った点。受難の描写に入る前、「ヴェルーユ」を繰り返す女声合唱とクラリネットがかけあうところ。また受難の描写が終わり、「十字架にかけられ」の合唱に続いて出てくるヴァイオリン。どちらも、えもいわれぬ美しさであった。第5曲「スヴェト(聖なるかな)」は、通常の「サンクトゥス」にあたるもの。優美さと気品が漂う出だし。そして独奏ヴァイオリンの、かそけき味わい。独唱陣が次つぎに加わってくるところでは、しだいにテンポを落としてゆき、アルトが歌いだす直前で少し間をとる。また中盤、低弦が同音反復でリズムを刻むところでは、最初の数音のみアクセントを利かせ、その後は弱く。と、芸が細かい。第6曲「アニェチェ・ポジィ(神の子羊)」は、イコール「アニュス・デイ」。これは絶品であった。神秘的なモチーフが幾度となく繰り返されるのだが、その雰囲気描写が抜群なのだ。聴きながら、いつまでもずうっとこのリフレインを聴いていたいと思ったほど。第7曲はオルガン独奏。激しいパッサカリアだ。途中ややテンポがぎくしゃくした感もあったが、なかなかみごとな演奏であった。そして第8曲で、ふたたび「イントラーダ」。冒頭以上に、大きく盛りあげてジ・エンド。若い指揮者ながら、音楽が一本調子になるようなことは皆無。マクロ的にもミクロ的にも、実によく考え抜いたうえで指揮をしている。大いに感心。

ということで、この日のコンサートも満足である。以前、アルミンク氏がヴェルディの「椿姫」抜粋を指揮したコンサートを聴いたことがある。そのときも思ったが、この日のコンサートを聴いてさらに確信した。彼の真骨頂は、やはりオペラにある。ぜひ次回の来日時には、彼の振るオペラ全曲演奏を聴いてみたいものだ。新国立劇場あたりで、なんとかならないものであろうか。

2001.5.7記


新国立劇場 ワーグナー:《ラインの黄金》
2001年4月3日 新国立劇場オペラ劇場
準・メルクル指揮、東京フィルハーモニー交響楽団

演出:キース・ウォーナー
装置・衣裳:デヴィッド・フィールディング

ヴォータン:ハリーピータース
ドンナー:大島幾雄
フロー:水口 聡
ローゲ:星 洋二
ファゾルト:長谷川 顯
ファフナー:佐藤泰弘
アルベリヒ:島村武男
ミーメ:松浦 健
フリッカ:藤村実穂子
フライア:岩井理花
エルダ:黒木香保里
ヴォークリンデ:森野由み
ヴェルググンデ:白土理香
フロスヒルデ:菅 有実子



トーキョー・リングの序夜「ラインの黄金」。私は2日前、すでにAキャストの2日めを聴いている。この日はBキャストの初日。歌唱陣の聴き比べを楽しむつもりでいたのだが、けっきょくいちばん楽しめたのはこの日もキース・ウォーナー氏の演出であった。

まずは歌唱陣について。男声陣は、Aキャストと比べるとやはり一段落ちる。とはいえAキャストは、そのままバイロイトに持っていってもいいくらいの歌手をずらりと取り揃えていたわけだから、それもまあ致し方ないことであろう。ヴォータン役のハリー・ピータース氏は、演出の段取りどおり動くことにばかり神経が行ってしまったのか、演技・歌唱ともに、どことなく自信なさげ。じっさい、はじめのうちは声がまったくといっていいほど届いてこなかった。後半、だいぶ持ち直してはきたのだが。カーテンコールのさいブーイングを浴びせられていたが、あの演唱ではそれもやむをえまい。ローゲ役の星洋二氏も健闘はしていたが、演技や歌唱にゆとりが感じられない。みずから楽しみながら演じていたAキャストのミュッラー=ローレンツ氏と比べると、どうしても硬く感じられてしまう。アルベリヒ役の島村武男氏は声にパワーがあったし、切迫した場面における演唱も悪くなかった。が、第1場の映画館ナンパの場面においても顔がこわばったまま。この演出の場合、第1場はもっと演じる側が楽しんでくれないと困る。ミーメの松浦健氏は、せっかちなミーメをなかなか巧く演じていたと思う。が、どうもその甲高い声がアンサンブルからひとり遊離していたような気も。その他の男声陣については、まとめて。いずれも歌唱面はまずまずであったと思うが、演技面でどうしてもAキャストより見劣りがしてしまう。もっともそれは、この日が初日であったせいなのかもしれないが。

続いて女声陣。こちらには収穫があった。まずフリッカ役の藤村実穂子氏。声のパワーと劇的表現力は、Aキャストの小山由美氏以上。
繊細な心情表現という点に関しては、まだ小山さんに一日の長があるようだが。この日のヴォータン役がやや非力だったこともあり、亭主を尻に敷く女房といったイメージのフリッカであった。すでにドイツやオーストリアなどで活躍中とのことだが、国際的檜舞台において今後ますます存在感を増していくこと疑いなしの強力メゾ・ソプラノである。もうひとりの収穫は、エルダを歌った黒木香保里氏。今回が新国立劇場デビューとのことだが、そうは思えぬほどの堂々たる歌唱。こちらも声のパワーと劇的表現力は、Aキャストのビルギット・レンメルト氏以上。まだ若く、舞台経験は豊富とはいえないようだが、きっと将来は世界的アルト歌手として大成することであろう。その他の女声陣も、みなまずまず。

さて、キース・ウォーナー氏の演出についてである。前回すでに詳述しているので、今回は前回気づかなかった点や、前回と異なっていた点についてのみ簡単に触れておくことにする。

まず第1場。アルベリヒが映画館ナンパよろしくラインの乙女たちに迫る場面。前述したように、この日のアルベリヒには滑稽味が不足していた。悲壮感を漂わせた奇妙なナンパとなってしまった。Aキャストのオスカー・ヒッレブラント氏は、ひとつずつ座席を移動し、乙女にすり寄ってゆくときの仕草にもっと愛敬があった。この演出の場合、そのほうが正解であろう。また水着姿のラインの乙女たちが黄金讃歌をうたう場面で、途中ひとりがフリを忘れてしまうといった一幕も。さしたる瑕疵でもないのだが。

次に第2場。槍を手にしたヴォータンが舞台にあらわれ、前方の細長い箱のなかにそれをしまうということは前回も触れた。その後登場したフリッカが、その槍の入った箱のふたを開けるという演出には、この日はじめて気づいた。最初は「しょせん男は権力の虜」という歌詞を、みずから歌いながら。苦虫を噛みつぶしたような顔のヴォータンが、そのふたを閉める。次はファゾルトが登場し、彼が報酬としてフライアを要求してくる場面において。槍を手にとって戦いなさい、といわんばかりにフリッカが箱のふたを開けるのだ。このときもヴォータンは、すぐにふたを閉める。実にこまやかな演出である。ただその代わりというわけでもないのだろうが、フリッカが机の上におかれていたヴァルハルの設計書らしき図面を手にとり、丸めるという場面はなし。また巨人兄弟が登場したさい、前回はファフナーがすぐさま帽子を放り投げたのだが、この日はそれもなし。そのあたりの演技は、歌手の自由裁量に委ねられていたのだろうか。またフリッカが花束をヴォータンに手渡す場面。前回はヴォータンが受け取って、すぐに机の上のシルクハットのなかに放り入れたのだが、この日はヴォータンが受け取ろうとせず。これは、たぶんミスであろう。フリッカ役の藤村さんが、困っていたように見えた。その後、力が萎えてきたヴォータンが腰を下ろす場所が前回と今回では微妙に異なっていた。前回は床の上に腰をおろし、階段の手すりに背をもたせかけていた。今回、ヴォータンが腰をおろしたのは階段の最上段。演出家の指示なのか、歌手の自由裁量に委ねた結果なのかは不明。ローゲが黄金の林檎で神々をからかう場面では、いちど林檎を落としてしまったのだが、すぐに拾いあげ演技を続行。事なきをえた。最後。忘れ物をしたローゲが戻ってきて、神々にいたずらをする場面。ここにも微妙なちがいが。前回はスティックにひもがついているかのごとくローゲが引っ張ってみせた瞬間、神々が転倒した。この日のローゲはビリヤードのスティックよろしく、それを突いてみせたのである。それによって神々が転倒するのは同じ。

第3場。ここは前回と大きな差異はなかった。ただ最後、セットの移動中にミーメとグリムヒルデが登場する場面。前回は私の座席の関係で最後までよく見えなかったのだが、この日は最後ミーメが手でグリムヒルデに手招きをしていた。Aキャストのミーメも、やはり最後に手招きをしていたのだろうか。

第4場も、さほど目立った違いは見当たらず。財宝の入ったアタッシェケースが並べられるところで、ヴォータンが指折り数える仕草をしなかったこと。フライアが黄金の林檎をうっかり手落としてしまったこと、くらいだろうか。

それにしてもキース・ウォーナー氏の演出は、ほんとうに興味深いものだ。繰り返し見ても、まったく飽きることがない。余裕さえあれば、もういちど見てもいいと思ったくらいだ。ということで、この日も当然満足である。

2001.5.2記


ヴェルターヴォ弦楽四重奏団
2001年4月1日 武蔵野市民文化会館 小ホール

グリーグ:弦楽四重奏曲第2番(未完)
ニールセン:弦楽四重奏曲第1番
シベリウス:弦楽四重奏曲《親愛なる声》


ヴェルターヴォ弦楽四重奏団は、メンバー全員がノルウェー人女性。1984年に結成された、まだ若手といっていいカルテットである。1994年にヴィオラ、1995年には第2ヴァイオリンが交代したが、その後第2ヴァイオリンはふたたび元のメンバーに戻った。SIMAXレーベルからリリースされているCDは、いずれも好評。とりわけニールセンの弦楽四重奏曲を収録したデビュー・アルバムは、ノルウェー・グラミー賞を獲得。北欧音楽ファンのあいだで、話題を呼んだ。今回は、その彼女たちの初来日公演である。3月28日のトッパンホール公演ではモーツァルト、ヴォルフ、ピアソラ、グリーグが演奏されたそうだが、この日はオール北欧プログラム。曲目に惹かれ、私はこちらの公演を選んだ。

まずはグリーグ。グリーグの弦楽四重奏曲といえば、ふつう1877年から翌年にかけて作曲された第1番ト短調作品27を思い浮かべる。完全な形で残されている彼の弦楽四重奏曲は、実はこれだけ。1891年の作品、第2番ヘ長調のほうは第2楽章までしか残されていない。ユリウス・レヘントンによって補筆された4楽章版のCDもリリースされているが(チリンギリアン弦楽四重奏団によるHyperion盤)、この日の演奏は第2楽章まで。お国ものだけあって、のっけから実にすばらしい演奏を聴かせてくれた。まず音色が、限りなく魅力的であった。北欧的な渋さを基調としながらも、メンバーが全員女性ということも影響しているとみえ、ときに華やかさや、はんなりとした色気を感じさせてくれることも。そしてなにより驚いたのは、そのアグレッシヴな音楽づくり。強弱や緩急の対比を大きくとり、いっぽうで親密さや繊細さの限りを尽くしながら、ここぞというところでは疾走、高揚、飛翔。音楽は激烈をきわめるのだ。第2楽章におけるノルウェー風舞曲のリズム感は、まさに水を得た魚といった感。その微妙な間のとりかた、テンポの揺らしかたは、奔放にして自在。それでいて緊密なアンサンブルが揺らぐことは、いっさいない。彼女たちの演奏を聴いてしまうと、たとえばNAXOSからリリースされているオスロ弦楽四重奏団の演奏あたりは、優等生的で面白味のないものに感じられてくる。ぜひとも、ヴェルターヴォ弦楽四重奏団による同曲のCDリリースを実現させてほしいものだ。

次はニールセン。これは前述したように、彼女たちがデビュー・アルバムの曲目として選んだもの。十八番といって、いいだろう。CDの演奏も、たいへん表情豊かなものであり、文句なしの名演といっていいものである。が、どうも彼女たちは、実演でこそ真価を発揮するタイプの演奏家のようだ。とにかく、その集中力と気迫が半端ではない。この曲においても、CDとは比べものにならないくらい奔放かつ白熱した演奏が繰り広げられることになった。強弱や緩急の対比は、とことん大きく。音楽の表情も、優しいところは限りなく優しく。険しいところは限りなく険しく。たとえば第1楽章第2主題のチェロが奏でる旋律の、なんと優しいことか。その親密感。そして華やぎ。聴いていて、幸せいっぱいの気分にひたることができる。逆に第3楽章のスケルツォなどは、これ以上ありえないくらいに過激。強烈なアクセントで、音楽を一気に沸騰させる。ただここは気負いすぎたせいか、アンサンブルががっちり噛み合っていなかった。残念。第1ヴァイオリンのオイヴォール・ヴォッレ氏が風邪気味だったようで、そのことも影響していたのかもしれないが。ちなみに彼女、ヴォッレ氏は、エーテボリ交響楽団のコンサートマスターとしてもおなじみ。そうした小さな瑕疵に目をつむれば、全体的には極めつきの名演であったといってよかろう。親密な対話から、丁々発止としたやりとりまで。彼女たちが心から楽しみながら演奏している様子が、手にとるように伝わってくるのだ。完全に手中に収めた曲だけに、テンポの微妙な変動など、即興的なやりとりも目立った。まさに室内楽の醍醐味、ここに極まれりといった感。

休憩後はシベリウス。ここでも彼女たちの行きかたは変わらない。親密さと過激さを同居させた音楽づくりだ。第1楽章冒頭のヴァイオリンとチェロのやりとりは、タイトルそのまま「親愛なる声」に満ち満ちている。が、第2楽章の付点音符主題で早くも音楽は沸騰。かと思えば同じ第2楽章の終盤は限りなく優しく、繊細に。第3楽章は長大な緩徐楽章。ここでは彼女たちの音楽が、ただ単に親密さと過激さばかりからなるものではないということを証明。一音一音に意を尽くし、緊張感の高い、そしてたいへん深い内容をもった音楽をつくりあげることに成功していたと思う。ヴァイオリンとチェロがやりとりする場面におけるクレッシェンドが、ずいぶん派手であったことも印象に残った。続く第4楽章アレグレットから第5楽章アレグロにかけて、音楽はしだいに白熱の度合を増してゆく。やがて堰を切った奔流のごとく、音楽が爆発的に勢いづく。ここではとくに、チェロのビョルグ・ヴァーネス氏の活躍がめだった。激しく足踏みをしながら、ばりばり弾きまくる、その気迫には圧倒されずにはいられなかった。大きく大きく盛りあがって、終止符。

アンコールは1曲。北欧もので来るかと思っていたら、なんと意表を突いて「おてもやん」。幸松肇氏が編曲した版による演奏だと思われる。ひょうきんな顔をしながら、少し照れくさそうにチェロを奏でていたビョルグ・ヴァーネス氏の表情が印象的。演奏も、すばらしかった。

以上、大満足のコンサートであった。他のレパートリーはいざ知らず、こと北欧ものに関しては、このヴェルターヴォ弦楽四重奏団、他の追随を許さない域にまで到達しているように思う。今秋には、バルトークの弦楽四重奏曲全集のCDがリリースされる予定だという。これも、期待して聴いてみるつもり。それにしてもこの日は新国立劇場「ラインの黄金」、ヴェルターヴォ弦楽四重奏団と、どちらも大当たり。まことに充実した一日を過ごすことができた。

2001.5.2記


新国立劇場 ワーグナー:《ラインの黄金》
2001年4月1日 新国立劇場オペラ劇場
準・メルクル指揮、東京フィルハーモニー交響楽団

演出:キース・ウォーナー
装置・衣裳:デヴィッド・フィールディング

ヴォータン:アラン・タイトス
ドンナー:青戸知
フロー:永田峰雄
ローゲ:ヴォルフガング・ミュッラー=ローレンツ
ファゾルト:ハンス・チャマー
ファフナー:フィリップ・カン
アルベリヒ:オスカー・ヒッレブラント
ミーメ:ゲルハルト・ジーゲル
フリッカ:小山由美
フライア:田中三佐代
エルダ:ビルギット・レンメルト
ヴォークリンデ:クラウディア・バラインスキー
ヴェルググンデ:蔵野蘭子
フロスヒルデ:大林智子



新世紀を迎え、ついに新国立劇場が「ニーベルングの指環」をとりあげた。4部作を毎年ひとつずつ上演し、4年で完結させるという壮大な計画だ。その初年度は、序夜「ラインの黄金」である。この日はAキャストの2日め。見る前は、むしろ音楽面にたいする期待のほうが大きかった。が、じっさいに、いちばん魅せられたのはキース・ウォーナー氏の演出であった。

その演出に触れる前に、まずは歌唱陣について簡単に。

ヴォータン役のアラン・タイタス氏は、バイロイトにおける現役ばりばりのヴォータン歌手。さすがに、安定かつ充実した歌唱を聴かせてくれた。ただし今回の「ラインの黄金」を聴くかぎりでは、際立った個性というものが感じられない。が、それだけにかえって、どのような演出スタイルにも適応できる、柔軟性のあるヴォータン歌いともいえる。

この日いちばん聴かせてくれたのは、ローゲ役のヴォルフガング・ミュッラー=ローレンツ氏。「ラインの黄金」におけるローゲの比重は極めて大きいものがあるが、今回は演出上、通常以上にローゲの存在がクローズアップされている。彼の自在な演技と歌唱は、その演出上の要請にみごと応えるものであったといえよう。とにかく芸達者。今秋のバイエルン国立歌劇場来日公演におけるトリスタンも、期待できそうだ。

アルベリヒはオスカー・ヒッレブラント氏。第1場でラインの乙女たちに迫るときの好色そうな顔の表情が出色であった。歌も、まずまず。ミーメはゲルハルト・ジーゲル氏。「ラインの黄金」におけるミーメの出番はさほど多くないが、2年後の「ジークフリート」に期待をつなぐ演唱であった。

小人族の次は巨人族。ファゾルト役のハンス・チャマー氏とファフナー役のフィリップ・カン氏。今回の演出ではファゾルトとファフナーの性格のちがいを通常以上に明確に打ち出しているのだが、ふたりとも演技と歌唱の両面において、それを実に巧みにあらわしていたと思う。

ドンナーの青戸知氏とフローの永田峰雄氏。このふたりの日本人も大健闘である。Aキャストのなかに混じって、まったく不満を感じさせない出来であった。ただ演出上の要請からか、ずいぶんリリックなイメージのドンナーであった。それでもフローの永田氏がさらに輪をかけてリリックだったので、ふたりのバランスはとれていたといえよう。

女声陣に移ろう。正直な話、男声陣と比べるとやや劣ると思った。とはいえ「ラインの黄金」の場合、それでもとくに問題はなかろう。不満を覚えるほど、ひどい演唱のひとはひとりもいなかった。知人の話によると、フリッカ役の小山由美氏は初日キャンセルしたとのこと。この日の演唱を聴くかぎり、とくに不調という感じはなかった。絶好調なら、もっとすごい歌を聴かせてくれたのかもしれないが。

準・メルクル氏の指揮は、想像以上に立派な出来であった。ワーグナーの毒はあまり感じられないが、繊細さと柔軟性に富んだ、新時代のワーグナーを感じさせる指揮ぶりであったと思う。東京フィルも好演。いくどかホルンがよろけたりしていたが、全体的には大健闘。随所でオペラ的興奮を感じさせてくれる、なかなか聴きごたえのある演奏であった。

さて、いよいよ本題に移ろう。キース・ウォーナー氏の演出についてである。例によって、印象に残った点をオペラの流れにそって見てゆくことにする。

まず冒頭、舞台は暗転。と、舞台上にひとつの光源が。かすかに明るくなり、それが映写機の発する光だと見てとれるようになる。舞台上におかれた映写機が、スクリーンなき客席に向かって映画を映写しているのだ。その映写機の隣には、仙人のような姿の老人がひとり椅子に腰かけている。年老いたヴォータンなのであろう。これから舞台上で展開されるドラマは、この年老いたヴォータンが目にしている映画そのものだということか。すぐにまた暗転。

オーケストラが波の動機を奏ではじめると、舞台の床下から大きな装置がせりあがってくる。と、それは歪んだスクリーン。映画館の最前列右端の座席から目にするスクリーンの形である。そこに波や滝といった、さまざまな水の姿が映し出される。さらにそのスクリーンの前に、2列分の座席もせりあがってくる。第1場の舞台は、なんと映画館のなかという設定なのであった。ちなみにワーグナーのオリジナル台本では「ラインの河底」。2列めの座席の背には、1から19までの番号が振ってある。3人のラインの乙女たちは、その2列めの座席にすわり、スクリーンに映写されている映画を見ながらの登場となる。歌が始まると同時に、椅子の背ごしに人形劇のようなものを演じてみせる。私は思わず、にんまりした。これは、あの傑作ミュージカル映画「バンドワゴン」のなかでフレッド・アステア、ナネット・ファブレイ、ジャック・ブキャナンによって歌い演じられた三つ子のシーンのものまねではないか。映画のものまねをして戯れるラインの乙女たち。とアルベリヒもそれに呼応するかのように、映画のものまねを。2列15番の椅子の背をバタンと倒し、そこからキングコングの面をかぶって登場するのだ。ジャケット、パンツ、シャツは、いずれもすべて赤。プレスリーを彷彿とさせる、ど派手な衣装である。キングコングの面は、すぐにとられる。いっぽうラインの乙女たちは、みな白のワンピース姿。スカート丈は短い。白いヘアバンドをしている。ヴォークリンデは赤毛。ヴェルグンデはブロンド。フロスヒルデはブルネットで、ひとり黒縁の眼鏡をかけている。1950年代あたりのハリウッド映画で、よく見かけるファッションだ。彼女たちがアルベリヒを性的に誘惑してからかう場面では、椅子の上に立ちあがり、わざと脚を開いて、それを彼に見せつけたりする。プロレスのタッグよろしく、タッチして交代する乙女たち。次つぎにアルベリヒをもてあそぶ。とくに最後のフロスヒルデは気合が入っていて、眼鏡をはずし、それを姉たちに預けておいてから仕事にかかる。視覚的な誘惑にとどまらず、ついにはアルベリヒを抱きすくめんばかりの勢い。が、最後は彼を突きとばす。アルベリヒは2列15番の椅子の背があったところから、下に転落。その後のアルベリヒがラインの乙女たちを追いかける場面は、映画館ナンパ風。乙女がひとりずつ座席に姿をあらわす。と、まず少し離れた席にアルベリヒがすわる。そして乙女のいるほうにひとつずつ席を移動し、近づいてゆくのだ。そのときのアルベリヒの好色そうな、そして嬉しそうな顔。最後は、当然全員に逃げられるのだが。

いったん姿を消したラインの乙女たちが、今度は白い水着姿で登場してくる。みな白い競泳帽に、サングラス。そしてエスター・ウイリアムズ主演の水中バレエ映画「水着の女王」を想起させるフリつきで、黄金讃歌をうたうのだ。どうやらラインの乙女たちは、ハリウッド製ミュージカル映画のファンらしい。舞台上のスクリーンには依然として水が映写されているが、このときその水が黄金色に染まる。と同時に、そのうえにコンピューター制御のジグソーパズルが徐々に映し出されてゆく。そのジグソーパズルが、ラインの黄金というわけだ。ヴォークリンデが「愛の断念の動機」に乗って、秘密をもらしてしまう場面。ここでもヴォークリンデはアルベリヒに抱きつき、濃厚にからみつく。秘密を知ったアルベリヒが独白するくだりになると、背後のスクリーンに数式が映し出される。私は一瞬、ゴダールを想起した。あるいはダーレン・アロノフスキー監督の処女作「π」の影響か。数式は次第に増殖し、ついには次から次へと目まぐるしく入れ替わりはじめる。この数式にあらわれる記号というか文字が変わっていて、古代ルーン文字がなかに混じっているようにも見えた。指環伝説のおおもとは北欧神話であり、その古代北欧で使われていたのがルーン文字である。

アルベリヒが暴れる場面では、彼は映画館の椅子の上を歩きまわる。やがてアルベリヒが椅子の上からダイビングし、姿を消す。と、それにぴたりとタイミングを合わせ、スクリーン上にアルベリヒの姿があらわれる。水中を泳ぎ、黄金を奪いとるアルベリヒ。ラインの乙女たちは悲嘆にくれる。登場人物がスクリーンになかに入り込んでしまう映画といえば、「キートンの探偵学入門」が有名。ウディ・アレンの「カイロの紫のバラ」も、そうであった。ここでもまた映画的なアイディアが生かされている、というわけだ。舞台は暗転。とスクリーンに、巨大な眼が映し出される。青い瞳だ。一瞬ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」のごとくナイフで眼が切り裂かれるのかと思ったが、そうはならなかった。徐々にアップされていった眼球のなかに、黄金をあらわすパズルの一片が浮かびあがる。これは、いったいだれの眼なのであろうか。ニーベルング族や巨人族、あるいは神々をも超越した視点の存在とでもいったものを示そうとしたのか。

スクリーンが上方に、映画館の座席が下方に、それぞれ姿を消す。第2場への舞台転換の途中、舞台上に槍を手にしたヴォータンがあらわれる。反対側からは、黄金をあらわす巨大パズルの一片を抱きかかえたアルベリヒ。立ちどまることなく、ふたりはすれちがう。ヴォータンとアルベリヒ、そしてヴォータンの持つ槍とアルベリヒの持つ黄金が、このドラマを動かす原動力になっていることを暗示している、実に印象的な場面であった。

第2場。舞台前面には、いたるところに数式の書かれた壁。おそらく第1場のスクリーン上にあらわれた数式と、同じものと思われる。やはりルーン文字もふくまれているようだ。世界統治もしくは世界征服のための、秘密の数式とでもいったところか。その壁の中央部分が、第1場で登場したスクリーンとまったく同じ形にくり抜かれてあって、その奥が本舞台。ワーグナーのオリジナル台本では「広々とした山の高み」とあるが、この演出では部屋のなか。その室内の壁には、プラネタリウムさながらの宇宙が描かれている。ひょっとすると宇宙ステーションという設定なのか。部屋の左側には階段の手すりが見えている。階段そのものは見えない。右側には机がひとつ。その奥には窓がある。また引っ越しの準備中とみえ、ダンボールの箱がいくつか積みあげられている。その箱には、いずれも丸で囲まれたWの文字が。その横にはinc.とある。この演出におけるヴォータンは、なんらかの会社を経営しているらしい。なおこのダンボールにも、やはりルーン文字が。それぞれにひとつずつ異なる文字が書かれているところから察するに、ダンボールの中身をあらわしているものなのかもしれない。が、残念ながら私にはそれを読み解くだけの能力はなかった。またダンボールには、第1場における映画館の椅子の背と同様、きちんと数字が振られてあった。

槍を手にしたヴォータンが、左手の階段から登場。手前の箱のなかに槍をしまい、机の椅子にどっかと腰をおろす。だいぶ、お疲れの様子だ。会社の経営がうまく行っていないのだろうか。と、そこに、やはり左手の階段から妻のフリッカが姿をあらわす。オケがヴァルハルの動機を奏でると、映画のクレジットタイトルさながらにWALHALLという文字が窓の向こうを下から上に流れてゆく。フリッカは単にヴォータンの妻というだけでなく、会社の重役を兼ねているらしく、いかにもそれ風のファッションである。夫のヴァルハル建設に不満たらたらの彼女。机の上に広げてあったヴァルハルの設計図らしきものを手にとり、それを丸めたりしながら歌う。バブル崩壊後の日本企業にたいする当てこすりと、とれなくもない演出だ。フライアも、また左手の階段から姿を見せる。薄い水色のドレスに、ブロンドの髪。ハリウッド製のフィルムノワールに登場してくるヒロイン風のなりだ。第1場において「バンドワゴン」からのあからさまな引用があったせいもあり、私は同じ「バンドワゴン」のガールハントバレエのシーンでシド・チャリシーが着ていた衣装をすぐに連想した。

やがて巨人の動機が鳴り響く。と窓の向こうから、なにやら光源が近づいてくる。ファゾルトとファフナーの兄弟が電灯片手に、のっしのっしと歩いてきたのだ。黒い帽子に黒コート、と全身黒ずくめ。これまたハリウッド製フィルムノワールに登場してくるギャングを思わせる出で立ちだ。一見、ブルース・ブラザーズといった感も。いきなりファフナーは帽子を乱暴に放り投げ、凶暴性をかいま見せる。帽子の下はスキンヘッド。顔には、緑色の不気味な線が描かれている。また服のなかに詰めものをしているとみえ、体が大きくふくらんでいる。巨人族と前後して、ドンナーとフローも左手の階段から登場。ドンナーは黒革のキャップに、やはり黒革のコート。どことなく中国風。いっぽうのフローは茶系の衣装で、イギリス風のカントリースタイル。見ようによっては、どちらも映画の撮影スタッフ風ファッションと見えなくもない。ドンナーはダンボールのなかから槌をとりだし、巨人族に襲いかかろうとする。それを見たヴォータンは、箱のなかにしまっておいた槍をとりだし、力で制止。槌と槍が、ガチンとぶつかりあう。フローのほうは、しばらくするとダンボールのなかから8ミリキャメラを探しだし、それをまわしはじめる。ファフナーがフライアの林檎の話題に触れると、じっさいにフライアがダンボールのなかから黄金の林檎をとりだす。それを兄や姉のもとに持っていくフライア。

いよいよローゲの登場だ。これは意表を突いていた。左手の階段近くにあったダンボールが突然バンと爆発して、そのなかから姿をあらわしたのである。黒のシルクハットに黒マント、スティック片手というそのなりは、見るからにマジシャン風。そして、とにかくよく動く。ヴォータンの槍を何気なく奪って手にしたりするが、ヴォータンが不快感を示すとすぐに返す。また窓際で煙草に火をつけようとポケットを探るが、火が見つからずに肩をすくめる。その後フライアに近づき、黄金の林檎をいつしか奪いとる。長丁場の歌が始まると、机の上にあおむけに寝そべる。このとき手にしていた黄金の林檎を、机の上においてあったシルクハットのなかに隠す。歌の途中、今度は机に腰かけ、両足をそろえ、音楽に合わせて左右に振ったり。またヴォータンが槍をしまっておいた細長い箱の上を綱渡りよろしく歩いてみせたり。と、ひっきりなしに動きまわるのだ。その間、フローの8ミリキャメラは主にローゲに向けられている。やがてフリッカが指環に興味を示しはじめると、ローゲは胸元のポケットからオレンジ色のハンカチーフをとりだす。と、そこからさっと花束があらわれる。マジックである。それをフリッカに捧げる。フリッカはその花束を手にヴォータンのもとに歩み寄り、黄金を手に入れるように懇願。花束を手渡すのだ。思い通りに事が運んだローゲは、ガッツポーズ。ヴォータンは花束に興味がないとみえ、ろくに見もしないで机の上のシルクハットのなかに放りこむ。

どうすれば黄金を手に入れられるのかというヴォータンの問いに、盗むのですとローゲが答えると、ヴォータン以外の神々は突然バタリと倒れたり壁に寄りかかったり。ずいぶん派手なリアクションだなあと一瞬思ったが、どうやらすでにこの段階で神々の力が萎えかかってきているということらしい。ファフナーがフライアを連れていってしまっても、すぐそばにドンナーがいたにもかかわらず、槌を振り上げるどころか、彼には壁から身を起こす力すら残されていない。神々はその後さらに力が萎え、完全に倒れこんでしまう。ヴォータンも左手の階段の手すりにもたれるように、力なく座りこむ。ここでまたローゲが本領を発揮する。神々をからかって遊ぶのだ。神々の力が萎えたのは、黄金の林檎を食べていないせいだと見抜き、その黄金の林檎を机の上のシルクハットのなかからとりだす。そして倒れているドンナー、フリッカ、フロー、ヴォータンにそれぞれ近づいていって、それをいったんあげると見せかけ、彼らが手をのばすと、でもやっぱりあげない、とばかりに林檎を遠ざけるのだ。一種のいじめ、である。が、ヴォータンが一瞬のすきをつく。ローゲが背を向けているとき、槍で林檎を突き刺すのだ。しまった、という表情のローゲ。林檎をかじると、ヴォータンは急に力を盛り返す。その後のヴォータンとローゲのやりとりの最中、ローゲはふたたび煙草に火をつけようとポケットを探るが、またもや火が見つからずに断念。ヴォータン、続いてローゲ。と、ふたりは左手の階段をおりてゆく。本舞台の部屋と、その前面の壁とのあいだに、人が歩けるくらいの窪みがあるらしく、ヴォータンはそこを歩いて舞台右手に姿を消す。歩いているあいだ、ヴォータンの上半身だけが見えている。ローゲは、いったん忘れ物を取りに戻ってくる。スティックだ。ここでローゲが、またいたずらを。なんとか立ち上がったフリッカ、ドンナー、フローの3人にスティックを向ける。そして、まるでスティックにひもがついているかのごとく引っ張ってみせる。と、3人はぶざまに転倒。この演出におけるローゲは、マジシャンという設定にもよるのだろうが、完全に神々を手玉にとって楽しんでいる。

舞台転換。第2場のセットが舞台上を右に移動し姿を消す。と同時に、第3場のセットが左手から登場。ふたつのセットは、つながっているのだ。その移動の間、コートを羽織ったラインの乙女3人が舞台前方を通り過ぎる。黄金探索中といった雰囲気。

第3場のセットも、やはり前方に壁面があり、その中央部分がスクリーンの形にくり抜かれている。ただし第2場のものと同形ではなく、その左右対称形となっている。その奥の本舞台は、右上がりの緩やかな階段となっていて、何本か太い柱が立っている。階段の上のほうには机と、赤い椅子が数脚おかれている。前方の壁面に数式はなく、右手下方にはNIBELという大きな文字が上下左右逆向きに。左手上方にはそれと同じ大きさのHEIMという文字が、これはそのままの向きで書かれている。鍛冶の音が大きく鳴り響くと、舞台の奥が赤く染まる。働かされているニーベルング族の手だけがたくさん見える。

セットの右手上方からアルベリヒとミーメが登場。アルベリヒは先ほどと同じ赤シャツ、赤パンツ。上着は、さらにど派手な金のジャケットにかわっている。ミーメの衣装も赤が基調だが、こちらは自動車修理工とでもいった感じ。これもまたフィルムノワールには欠かせないキャラクターだ。アルベリヒはミーメから隠れ頭巾を奪いとると、机の上にあった使用説明書らしき書面と首っ引きになる。そのうちヘルメット状の隠れ頭巾をかぶると、所定の位置に立つ。と、その前の床板の一部がめくれあがる。その板は、先ほどのジグソーパズルの一片と同じような形をしている。プラスとマイナスの電極が書かれてあって、その後ろに隠れるように立ったアルベリヒは呪文とともに床下に姿を消す。やがてPAを通した彼の声が響きわたり、ミーメは姿なき兄に打ちのめされる。

前方の壁面右下の、ひっくり返ったNの字の右横に扉があり、そこからヴォータンとローゲが姿をあらわす。扉のなかには奥に向かって上り勾配の階段があり、その壁や天井には第2場の部屋のなか同様、プラネタリウムさながらの宇宙が描かれている。ヴォータンとローゲも、やがて左手の低いところから階段状のセットにあがる。ミーメとのやりとり。そのやりとりの最中、ローゲに見られないようにミーメが慌てて机の上の書面を隠したりする。

アルベリヒがふたたび姿をあらわす。今度は女をひとり伴っている。白い水着のうえに薄いコートをはおり、ブロンドの髪には白いヘアバンド。ラインの乙女たちと同じ格好であるが、よりコケティッシュ。登場するなり、コートの前をはだけたりしてローゲを誘惑。娼婦のごとき媚態を示す。どうやらこの女性が、やがてハーゲンを産むグリムヒルデということらしい。オリジナル台本では「神々の黄昏」第1幕冒頭のハーゲンの歌のなかで、たったいちど言及されるだけの存在だ。それをわざわざここで登場させたわけだ。やがて「財宝の動機」が鳴り響く。アルベリヒがニーベルング族をこきつかい、財宝を運搬させる。ニーベルング族は相変わらずセットの奥にいて、頭と手しか見えない。たくさんの手によって、アタッシェケースに入れられた財宝が舞台後方の床の斜面上に並べられてゆく。いつしか包丁ほどもある大きなナイフを手にしたアルベリヒが、残虐性を発揮。ニーベルング族のひとりの腕を切りとり、すぐさまそれを投げ捨てたりする。その後、そのナイフは机に突き立てられる。財宝を自慢したいアルベリヒはアタッシェケースをひとつ持ってきて、ヴォータンに持たせたりする。ヴォータンは、そのアタッシェケースを床におく。これが後の伏線となる。アルベリヒの凶暴性は、女にも向けられる。階段の上方で、あおむけになっているグリムヒルデを足で踏みつけたり、性行為を思わせるリズムで激しく左右に揺さぶったりする。アルベリヒが断念したのはあくまで精神的な愛情だけであり、肉欲は別であるということを視覚的に見せつける巧い演出だ。

ローゲはここでも第2場と変わらず、よく動く。アルベリヒとのやりとりの最中、椅子に腰かけ、机の上に両足をのばして乗せる。アルベリヒが不快な表情を見せようが、どこ吹く風。ついには何気なく隠れ頭巾を奪いとって、階段を下りていったりする。アルベリヒは慌てて後を追いかけ、奪い返す。やがてローゲは巧妙にアルベリヒをおだてあげ、隠れ頭巾で変身させる。机の赤い椅子をヴォータンのところまで運んでいき、どうぞこれにすわってご見物をとばかりに腰かけさせる。アルベリヒが所定の位置に立つと、先ほどと同様、床板の一部がめくれあがる。と、そのジグソーパズル状の板の中央には、蛇だか蜥蜴だかの絵が描かれているではないか。あらかじめ何に変身するか、予告されているわけだ。板の背後のアルベリヒが床下に姿を消す。と、まず大蛇の尻尾がセットの右下にあらわれる。と同時に何本かある柱からは、大きな爪のようなものがにょきっと生えだしてくる。柱が足、ということらしい。そして最後には、セット左上に巨大な大蛇の頭が。グリムヒルデは、いったん机の下に隠れる。やがて大蛇が勢いよく煙を吐きだすと、悲鳴をあげながら階段をかけおりてゆく。大蛇自体の動きは緩慢なので、この女性を走らせることによって生じた運動性は効果的。ローゲは巧妙にアルベリヒを誘い、今度はまんまと蛙に変身させる。このときもこれまで同様、床板の一部がめくれあがる。その中央には、きちんと蛙の絵が描かれてあった。じっさいに、蛙があらわれる。とローゲの指図にしたがい、ヴォータンは傍らにおかれてあったアタッシェケースを開ける。先ほどの何気ない伏線が、ここで生きるわけだ。ローゲはひもで蛙をしばる。それをヴォータンが両手でつかまえ、暴れる蛙に手こずりながらもケースのなかへ。急いで蓋をすると、ローゲがケースを持ち、舞台前方に。ヴォータンも後を追う。壁面右下の扉を開け、ふたりは階段をのぼってゆく。

セットが左に移動しはじめる。第3場から第4場への舞台転換だ。第4場は第2場と同じ舞台となるので、先ほどと同じセットが右から姿をあらわす。と、左に移動中の第3場のセットにミーメが登場。階段をのぼり、椅子の背にかけてあった兄アルベリヒの金のジャケットを着こむと、いかにも満足といった表情を浮かべ、椅子に腰かける。そして高笑い。いったんセットの移動がとまる。と、階段の下のほうからグリムヒルデが姿をあらわす。ローゲにも媚びを売っていた彼女のこと、当然ミーメにたいしても同様の媚態を示す。ミーメも、まんざらではない様子。グリムヒルデがミーメのほうに歩み寄りはじめたところで、ふたたびセットが移動しはじめ、すぐに見えなくなる。よって、その後どうなったのかは不明。しかしそうなると、この演出におけるハーゲンはミーメの子という可能性も出てくることになる。面白いアイディアだ。また、この舞台転換の最中にもラインの乙女たちがあらわれる。オケピットの左右上方にある窓から顔をのぞかせ、なにやら指さしたり叫んだりしていた。相変わらず黄金探索中なのだろうか。

第4場。前述したように第2場と同じセットだが、すでに引っ越し先に荷物を送ったのか、ダンボールはきれいに片づいている。そのおかげで部屋の奥に置かれた、第2場のさいには目にすることのできなかった映写機と映画用フィルム缶が、ここでははっきり見てとれる。この演出におけるヴォータンは、映画会社を経営している模様。左手の階段からヴォータンとローゲがあらわれる。アタッシェケースを床におき、ふたを開けると、そこから両手をひもで縛られたアルベリヒが登場。むろん床下に穴があいていて、そこから姿をあらわしたのであろう。ヴォータンから財宝を要求されたアルベリヒが、ニーベルング族に運んでこさせる場面。アルベリヒの右手のひもを切るさいローゲが使ったのは、第3場でアルベリヒが持っていたナイフだ。部屋と前方の壁面のあいだにある窪みを通って、呼び寄せられたニーベルング族がやってくる。ここでも彼らは頭と手しか見えない。財宝もやはり、アタッシェケースに入れられている。第3場とは異なり、ケースは縦に立てて整然と並べられてゆく。それを見ながらヴォータンは、指折り数をかぞえたりしている。こっちを見ることは許さぬというアルベリヒの言葉は無視され、ニーベルング族は窪みから身を乗りだし、アルベリヒを指さしながら激しくあざけり笑う。大きなショックを受けるアルベリヒ。ここまでアルベリヒを屈辱にまみれさせた演出に接したのは、はじめて。

その後の、ヴォータンがアルベリヒから指環を強奪する場面。ここでも、ハリウッド製犯罪映画さながらの残虐シーンが。あるいは深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズあたりの影響か。アルベリヒの手を台の上に押さえつけたヴォータンは、なんとナイフで指ごと切断してしまうのだ。絶妙のタイミングでナイフをヴォータンに手渡したのは、ローゲ。ナイフは、その後すぐにローゲが回収する。この演出においては、ドラマの展開をつかさどっているのはいつでもローゲなのである。アルベリヒは第3場でニーベルング族の腕を切断したが、今度はその同じナイフでみずからの指を切断されたということになる。まさに因果応報だ。アルベリヒは指環に呪いをかける。が、ヴォータンは手に入れたばかりの指環以外いっさい眼中にない。いっぽうのローゲも、隠れ頭巾の使用説明書らしき書面と首っ引き。ふたりともアルベリヒの呪いの言葉など、まったく聞いていない。アルベリヒがヴォータンに歩み寄ったのを見て、ようやくローゲはアルベリヒにナイフを向ける。アルベリヒはヴォータンの指にある指環に、キス。トスカの接吻のようなものか。とアルベリヒはローゲから、もともとは自分のものであるナイフを奪いとると、悲壮な覚悟の表情を浮かべ、みずからの股間にナイフを突き立てる。そのまま左手の階段をかけおり、姿を消す。ナイフが落ちる音。ローゲが後を追って階段をおり、途中に落ちていたと思われるナイフを拾って戻ってくる。オレンジのハンカチーフをとりだすと、ローゲはナイフについた血を平然と拭ってみせる。ローゲにとっては、これもまた予想どおりの展開だったのであろうか。しかしアルベリヒが愛情ばかりでなく肉欲まで絶ってしまったということになると、ますます後に登場してくるハーゲンがアルベリヒの子なのかミーメの子なのかの謎は深まる。

ファゾルトとファフナーの巨人兄弟が登場。部屋と前方壁面のあいだの窪みを、ゆったりと歩いてくる。荷物そのものは見えないが、ふたりがかりで大きなものを運んでいるということは見てとれる。フリッカ、ドンナー、フローも左手の階段から姿をあらわす。まだ萎えた力が完全に回復しきってはいない様子だ。巨人兄弟が大きな箱を部屋の床の上に持ちあげる。その箱のふたをフリッカが開けると、なかからフライアが顔を出す。抱きあう姉と妹。が、なぜかその後のフライアは、ファゾルトのほうにばかり目をやっている。その理由は、後で明らかになる。やがてファフナーが左手の階段をのぼって、部屋のなかに入ってくる。フライアの身代金として、財宝を要求。ローゲの陣頭指揮のもと、ドンナーとフローも協力し、アタッシェケースのなかの財宝が、次つぎとフライアのいる箱のなかにぶちまけられてゆく。中身が空になったアタッシェケースは、左手階段の下方にどんどん放り投げられる。この運動性も効果的。最初と最後のアタッシェケースを扱うのはローゲだが、そのふたつのケースにだけ、じっさいに金色の財宝が入っている。客席にもよく見えるように、中身をぶちまけるローゲ。次いで隠れ頭巾、そしてついにファフナーは指環まで要求してくる。拒絶するヴォータン。と、舞台は暗転。

エルダ登場である。前方の壁面、その左下の扉が開き、そこから姿をあらわす。ヴォータンは上方の舞台から、しきりに下方をのぞきこむ。ここではエルダとヴォータンにだけ、ライトがあたる。エルダの顔には、不気味な線が描かれている。体には、またしてもルーン文字のような文様が。エルダが歌い終え、左下の扉のなかに消えると、それを追うようにヴォータンが壁面をつたって下におりる。もちろん、ちゃんと下りられるように壁には足場が用意されてあるのだ。けっきょくヴォータンは指環を断念し、上方のファフナーに向かってそれを放りなげる。ここにも運動性。解放されたフライアは黄金の林檎を手に、姉や兄たちのもとに駆け寄る。ファゾルトは本気でフライアに未練を感じている様子。フライアも、まんざらではなさそうである。

ファゾルトとファフナーが仲違いする場面。部屋と壁面のあいだにある窪みで、事件は起こる。ヴォータンは依然下方にいて無関係。フリッカ、ドンナー、フローの3人も黄金の林檎に夢中で、まったく無関心。興味を示しているのはローゲとフライア。オリジナル台本ではファフナーが棍棒でファゾルトを打ち倒すことになっているが、ここでは例のもともとアルベリヒが持っていたナイフが凶器となる。ローゲがまたしても絶妙のタイミングで、ナイフをファフナーに手渡すのだ。何度も何度も兄のファゾルトにナイフを突き立てるファフナー。凶暴性ここに極まれり、といった感。ローゲは、すぐさま凶器のナイフをファフナーから回収する。この殺人を仕組んだのも、この演出ではローゲということになる。と、驚くべきことが起こる。事態を見守っていたフライアが、悲鳴をあげながらものすごい勢いで刺されたファゾルトのもとに駆け寄るのだ。そして手をさしのべる。やがて立ち上がったフライアの両手と水色の衣装は、ファゾルトの血に染まっている。絶望し、放心状態のフライア。明らかにフライアは、ファゾルトを愛しているのである。ストックホルム症候群か。フライアの拉致されていたのが一日にも満たない短い時間であることを考えると、そう呼ぶには多少無理があるような気もするが。いずれにせよ、犯罪の被害者が犯人に愛情を抱くようになったという図式である。私はヴィンセント・ギャロの長編処女作となった映画「バッファロー'66」を想起した。ここもまた面白いアイディアである。黄金の林檎をかじり、ようやく元気をとりもどしたフローが、ほんの一瞬フライアに8ミリキャメラを向ける。

なお第2場同様、第4場でも窓の向こうにWALHALLの文字があらわれる。より大きくなったその文字は、HOLLYWOODの看板を想起させるもの。ハリウッドへのオマージュが、ここにも。

やがてドンナーひとりを残し、みな退場する。ヴォータンは下方の舞台から、そのまま舞台左袖へ。その他は左手の階段から姿を消す。フライアはショックが大きく、動くことができない。フリッカに促され、ようやく歩を進める。と、ローゲがいったん戻ってくる。また忘れ物かと思ったら、そうではなく、ドンナーの手に槌を持たせたのだった。ここでもローゲが仕掛け人、というわけだ。雷鳴がとどろくと、バンと爆竹のようなものが舞台上で炸裂。さらに前方壁面の中央、縦方向に雷状の模様がくっきりと浮かびあがる。

ドンナーの歌が終わると、これまでのセットが舞台の床下に沈みはじめる。と同時に舞台の奥が明るくなり、オーケストラの奏でる「虹の動機」とともに新しいセットが舞台前方にゆっくりせりだしてくる。セットの壁も床も白く、光を反射。まばゆいばかりの明るさだ。ヴァルハルのエントランスを思わせるようなセットである。その左右の壁は、奥に向かうにつれ極端に横幅が狭くなってゆく。その壁の上方にも、数字が振られている。左壁には奇数、右壁には偶数。またそれぞれの壁にそって、アルファベットをかたどった人物大のオブジェがおかれてある。左側にWAL、右側にはHALL。また虹をあらわしたと思われる、いろとりどりの風船が上方から降ってくる。セット上にはヴォータンはじめ、フリッカ、フロー、フライアの正装した姿が。その衣装は白。フリッカは、早くも黄金の装身具で身を飾っている。フライアの顔は、相変わらず憂いに沈んだまま。ローゲだけは、これまでと同じ黒のマジシャン風衣装。しばらくするとブッダやキリストをはじめ、日本の神々までふくめたさまざまな神々が舞台右手から登場。手には招待券をもち、ローゲにそれを手渡してから入場する。どうやらその招待券を発送したのは、ローゲらしい。招待券を提示せずに入場しようとした神を、ローゲが制止。ようやく見つかった招待券が手渡されると、ローゲはどうぞと手で入場をうながす。といった細かい演出まであり。またローゲは、ノートゥングと思われる剣をヴォータンに手渡したりもする。もともとアルベリヒが持っていたあのナイフが、ローゲのマジックによりノートゥングに姿を変えたということなのだろうか。だとするとこの演出においては、今後のドラマの展開まですべてローゲがセッティングしたものと考えられないこともない。フローはここでもいつしか8ミリキャメラを手にし、それをまわしつづけている。

いよいよラスト、神々が舞台奥に向かってゆっくり歩を進めてゆく。ファゾルトの死のショックから立ち直ることのできないフライアは、ひとり入場を拒み、Lの字のオブジェの陰に身をひそめる。ローゲは三たび煙草をとりだすが、またしても火が見つからない。最後の最後になって、はたと気づく。自分は火の神なのだ。しかもこの演出ではマジシャンでもある。ようやくそのことに思い当たったローゲは、みずからの手のなかからバッと火をおこし、どうだとばかりに客席に向かってそれを高くかかげてみせる。このドラマの真の主役は自分なのだということを、ローゲみずからが宣言しているかのような幕切れであった。もうひとつ、おまけが。舞台が暗転する直前、3人のラインの乙女が舞台前方を右から左に横切ってゆくのだ。そのうちひとりはショッピングカートのようなものに乗り、ほかのふたりがそれを押している。カートのなかの乙女は子どもを抱えているように見えたが、いったいこれは何を意味しているのだろうか。時間的に合わないような気もするが、アルベリヒへの報復として、彼女たちが生まれたばかりのハーゲンを誘拐したのかと一瞬思ったりもした。暗転して舞台が完全な闇に包まれる直前、映写機から発せられたと思しき光が、いくたびか瞬く。

以上、映画に始まり、映画に終わった「ラインの黄金」であった。私は、これをシネマ・リングと呼びたい。単に特定の映画へのオマージュや映画的なしかけが多数登場するというだけでなく、ドラマの展開に映画史が重ね合わされているような気がしてならないのだ。深読みかもしれないが、ヴォータンにはハリウッドの大プロデューサー、たとえばデビッド・O・セルズニックあたりのイメージが投影されているように思われる。となるとヴァルハルは、ハリウッドに新設された巨大な映画スタジオとなろうか。またローゲには、メリエスをはじめとする、映画草創期に活躍した魔術師たちのイメージが投影されているような気も。もしそうだとすれば、ハリウッド映画の栄枯盛衰も、すべてメリエスのしかけたマジックだったとでもいうことになろうか。

私の読みが当たっているなら、「ワルキューレ」以降のどこかで必ず映画スタジオもしくは映画の撮影現場が舞台として登場してくるはずだ。むろん大ハズレという可能性もあるのだが。いずれにせよ、来年以降が楽しみでならないトーキョー・リングである。

2001.4.17記



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