コンサート雑感(2001年3月)

2001年[1月][2月]3月[4月]


30日 フィレンツェ歌劇場「トゥーランドット」
27日 フィレンツェ歌劇場「椿姫」
23日 御喜美江
21日 ザ・ハープ・コンソート「ルス・イ・ノルテ」
20日 児玉桃
19日 朝比奈隆ブラームス・チクルス第4夜
16日 木下尊惇+上松美香
15日 ザ・ハープ・コンソート「スパニッシュ・ジプシーズ」
14日 別宮貞雄「有間皇子」
11日 團伊玖磨「マレー乙女の歌へる」
10日 ディアンス
10日 楊静
9日 アルブレヒト/読売日響
8日 キンボー・イシイ=エトウ/新日本フィル
7日 ムローヴァ「鏡の国のアリス」
4日 NOP「耳なし芳一」
3日 タカーチ弦楽四重奏団
2日 タカーチ弦楽四重奏団



フィレンツェ歌劇場 プッチーニ:オペラ《トゥーランドット》
2001年3月30日 NHKホール

ズービン・メータ指揮
フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団
フィレンツェ五月音楽祭合唱団(ホセ・ルイス・バッソ合唱指揮)

TOKYO FM少年合唱団

演出:チャン・イーモウ
振付・演出補:チェン・ウェイヤ
美術・衣裳:ガオ・グァンジャン/ツェン・リー/ホワン・ヘイウェイ/ワン・イン

トゥーランドット:オードリー・ストットラー
皇帝アルトゥム:アルド・ボッティオン
ティムール:ティグラン・マルティロッシアン
カラフ:ランド・バルトリーニ
リュウ:ノラ・アンセレム
ピン:ホセ・ファルディリャ
パン:フランチェスコ・ピッコーリ
ポン:セルジオ・ベルトッキ
官吏:ミケーレ・ポルチェッリ
北京舞蹈学院


今回のフィレンツェ五月音楽祭来日公演で、グルベローヴァ氏の「椿姫」に負けず劣らず期待していたチャン・イーモウ演出による「トゥーランドット」。この日は、その初日。

チャン・イーモウ(張芸謀)氏のことを私が知ったのは、チェン・カイコー(陳凱歌)監督の1985年度作品「黄色い大地」のキャメラマンとしてである。1987年には「紅いコーリャン」で映画監督デビュー。その後作品を重ねるにつれて彼の評価は日増しに高まり、いまや中国どころか、世界を代表する映画監督のひとりと呼びうる存在になっている。昨年12月に日本公開された最新作「初恋のきた道」も大好評で、いまだにロングラン上映が続いている。「紅いコーリャン」におけるコン・リー、「初恋のきた道」におけるチャン・ツィイーといった主演女優たちに寄せる愛情のこもったまなざしは、リリアン・ギッシュにたいするグリフィス、あるいはアンナ・カリーナにたいするゴダールのそれを想起させるもの。チャン・イーモウ氏がグリフィス以来の映画の王道に連なるシネアストであることは、まったく疑いえないところであろう。その彼が1997年、はじめてオペラの演出を手がけた。それが、このフィレンツェ五月音楽祭における「トゥーランドット」である。その翌年には作品の舞台となった紫禁城における大がかりな上演も実現し、世界中のオペラファンの話題を呼んだ。その公演の模様は、DVDなどで見ることができる。

さてその演出の話に入る前に、まずは歌唱陣について。正直な話、歌唱面はそれほど期待していなかったのだが、思っていたより歌手のレベルは高かった。

タイトルロールを演じたオードリー・ストットラー氏は、とにかく声のパワーが圧倒的。歌のスケールもたいへん大きい。その迫力と威圧感には、劇中の群衆同様、ただただ恐れ入るばかりだ。体のつくりも迫力満点。上背はないが、横幅がとにかく半端ではないのだ。まあトゥーランドット姫なら、これでもよかろう。ヴィオレッタでこれだと、さすがに困るが。迫力ばかりでなく、心情描写もなかなかのもの。歌いまわしや顔の表情などには、余裕すら漂う。当代きってのトゥーランドット歌いといっても、けっして過言ではあるまい。ただし低音には難あり。それにしても第2幕第2場で謎を発するときの、獲物を前にした猛獣が舌なめずりするかのごとき彼女の顔の表情は忘れられない。夢に出てきそうだ。

たいするカラフを歌うはベテランのドラマティック・テノール、ランド・バルトリーニ氏。ストットラー氏と比べると体格的には貧弱だが、歌唱はがっぷり四つ。巨大編成のオーケストラに埋もれることなく、それを突き抜けて朗々と声が響いてきた。歌いまわしや立ち姿は、いかにも王子らしい格調の高さを感じさせるもの。第2幕の後半で声がかすれ気味になってしまったのは残念であったが、第3幕では復調。最大の聴かせどころ「誰も寝てはならぬ」は、びしっと決めてくれた。最高音を、もう少し長くのばしてほしい気もしたが。

リュウはノラ・アンセレム氏。とにかく美人である。それが最大の魅力。歌も高音の弱声のコントロールが巧みで、なかなかに聴かせてくれた。「氷のような姫君の心も」における訴えかけも、申し分なし。演技も、まずまず。いっぽうティムールのティグラン・マルティロッシアン氏は、歌にも演技にも若さが露呈。とりわけリュウが自害したときの反応の鈍さには、がっかり。その後のリュウの死を嘆いて歌うところでも、あまり心を打たれなかった。声そのものは美声で、悪くないのだが。皇帝アルトゥムのアルド・ボッティオン氏は、よかった。ベテランの味。ピン、パン、ポンでは、ピンのホセ・ファルディリャ氏が出色。この演出におけるピンは酒瓶を手にし、いつもたいてい酔っ払っているというキャラクターなのだが、そのすっとぼけた味わいが抜群なのだ。パンのフランチェスコ・ピッコーリ氏も悪くなかったが、ポンのセルジオ・ベルトッキ氏はいまひとつ。まだこの演出に馴染みきっていなかった模様。したがって3人のアンサンブルが総体としての魅力を発揮するという域には達せず。あと意外によかったのが、官吏のミケーレ・ポルチェッリ氏。その声の勢いと威圧感は、この役にふさわしい。

メータ氏の指揮は「椿姫」のときと同様、テンポを大きく変動させる。それが鮮やかに決まり効果を上げているところもあったが、この日は歌手とオケが噛み合わないところも多く、個人的にはやや不満あり。たとえば第2幕第1場でピンが故郷の生活を懐かしんで歌うところや、第2幕第2場でトゥーランドット姫が第3の謎を発しはじめるところのズレは、けっこう耳についた。それでもオケ・合唱団ともどもテンションはひじょうに高く、各幕のラストはいずれも大いに盛りあがった。全体的には、まずまずの出来。

いよいよチャン・イーモウ氏の演出について、である。美術や衣裳、振付にも中国人スタッフを集めた純正中国調の「トゥーランドット」は、エンタテインメントとしても最高に楽しめる舞台に仕上がっていた。例によって、印象に残った点を列挙してゆくことにしよう。

まずは開演前。幕がふつうの幕ではなく、城門の戸口風になっているのが目を引いた。ここまで中国調を徹底するとは。

幕が左右に開くと、椅子に座した官吏が歌いながら上方からおりてくる。椅子は頑丈な台の上に乗り、その台がワイヤーで吊り下げられているのだ。台の左右に車輪がついているところをみると、馬車もしくは牛車に乗っているところをイメージしたものか。官吏の布告を聞く群衆は、オリジナル台本の「色とりどりの服」という指示とは異なり、みな黒と茶の同じ服装。そして、みな同じ屋根状の傘をさしている。ひとつの傘の下に、ふたりずつ。車輪つきの台のすぐ後ろには、龍のレリーフのついた幕がおりている。

ティムールとカラフの父子の対面のあと、群衆による「砥石をまわせ」の大合唱が始まる。首切り役人を演ずるは、男女ひとりずつのダンサー。女性ダンサーは円盤状の台の上に乗っかって登場。その台を数名の男性が担いでくるわけだ。台が置かれると、その上で女性ダンサーは激しく踊りだす。顔を赤く塗った男性ダンサーは、それとは別に歩いて登場する。人の背丈ほどもある巨大な書物が、それと同時に運ばれてくる。表紙がめくられると、「刀」と大きな字で書いてある。さらにページが繰られてゆくと、さまざまな形をした刀の絵が次つぎにあらわれる。このあと首切り役人の男性ダンサーが登場する場面では、いつもこの巨大な書物が登場する。グッド・アイディアだ。なお「砥石をまわせ」を歌う群衆にはフリがついていて、体を左右に揺らしたり、両手を上げ下げしたりする。

アンダンテ・モルト・ソステヌートに入り曲調が変わると、白い衣装の女性ダンサーが10名出てきて、水袖をひれひれさせながら、首切り役人の女性ダンサーのまわりでいっしょに踊る。月の精といったイメージか。月がのぼる場面になると、龍のレリーフのついた幕があがる。その後方には大きな扇子が多数。その扇子のさらに後方に、大きな月があらわれる。下からあがるのではなく、上からおりてくる。扇子は、その数の多さからいって、トゥーランドット姫に求婚し命を落とした男たちの霊魂をあらわしたものと思われる。舞台後方の高い壇上に、灯りを手にした坊主頭のこどもたちがあらわれ、歩きながら「東天紅」の旋律を歌う。やがてペルシャの王子が、首に正方形の板をはめられて登場。その板の後方には「波斯王子」と書かれた縦長の板が垂直に立っている。その「波斯王子」という4つの文字には、いずれも赤い×印が。胸の前垂れには、「斬」の一字が大きく。

ついにトゥーランドット姫が、宮殿の回廊に登場。宮殿の回廊は、先ほど坊主頭のこどもたちが歩いたところと同じ高い壇上である。姫の後ろには、侍女らしき女性数名が。まるで千手観音よろしく姫の後ろから腕だけを出し、腕と手の指をひれひれさせている。今後トゥーランドット姫が登場する場面では、ほとんどこの侍女たちのひれひれつき。余談だが、カーテンコールでトゥーランドット役のストットラー氏の番がまわってきたときの話を。当然そのとき、ひれひれ役の侍女たちといっしょに出てくるわけにはいかない。そうしたら彼女、なんと自分の腕と手の指をひれひれさせながら舞台袖から出てきたのである。そのしぐさは、なかなかおちゃめであった。

トゥーランドット姫が処刑の合図を送ると、月が赤く染まる。ペルシア王子が刑場に向かう場面では、彼は首切り役人に扮した女性ダンサーとともに舞台の奥に。そこには、官吏が登場するさい乗っていた車輪つきの台がある。その上に乗るふたり。すると、さっと小さな幕がその前におりる。

ピン、パン、ポンは、それぞれカラフルな御輿状の乗り物に乗って登場。みずからも色鮮やかな衣裳に身を包んでいる。ピンは酒瓶を手にもち、胸には「酒」と大きく書かれた前垂れが。パンは頭に大きな蝶を。ポンは手に算盤をもっている。侍女たちが「静かに」と歌う場面では、ふたりの侍女が宮殿の回廊に。処刑の場面では、首切り役人に扮した男性ダンサーと巨大な書物が再度登場。刀の絵が赤く染まったページを見せる。じっさいに首を切るシーンはなし。センスよし。やがてピン、パン、ポンは、3人でカラフのまわりをぐるぐるまわりながら歌いはじめる。酒瓶を手にしたピンは千鳥足。リュウのアリア「お聞きください、王子さま」とカラフのアリア「泣くな、リュウ」の最中、ピン、パン、ポンの3人は御輿のなかに。その窓から、ときおり顔をのぞかせたりする。

カラフが銅鑼をたたく場面。舞台中央の床には、首切り役人に扮した女性ダンサーが登場したさいに乗っていた円盤状の台が置かれている。その台の最上部の板をはがして、衛兵たちが立てる。それが銅鑼、というわけだ。カラフは駆け寄り、両手の拳でそれをたたく。じっさいの銅鑼はオケピットの右端にあり、音は当然そこから発せられた。その後、カラフは舞台の奥に。そこには例の車輪つきの台が。カラフがその上の椅子にすわると、台がチェーンで吊り上げられていく。その途中で幕が閉じる。ここまでが第1幕。

第2幕第1場。城門の戸口風の幕が左右に開くと、ピン、パン、ポンが登場。背景の紗幕には、陶淵明の「帰去来辞」が大きく書かれている。その前を、絵や書のかかれた襖状のパネルが右から左へ通過する。それを縫うように動きながらピン、パン、ポンが歌う。ピンの千鳥足は、ますます派手になっている。やがて彼らが故郷の生活を懐かしみはじめると、紗幕の向こうで蓮の傘を手にした8人の女性ダンサーが踊りはじめる。その上下動を中心としたゆるやかな踊りは、まことこの場面の音楽にふさわしい。「帰去来辞」が使われたのも、この場面があるからこそであろう。グッド・アイディアである。大いに感心。なおここでも背景に多数の扇子が浮かびあがっていたような気がするが、記憶が定かでない(^_^;)。その後、紗幕の背景が消えたところで、ふたたび襖状のパネルの移動が始まる。今度は右からも左からもパネルがあらわれ、動きも激しくなっている。姫の婚礼の話題が出たところで、舞台袖から箱が登場。その箱を3人が開けると、中から赤い婚礼用の衣装が出てくる。と、それを舞台左手前方まで持ってゆく。しばらくのあいだ、その場所に衣装が飾られる。

第2場への舞台転換。「帰去来辞」の書かれた紗幕があがると、中央には大きな金の円盤が。といっても、その前方には、それを隠すように、縦長のきらびやかな刺繍のほどこされた幕がかかってるため、一部しか目にすることができない。幕は、上から下にゆるやかに移動している。いっぽう、舞台上には雛壇がいくつも登場。大勢の人、人、人。役人。衛兵。それに第1幕のときと同じ衣装の群衆も舞台前方、左右に。オリジナルの台本では8人となっている賢者は、12人もあらわれる。ピン、パン、ポンも、華麗な衣装に身をまとった10名の女性ダンサーとともに再登場。舞台に色彩が氾濫する。これを絢爛豪華といわずして、いったいなにをそういうのか。なお北京舞蹈学院の女性ダンサーたちは第1幕から登場していたが、これまでは照明が暗かったこともあり、その顔をはっきり拝むことができなかった。ここへ来てはじめて、その10名が揃いも揃ってとびきりの美人であることを発見。ピン、パン、ポンの3人が鼻の下をのばしていたのも無理はない。彼女たちに艶然と微笑まれたら、どんな男もいちころであろう。

きらびやかな縦長の幕がおりきると、玉座にすわった皇帝アルトゥムの姿があらわれる。その背後の大きな金の円盤には、龍のレリーフが。いうまでもなく龍は中国の天子、すなわち皇帝の象徴である。アルトゥムとカラフのやりとりの後、トゥーランドット姫登場。前述したように、侍女たちの千手観音風ひれひれつき。

ラッパが吹き鳴らされ、姫が謎を発する場面。すでに登場ずみの例の赤い婚礼衣装が舞台後方に運ばれ、横にずらりと並んで座った12人の賢者たちの脇にひかえた侍女たちの手に。3つの謎を次から次へと、嬉しそうに発するトゥーランドット姫。途中カラフに声援を送る群衆を打ちすえるように姫が命じると、左右の高い壇上にいる衛兵が刀だか槍だかを突きつける。カラフが3つの謎にすべて答えてみせると、姫の顔がさっと曇る。皇帝の玉座の後ろの大きな金の円盤がぱっくりと割れ、そのあいだから巨大な扇子が姿をあらわす。この前後で群衆が「生命がおまえに微笑んでいる、愛がおまえに微笑んでいる」とカラフに歌いかけていることから判断して、どうやら扇子は死者の魂ばかりでなく、生命や愛といったものまで象徴しているようだ。祝賀の合唱のなか、トゥーランドット姫とカラフに赤い婚礼衣装が着せられる。。その後、トゥーランドットとカラフのやりとりがあって、最後は皇帝讃歌の大合唱。群衆は、ここでも歌いながら手を前にあげたりする。北京舞蹈学院の女性ダンサーたちは、トゥーランドットとカラフのまわりをぐるぐるまわったりしながら踊る。幕。

第3幕第1場。舞台上は夜の闇。提灯が舞台中央奥、左手、右手にそれぞれ数個ずつ。やがてカラフが登場し、アリア「誰も寝てはならぬ」を歌う。その後、ピン、パン、ポン登場。カラフを誘惑して、名前を聞きだそうとする場面。ひとつの箱が舞台上に登場。まずは、その中から美女があらわれる。カラフが興味を示さないと知ると、次は同じ箱の中から金の小箱を手にした別の美女があらわれる。まもなくリュウとティムールが衛兵たちに引き立てられてくる。群衆たちも、これまでと同じ衣装で登場。舞台奥の左右に。全員が団扇を手にしている。なお舞台中央の床には穴があいていて、蓮の葉が頭をのぞかせている。庭の池である。

トゥーランドット姫、登場。ここは少しアレンジが加えられていて、最初にひれひれ侍女があらわれる。彼女たちが左右にどくと、その後ろから姫が姿をあらわすのだ。

リュウが拷問される場面。三たび、首切り役人と巨大な書物が登場。今度の書物には「刑」という字が。ページが繰られてゆき、さまざまな拷問の絵がいくつもあらわれる。その間、リュウは衛兵の男ふたりに肩口と手をおさえつけられているだけ。ここでも残虐な拷問のシーンはなし。これまたセンスよし。「氷のような姫君の心も」をひざまずいて歌い終えると、突然リュウが立ちあがる。そしてオリジナルの台本どおり兵士から短剣を奪いとるのではなく、なんと舞台後方のトゥーランドット姫のもとに駆け寄り、かんざしを髪から抜きとる。それを、みずからの胸に突き立てて自害するのだ。姫は振り返って、驚く。照明は赤に。ここもグッド・アイディアだ。リュウが姫に訴えかけるのに、これほど強いインパクトのある方法は他にないだろう。

カラフはすぐにリュウのもとに駆け寄るが、ティムールは衛兵にとらえられたまま「リュウ、立っておくれ」を歌う。やがて激したティムールは、衛兵たちの手を振りほどく。そして歩み寄り、リュウのかたわらにひざまずいて「リュウ、優しい娘よ」を歌う。舞台奥の左右両側にいた群衆も、やがて歌に加わる。手にしていた団扇を全員がリレー方式で中央に送り、いちばん中央寄りの数名がリュウの死体のかたわらにそれを献じてゆく。舞台中央の池からは大きな扇子があらわれ、ゆっくりと上にのぼっていく。これは素直に、死んだリュウの魂が天に昇ってゆくさまと受け取って問題なかろう。もしかすると同時に、リュウの愛の力をも象徴しているのかもしれない。この間、トゥーランドット姫は心の動揺を悟られまいとするかのように、ずっと客席に背を向けている。このあたり、実にうまい演出だ。

舞台中央の穴が閉まりはじめたところで、カラフとトゥーランドットのやりとりが始まる。床が動いていたため、はじめのうちは少し歌いにくそうであった。カラフが姫のヴェールを奪いとる場面はなし。そもそも姫はヴェールをしていない。キスは台本どおり、激しく。そのとき姫は手の指を震わせる。と同時に、背景に巨大な扇子が赤くくっきりと浮かびあがる。これは、ふたりの愛を象徴したものか。それともトゥーランドット姫の冷たい心がここで死に、生まれ変わったことをあらわしているのか。あるいは死んだリュウの魂が、カラフの接吻を祝福しているととるべきか。このとき同時に白い扇子も多数あらわれたが、処刑された姫への求婚者たちまでもが、カラフを祝福しているかのようであった。

ラッパの響きとともに、第2場への大転換が始まる。大きな金の円盤が上にのぼってゆくと、そこには玉座にすわった皇帝アルトゥムの姿が。またもや色とりどりの人、人、人。色彩の洪水である。絢爛豪華ふたたび、だ。「この人の名は愛」と叫ぶ少し前から、待ちきれないかのようにトゥーランドット姫の顔には満面の笑み。ふたりは赤い婚礼衣装を身にまとう。喜びの大合唱。群衆も、みな笑顔。見ているこちらも、自然と笑みを浮かべていることに気づく。北京舞蹈学院の女性ダンサーたちの踊りも、その場に華やぎを添える。大いに盛りあがり、会場全体が幸せいっぱいになって幕。

以上、実に楽しく、そしてまた奥の深い演出であったと思う。おそらく舞台装置をはじめ、登場人物の衣裳やメイク、小道具、あるいは所作にいたるまで、ほとんどすべてが京劇に由来するものと思われる。京劇に造詣の深いひとには、もっといろいろ読み解くことができるのだろうが、残念ながら私にはそこまでの能力はない。また紫禁城公演のさいの演出と比べると、いろいろ相違する点があるのだが、細かく触れるとたいへんな長さになってしまうので、ここではほんのいくつか指摘しておくのみとする。「帰去来辞」は共通。リュウがトゥーランドット姫のかんざしで自害するのも共通。扇子は、紫禁城公演には登場せず。首切り役人は、紫禁城公演では女性ダンサーのみ。

まだまだ書き足りない気もするが、そろそろ疲れてきたので私の感想もこのへんで幕を閉じよう。不満な点も多少あるにはあったが、全体的には大満足のトゥーランドットであった。チャン・イーモウ氏には、ぜひ今後もオペラの演出を手がけていってほしいと思う。といって映画のほうも、もちろんお忘れなく。

2001.4.7記


フィレンツェ歌劇場 ヴェルディ:オペラ《椿姫》
2001年3月27日 東京文化会館

ズービン・メータ指揮
フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団
フィレンツェ五月音楽祭合唱団(ホセ・ルイス・バッソ合唱指揮)


演出:クリスティーナ・コメンチーニ
演出補:エリザベッタ・マリーニ
美術:パオラ・コメンチーニ
衣裳:アントネッラ・ベラルディ

ヴィオレッタ:エディタ・グルベローヴァ
フローラ:ラウラ・ブリオーリ
アンニーナ:ベルナデッテ・ルカリーニ
アルフレード:マルセロ・アルヴァレス
ジェルモン:カルロ・グェルフィ
ガストン子爵:エンリコ・コッスッタ
ドゥフォール男爵:アルマンド・ガッバ
ドゥビニー侯爵:アレッサンドロ・カラマーイ
医師グランヴィル:カルロ・チーニ
ジュゼッペ:ダヴィデ・リヴェルモーレ
召使:ヴィト・ロベルティ
仲介人:アレッサンドロ・カラマーイ
マイム:フェディナント・ガリァルディ/エリザベッタ・ロッソ


フィレンツェ五月音楽祭の来日公演は今回が5年ぶり、2度め。前回の初来日公演ではグルベローヴァ氏とデヴィーア氏という、いずれ劣らぬ当代きってのコロラトゥーラ・ソプラノがルチアを競演。大いに話題を呼んだ。今回は両者の競演こそかなわなかったが、チャン・イーモウ氏の演出による「トゥーランドット」というもうひとつの大きな目玉があるので、贅沢さは前回に勝るとも劣らない。

この日は「椿姫」の初日。最大の興味の的は、なんといってもグルベローヴァ氏の歌うヴィオレッタだ。そして予想どおり、彼女の大きく深い芸に酔わされた一夜となった。第1幕の「乾杯の歌」は、意識的におさえめ。その後のアルフレードとの2重唱の場面では、ふたりそろって音程がぶらさがり気味。きょうは、いまひとつか。と不安がよぎったが、聴かせどころの「ああ、そはかの人か」と「花から花へ」は決めてくれた。まだ若干音程が定まりきらないところはあったが、その劇的表現力と、限りなく表情豊かな歌唱には、やはり魅せられずにはいられない。「ああ、そはかの人か」では、Misteriosoという歌詞をはっきり音節ごとに区切って歌っていたのが印象的。「花から花へ」では、下降音型を繰り返しながら次第に上昇していくところ。そこでアッチェレランドをかけるのだが、指揮者のメータ氏ではなく、完全に彼女がそれを主導していたのが印象に残った。第2幕第1場における父ジェルモンとのやりとりも、実にうまい。とくにDite alla giovineという歌詞で始まるpのアンダンティーノにおける心情描写は秀逸。その後のクレッシェンドでは、聴いていて背筋に震えがきた。アルフレードに向かって「愛していてね」と抱きついて歌うところ。3度めのAmamiでmaの音を上げて歌うのだが、その高音がまたややぶらさがり気味。それでも、訴えかけはじゅうぶん。第2幕第2場のフィナーレでも、グルベローヴァ氏の切々たる訴えかけには心を打たれた。が、この日のハイライトは第3幕であった。アリア「さようなら、過ぎ去った日よ」の冒頭のppは、ほとんどノンビブラートで音程を意識的に不安定にする。その結果、ヴィオレッタの失意と諦念が痛いほど聴き手に伝わってくる。音楽が高揚するとビブラートを利かせ、音程もたしかになる。心憎いまでの芸だ。アルフレードとの2重唱「パリを離れて」においても、グルベローヴァ氏のおさえた歌唱がひときわ輝く。アルフレードは引き立て役でしかない。その後ヴィオレッタが着替えて出かけようとするところからは、お得意の「狂乱の場」風に。フィナーレにおけるPiu' a me t'appressa ascoltaとアンダンテ・ソステヌートで歌いだすところも、ふたたびノンビブラートかつ意識的音程不安定状態をつくりだす。もはや息も絶え絶え、である。これほどヴィオレッタが死の淵に立たされているということを実感させられた歌唱は、これまで聴いたことがない。私は思わず涙ぐんでしまった。これまで実演で聴いた最高のヴィオレッタであった、といっても過言ではない。

アルフレードを歌ったマルセロ・アルヴァレス氏には、まだグルベローヴァ氏のような芸の深さも大きさもない。が、2年前に藤原歌劇団の公演で同役を歌ったときと比べると、まったく別人といっていいほどよくなっていた。2年前はただひたむきなだけのアルフレードといった感であったが、今回は余裕さえ感じられる歌唱であった。歌いまわしは自由自在だし、声も実にのびやか。つい先月、新国立劇場で彼のマントヴァ公爵を聴いたばかりだが、この日も彼の好調は維持されていた。第2幕第1場におけるアリア「燃える心を」は、余裕綽々。その後のカバレッタにおける最高音も、まずまず。全体的に、旬のひとの勢いが感じられる歌唱であった。

父ジェルモン役のカルロ・グェルフィ氏も、想像以上にすばらしかった。声の勢いだけの歌手というイメージが強かったのだが、どうしてどうして。なかなかみごとな心情表現であった。といってもレナート・ブルゾン級の深い芸は、まだないのだが。第2幕第1場の「プロヴァンスの海と陸」では、指揮者のメータ氏がリピートのさいテンポをぐっと落としていたが、それにもみごと対応していた。

さて、続いてはメータ氏の指揮。いまも触れたように、けっこうテンポを変動させる。その極めつけは、第2幕第2場。仮面舞踏会の会場に到着したヴィオレッタが、アルフレードの姿を見て不安な胸中を歌うところ。3度同じ旋律が挿入されるのだが、1度めより2度め、2度めより3度め、と出てくるたびにテンポを落としてゆくのだ。全体を通じ、実に丁寧かつ、きめこまやかな指揮ぶりであった。木管の旋律を、ふっと浮かびあがらせる芸も鮮やか。フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団は、音楽監督のメータ氏に全幅の信頼を寄せている模様。その協調関係は、おみごと。合唱団のほうもミラノ・スカラ座並みとはいかないが、まずまず。

最後は演出について。クリスティーナ・コメンチーニ氏は、「ブーベの恋人」でおなじみの映画監督ルイジ・コメンチーニ氏の娘さんで、自身も映画監督だという。美術のパオラ・コメンチーニ氏と、姉妹でコンビを組む。けっして大向こうに受けるようなものではないが、なかなかセンスのいい演出であった。例によって備忘録を兼ね、印象に残ったことを列挙しておくことにする。

まず前奏曲のあいだは、パリのセーヌ河畔の絵が描かれた幕がおりている。幕があがり、第1幕は「高級娼婦が出入りする19世紀末のパリの賭博場」。オリジナルでは「ヴィオレッタの客間、1850年10月」である。したがって、時間・空間ともに改変されていることになる。ロートレック風の大きな絵や、アール・ヌーヴォー調の照明器具などが、時代設定を雄弁に物語る。そしてこの場における演出上のポイントとなったのは、中央前方におかれた背のない椅子と、その少し奥にある小さな階段である。冒頭から椅子にはふたりの恋人が腰かけていて、いちゃついている。「乾杯の歌」の前で、ふたりは立ちあがる。椅子や階段とは関係ないのだが、この「乾杯の歌」にも面白いアイディアがあったので触れておこう。舞台左手に男、舞台右手に女が、ずらりと10名ばかり並び向かい合う。男女それぞれのいちばん手前が、アルフレードとヴィオレッタ。歌いだすところで、ふたりはそれぞれ一歩前に出る。そしてふたりが歌いかわすところになると、横に並んだ男女がそれぞれ音楽に合わせ、楽しそうに一歩ずつ前に歩を進めるのだ。さて、オーロラ・コーラスを歌いながら賭博場を後にした集団をヴィオレッタが見送る場面。彼女は階段の上で、客席に背を向けている。舞台が暗くなったところで、こちらに振り返る。そしてE' strano! と、つぶやくのだ。歌いながら階段をおりてきて、例の椅子にすわったり立ちあがったりしながら「ああ、そはかの人か」と「花から花へ」を歌う。歩いたり、立ったり、座ったり。そうした人物のごく当たり前の動きに、コメンチーニ氏のセンスが輝く。これはこれで立派な演出である。なにも深い精神性や象徴性をドラマに盛りこむことばかりが演出家の仕事ではないのだ。

第2幕第1場は「パリ近郊の別荘」。オリジナルでは「パリ郊外、ブージヴァールの田舎家」。幕があがると、ベッドの上でアルフレードとヴィオレッタが抱き合っている。ヴィオレッタがすぐ姿を消した後で、アルフレードのアリアが始まる。その歌の途中でアルフレードに髪を梳らせたり、と演出が細かい。父ジェルモンが「プロヴァンスの海と陸」を歌っているときも、アルフレードにベッドの上でヴィオレッタからの手紙を読ませたり、やがて机の椅子に座らせたり、とやはりきめこまかい。

第2幕第2場は「第1幕と同じ賭博場の大広間」。オリジナルでは「フローラ邸の豪華な広間」。幕があくと、かまびすしく女たちが衣装を整えている。いったん女たちは姿を消すが、「ジプシーの歌」とともに登場。そして、なんとフレンチ・カンカンを踊ってみせるのだ。しかも踊りが下手で、転んだりするのだ。時代設定からするとフレンチ・カンカンというのは、ありうる話なのだが。続く「スペインの闘牛士の歌」でも定番のダンスはなく、影絵のパントマイム劇となる。男女のパントマイム役者が、歌詞さながらの芝居を演じてみせるのだ。これはこれで、なかなか楽しかった。その後は、またまたコメンチーニ氏のこまやかな演出が冴えわたる。アルフレードの声にヴィオレッタが驚いて振り向くところなど、実にうまい。最も効果的だったのは、ここでも階段の使いかた。アルフレードが札束をぶちまけた後、うちひしがれたヴィオレッタは客席に背を向け、奥の階段をのぼってゆく。そしてしばらくは柱の陰に。やがて柱の陰から姿をあらわし、アルフレード、アルフレードと歌いだす。階段の上にいるから、いやおうなしに目立つのだ。そして歌いながら、階段をおりてくるのである。

第3幕は「ヴィオレッタの屋敷の中庭」。オリジナルでは「ヴィオレッタのうらぶれた寝室」。前奏曲の最中に、ヴィオレッタはベッドから起きあがり舞台前方の中庭に出てくる。この中庭には石の長椅子が3つ置かれている。壁に面した長椅子に腰かけるヴィオレッタ。もういちど立ちあがると、今度は舞台中央におかれた籐椅子に座りこむ。以上4つの椅子のうち、ヴィオレッタは3つの椅子に腰をおろす。その効果的な活用法が、この幕の演出の白眉。あと印象に残ったのは、医師グランヴィールとの別れ際に、ヴィオレッタがグランヴィールの手をぎゅっと握りしめたこと。それからアルフレードが登場するさい、まず舞台奥の部屋のなかに姿をあらわし、しばし躊躇する芝居を見せたあと中庭に出てきてヴィオレッタと抱き合ったこと。最後の最後、ヴィオレッタが倒れこむところは、アルフレードがそれを抱きとめるという演出。

ということでそれなりに新機軸もあってなかなか楽しめた演出であったが、この日の最大の功労者はやはりグルベローヴァ氏。彼女の至芸の前には、さすがの演出も影がうすい。全体的には、じゅうぶん満足できた公演である。期待の新星スヴェトラ・ヴァシレヴァ氏のヴィオレッタもできれば聴いてみたかったのだが、余裕がない。残念。

2001.4.3記


御喜美江 アコーディオンワークス 2001
2001年3月23日 カザルスホール

御喜美江(アコーディオン)
松原勝也(ヴァイオリン)
藤原真理(チェロ)
ゲオルク・フリードリヒ・シェンク(ピアノ)

ラモー:鳥のさえずり/ロンド風ジーク/タンブラン/めんどり
ヤナーチェク:草かげの小径にて

ラモー:コンセール第3番
高橋悠治:ル・ドゥーブル・ドゥ・パガニーニ
リーム:地平線にて
野村誠:How Many Spinatch Amen!
ピアソラ:ブエノスアイレスの春/オブリヴィオン(忘却)/ブエノスアイレスの冬


このところ毎年3月の第4金曜日にカザルスホールでおこなわれている御喜美江氏のアコーディオンワークス。彼女の実演にはこれまで何度も接しているが、このシリーズを聴くのは今回がはじめて。神田女学園出身の御喜さんにとって、神田駿河台界隈はなじみの土地であろう。そういった意味からも、このシリーズにはとりわけ深い思い入れがあるのではなかろうか。

前半は御喜さんのソロ。まずはラモーのクラヴサン曲集から4曲。これは当初発表されていたプログラムにはなかったもの。彼女の『アコーディオンによるフランス・バロック音楽』というCDに、いずれも収録されている。「鳥たちのさえずり」は、いきなり速い。そしてデュナーミクが、とにかく大胆。アコーディオンという楽器の利点を最大限にいかしきった表現である。高音と低音で、何羽もの鳥が鳴きかわしているさまをみごとに描写。続く「ロンド風ジーグ」は、しんみりとした哀歌。音を引きばすことのできるアコーディオンならではの表現が巧み。次の「タンブラン」は舞曲。リズムを楽しく弾ませて。最後の「めんどり」は、また速い。が、ただ速いだけでなく、デュナーミクとアゴーギクを大胆に駆使。まさにアコーディオンならではの、変幻自在の表現力である。曲を完全に手中におめさたうえでの遊びや即興性すら感じられる、実にみごとな演奏であった。さすが。

続いてヤナーチェク。「草かげの小径にて」のオリジナルはピアノ曲。私の大好きな曲である。この日は第1集の全10曲が演奏された。その10曲のうち5曲は、もともとハルモニウムのために書かれたもの。それを考えるとアコーディオンによる演奏も、あながち無謀なものとはいえない。これまでも御喜さんはよくこの曲集をとりあげていたようだが、第1集のみとはいえ、全曲演奏というのは珍しいのではなかろうか。第1曲「我らの夕べ」は、聴いていて違和感が強かった。ふだんピアノで聴いているときに感じられる、胸をしめつけられるような憂愁や大いなる憧憬の念、あるいはノスタルジアといったようなものが、あまり伝わってこないのだ。テンポも少し速すぎるように感じられた。第2曲「散りゆく木の葉」も、やはり違和感強し。微妙にテンポを揺らし、木の葉が落ちてゆくさまを巧みに描写しているのはいい。が、低音の持続や強調が、若干わざとらしく感じられた。とはいえ以上2曲は最初ハルモニウムのために作曲されたものなので、本来あるべき姿はこのようなものなのかもしれない。第3曲「一緒においで」はピアノのために書かれた作品だが、この日のアコーディオン演奏にもあまり違和感は感じなかった。語りかけるような調子が、うまく表現されていたと思う。第4曲「フリーデクの聖マリア」は、当初ハルモニウムのために作曲されたもの。オルガンを思わせる荘重な響きが、この作品の雰囲気にふさわしい。これは、まったく違和感なし。第5曲「彼女らはつばめのようにしゃべりたてた」はピアノのために書かれたものだが、速いテンポで女たちがぺちゃくちゃおしゃべりしているさまを活写していて悪くなかった。第6曲「言葉もなく」もピアノのために作曲されたもの。緩急の対比をはっきりつけた演奏。これも悪くない。第7曲の「おやすみ」は絶品であった。もともとハルモニウムのために書かれた作品。この曲の場合は、音を引きのばすことのできる楽器のほうが断然有利だ。ゆったりしたテンポの、静かな静かな子守歌。第8曲「こんなにひどくおびえて」は、ピアノのための作品。途中音楽が切迫して盛りあがったところのドラマティックな表現が魅力大。なおこの曲以降の3曲は、わずか7歳にしてこの世を去った愛娘オルガへの哀悼の思いがこめられているといわれる。第9曲「涙ながらに」も、ピアノのために書かれたもの。ふたつの楽想からなる作品だが、それをかたやレガート気味に、かたやスタッカート気味に、はっきり区別して弾いていたのが効果的であった。緩急も変化させていた。第10曲「ふくろうは飛び去らなかった」は、元来ハルモニウムのために書かれたもの。シューベルトの幻想曲を思わせるような主題が印象的な作品。しんしんと胸に哀しみが降り積もってくるような演奏であった。ということで演奏はかなり魅力的なものだったのだが、一部の聴衆に問題があった。曲間に拍手をする者が数名いたのだ。他の大多数の聴衆が拍手していないのだから、自分たちが浮いているということに気づいてもよさそうなものだが、さにあらず。執拗に拍手を繰り返す。まったく困ったものである。御喜さんもあれでは演奏に集中しにくかったのではあるまいか。

休憩後は、すべてアンサンブル。まずはラモーの「コンセール第3番」。中央に御喜さん、左手にヴァイオリンの松原勝也氏、右手にチェロの藤原真理氏という配置での演奏。第1楽章「ラ・ポプリニエール」では強弱の対比を明確に。御喜さんがアコーディオンで弾くパートは、もともとクラヴサンのために書かれたもの。よって、どうしてもアコーディオンならではの大胆なデュナーミクが耳につく。御喜さんが音をふっとひそめると、松原さんと藤原さんもそれにすぐさま歩調を合わせる。みごとなアンサンブルであった。第2楽章「はにかみ」は、ふたつのロンドからなる曲。第1ロンドの基本は短調だが、その途中で長調に転じるところがある。そこで喜びをおさえきれないように、音量を上げていたのが印象的。長調の第2ロンドに入ると、またいちだんと音量が大きくなる。それがもういちど繰り返されるところでは音量を落とし、スタッカート気味に。第3楽章「タンブラン」は速いテンポで、楽しくリズムを弾ませて。実に溌剌とした演奏であった。

次は高橋悠治氏の「ル・ドゥーブル・ドゥ・パガニーニ」。御喜美江さんのために作られた曲である。1987年の作品。もともとはフルートとアコーディオンのために書かれたものであるが、この日は高橋氏が後につくったヴァイオリンとアコーディオン版による演奏。タイトルを日本語に翻訳すると「パガニーニの影」もしくは「パガニーニの亡霊」となる。その名のとおり、この曲にはパガニーニのカプリースからの旋律がいくつか影のように登場してくる。とくにメインとなるのは第9番。ところが高橋作品のこと、素直にヴァイオリンとアコーディオンがハーモニーを奏でたりするようなことはない。ヴァイオリンがカプリースの旋律を奏でていると、アコーディオンが邪魔に入り演奏を中断させたり。また片方が奏でる持続音の上に、もう片方がそれとはまったく無関係なカプリースの速いパッセージを弾いてみせたり。あるいは両者がまったく別々のリズムで別々のパッセージを弾いたり。そういったことの繰り返しなのだ。まったく噛み合っていないようでいながら、でもどこかで両者はつながっている。不思議な魅力をたたえた音楽だ。初演者の御喜さんは当然として、ヴァイオリンの松原さんも過去にこの曲を演奏したことがあるとみえ、たいへん手慣れた演奏であった。

続いてリームの「地平線にて」。1991年の作品。アコーディオンとヴァイオリンとチェロによる演奏。まず楽器の配置が面白い。アコーディオンは舞台中央のいちばん奥。ヴァイオリンは舞台前方のいちばん左手。そしてチェロは舞台前方のいちばん右手。と、それぞれの楽器をなるべく離して配置。ちなみにヴァイオリンとチェロは、距離は遠いが向かい合って座っている。演奏は、限りなく静かに始まった。そしてけっきょく最後まで、ほとんど静かなままであった。メロディらしいメロディは皆無。それぞれの楽器は、ほとんどノンビブラートかつピアニッシモで音価を持続。しかもあいだに休符をはさみながらの、緩やかなやりとりが大半。それだけに、数少ないアクセントは印象に残る。アコーディオンは、かすかにビブラートで音を揺らすこともあり。最後はアコーディオンの消え入りそうなかそけき音が持続するなか、ヴァイオリンの松原さんが口に手を当てて何かを叫ぶポーズ。と、やや間をおいて、向かい合っているチェロの藤原さんが耳に手を当ててそれを聞き取ろうというポーズ。アコーディオンの音が完全に消えたところで、ジ・エンド。なかなか面白い音楽であった。

その後、御喜さんのMCあり。まずリームの作品の簡単な解説。それによると「地平線にて」には「静かな情景」という副題があるとのこと。引き続き、次に演奏される「How Many Spinatch Amen!」についての話。このタイトルを日本語でいうと「なんまいだー ホウレンソウ ちーん」となるのだそうな。野村誠氏に委嘱した新作で、この日が世界初演。と、きょうは作曲者もいらっしゃているのでミニミニ・インタビューをおこないたいと思います、野村さんどうぞ、との御喜さんの言葉を受けて、客席にいた野村氏が舞台上に。人のいい、少し気弱そうな好青年といった風貌。そのラフなスタイルといい、飄々とした雰囲気といい、どうしても野村くんと呼びたくなる存在だ。ミニミニ・インタビューも、野村くんの見た目さながら飄々とした雰囲気で進行した。インタビューの内容は他愛のないことばかり。でも、これが意外と面白いのだ。御喜さんのツッコミに、野村くんのボケといった役まわりか。御喜さんの話によると、この曲の音譜の数が多すぎて、自分では譜面をめくっている余裕がない。そこであるひとに譜めくりを頼んだのだが、楽譜が複雑すぎてきちんと譜めくりできるかどうか自信がないと言われてしまった。大切な初演でもしものことがあったら困るので、作曲者なら安全だろうと思って頼んでみたら、快く引き受けてくれたのだという。

というわけで野村誠氏の「How Many Spinatch Amen!」は、なんと作曲者自身の譜めくりつきで世界初演がおこなわれることになった。左からヴァイオリン、アコーディオン、チェロという配置。音楽は、やたら楽しげにスタートする。音は不協和ながら、リズムが弾んでいるのだ。作曲者は、リズムに合わせて楽しそうに首を振ったりしている。やがて失速するが、ふたたび盛り返す。そのとき、アコーディオンの譜めくりをしていた野村くんが「うんとこどっこい、すっとんとん」という合いの手を繰り返し入れたりする。その後、ふたたび失速。それぞれの楽器が音をゆったり引きのばすやりとりがあって、終盤また音楽がリズミカルに。チェロとアコーディオンのオスティナートの上に乗っかるようにヴァイオリンがやたらメロディアスな旋律を奏ではじめたと思ったら、なんと御喜さんが「なんまいだー ホウレンソウ ちーん」と唱えはじめた。隣の野村くんは「アーメン」を連発しはじめる。そのうち御喜さんはアコーディオンを弾くのをやめ、床においてあったペットボトルで椅子の足だの、譜面台の縁だのをたたきはじめた。ついには野村くんの頭にも一発お見舞いする始末。最後の最後は椅子から立ちあがった野村くんが、ひもに吊したキンらしきものを「ちーん」とたたいてジ・エンド。とにかく面白かった。それにしてもカーテンコールのさいの、野村くんの落ち着きのなさ加減には笑わせてもらった。小走りにちょこまか出たり入ったりするんだもんなあ。御喜さんとは、姉御と弟分といったような雰囲気。陰で、いじめられてたりして。というのは冗談(^_^;)。

すでに午後9時をまわっていたが、本プログラムはまだ続く。最後はピアソラを3曲。アコーディオン、ヴァイオリン、チェロに、ここではさらにピアノが加わる。ピアノはゲオルク・フリードリヒ・シェンク氏。「ブエノスアイレスの春」は、いきなり速い。アクセントも利いている。歌うところは、たっぷりと。と、いかにもピアソラらしいピアソラだ。御喜さんも松原さんもピアソラの演奏経験は豊富なので、当然といえば当然なのだが。続く「オブリヴィオン」における憂愁。その、しみじみとした哀感も格別。御喜さんが序奏風にアコーディオンを奏でているところに、松原さんの指揮で他の奏者が加わった。最後は「ブエノスアイレスの冬」。これまた緩急の対比を大胆に。メリハリを大きく利かせた演奏だ。御喜さんのアコーディオンのリズム感が、ピアソラのバンドネオンを彷彿とさせる。以上3曲、個人的にはじゅうぶん満足できるピアソラであった。

アンコールは、ヤコブ・ゲーゼの「ジェラシー」。コンチネンタル・タンゴの超有名曲。御喜さんのソロで演奏が始まった。そのままソロで終わるのかと思いきや、ピアノ、ヴァイオリン、チェロの順に、それぞれやや時間をおいて舞台袖から登場。ひとりずつ演奏に加わっていった。藤原さんがチェロをセッティングするのに手間どり、少し間があいてしまったのはご愛敬。

以上、内容は盛りだくさん。たいへんバラエティに富んだ、贅沢なコンサートであったといえよう。もちろん大満足である。来年もやはり3月の第4金曜日、御喜さんはカザルスホールに帰ってくる。パーカッションの吉原すみれさんとの共演だという。これも楽しみだ。

2001.3.30記


ザ・ハープ・コンソート ルス・イ・ノルテ−灯火と北極星−
2001年3月21日 カザルスホール

アンドルー・ローレンス=キング(音楽監督、スパニッシュ・ハープ)
スティーヴ・プレイヤー(ダンス、ギター)
クララ・サナブラス(ソプラノ、ギター)
ヒレ・パール(ヴィオラ・ダ・ガンバ、リローネ、ギター)
トマス・イーレンフェルト(テオルボ、ギター)
ミヒャエル・メツラー(パーカッション)

ファン・カバニーリェス:イタリアのコレンテ
 デスパシオ/コン・アイレ/アプリーサ・イ・コン・アイレ

アロンソ・ムダーラ:ルドビーコのファンタジア
作曲者不詳(17世紀スペイン):パサカーリエ 二つの星
リパヤスに基づく即興:イタリアのガリャルダ 大公

ディエーゴ・オルティス:平易な歌のレセルカーダ
作曲者不詳(17世紀ペルー):ロマンス マリサパロスはある晩
ディエーゴ・オルティス:テノールのレセルカーダ

ムルシアに基づく即興:カナーリオ

カベソン/エネストローサ:ティエント第18番
作曲者不詳:カンシオン おまえの名は小鳥
リバヤス:タランテーラ
リバヤスに基づく即興:パラデータ

リバヤス:ガイタ

リバヤスに基づく即興:パサカーリェ
リバヤス:ルス・イ・ノルテ
 エスパニョレータ/フォリーア/サカーラ

フアン・アラニェス:チャコーナ チャコーナの夕べが

リバヤス:馬上試合
ムダーラ:ロマンス ムーアの王は
ムライスに基づく即興:スペインのフォリーア
アントニオ・マルティン・イ・コル:シンフォニア(薔薇の血)


15日にも同じ会場でザ・ハープ・コンソートを聴いたが、この日は別プログラム。2年前の初来日公演のときと同じものである。そのせいか客の入りは15日と比べ、いまひとつ。とはいえ今回の来日公演においても、全国6回の公演中4回はこの「ルス・イ・ノルテ」である。やはり彼らにとっては、これがいちばんベーシックなプログラムなのであろう。デビューCDのタイトルがそもそも「ルス・イ・ノルテ」だったわけだから、当然といえば当然の話なのだが。

ちなみに「ルス・イ・ノルテ」というのは、1677年にマドリードで出版されたハープとギターのための舞曲選集のタイトル。著者のルカス・ルイス・デ・リバヤスは、熱心なアマチュア音楽家にして冒険家でもあった人物。この選集にはスペインのものばかりでなく、イタリアや南アメリカ、アフリカの舞曲までおさめられているという。いずれも当時のスペインの舞踊バンドにとっては、スタンダードなレパートリーだったのだそうな。

「イタリアのコレンテ」から、コンサートは始まった。「コレンテ」というのはフランス起源の舞曲、クーラントのことである。舞台左手にヴィオラ・ダ・ガンバのヒレ・パール氏。中央にパーカッションのミヒャエル・メツラー氏。右手にスパニッシュ・ハープのアンドルー・ローレンス=キング氏とテオルボのトマス・イーレンフェルト氏。そして舞台中央、パーカッションの奥にギターのクララ・サナブラス氏とスティーヴ・プレイヤー氏。いちおうこれが、ザ・ハープ・コンソートの基本的な楽器配置となる。「デスパシオ(ゆっくりと)」は全員での演奏。続く「コン・アイレ(気取って)」ではパーカッションがお休み。そのぶん音楽は少し、しめやかに。最後の「アプリーサ・イ・コン・アイレ(急いで、そして気取って)」になるとパーカッションが復活し、音楽は活気づく。その最後の最後のところで、いままで舞台後方でギターを弾いていたスティーヴ・プレイヤー氏が、客席に鋭い視線を投げかけながら前方に出てくる。そして、はやくもここでダンスを披露。この日は、やたらに発火が早かった。

15日の「スパニッシュ・ジプシーズ」のときと同様、その後は曲間にローレンス=キング氏の折り目正しい解説をはさみながらコンサートは進行する。

「ルドビーコのファンタジア」は、ローレンス=キング氏がひとり前に出てきてハープ・ソロで。その繊細にして気品ある響きを、たっぷりと堪能。続くパサカーリエ「二つの星」では、ローレンス=キング氏と入れ替わるように前に出てきたクララ・サナブラス氏が歌をうたう。その後の即興「イタリアのガリャルダ 大公」では、ハープとパーカッション以外の4人はみな舞台後方でギターを演奏。そのギターの刻む激しいリズムが印象的。ここでもプレイヤー氏が途中で前に出てきてダンスを披露したような気もするが、記憶が定かならず(^_^;)。

次の「平易な歌のレセルカーダ」は、ヒレ・パール氏の新譜『甘き想い出』収録曲。当然、彼女のヴィオラ・ダ・ガンバが最大の聴きどころとなる。ここでも、その美しく伸びやかな響きと豊かな歌心を味わい尽くすことができた。続くロマンス「マリサパロスはある晩」は、クララ・サナブラス氏が前に出てきて歌う。15日の「スパニッシュ・ジプシーズ」のときは聴いていてやや不安を感じさせることもあった彼女の歌唱であるが、この歌はよほど歌い込んでいるのであろう。暗譜で、実に表情豊かな歌を聴かせてくれた。男に胸を触られそうになったマリサパロスが発するセリフを、日本語で「ダメ」と言ってみせる遊びも。ただこのジョークは、あまり多くの聴衆には伝わらなかったようだ。終盤、歌うサナブラス氏のすぐ後方で、立ちあがってタンバリンを叩いていたメツラー氏も印象的。長い歌であったが、聴いていて飽きることなし。続く「テノールのレセルカーダ」は、ふたたび『甘き想い出』収録曲。全員での演奏だが、パール氏のヴィオラ・ダ・ガンバが場をさらう。テンポの速さを物ともせず、超絶技巧でぐんぐん飛ばす。大いに感心。ちなみに彼女、容姿のほうも文句なしの美女である。

ローレンス=キング氏のMCをはさみ、「カナーリオ」。これは、ザ・ハープ・コンソートのファースト・アルバム『ルス・イ・ノルテ』収録曲。カナリア諸島の舞曲である。いきなり最初からプレイヤー氏が舞台前方に。ギターを弾いてはいるが、そのうち踊りだすにちがいないと見ていると、案の定やがてダンスが炸裂した。ここではパーカッションのメツラー氏と、即興でかけあいを演じてみせる。プレイヤー氏がステップを踏むと、まったく同じリズムでメツラー氏がジャンベをたたき返す。逆にメツラー氏がジャンベをたたくと、プレイヤー氏が同じリズムでステップを踏んでみせるといった具合。プレイヤー氏が、どうだ、これはおぬしにはできないだろう、とか、あるいは、お、おぬし、なかなかやりおるじゃないか、といったようなポーズをとったり声を発したり。メツラー氏がジャンベをずいぶんと派手な、それでいてユーモラスな身振りでたたいてみせたり。と、パフォーマンスとしてもよくできるている。いやあ、とにかく理屈抜きで楽しい。これぞザ・ハープ・コンソートだ。ちなみにこの曲、CDではハープのソロで演奏されている。それに比べると、ずいぶんにぎやかな「カナーリオ」となった。

いったん照明が落ち、ローレンス=キング氏にスポットライトが。まずはハープのソロで「ティエント第18番」。続いてカンシオン「おまえの名は小鳥」。ここでは舞台前方に出てくることなく、サナブラス氏が歌をうたう。続く「タランテラ」は『ルス・イ・ノルテ』収録曲。ハープとパーカッションのかけあいの後、ギター4本が加わってきてからアッチェレランドして音楽が熱気をおびる。次の「パラデータ」も『ルス・イ・ノルテ』収録曲。4人のギター弾きが、みな舞台前方に出てくる。そして客席に背を向けて立つ。そのまま演奏が始まった。やがてメツラー氏がぽんとタンバリンをたたくと、それを合図にプレイヤー氏だけが客席のほうに向き直る。とプレイヤー氏、客席におりてきた。通路を歩きながら、ちっちゃなソプラノ・ギターを奏でる。ときどき立ちどまり、たったひとりの聴衆に向かって弾いてみせたりする。聴衆は、みな大喜び。むろん私も。客席の通路をぐるりと一周して、舞台にもどった。これで前半は、おしまい。会場は、前半から大きく盛りあがった。

休憩後、まずは「ガイタ」。これも『ルス・イ・ノルテ』収録曲。演奏が始まったとき舞台上に4人しかいなかったので、これはなにかあるなと思っていたら、やはり。客席後方から、なにやら音が聞こえてくるではないか。いっせいに振り向く聴衆。と、ちょうど客席後方のドアが開き、そこからプレイヤー氏とメツラー氏がそれぞれパグパイプとタンバリンを奏しながら姿をあらわした。この曲は「バグパイブをまねしたバイレ」なのだが、本物のバグパイプがお出ましなさったわけである。ふたりは、演奏しながら客席の通路をゆっくりと舞台上に向かう。例によって、またときどき立ちどまったり。聴衆は、ここでも大喜び。

次の「パサカーリェ」も『ルス・イ・ノルテ』収録曲。CD同様、ハープ・ソロでしんみりと。続くリバヤスの「ルス・イ・ノルテ」からの4曲も、いうまでもなく『ルス・イ・ノルテ』収録曲である。「エスパニョレッタ」もハープのソロ。と思いきや、途中からパーカッションのメツラー氏がハープの共鳴箱を手でたたきはじめた。音楽は、ここでもしめやか。次の「フォリーア」でも、それが続く。途中からギターやヴィオラ・ダ・ガンバが演奏に加わってくるが、それでも音楽は高揚せず。続く「サカーラ」の途中から、ようやく盛りあがってくる。ここから、イーレンフェルト氏はテオルボを演奏。そして「ガリャルダ」の後半で音楽は爆発。イーレンフェルト氏が途中でテオルボからギターに持ちかえる。4本となったギターが、プンテアードとラスゲアードを炸裂させるのだ。ちなみに、この曲は15日のアンコールでも演奏されている。そのときは後半部分だけだったが。

ローレンス=キング氏のMCをはさみ、「チャコーナの夕べが」。クララ・サナブラス氏が前に出てきて歌う。はじめは優美な調べであったが、ヴィオラ・ダ・ガンバのパール氏が楽器をギターに持ちかえたあたりから音楽が激しくなってきた。ここではプレイヤー氏が、歌っているサナブラス氏にからむ。こぶりのソプラノ・ギターを手に持ち、フェンシング風のポーズを。かと思えば、ギターを股間に立ててみせて卑猥なポーズをとってみせたりする。最後の最後でサナブラス氏がプレイヤー氏からギターを奪いとり、振りあげてみせる。とプレイヤー氏、慌てて舞台袖に退散。またまたザ・ハープ・コンソートならではの楽しいパフォーマンスである。

ローレンス=キング氏のMCの後、「馬上試合」。『ルス・イ・ノルテ』収録曲。タイトルどおり、演奏陣がふた手に分かれて試合が繰り広げられる。かたや左に陣取ったヴィオラ・ダ・ガンバ、テオルボ、ギター組。かたや右に陣取るは、ローレンス=キング氏のハープだけ。その間にはパーカッションのメツラー氏がいて、左のグループにはタンバリン、右のローレンス=キング氏には太鼓で、それぞれ加勢。なおここではタンバリンも台の上に置き、スティックでたたいていたのが印象的。なかなか白熱した試合が展開された。CDで聴くだけでは、おそらくこの曲の真価は理解できないであろう。途中で仮面をつけたプレイヤー氏が馬上試合の槍ならぬ、なぜか箒を手に乱入。それを振りまわしたり、奇声を発しながら駆けずりまわったり。と、ひとしきり大暴れ。お得意の、ひとり二役である。バグパイプを鉄砲に見立てて、撃つまねをしたりもする。またまた会場は大受け。と突然プレイヤー氏が、ばったり舞台上に倒れる。続くロマンス「ムーアの王」は、サナブラス氏がハープ伴奏のみで歌う。さながら葬送音楽風。ローレンス=キング氏のハープ・ソロによる即興「スペインのフォーリア」の途中で、プレイヤー氏がむっくりと起きあがる。ゆるやかなダンス。

プログラムの最後は、15日のアンコールでも演奏された「シンフォニア(薔薇の血)」。これは、いまからちょうど300年前にあたる1701年にペルーのリマで演奏された新世界最初のオペラ「薔薇の血」のシンフォニア、つまり序曲である。ザ・ハープ・コンソートは、このオペラ全曲をCD録音している。この日もやはり、パール氏のヴィオラ・ダ・ガンバがよく歌っていたのが印象的。最初テオルボを弾いていたイーレンフェルト氏が、途中からギターに持ちかえるのも前回同様。最後は音楽が大きく盛りあがって曲を閉じる。

この日はアンコールが4曲。まずは15日と同じ「ムルシアに基づく即興 ホタ」。前回同様、ハープとタンバリンとギター4本。全員が舞台前方で演奏した。次は作曲者不詳の「ラ・ニウァルダ」。あまり印象に残っていないのだが、イーレンフェルト氏がこの曲でトロンボーンを吹いていたことは覚えている。次はロマンス「海の上で」から続けて「船乗りのバイレ」。これは15日の本プログラムで演奏された曲。この日も、パーカッションのメツラー氏が大活躍。ここでもイーレンフェルト氏は途中からトロンボーンを演奏。最後はジョン・ポール・ジョーンズの「樫の木の下で」。ジョン・ポール・ジョーンズといえば、レッド・ツェッペリンのベーシスト。彼がこんな曲を作っていたとは知らなかった。なおローレンス=キング氏はMCでジョン・ポール・ジョーンズのことをロック・ギタリストと紹介していたようだが、これは誤りである。サナブラス氏が、しみじみとした哀歌をうたう。それにオブリガート風にからんだり、ときには歌と同じ旋律を奏でたりするヴィオラ・ダ・ガンバが印象的であった。

ということで、この日も期待にたがわぬ大満足のコンサートとなった。ザ・ハープ・コンソートの次回の来日は2003年10月に予定されているという。それまでには、きっと新譜がリリースされることだろう。それに基づいた新しいプログラムのコンサートが聴けるにちがいない。いまからそれが楽しみでならない。

2001.3.29記


児玉桃 ピアノリサイタル
2001年3月20日 東京オペラシティ・コンサートホール

ドビュッシー:子供の領分/スケッチ帳より/仮面/版画/喜びの島
ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
ムソルグスキー:組曲《展覧会の絵》


昨年のケント・ナガノ指揮ベルリン・フィルとの共演をはじめ、このところ国際的な檜舞台における活躍が目立ちはじめた児玉桃氏。彼女が在京オケと共演したのはこれまでもたびたび耳にしたことがあるが、ソロを聴くのは今回がはじめて。

前半はオール・ドビュッシー。児玉桃さんはたしかまだ20代だったと思うが、すでにパリ在住は18年におよぶという。身も心も、根っからのパリジェンヌといってよかろう。その彼女がドビュッシーをとりあげるわけだから、期待は大きい。

まず「子供の領分」。「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」では、クレメンティの練習曲を弾いている子供の心理が時々刻々と移り変わっていくさまを鮮やかに表現。はじめのうちペダリングがあまりうまくいっていないように感じられたのだが、これは子供を模してわざとそうしたのものだったのか。あとは終盤ややアッチェレランド気味に弾いていたのが印象的。続く「象の子守歌」は、いかにも子守歌という感じで、いくぶんメロディを強調した演奏。次の「人形のセレナード」では、中盤のやや大胆なアッチェレランドが効果的。前曲に引き続き、左手で弾くメロディがひじょうに雄弁であることも印象に残った。「雪はおどる」においては、低音部のメロディを強調。「小さな羊飼い」は、緩急の対比を明確に。たいへん詩情豊かな演奏。終曲の「ゴリウォッグのケーク・ウォーク」では、左手のリズム感が出色。ジャズのスイングのように、微妙にリズムを揺らすのだ。リズムだけでなく、肩を揺らしながらの演奏姿も印象的。

「スケッチ帳より」は、かなりロマンティックな雰囲気をたたえた演奏となった。この曲の旋律美を抽出することに、みごと成功していたと思う。やや晦渋といったイメージのある作品だが、桃さんの演奏だと耳に心地よい。続けて演奏された「仮面」は、途中左手の旋律をたっぷり歌っていたところがいちばん印象的。むろんリズミカルなところは、たいへんリズミカルに演奏していたのだが。

「版画」。まず「塔」は、中国の仏塔をイメージして作曲されたといわれるもの。音楽的にはガムランの影響が濃厚。いずれにせよ異国情緒満点の音楽だ。児玉桃さんの演奏は見た目と同様、このうえなく優美にして繊細。低音のメロディの、やさしい響きがとりわけ印象的であった。続くは「グラナダの夕暮れ」。スペインのグラナダは、アルハンブラ宮殿のあることで知られるところ。その夕景を、ハバネラのリズムに乗って描きだした音楽。こちらも異国情緒満点。ここでも桃さんの演奏は、やさしくこまやか。とくに後半、ギターの響きを模したところ。まるで、愛を語りあう男女を表現しているかのような雰囲気であった。終曲の「雨の庭」は、パリの公園を通り過ぎてゆく雨の印象を音楽にしたもの。リズムは鋭いが、メロディラインをとても大切にした演奏。雨が激しくなったり、やや小降りになったり、陽光がさしたり、といった変化を自在に表現しつくしていた。

前半最後は「喜びの島」。この曲は先に演奏された「スケッチ帳より」「仮面」とともに、もともと「映像」という名の作品集として出版される予定だったという説あり。当該3作品をいずれもとりあげるあたりは、プログラミングにも神経が行き届いている証拠。ちなみにこの作品は、ドビュッシーが「シテール島への船出」に霊感をえて作曲したものといわれている。といってもテオ・アンゲロプロス監督の映画作品のことではなく、ルーブル美術館にあるヴァトーの絵画作品のほう。当たり前の話だが(^_^;)。シテール島は、愛の女神ヴィーナスの島。タイトルにある「喜び」とは、「愛の喜び」のことである。桃さんの演奏は、まさにそうしたイメージにふさわしい演奏。とりわけ終盤のピアニッシモ・スビートと指示のある小節に入る手前のところでほんの少し間をとって仕切り直し、そこから音楽をしだいに盛りあげっていって、愛の喜びを大いに謳歌して曲を閉じるところは圧巻であった。恋人が手をとりあって、シテール島に向かう船に乗る。そのふたりの心の高揚が、みごとに音楽として表現されていたと思う。また左手によって奏される、繰り返し登場する音型の処理のしかたも秀逸であった。

休憩後、まずはラヴェル。淡々としてはいるが、それでいて繊細なニュアンス感にも不足なし。メインプログラムの前の、いわばオードブルのような役割をになう楽曲の配置だ。そのことを念頭においたうえでの演奏であったと思う。

いよいよ本日のメインディッシュ、「展覧会の絵」である。この作品は、ムソルグスキーが若くして亡くなった友人ヴィクトル・ハルトマンの遺作展を見たときの印象をもとに作曲したもの。「プロムナード」と題された同じ主題の音楽が、序奏もしくは間奏として、姿を変えながら幾度となく登場してくる。冒頭の「プロムナード」は、いくぶん決然とした感じの演奏。「こびと」は、ひじょうにグロテスクな表現。リズムを微妙に揺らし、地の精グノムの不気味さを描きだす。終盤のトリルも、限りなくおどろおどろしい。続く間奏の「プロムナード」では左手の主旋律ではなく、右手の高音を強調。その高音にミスタッチがあったのは残念。「古城」は淡々としたなかに、ひめやかな吟遊詩人の歌心をこめて。静かな曲なので、聴衆の咳がずいぶんと耳についた。ふたたび間奏の「プロムナード」。ここは、勢いよく。「テュイルリ」では、リズムをわざと少しぶきっちょにして公園で遊ぶ子供たちの姿を活写。「ビドロ」では、中盤のいちばん盛りあがったところで大きなタメをつくっていたのが印象的。その感情移入の大きさから察するに、桃さんの頭にあったのは、単に牛車が通り過ぎてゆく情景ではなく、ロシアの農民たちが苦悩する姿だったのかも。続く間奏の「プロムナード」は、高音のきらめき感に魅力。「殻をつけたひなどりのバレエ」は、意識的にリズムをたどたどしく。トリオの後の再現のさいは、たどたどしさが消えていた。ひなどりの殻がとれて、すっきりしたところをあらわそうとでもしたのか。「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」は、ふたりのユダヤ人の対話を描いたもの。ひとりは金があって横柄。もうひとりは貧乏で小心。その対比が鮮やか。とくに憐れみを乞うているような、情けないシュムイレの部分が出色。またもや間奏の「プロムナード」をはさみ、次は「リモージュ」。市場の喧噪と、ふたりの農婦がおしゃべりに興ずるさま。途中、低音をくっきり浮かびあがらせていたのが印象的。ふたりの対話であることを強調するためか。「カタコンブ」は古代ローマのキリスト教徒が眠る地下墓場の様子を、重々しく。後半のアンダンテは、淡々と。ここはppなので、またしても聴衆の咳がだいぶ耳についた。できるかぎり我慢するなり、大きな音を出さないような工夫をするなりしてほしいものだ。「鶏の足の上の小屋」は、魔女バーバ・ヤーガが呪文をとなえながら空を飛ぶさまを描いたもの。いきなり冒頭のffから強烈。思い切ってダイナミックな表現である。リズムの躍動感も抜群。弾くとき、ここでも肩が揺れる。残念だったのは、2度ばかりミスタッチがあったこと。そのせいか、やや粗さを感じさせる結果となってしまった。アンダンテ・モッソに入る直前、少しタメをつくったところの表情はよかった。終曲「キエフの大門」は、堂々たる建造物を思わせるもの。桃さんの演奏はフォルテのエネルジコのところで、オクターヴで上昇したり下降したりする音型を主旋律以上に強調していた。鐘の音を模したところに入ってからは、高音ばかりでなく低音もしっかり響かせていたのが印象的。全体的には緩急や強弱の対比を大きくつけメリハリを利かせるとともに、彼女ならではの細やかな味つけにも事欠かない、魅力的な「展覧会の絵」であったと思う。

アンコールは2曲。ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」とショパンのマズルカ第14番作品24の1。どちらもよく弾きこまれていることがわかる、みごとな演奏であった。

以上、いずれもなかなか個性的な演奏で楽しませてもらった。この日のコンサートも、じゅうぶん満足である。児玉桃さんはバレエをやっていたことがあるそうで、歩きかたがいかにもそれらしい。ステージマナーも実に堂に入ったもの。見た目は、とにかくエレガンス。笑顔も魅力大。そろそろCDデビューしてもいいころだと思うが、予定はないのだろうか。やはりファースト・アルバムは、ドビュッシーであろう。それとも意表を突いて、プーランクあたりか。いずれにせよ、楽しみに待ちたい。

2001.3.28記


朝比奈隆 ブラームス・チクルス−第4夜−
2001年3月19日 サントリーホール
朝比奈隆指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団
豊嶋泰嗣(ヴァイオリン)、毛利伯郎(チェロ)
ヴァイオリンとチェロのために二重協奏曲/交響曲第4番


先月に続く朝比奈隆氏と新日本フィルによるブラームス・チクルス。この日は、その最終回にあたる。

まずはヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲。予想どおり、極めてシンフォニックなドッペル・コンチェルトとなった。それはそれで、けっして悪くない。楽曲の性格上、そういう行きかたもありうるからだ。しかしそれにしても、この日のソリストは脆弱すぎた。とくに毛利伯郎氏のチェロが、あまりに渋すぎるのだ。第1楽章が始まってすぐのカデンツァには、深い味わいがあったと思う。が、その後オケと協奏する場面になると、ほとんど音が埋もれてしまい、こちらの耳まで届いてこないのだ。この曲の場合、それでもあまり気にならない場面もある。とはいえ、やはり聞こえてこないと困るところも当然ある。それが、聞こえてこないのだ。ただし、これは私の座席位置に問題があったという可能性もある。いちおうS席ではあったのだが。もうひとりのソリストである豊嶋泰嗣氏のヴァイオリンは、音が聞こえてこないということはなかった。が、とにかくソリストにしては線が細すぎる。見かけとは裏腹に、かぼそい音なのだ。ただ、逆にそれが魅力に転じる場面もあった。たとえば第1楽章展開部の終盤、独奏ヴァイオリンがpで上昇していった、その高音。また第1楽章再現部で、独奏ヴァイオリンがpのドルチェで第2主題を奏でるところ。あるいは第2楽章第2部におけるpのドルチェも、そう。見た目からはソリストふたりの気合がじゅうぶん感じとれたのだが、少なくとも私の座席にはそれが音として伝わってこなかった。オーケストラは第1楽章冒頭のトゥッティでいきなり縦の線が合わず、どうなることかと危惧されたが、その後それほど目立った破綻はなし。危ないところも、なんとか無難に切り抜けた。朝比奈氏の気迫みなぎる指揮に、みごと応えてみせた演奏であったと思う。なお第2楽章から第3楽章にかけてはアタッカで演奏された。

休憩後は交響曲第4番。朝比奈氏の解釈自体は極めてオーソドックスなもので、これといって変わったことはひとつもしていない。ちょうどこの10日前の読響のコンサートで同曲を振ったアルブレヒト氏が聴かせてくれたような、細かい芸は皆無。にもかかわらず、この日の朝比奈氏の気迫には圧倒されずにはいられなかった。氏の指揮するときにありがちな、細かい齟齬はたしかにあった。とくに第1楽章はオケが不安定で、たとえば再現部に入る少し前、木管の縦の線が合わなかったところなど、けっこう耳についた。しかしそれ以降、目立った齟齬はなし。というか、たとえ少しくらいの齟齬があろうとも、聴いていて気にならなくなっていったのだ。それほど音楽が白熱していった、ということだ。オケのメンバーも御大の発する「気」を感じとったのであろう。演奏が進むにつれ、ボルテージは高まるいっぽう。第3楽章で、はやくもこのまま演奏が終わってしまっても不思議はないくらいの高揚をしめした。そのままアタッカで第4楽章に入るかと思われたが、そこで一息。そして始まった第4楽章における音楽の沸騰。それを、どう言葉にしたらいいものやら。真にディオニソス的な演奏が展開された、とでもいえば伝わるだろうか。とにかくそこには、熱に浮かされたような迫力と興奮があった。思わず聴いていて、手に汗を握ってしまったほど。多くの聴衆も、同じ思いだったようだ。演奏が終わるか終わらないうちに、フライング気味の拍手とブラボー多数。しかし、この日はそれもさほど気にならなかった。私にしては珍しいことである。

ということで前半の演奏には不満ありだが、後半は大満足。この日のブラ4は、朝比奈氏最大級の名演であったといっても過言ではなかろう。ちなみに当然この日も御大の、いわゆる「一般参賀」あり。

2001.3.25記


フォルクローレ・コネクション 木下尊惇+上松美香
2001年3月16日 トリビュート・トゥ・ザ・ラブ・ジェネレーション

ボリビア伝承曲:パスクワのための小歌
木下尊惇:無言のさざ波/La Dolorosa
フェリックス・ペレス・カルドーソ:鐘つき鳥
パラグアイ伝承曲:セルベセリア・アメリカーナ/カレータ・グイ
ディグノ・ガルシア:カスカーダ
上松美香:白い鳥
木下尊惇:天までとどけ/星のながれる・・・
パラグアイ伝承曲:アポロニータ

木下尊惇:組曲《生きとし生けるものへのために》
サンチャゴ・コルテーシ:サカ島
フェリックス・ペレス・カルドーソ:牛乳列車
木下尊惇:虹のたもとへ
ホセ・マンソ:コーヒールンバ


トリビュート・トゥ・ザ・ラブ・ジェネレーションは、お台場の複合エンタテインメント施設「メディアージュ」のなかにあるライブ&レストラン。クラシック系アーティストもたびたび出演していて、通常のコンサートのときとは異なる一面を見せてくれたりする。なかなか魅力的なライブ・スポットだ。

この日の出演者は、日本を代表するフォルクローレ・ギタリストである木下尊惇氏と、昨年弱冠17歳にして本格的CDデビューを飾ったアルパ(竪琴ハープ)奏者の上松美香氏。ふたりともそれぞれの音楽の本場である、かたやボリビア、かたやパラグアイにおける評価も高い本格派である。

まず木下尊惇氏がひとりで登場。弾き語りで「パスクワのための小歌」を歌う。これは木下氏がリーダーをつとめ、ボリビアの若手トップグループと目されているルス・デル・アンデによる『アンデスのフォルクローレ−コンドルは飛んで行く』というアルバムに収録されている。なかなか心に染みるメロディだ。ラストの、高音の訴えかけるような歌唱が印象的。MCに続き、木下氏の新譜『涙色の首飾り』収録曲から自作の「無言のさざ波」と「La Dolorosa」の2曲を。歌はなく、いずれもギターのみの演奏。日本とボリビアのあいだを行き来しながら活動している木下氏らしく、アンデスのリズムと日本の抒情が巧みにミックスされたような彼独自の音楽世界が広がる。

上松美香嬢、登場。相変わらず、笑顔がキュート。木下氏とのデュオで、彼女のデビュー・アルバム『イノセンシア』収録曲から「鐘つき鳥」「セルベセリア・アメリカーナ」「カレータ・グイ」の3曲を演奏。このうち、とくに「鐘つき鳥」はアルパの超有名曲。デュオといっても、基本的には上松氏の演奏に木下氏が即興で伴奏をつけるというスタイル。たびたび共演を重ねてきただけあって、ふたりのアンサンブルは息がぴったり。ただ前日ザ・ハープ・コンソートの公演で繊細にして高貴なスパニッシュ・ハープの生音に接したばかりだったせいもあり、この日のPAで増幅されたアルパの音はちと辛かった。ときどき妙にキンキン響くのだ。といっても美香嬢に責任はないのだが。演奏そのものは、実に堂に入ったもの。演奏中の美香ちゃんスマイルも、いつもながら魅力的。

木下氏がいったん退場し、上松氏のソロで『イノセンシア』収録曲から「カスカーダ(滝)」と「白い鳥」の2曲を。「カスカーダ」は、アルパの曲のなかで最も知名度の高いもの。最近パラグアイで「カスカーダ」の演奏ばかりを集めたCDがつくられたそうだが、そのなかにただひとり、パラグアイ人以外の奏者による演奏が収録されているという。それが他ならぬ上松美香嬢のものだ。そのことからも彼女にたいする評価の高さが、うかがわれよう。じっさい彼女の「カスカーダ」は実に優美であると同時に、若々しい躍動感や弾力感にあふれていて、聴いていて楽しい。続く「白い鳥」は彼女の自作。良くも悪くも、乙女チックな曲。私は申し訳ないが、あまり好みではない。

ふたたび木下氏が登場。ふたりのデュオで、木下氏のセカンド・ソロアルバム『シロツメクサの指輪』収録曲から「天までとどけ」と「星のながれる・・・」を演奏。たびたび共演したことがあるといっても、これまでは木下氏が美香嬢のレパートリー曲に伴奏をつけるというパターンばかり。木下氏のオリジナル曲を美香嬢が演奏するのは、今回がはじめてのことなのだそうな。そのわりに違和感はなかった。CDでは何本かのギターの音を多重録音で重ねているのだが、そこにアルパの響きが加わってくると当然のことながらだいぶ印象が異なる。よりしっとりとした感じの演奏になった。アルパのきらびやかな高音の響きが、とりわけ印象的。ここではPAもあまり気にならなかった。前半最後は「アポロニータ」で、しめ。ここで第1部終了。

第2部は、木下尊惇氏がルス・デル・アンデのためにつくった組曲「生きとし生けるものへのために」から始まった。これは、たいへん聴きごたえがあった。まず「プロローグ」で、姿なき女性の声により日本語の詩が朗読される。どうやら環境問題をテーマにした音楽らしい。演奏後におこなわれたメンバー紹介によると、ケーナとサンポーニャが菱本幸二氏、ヴァイオリンが後藤勇一郎氏、パーカッションが渡辺亮氏、ギターが木下尊惇氏と小林智詠氏という顔触れ。「太陽のテーマ」「月のテーマ」「海のテーマ」では、何本ものケーナとサンポーニャを持ちかえながら演奏した菱本幸二氏の活躍がめだった。どうも彼がサンポーニャを吹きはじめると、音楽が盛りあがるというパターンが多かったようだ。「月のテーマ」で吹いていたケナーチョの、尺八風の響きも印象的であった。続く「大地のテーマ」で、ヴォーカルのYaeさん登場。おだやかなハミングで歌う。先ほどの詩の朗読と同じ声だ。次の「生きとし生けるもの」では、パーカッションの渡辺亮氏が爆発。さまざまな楽器を駆使していたが、圧巻はビリンバウのソロ。なおYaeさんは、ここではスキャット風の歌唱。そして最後の「宇宙のテーマ」で、スペイン語の詩が歌われる。おそらく最初に日本語で朗読された詩と同じ内容だと思う。Yaeさんは歌詞カードを見ながらの歌唱。30分を越える大作であったが、音楽は起伏に富み、表情が大きく変化するので、聴いていて退屈することはまったくなかった。どころか、大いに聴きほれた。もうこれで満腹、といった感。演奏後のMCによると、この曲がライブで演奏されたのは過去にもボリビアで1回、日本で1回の計2回しかないのだとか。いいものを聴かせてもらった。これも、なにかのめぐりあわせであろう。と思い、終演後会場で売られていたこの曲のCDをさっそく購入。その後、愛聴している。

上松美香嬢、登場。前半は白だったが、後半は青い衣装にお召しかえ。Yaeさんは退場したが、その他のメンバーは残り、全員で「サカ島」「牛乳列車」の2曲を。このうち、とくに「牛乳列車」はアルパの超有名曲である。汽笛を鳴らし、車輪を動かし、列車が走りだしていくさまを音楽的に活写したもの。この日のような楽器編成による「牛乳列車」というのは、けっこう珍しかったのではなかろうか。なかなか楽しめた。

いったん木下氏と上松氏以外のメンバーは退場。残ったふたりで、木下氏の『涙色の首飾り』に収録されている「虹のたもとへ」を。いつもは弾き語りで演奏しているのだが、いちどくらい歌手気分を味わってみたいとのMCの後、美香嬢のアルパ伴奏に乗って木下氏が歌いだした。が、そういっておきながら木下氏、途中からギターをつまびきはじめた。やはりギターを弾きながらでないと歌えない性分らしい。

最後は、ふたたびYaeさん以外のメンバーが全員舞台上に登場。にぎやかに「コーヒー・ルンバ」を演奏して、ジ・エンドとなった。

全体的にじゅうぶん楽しめたライブであったが、私にとっては組曲「生きとし生けるものへのために」を聴けたことがいちばんの収穫。木下尊惇氏には、今後も注目し続けていきたい。上松美香嬢のセカンド・アルバムのほうも楽しみである。

2001.3.23記


ザ・ハープ・コンソート ザ・スパニッシュ・ジプシーズ
2001年3月15日 カザルスホール

アンドルー・ローレンス=キング(音楽監督、スパニッシュ・ハープ)
スティーヴ・プレイヤー(ダンス、ギター)
クララ・サナブラス(ソプラノ、ギター)
ヒレ・パール(ヴィオラ・ダ・ガンバ、リローネ、ギター)
トマス・イーレンフェルト(テオルボ、ギター)
ミヒャエル・メツラー(パーカッション)

ロワラン写本 スコットランド(1615頃):ザ・ジプシー・リルト
ジョン・プレイフォード「ザ・イングリッシュ・ダンシング・マスター」:ザ・スパニッシュ・ジェプシーズ

モザラブの聖歌:グレゴリア聖歌 パンジェ・リング

ディエゴ・ピサドール:その幸運をつかんだ人は
ピサドールに基づく即興:ロマンス 海の上で
イングランドの伝統音楽:船乗りのバイレ

エンリケ・デ・バルデラーバノ:踊りのためのソネット
エネストローサ/バルデラーバノ:クラロス伯爵をテーマにしたディフェレンシア

作曲者不詳:馬のブランド
即興:ロマンス クラロス伯爵は馬で
作曲者不詳:エスパニョレッタ
即興:ロマンス クラロス伯爵とクララニーニャ
即興:フォリーア

ロバート・ジョンソン「変容したジプシー」(1621):ジプシーズ・ソング

ロワラン写本による即興:
グレゴリー・ウォーカー クワドラン・パヴァン
マシュー・オトリーのシターン・ブック(1600頃):
グレゴリー・ウォーカー バフィンズ
「オズボーン」コモンプレイス・ブック(1650頃):
グレゴリー・ウォーカー ヘイ・ディ・ガイ

エネストローサ/ナルバエス:牛
ジョン・プレイフォード「ザ・イングリッシュ・ダンシング・マスター」:ニュー・スコッチ・ジグ
ディーン・ヒギンズのコモンプレイス・ブック(1615頃)ラウンド・スコティッシュ・テューン
 「ウィリアム・バードのザ・ハント・サップによるディヴィジョン」

トゥールロッホ・オ・カロラン:カロランの帽子
ルカス・ルイス・デ・リバヤス「ルス・イ・ノルテ」:スパニッシュ・パヴァン
オ・カロラン:ヒューゴ・オドネル氏

オ・カロラン:カロランのカップ/カロランの告別
オ・カロランによる:アレトゥーサ号


ザ・ハープ・コンソートは、バロック・ハープ奏者として著名なアンドルー・ローレンス=キング氏が仲間を集めて結成したグループ。バロック、ルネサンス、中世音楽の即興演奏を中心に活動している。CD録音のたびにメンバーの変動があるようだが、来日公演のメンバーは前回も今回も変わらぬ6名。2年前の初来日公演は大いに評判を呼んだが、私は行けず悔しい思いをした。この日が、ようやく念願かなっての初体験である。

今回の来日公演では2つのプログラムが用意されていて、この日は「スパニッシュ・ジプシーズ」。彼らの新譜と同じタイトルだ。「17世紀イングランドのケルトとスペインの音楽」というサブタイトルをもつ。17世紀のイギリスといえば、シェイクスピア、ダウランド、パーセルらが活躍した時代。そのイギリスの音楽に、実はケルトとスペインの音楽がたいへん強い影響を与えていた、というコンセプトにもとづくプログラム編成。

まずは新譜『スパニッシュ・ジプシーズ』収録曲を2曲。スコットランドとイングランドの写本より、ともにタイトルにジプシーと名のつく作品を。冒頭の「ジプシー・リルト」はCD同様、ハープのソロで。CDで聴く以上に繊細で、気品のある響きだ。ときどき挿入される不協和音が、やさしく耳に心地よい。続く「スパニッシュ・ジェプシーズ」はCDと異なり、歌唱つきの演奏となった。ハープとパーカッション以外のメンバー4名は全員後方で、それぞれ大きさの異なったギターを奏でる。そのうち歌手のクララ・サナブラス氏とダンサーのスティーヴ・プレイヤー氏がギターを手にしたまま、いったん舞台前方に出てくる。そして見つめ合う。それだけで、そこにドラマが生まれる。いきなりムード満点だ。おお、これがザ・ハープ・コンソートか。と、私は早くも感動(^_^;)。その後、歌が始まる。

ローレンス=キング氏のクイーンズ・イングリッシュによる折り目正しい解説に続き、クララ・サナブラス氏のソロでグレゴリオ聖歌「パンジェ・リング
」。続くは、そのグレゴリオ聖歌にもとづいてつくられたというスペインとイングランドの音楽。「その幸運をつかんだ人は」はハープとヴィオラ・ダ・ガンバで。ついに、ここでヒレ・パール氏のヴィオラ・ダ・ガンバを耳にすることができた。噂には聞いていたが、なんと伸びやかにして、艶やかな響きなのだろう。音程も、びしっと安定。実にうまい。ヴィオラ・ダ・ガンバの演奏というのはなかなか難しいらしく、CDでは達者でも実演ではいまひとつという奏者が多いなか、彼女は文句なしの出来だ。大いに感心。続く「海の上で」と「船乗りのバイレ」は、全員での演奏。ここではパーカッションのミヒャエル・メツラー氏の活躍がめだった。レインスティックで波の音を模したり、リコーダーを吹いたり、タンバリンを自在に操ったり、と。しぐさや顔の表情も、なかなかにユーモラス。「海の上で」はサナブラス氏の歌あり。また「船乗りのバイレ」の終盤では、スティーヴ・プレイヤー氏が前方に出てきて軽くステップを踏んでみせた。とりあえず足慣らし、とでもいった感じ。

次はスペインの音楽を2曲。「踊りのためのソネット」はハープのソロ。しんみりとした佳曲。続く「クラロス伯爵をテーマにしたディフェレンシア」ではクララ・サナブラス氏がドレミの階名で歌をうたったのが印象的。階名どおり、きちんと歌っていたわけではなかったようだが。ハープとヴィオラ・ダ・ガンバのかなり長いやりとりの後、トマス・イーレンフェルト氏がトロンボーンを吹いてみせたのはこの曲だったか。かなり記憶が曖昧である(^_^;)。

ローレンス=キング氏のMCに続き、前半最後はクラロス伯爵をテーマにした寸劇風舞台。ちなみに「クラロス伯爵」というのは、16世紀のスペインで大流行したモンタルバン作曲の歌のタイトルである。いったん舞台上から姿を消していたプレイヤー氏とメツラー氏が「馬のブランド」で、それぞれバグパイプと棒状のカスタネットを演奏しながら舞台袖から登場。他のメンバーの演奏に加わる。プレイヤー氏は、好色なクラロス伯爵になりきっている。「クラロス伯爵は馬で」ではギターを手に、歌うサナブラス氏を視線で誘惑。「エスパニョレッタ」になると、ふたりでダンス。お互いに見つめ合う。「クラロス伯爵とクララニーニャ」では歌うサナブラス氏と手をつなぎ合う。最後の「フォリーア」になると、しばらくはサナブラス氏を見つめながらステップを踏んでいたが、彼女が後方に引っ込んだところで、ついにその踊りが爆発した。まさにダンス、ダンス、ダンスである。会場は大いに沸いた。それにしてもプレイヤー氏の踊る姿は、背筋がぴんと張っていて、なんとも凛々しい。ステップのほうは座席の関係上、はっきり目にすることができなかった。残念。

休憩後、まずは「ジプシーズ・ソング」。新譜『スパニッシュ・ジプシーズ』収録曲である。もとは宮廷仮面劇の音楽。CDで聴いて印象的だったのが冒頭のパーカッションであるが、なんとメツラー氏、この日は頬を指でたたいての演奏。すぐに、たたく対象はジャンベに切り替わったが。ハープとパーカッション以外は、全員ギター。

ここでローレンス=キング氏のMCが入り、その後「グレゴリー=ウォーカー」を続けて3曲。これもいずれも『スパニッシュ・ジプシーズ』収録曲。「グレゴリー・ウォーカー」というのは、17世紀のイングランドで人気を博したグラウンドベースのコード進行の一種。ここでも引き続き、ギター4本での演奏。最後の「ヘイ・ディ・ガイ」では、プレイヤー氏がダンス。

ローレンス=キング氏のMCに続き、スペインの歌「牛」と、それにもとづいてつくられたスコットランドの音楽を。「牛」は、サナブラス氏がギターの弾き語りで歌う。途中ギターをミスしたらしく、苦笑い。歌自体は短いが、その後ローレンス=キング氏のハープとプレイヤー氏のギターによる長い即興演奏があった。続く「ニュー・スコッチ・ジグ」は『スパニッシュ・ジプシーズ』収録曲。CDではレイチェル・ポッジャー氏のヴァイオリンが極めて印象的であったが、当然この日彼女はいない。しかしローレンス=キング氏のハープとパール氏のヴィオラ・ダ・ガンバも、それに劣らず味のある演奏であった。「ラウンド・スコティッシュ・テューン」もまた『スパニッシュ・ジプシーズ』収録曲。ここではCDと異なり、サナブラス氏の歌つき。

「カロランの帽子」でプサルテリウムとテオルボが本日初登場。全体の音色が、がらっと変化した。ローレンス=キング氏がプサルテリウム、イーレンフェルト氏がテオルボ。続く「スパニッシュ・パヴァン」では、ふたりともそれぞれ元のハープとギターに持ちかえての演奏。次の「ヒューゴ・オドネル氏」は、彼らのセカンド・アルバム『カロランのハープ』収録曲。ここで、またもやプレイヤー氏のダンスが炸裂。しかも今度は、踊りながら客席にまでおりてきた。そして、ねらいをさだめた聴衆の前にひざまづいて手にした帽子をさしだす。その客が渋っていると、他の聴衆に拍手を要求する。そうなると、もう逃げられない。客は財布から金をとりだし、帽子へ。犠牲者、数名。犠牲とならなかった大多数の聴衆は、みな大笑い。もちろん私も(^_^;)。なかには気前よく千円札を提供した客もいて、プレイヤー氏大喜び。他の聴衆に見せびらかす。そして提供してくれた客には、とびきりのステップをプレゼント。これぞザ・ハープ・コンソートである。楽しい楽しい。

ローレンス=キング氏のMCをはさみ、プログラムの最後はオ・カロランを3曲。オ・カロランは、17世紀末から18世紀前半にかけて活躍した盲目のアイリッシュ・ハープ奏者。「カロランのカップ」は太鼓とヴィオラ・ダ・ガンバによる、しめやかな曲。それにプレイヤー氏の、やはりしめやかなダンスがつく。続く「カロランの告別」は輪をかけて、しんみりムードの曲。照明が落ちたこともあり、告別式に参加しているような雰囲気であった。以上2曲は『カロランのハープ』収録曲。と照明が明るくなると同時に、音楽も一気に明るくなった。最後のしめは「アレトゥーサ号」。サナブラス氏が陽気に船乗りたちの歌をうたう。そこにプレイヤー氏の、ひとり芝居が。一人二役で、喧嘩をしてみせるのだ。殴ったかと思えば、ただちに向きをかえ、殴られて倒れる。ついには勢い余って、客席に落っこちる始末。もちろん演出なのであろうが。まさに抱腹絶倒もの、であった。

アンコールは3曲。まずは「ムルシアに基づく即興 ホタ」。ハープにタンバリンにギター4本による演奏。続いてマルティン・イ・コルの「シンフォニア(薔薇の血)」。ふたたびテオルボ登場。ただし途中でイーレンフェルト氏は、ギターに持ちかえた。パール氏のヴィオラ・ダ・ガンバがよく歌っていたのが印象的。そして最後はリバヤスの「ガリャルダ」。ギターの刻む力強いリズムが忘れがたい音楽である。なお最後の2曲は、もうひとつのプログラム「ルス・イ・ノルテ」に入っている。いわば、その予告編とでもいうべきアンコールであった。

ローレンス=キング氏は見るからに学究肌といったタイプの人物であり、プログラム編成もそれらしく凝りに凝っている。古楽マニアには、たまらなく魅力的なコンサートであろう。しかしザ・ハープ・コンソートの公演は、そうした古楽マニアだけを対象としたものではない。メンバーは、みな芸達者。歌あり、踊りあり、楽しいパフォーマンスあり。常識的なクラシック系コンサートの枠を越えた、一級のエンタテインメントとも呼びうるもの。古楽にまったく興味のないひと、いや、もっといえばクラシック音楽にまったく興味のないひとが体験しても、じゅうぶん楽しめる。もちろん、それでいながら音楽的レベルも極めて高い。

ということで、たいへん期待して出かけたコンサートであったが、その期待をはるかに上まわるすばらしさであった。大、大、大満足である。

2001.3.23記


オペラ《有間皇子》
2001年3月14日 オーチャードホール

作曲:別宮貞雄
原作:福田恆存
台本:松原正

若杉弘指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団

有間皇子:福井敬
小足媛:大島洋子
間人大后:永井和子
蘇我臣赤兄:多田羅迪夫
大海人皇子:勝部太
塩屋連このしろ:鈴木寛一
中大兄皇子/守君大石:経種廉彦
中臣連鎌足/新田部連米麻呂:北村哲朗
蘇我臣日向/丹比小沢連國襲:志村文彦
物部朴井連鮪:小鉄和広
坂合部連藥:大久保光哉


このオペラが初演されたのは1967年。好評であったというが、その後上演される機会はなかなか訪れず。今回の上演は、初演以来34年ぶりの再演にあたるという。ちなみに初演のさいタイトルロールを歌った中村健氏が、今回の公演プロデューサーである。

有間皇子といえば、学校の歴史の教科書だと天皇家の系図のところにしか名前が出てこない。万葉集の、有間皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首で知られるひと。オペラのストーリーを簡単に述べると、こうだ。ときは大化改新から12年後の657年。有間皇子の父、孝徳天皇はすでにこの世にいない。政治の実権を握るは、皇太子の中大兄皇子と内臣の中臣連鎌足。政情不安定のおり、皇位継承候補のひとりである有間皇子の立場は難しい。政争に巻き込まれるのをおそれ、狂態を装う有間。彼が牟婁(むろ)の湯から帰ってくるところからオペラは始まる。権力への野望に憑かれた男がひとり。蘇我臣赤兄(あかえ)である。翌658年、母の斉明天皇とともに中大兄皇子が牟婁の湯に出かけている最中、赤兄は行動を起こす。まず有間皇子の母である小足媛(おたらしひめ)に接近。ついには有間に迫り、天皇の失政をあげつらい、謀反をそそのかす。有間皇子の館で謀議がなされる。赤兄の讒言により、有間の館が包囲される。小足媛は絶望し自害。有間は捕らえられる。赤兄により牟婁まで護送されていく有間を、磐代の浜まで迎えにきたのは間人(はしひと)大后。先帝孝徳天皇の皇后にして、中大兄の妹。有間皇子からみれば、義理の母親にあたる女性だ。ふたりのあいだに流れる複雑な感情。牟婁で中大兄と鎌足に裁かれている途中、逃げていた部下に有間皇子は救出される。が、藤代坂でふたたび捕らえられ、赤兄の眼前で処刑される。

いかにもシェイクスピア的なドラマ展開である。とくに蘇我臣赤兄の存在に、それが強く感じられる。「オセロ」におけるイアーゴを連想させる人物だ。福田恆存氏が戯曲化を思い立ったのも、赤兄の存在に注目したからではなかったか。登場人物は、すべて実在の人物である。ただ、小足媛や間人大后にまつわるエピソードは史実にない創作。日本書紀に、彼女たちが有間皇子の変に関わったという記述はない。この創作が原作の福田恆存氏によるものか、台本の松原正氏によるものなのかは不明。また謀議がおこなわれたのも、史実では蘇我臣赤兄邸である。舞台を有間皇子の館にしたのは、オペラ化のさいの改変とのこと。牟婁における救出劇も創作である。

別宮貞雄氏の音楽は想像以上にテンションの高いもので、劇的効果抜群。無調的な前衛音楽風のところもあれば、ロマンティックな抒情的陶酔に浸れるところもあり、そのバランスが最適。レチタティーヴォ的なやりとりの部分が大半を占めるが、そこで音楽が単調におちいるようなこともない。アリアやデュエットも、しっかりある。アリアを歌うのは有間、赤兄、間人、小足の4人。レチタティーヴォ的な部分もふくめ、歌の旋律はすべて日本語のイントネーションに忠実。しかもそれをやや誇張しているため、たいへん言葉が聞きとりやすい。これは、狂言の台詞まわしにならったものなのだそうな。また、ワーグナー流の指導動機も活用されている。その主要な動機の楽譜が、冒頭断片だけではあるがパンフレットに載せられており、おかげで聴きながらよく理解することができた。

なかでも私が魅力を感じたのは、有間皇子とその義母である間人大后がやりとりする場面。ふたりの秘められたロマンスが、音楽から匂いたつ。むろんこのロマンスは、史実にない創作である。オペラでも、それが言葉としてあからさまに口にされることはない。が、音楽がふたりの思いを雄弁に物語るのだ。磐代の浜でふたりが語らう場面の音楽の、なんとロマンティックであったことか。なおこのさい有間皇子の有名な歌「家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」と「磐代の浜松が枝を引き結び眞幸(まさき)くあらはまた還り見む」も、彼のアリアとして歌われる。その陶酔感ときたら、格別。大いに堪能させてもらいました。

この日の上演はコンサート形式。当然、オーケストラは舞台上に乗る。歌手陣の位置は、そのオーケストラ後方の高い壇上。ずらりと横に並んで歌う。衣装がなく、演技もつかないため、そのままだと聴衆は、だれがだれの役なのかさえ理解しにくい。この日は一人二役もあるから、なおさらだ。そこで、字幕の導入とあいなった。歌詞ばかりでなく、その歌詞がだれによって歌われているものなのか、また舞台設定、状況説明など、そうとう細かいことまですべて字幕に表示される。おかげで、字幕にばかり目が行くことに。それが煩わしく感じられることも。ないものねだりの感もあるが、できれば本格的舞台上演のかたちで接したかった。

指揮者の若杉弘氏は34年前の初演のさいも指揮を担当しており、まさに最適任者。私は聴けなかったが、一週間前には都響を振って別宮氏の交響曲第5番を世界初演している。別宮氏からの信頼も厚い模様。この日のオケは、新日本フィル。準備期間は短かったと思われるが、それにしてはたいへんな好演だったと思う。しかし演奏前、コンサートマスターの崔文洙氏が舞台に登場しても聴衆の拍手はまばら。いつもと勝手がちがって、やりにくかったのではなかろうか。

歌手陣で私がいちばん惹かれたのは蘇我臣赤兄役の多田羅迪夫氏。赤兄は「オセロ」のイアーゴ(ヴェルディのオペラでいえば「オテロ」のイヤーゴ)を連想させる人物だと前述したが、むろんイアーゴとまったく同じというわけではない。赤兄は陥れる相手の有間皇子にたいして、友情に近い感情を抱いてもいるのだ。けっして単なる悪の権化というわけではないのである。有間皇子の処刑を目のあたりにして、激しく心を動揺させる人物なのだ。多田羅氏の役づくりは、そうしたポイントをきちんと踏まえた実にみごとなもの。とりわけ幕切れの、息絶えた有間を眼前にしながら複雑な胸中を歌うアリアは絶唱であった。これでオペラ全体が、ぐっと引き締まった。なおこの幕切れの赤兄のアリアは34年前の初演のさいにはなく、今回新たにつけ加えられたものである。よって、この日の上演は「有間皇子」決定稿初演ともいえるのだそうな。

タイトルロールの福井敬氏は、2週間前のツェムリンスキーのときとは異なり、この日はだいぶおさえめ。あくまで皇子としての気品を大切にしたかのような歌唱。狂態を装っているところなど、演技なしの歌唱だけだと、やはり物足りない。間人大后役の永井和子氏は、つい3日前に團伊玖磨氏の歌曲集「マレー乙女の歌へる」世界初演という大役を果たし終えたばかり。たいへんであったと思うが、この日も準備不足を感じさせるようなところは皆無。実に安定した歌唱を聴かせてくれた。すばらしい。小足媛役の大島洋子氏は、もう少し出るところでは出てほしいと思った。アリアや自害する場面における訴求力も、やや弱し。物部朴井連鮪(もののべのえいのむらじしび)役の小鉄和弘氏は、出番が少ないわりに存在感があった。塩屋連このしろ(変換できないのでひらがな表記にしたが、漢字だと「この」は「うおへん」に「制」、「しろ」は「魚」である)役の鈴木寛一氏は、意外に出番が多い。狂言まわし的なところもある重要な役柄。けっして悪くはなかったが、磐代の浜における鮪とのやりとりの場面など、もう少し滑稽味がほしいと感じられたところもあった。その他の歌手陣も皆まずまず。

ということで、もともとあまり期待していなかったせいもあり(^_^;)、意外と楽しめたというのが本音。ライヴ録音を前提とした上演だったとのことなので、いずれCDが発売されることであろう。歌手陣のうち幾人かの歌唱が、いくぶん守りにまわっていたように感じられたのも、そのせいなのかもしれない。それでもCD化された暁には、ぜひもういちど聴いてみたいものだ。そう思わせるくらい魅力的な音楽だった、ということ。よって、この日もじゅうぶん満足。

2001.3.20記


DAN YEAR 2000 歌曲集《マレー乙女の歌へる》
2001年3月11日 横浜みなとみらいホール 小ホール

詩:イヴァン・ゴル
訳:堀口大學
作曲:團伊玖磨

永井和子(メゾ・ソプラノ)
大和田葉子(フルート)
小谷彩子(ピアノ)


フランスの詩人イヴァン・ゴルの詩集「マレー乙女の歌へる」は、ぜんぶで40篇の詩からなる。堀口大學氏が日本語に翻訳したものから、團伊玖磨氏が29篇を選び音楽化。そこにフルートとピアノのそれぞれソロによるインターリュードが1曲ずつ加わり、全31曲からなる歌曲集が完成した。團氏にとっては、最大規模の歌曲集となる。

そもそも團氏がこの詩集に注目したのは、いまをさかのぼること40数年前の話。生前の堀口大學氏と親交のあった團氏が、堀口邸のパーティに招かれたのがきっかけ。当時まだ若かった團氏が鎌倉文士たちの輪のなかに入れず、ひとり退屈そうにしていると、それを見かねた堀口氏が、退屈しのぎにこれでもと手渡した一冊のうすい単行本。それが「マレー乙女の歌へる」だったのだ。團氏は一読し、すぐにその場で「曲をつけさせてください」と堀口氏に申し出た。天啓だと思ったのだそうな。堀口氏も快く承諾してくれたという。が、その作曲は思いのほか難産となった。けっきょくその音楽を耳にすることなく、堀口氏は永眠。それでも堀口氏との約束を忘れることなく、團氏は作曲を続けた。ようやく完成にこぎつけることができたのが昨年。そしてついに迎えた初演が、この日のコンサートというわけである。なおこれは、昨年6月から始まったDAN YEAR 2000の掉尾を飾る公演でもある。

メゾ・ソプラノの永井和子氏、フルートの大和田葉子氏、そしてピアノの小谷彩子氏がそろって舞台に登場。フルートが伴奏に加わる歌曲というのは珍しい。聴衆の拍手がおさまると、いったん舞台が暗くなった。暗闇のなか、静かにフルートの響きがわきおこる。こうして「マレー乙女の歌へる」初演は始まった。「籐」「あなたの舟」「雷さま」と、まず第1曲から第3曲まで続けて演奏。マレー半島の密林のなかに、ぽつんとひとりとり残されてしまったような不安感と不気味さを抱かせる音楽だ。そこに、近代フランス風の洗練された和声が不思議にいりまじる。なんとも独特な音世界。永井和子氏の日本語歌唱は、いつもながら完璧。ひとつひとつの言葉が、はっきり明瞭に聞きとれる。遅刻した聴衆を席に着かせるため、第4曲の前で少し間をとる。その後は「髪形」「茴香」「生れた時から」「百本のレモン」「楠の木の下」と、第8曲まで続けての演奏となった。詩に一貫した物語性はないのだが、詩のなかのマレー乙女が恋を知り、しだいに大人の女に成長していっていることは明らか。音楽もそれに歩調を合わせ、徐々に明るく華やかなものに変わっていった。永井さんの歌唱は、実にみごと。恋する乙女の胸のときめきと不安が、痛いほどこちらに伝わってくる。ところどころユーモアを感じさせる瞬間も。またもや照明が落ちる。そこにフルートの調べが。第9曲は、フルート・ソロによるインターリュードである。くねくね、くねるような旋律がたいへん印象的。熱帯雨林の夜、をイメージさせるような音楽だ。その後「あなたに知っていただいて」「壺」「あたしは土地」と、第10曲から第12曲まで続けて演奏。「あなたに知っていただいて」の最後の歌詞は「今あたしには自分が可愛い あなたにあたしが可愛いのと同じに」。このあたりのマレー乙女は、まだ純真で可憐だ。第13曲「鏡」においては、恋のメランコリーが歌われる。なかなか美しい音楽だ。そこで少し間をとってから「小川」「オレンジ」「「天使の群に」と、第14曲から第16曲まで続けて演奏。音楽は、だんだん激しくなる。歌詞も、そうとう過激に。「小川」の最後の歌詞は「あたしを愛して下さい あたしも手伝つてあなたを溺死させますから」。また「オレンジ」とは、ここでは乳首を意味しているのだが、「それを引き裂いて それを食ひあらして下さい」などという歌詞も。「天使の群」では「引つこ抜き」という歌詞がリピートされるのが印象的。いずれにせよ、かなり激しい熾烈な恋である。終盤またもやフルートがくねくね、くねる。最後は静かに曲を閉じる。ここでPARTTが終わり、休憩。

休憩後、舞台上に姿をあらわした3人の衣装はいずれも黒。前半の衣装の色は、フルートの大和田葉子氏が赤だったこと以外、あまりはっきり覚えていないのだが(^_^;)、3人とも原色系であったように思う。PARTUは第17曲「赤胡椒」から始まる。PARTT終盤の気分を引きずって、いきなり激しく音楽はスタートする。「自分の情慾を叫ばずにはゐられないのです」という歌詞が示すように、もはやここでのマレー乙女は純真可憐な少女ではない。恋に荒れ狂っている成熟した女だ。ウーウーという擬音語で歌うところが印象的。PARTUでは、はじめのうち各曲が連続して演奏されることはなく、それぞれ曲間で少しずつ間をあけながらの演奏となった。第18曲は「あたしの門」。どことなく中国風のフレーズがあらわれる。第19曲は「砂」。ロマンティックな旋律が魅力的。ピアノ伴奏にワーグナーを思わせるような一節も。第20曲「ゴム園」には滑稽さとロマン、第21曲「脣(くちびる)」には力強さと不気味さ、第22曲「ヴェール」には明るさと暗い激情が、それぞれ共存。いずれも一筋縄では行かない音楽だ。マレー乙女の波立つ胸のうちを、あらわしているかのよう。照明がいったん落ち、第23曲が始まる。ピアノ・ソロによるインターリュードだ。ムソルグスキーを思わせるフレーズが出てきたりする。このインターリュードを境に、音楽に少し頽廃的なムードが流れはじめる。マレー乙女の前から、男が去っていってしまったのだ。第24曲「鸚鵡の群」は、それでもまだ甘美だ。恋に破れたマレー乙女が、みずからを慰めているかのような音楽だ。次の第25曲「墓」と第26曲「亜細亜の隅」は続けて演奏された。ここでは、男にたいする未練が噴出する。とりわけ「墓」のラスト、「お待ちして居ります!」のリフレインが印象的。まだ男のことが諦めきれないマレー乙女が切ない。第27曲「メラタの花」と第28曲「「魔法使い」も連続しての演奏。「メラタの花」ではメロディアスで流麗な楽想と、暗く不気味さを漂わせた楽想が交互にあらわれる。「魔法使い」になると、音楽はさらに暗さを増してゆく。恋の破滅に苦悩する女の姿が浮かびあがってくる。その後は第29曲「どこやらで」、第30曲「白い雲」、そして第31曲「黒い羽」。と、終曲まで一気につなげて演奏。「どこやらで」は不気味さとロマンが交錯する音楽。フルートのトリルが印象的。「白い雲」は近代フランス風のメロディ。ピアノ伴奏にはサティを思わせる一節も。そして終曲「黒い羽」で、音楽は最後の盛りあがりを示す。激しく疾走し、絶叫する。最後は静かにフルートがくねり、ピアノのスタッカートで曲を閉じる。マレー乙女の精神的な死を思わせるような音楽であった。照明が落ち、暗くなってジ・エンド。

先にも触れたように、本来この詩集のそれぞれの詩に物語的な連続性は存在しない。しかし團氏の音楽を聴いていると、そこに筋の通ったひとつのドラマが存在するかのごとく感じられてくる。それぞれの曲の個々の完成度も高いが、歌曲集全体を通じての構成力も非凡。詩の舞台となったマレー半島。原詩集の著者イヴァン・ゴルの祖国フランス。そして訳詩者と作曲者の祖国日本。音楽を聴いていると、それらのイメージすべてをいずれもはっきりと感じとることができる。そうした東洋的なものと西洋的なものが巧みに融合された、実に魅力的な音楽だったと私は思う。日本語の歌詞にたいする配慮も、いつもどおり行き届いていた。團氏の声楽曲の分野における新たな代表作がここに誕生した、といった感。演奏のレベルも、ひじょうに高かった。プログラム所載の團氏の文章に「僕達は万全の準備を終えて初演に望む」とあるが、その言葉に嘘はなかったようだ。なおプログラムには全曲の歌詞も掲載されていた。私は前半それを見ずに聴き、後半は見ながら聴いた。見ながら聴いたほうが、音楽をよりよく理解することができた。後半の感想のほうがいくぶん具体的に書かれているのは、そのせいである。

ということで、この日のコンサートもじゅうぶん満足。なるべく早いうちに、この歌曲集のCD化を実現させてほしい。また團氏が現在構想中だという、イヴァン・ゴルの詩集「宿無しジャンの歌」の音楽化も楽しみに待ちたい。

2001.3.18記


ローラン・ディアンス 3月のサウダージ
2001年3月10日 すみだトリフォニーホール
ローラン・ディアンス(ギター)
川井郁子(ヴァイオリン)

インプロヴィゼーション
ディアンス:多国籍の3つの小品
ショパン(ディアンス編):2つのワルツ
ディアンス:サウダージ第3番
アントニオ・ビジョルド(ディアンス編):エル・チョクロ

ディアンス:リブラ・ソナチネ
ヴィラ=ロボス(ディアンス編):アリア(《ブラジル風バッハ第5番》より)
バルバラ(ディアンス編):パリとゲッティンゲン
ジャンゴ・ラインハルト(ディアンス):ヌアージュ
バーデン・パウエル(ディアンス編):ビリンバウ
ピアソラ:カフェ1930/ナイトクラブ1960(《タンゴの歴史》より)
ディアンス:タンゴ・アン・スカイ


ローラン・ディアンス氏といえば、日本では「タンゴ・アン・スカイ」「3つのサウダージ」「リブラ・ソナチネ」などの作曲者として知られているギタリストである。その彼の、今回が初来日公演となる。ディアンス氏のコンサートでは、いつも事前に演奏曲目を発表しない。ステージ上でプログラムを決定し、その場で聴衆に曲名を告げるというやりかたなのだ。

すみだトリフォニーホールにおけるニューウェイヴ・ギター・シリーズの常で、この日もオブジェや照明による演出あり。オブジェといっても簡素なもので、7つの球体が舞台天井から吊り下げられているだけ。中央のものだけやや大きく、吊りひもが撚ってある。PA使用も、いつもどおり。

ディアンス氏、登場。ぬぼうっと出てきて、音楽もぬぼうっとした感じで始まった(^_^;)。日本をイメージしたインプロヴィゼーションであったとの説明が、演奏後に。彼にとっての日本は、神秘に満ちた国なのであろう。音楽が、そう物語っていた。日本というより、どこか中近東を思わせるようなところもあったが、そのくらいはご愛敬だ。刺激的なところのまったくない、聴いていて実に心地よい音楽であった。音楽同様、彼のトークにもまた力みがない。淡々としているが深い味わいがあり、聴くものを魅了せずにはおかないチャームがある。

次に演奏されたのは、自作の「多国籍の3つの小品」。具体的には「Gシャープ」「楽屋のワルツ」「空飛ぶかつら」の3曲。うち「Gシャープ」は、GHAからリリースされている彼のアルバム『ヌアージュ』に収録されている。残りふたつは、やはりGHAから近日リリース予定の『甘いレモン』に収録されるらしい。しんみりしていたり、やさしかったり、洒脱であったり。と、これまた耳に心地よい音楽。いずれも音数はさほど多くない曲だが、彼はそれを抜群のニュアンス感で聴かせてくれる。すっかり魅せられた。はやくも彼の術中にはまった、といった感。なおこの曲の演奏前、ディアンス氏はPAの音量を上げるよう、手のしぐさで客席後方にいたと思われるPA担当スタッフに指示。そのせいもあって、演奏はますますソフト・タッチに。やさしくギターを弾いて、その音をマイクに巧みに乗せる手腕はさすが。PA使用には、そうとう馴染んでいるとみた。

MCをはさんで、ショパンのワルツ。その演奏前、さらにPAの音量をアップ。演奏されたのは第9番と第10番。作品69の2曲である。もちろんオリジナルはピアノ曲。これも近日発売予定の『甘いレモン』に収録されているらしい。第9番は和声進行が原曲と微妙に異なっているところがあり、そこに彼のセンスの輝きを感じた。よく聴くとアレンジは凝りに凝っているのだが、それをディアンス氏は軽妙洒脱にさらりと弾いてのける。おみごと、である。第10番は、演奏に少し激しさを感じさせるところも。

その後またもやMCをはさみ、自作の「サウダージ第3番」。これまた想像以上にソフトな演奏。むろん音楽に起伏はあるのだが、盛りあがったところでも表情はあくまでおだやか。とはいえリズムのセンスは抜群で、聴きごこちのよさは満点。

前半最後はアルゼンチン・タンゴの超有名曲「エル・チョクロ」。これも『ヌアージュ』に収録されている。タンゴのリズムを歯切れよく。といっても極端にリズムを誇張したりはしない。あくまで節度を保っているところが、ディアンス氏らしさ。テンポを微妙に揺らすところも心憎い。

休憩後、まずは「リブラ・ソナチネ」。聴衆の大多数が、いちばん期待していた曲目であろう。ディアンス氏がこの曲名を告げると、会場は沸いた。彼の演奏は、ここでもやさしさが際立った。繊細なニュアンス感で勝負する音楽だ。そういう意味で第1楽章インディアと第2楽章ラルゴは絶品であった。少し指がまわりきっていないように感じられたところがあったにせよ、だ。が、逆に第3楽章フォーコは若干迫力不足の感も。この疾走爆発系の見本のような音楽においても、彼の演奏にあまり切迫感はない。刺激を極力回避するという姿勢が、ここでも徹底されているのだ。最後の最後は、さすがに盛りあがったのだが。

MCに続き、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ第5番」よりアリア。その繊細の限りを尽くした歌に酔う。やさしいピチカートが印象的。これも『ヌアージュ』収録曲。

ふたたびMCをはさんで、バルバラのシャンソン「パリとゲッティンゲン」。これはフランスのシャンソンばかりをディアンス氏が編曲演奏した2枚のアルバムの、第1集のほうに収録されている。しみじみとした哀感が、胸を打つ音楽だ。続けて、彼のアルバムのタイトルともなっている「ヌアージュ」。ジャンゴ・ラインハルトの代表作である。ジャズのスイング感は、まったく申し分なし。そしてラインハルトもびっくりの、軽妙洒脱ぶり。もう、まったくもって粋のきわみ。音楽がパリジャンしている、とでもいった感。これぞディアンス氏の真骨頂だ。

スタッフがヴァイオリン用の譜面台を運んできた。当初はここで川井郁子氏登場の予定だったと思われるが、ディアンス氏のソロがもう1曲。バーデン・パウエルの代表作のひとつ「ビリンバウ」。これは聴きものであった。『Ao Vivo』というディアンス氏のアルバムに収録されているそうだが、私は聴いていない。ビリンバウというのはブラジルの民族楽器であるが、ディアンス氏はその音をギターでみごとに模してみせる。また右手の指で6弦の第1フレットあたりをはじいて、きらびやかな高音を発してみせるという特殊奏法も。大勢のギターマニアが聞き入るだけでなく、身を乗り出して見入っていたのが印象的。

ゲストのヴァイオリニスト、川井郁子氏登場。ピアソラの「タンゴの歴史」から「カフェ1930」「ナイトクラブ1960」の2曲を。しかし、これには失望した。ディアンス氏が明らかに準備不足で、それまでほとんど暗譜だったのに、ここでは楽譜とにらめっこ状態。ときどきリズムのアクセントを利かせて、ピアソラらしさを感じさせてくれる瞬間もあるにはあったのだが。川井さんのヴァイオリンも、ピアソラの棘をすべて抜き去ってしまったかのような演奏。そういっては悪いが、きれいごとに終始したといった感。少なくとも、これは私好みのピアソラではない。ふたりのアンサンブルも最後まで、がっちり噛み合ったという印象なし。

プログラムの最後は、自作の「タンゴ・アン・スカイ」。これも曲名が告げられた瞬間、会場は沸いた。今回はソロでも弦楽合奏版でもなく、ヴァイオリンとのデュオによる演奏。弦楽合奏版のヴァイオリン・パートだけが伴奏についたかのような、奇妙な「タンゴ・アン・スカイ」となった。聴いていて、違和感を禁じえず。聴衆の反応は悪くなかったようだが。

と、ここで終わってしまっていたら、そこそこ満足という程度のコンサートにすぎなかったのだが、この後のアンコールにサプライズが用意されていた。隠し玉として、なんと渡辺香津美氏が登場したのだ。ディアンス氏の紹介により、客席後方から渡辺氏が。ギターケースをさげたまま、通路を歩いて舞台上に向かう。舞台に上がると、ギターケースからギターをとりだす。という、印象的な登場のしかた。そして、ふたりのデュオでピアソラの「リベルタンゴ」が。これは大いに盛りあがった。それまでソフトさと粋を売り物にしていたディアンス氏が、一気に豹変。ふたりの壮絶なバトルが展開されたのだ。そのインパクトたるや、強烈。途中、アドリブの応酬もあり。と、しばらくすると急にディアンス氏が楽譜を見て演奏しはじめた。それを合図に舞台袖からヴァイオリンの音が。川井さんがヴァイオリンを弾きながら舞台上に登場。最後は3人で演奏して、ジ・エンド。

ということでディアンス氏の粋なソロと、アンコールにおける壮絶なデュオが強く印象に残ったコンサートである。またディアンス氏が聴衆とコミュニケートする能力に長けているアーティストだ、ということも強く印象に残った。どの曲のときだったか忘れたが、演奏を開始する直前に舞台の照明が変化した。それに気づいたディアンス氏が、弾こうとしていた手をいったん休め、あたりを見まわしてから、みんな気づいたといわんばかりに聴衆のほうを見やったことがあった。会場には、なごやかな笑いが広がった。そうしたときばかりでなく、演奏中も、そしてトークの最中も、また聴衆から拍手を受けているときでさえも、彼は絶えず会場の雰囲気や聴衆の反応に最大限の注意を払っている。別に会話を交わしたりするわけではないのだが、そこには聴衆との深いコミュニケーションがある。演奏だけでなく、そうしたインティメートな雰囲気も、彼のコンサートの大きな魅力になっているということがよくわかった。

結論。途中若干不満を感じたところもあったが、全体的にはじゅうぶん満足することのできたコンサートである。次回来日時には、できればヴィラ=ロボスをもっとたくさん聴かせてほしい。

2001.3.18記


中国琵琶の妖精 楊静
2001年3月10日 紀尾井小ホール

朱毅・文博:春雨
楊静:断夢敦煌
日本古謡(楊静編):さくら
楊静:品訴(訴え)
山田耕筰(楊静編):赤とんぼ
楊静:間欠泉
三木稔:時の彩りT
楊静:亀茲舞曲

三木稔(楊静編):琵琶組曲《源氏物語》(オペラ《源氏物語》より)
楊静:つた
琵琶古曲:十面埋伏


紀尾井小ホールは、邦楽専門のホールである。「アジアの音楽のかたち」というシリーズの一環として、今回は中国琵琶がとりあげられた。

楊静氏は中国河南省生まれの中国琵琶奏者。中国読みだとヤンジンだが、日本ではシズカと呼ばれたい、というのがご本人の希望なのだそうな。1996年からは三木稔氏に作曲を師事しており、彼女をソリストにした三木氏の「琵琶協奏曲」初演、都響とのその西洋オケ版初演は話題を呼んだ。三木氏のトークとコンビを組んだ日本各地でのリサイタルも好評で、すでにその回数は20を越えたという。私が聴くのは、この日がはじめて。そもそも私にとっては中国琵琶のソロを聴くこと自体、この日がはじめてであった。

開演前、三木氏が舞台に上がらず、客席の通路からプログラムの曲順変更を告げる。などと、ずいぶんアットホームな雰囲気である。やがて楊静氏、登場。噂には聞いていたが、まこと見目麗しき女性である。衣装は、鮮やかなブルー。

冒頭の「春雨」は、彼女の名前にふさわしく、静かに演奏が開始された。しとやかな春の雨である。やがて音楽は激しくなり、雨足が強くなったことを示す。後半の土砂降りの雨をあらわしたトレモロの嵐は圧巻。いきなり唸らされる。朱毅氏と文博氏の共作による1998年度作品。続いては、楊静氏の自作「断夢敦煌」。こちらは、いきなり激しく強く始まる音楽だ。静さんの弾くときの身振りも大きい。照明も青くなり、ムード満点。敦煌という都市とそこに栄えた文化の華やぎ、またシルクロードを行き交う人びとの喧噪、といったようなものが伝わってくる音楽であった。次は「さくら」。照明が赤に変わる。最初ゆっくりと始まり、変奏を重ねるごとにテンポが速まり、技巧もよりきらびやかなものになってゆく。つい最近編曲を完成させたものらしく、準備不足だったせいか、静さんにしては珍しく些細なものだがミスもあった。ここで静さん、いったん退場。

かわって、薩摩琵琶を手にした三木氏が登場。先日「耳なし芳一」の琵琶を担当された半田淳子さんが会場の近くにお住まいで、借りてこられたとのこと。薩摩琵琶と中国琵琶のちがいについての、おはなし。まず薩摩琵琶は撥(ばち)で弾くのにたいして、中国琵琶は爪で弾く。また薩摩琵琶は柱(じ)すなわちフレットの数が4つしかないのに、中国琵琶には30もある。その柱の高さが薩摩琵琶は高く、中国琵琶は低い。主なちがいは、そういったところ。トークの途中で、薩摩琵琶の撥を持ってこなかったことに気づいた三木先生。それを持ってきてもらおうと舞台袖に向かう途中、慌ててすべって転びそうになった。また、かつて中国琵琶の作品を作曲中に、折りたたんで持ち運べるようにつくったという、紙の上に書かれた中国琵琶を嬉しそうに聴衆に見せたり。と、なかなかにユーモラスである。

楊静氏、再登場。まずは自作の「品訴」。1986年度の作品で、この曲で「上海の春」音楽祭作曲賞受賞したという。補強した爪でフレットを引っ掻くような特殊奏法もあり、楽しめた。照明は青。続いて「赤とんぼ」。当然、照明は赤。編曲が中国風で、一風変わった「赤とんぼ」となった。ここでも些細なものだが、ミスが耳についた。次の「間欠泉」は、昨年彼女がイエローストーン国立公園を訪れた帰り、サンフランシスコで即興演奏をCD録音したなかの1曲。弾くたびに、演奏は異なるという。音階的なゆるやかな楽想と、それに続く激しい楽想が、いくどか繰り返される。まさに間欠泉、といったイメージである。続く「時の彩りT」は、三木氏が「自分の内面に向かって弾くタイプの曲のサンプル」として静さんのためにつくった曲。彼女は比較的速めに弾いていたが、もう少しゆったり弾くと微妙に音色が変化するさまがより聴衆に伝わり、曲の魅力が増したような気がする。どこか武満氏のギター曲を思わせる味わいも。前半最後は自作の「亀茲舞曲」。1993年に作曲し、翌年中国作曲コンクールの1等賞をえた作品とのこと。明らかにシタールを思わせる響きが印象的。爪で楽器の胴体をはじいたり、ビブラートで音を大きく揺らしたりするのも効果大。シルクロードが、はるか西方まで続いていたことを思い出させてくれるような音楽であった。

休憩後、まずは三木氏のおはなし。彼の作曲したオペラ「源氏物語」についての話が中心。このオペラでは中国琵琶が重要な役割を担っているそうなのだが、昨年6月のアメリカ・セントルイスにおける世界初演のさい、楊静氏の中国琵琶は歌手以上の喝采を浴びたのだそうな。今年9月の、日生劇場における日本初演も決まっている。もちろん彼女も出演する。私は彼女めあてで、行くことに決めた(^_^;)。

楊静氏、登場。衣装は、目に鮮やかなイエローに変化。聴衆から、どよめきが起こる。琵琶組曲「源氏物語」は、三木氏のオペラ「源氏物語」をもとに楊静氏が編曲したもの。この日は「源氏を取り巻く人々」「面影は唯一人」「六条御息所とその霊」「源氏の孤独」の4章を演奏。「源氏を取り巻く人々」は三木氏の解説つきでの演奏となった。目障りかもしれませんが、などと三木先生は口にしておられたが、いまどの登場人物をあらわした音楽が演奏されているのかがよくわかり、これはこれでよかったと思う。三木氏が舞台袖に消えてから、照明の演出つきで残り3章が演奏された。その白眉は「六条御息所とその霊」。六条御息所の怨念の激しさを、超絶技巧の限りを尽くして描きだしてみせる。すさまじいまでの表現力だ。ひたすら圧倒される。「源氏物語」に続いては、静さん自作の「つた」。この曲も、もとは即興演奏だったという。やはり弾くたびに演奏は異なるそうだ。チターを思わせるような響きがあって、なかなか面白い。指1本もしくは2本だけのトレモロあり。プログラム最後の「十面埋伏」は項羽と劉邦の戦を描写した、中国琵琶の古典。中国琵琶という楽器の可能性を極限まで追求した作品。トレモロが多用されるが、同じトレモロであっても、その音色が千変万化する。静さんの髪振り乱しながらの鬼気迫る演奏には、ただただすごいという以外言葉がない。感動、である。

アンコールは2曲。まずは「バラを下さい」。演奏後客席から花束が静さんにプレゼントされたのは偶然か、演出か。その花束が、バラの花束であったかどうかは不明であるが。続いては高野辰之作詞、岡野貞一作曲のおなじみ「ふるさと」。みなさんもごいっしょに、ということで三木先生の指揮に合わせ、われわれ聴衆も歌うはめに。まさか、そうなろうとは。一瞬躊躇したが、こういうときは堂々と歌ったほうが気分がいい。途中歌詞が思い出せず、やや遅れ気味に声をひそめて歌ったところはあったが(^_^;)、3番まできっちり歌わせてもらった。楊静さんの伴奏で歌が歌えたわけだから、これは考えてみれば贅沢きわまりない体験だ。

なおこの日は午後2時開演の午後の部・プログラムAと、午後6時開演の夜の部・プログラムBからなる1日2回公演であった。どちらもサブタイトルは「シルクロードに沿って」だが、プログラムで共通するのは琵琶組曲「源氏物語」のみ。私が聴いたのは午後の部・プログラムAのほうである。1日2回のリサイタルというのは、彼女にとって初体験であったとのこと。

ある弾き手の存在が、その楽器の運命を変えるということがある。チェロのカザルスしかり、ギターのセゴビアしかり、ヴィオラのバシュメットしかり。中国琵琶における楊静氏の存在も、そうなる可能性をじゅうぶん秘めているように私は思う。中国琵琶という楽器自体、その表現力は限りなく大きい。音量の豊かさといい、音色の多彩さといい、アルペジオ、トレモロ、グリッサンド、ハーモニクスといった技法の多様さといい、たとえばギターと比べてみても何ら遜色はない。おまけに彼女の場合、作曲も編曲も、そして即興演奏まで自由自在にこなせるわけだから、鬼に金棒だ。欧米では彼女の演奏を「ハイフェッツ並みのクオリティ」とする評もあったそうだが、その言葉に誇張はない。今後の彼女の活動には、私も大いに注目していきたいと思う。

2001.3.18記


読売日本交響楽団 横浜特別演奏会
2001年3月9日 横浜みなとみらいホール
ゲルト・アルブレヒト指揮、諏訪内晶子(ヴァイオリン)
ブラームス:悲劇的序曲/ヴァイオリン協奏曲/交響曲第4番


この日は上野の東京国立博物館から移動してのコンサートとなったのだが、横浜駅の信号機だかポイントだかの故障のため東海道線と横須賀線が不通。京浜東北線は動いていたが、大幅にダイヤは乱れ、電車は遅れに遅れた。とくに横浜駅の手前で、超スローの徐行運転。走っては止まり、また走っては止まりを繰り返す。桜木町駅に到着したときには、すでに開演の5分前。「悲劇的序曲」は捨てようかと一瞬思ったが、思い直してけっきょく走ることに。と、同一方向に向かって走るひと数名。みな思いは同じ、と勇気づけられ、こちらの足も速まる。おかげで無事、間に合うことができた。

ということで、まずは「悲劇的序曲」。まだ心臓の動悸が完全に治まりきらないうちに、演奏が始まってしまった。よって、なかなか音楽に集中しきれず。それでもアルブレヒト氏と読響の関係が良好に保たれていることは、わかった。オケの反応が、ひじょうに敏感なのだ。ホールの音響のよさも再確認。タイトルは「悲劇的」でも、この曲を聴いていてじっさいに「悲劇的」という印象を受けることはあまりない。この日の演奏も、そう。オケの響きがあたたかく、しかもよくブレンドされていたせいもあり、なおさら。しかし悲劇とは呼べないものの、ドラマティックな演奏ではあった。アルブレヒト氏の指揮は堅実そのもの。奇を衒ったようなところは、かけらもない。テンポは速め。オケのアンサンプルに、やや粗さを感じさせるところがあったのは残念。

諏訪内晶子氏、登場。淡い黄色のドレス。早春にふさわしい衣装だ。手にするは、ハイフェッツが愛用していたという1714年製のストラディヴァリウス「ドルフィン」。すでに昨年8月から使用しているそうだが、私が実演で接するのは今回がはじめて。彼女の弾くブラームスのコンチェルトを聴くのも、今回がはじめて。第1楽章はアレグロ・マ・ノン・トロッポ。いきなり管弦楽提示部でホルンが2度ばかり、ほんの少しだが、よろけた。が、諏訪内氏の清冽なヴァイオリン・ソロが、そうした嫌なムードを一気に吹き飛ばした。なんとすがすがしく、のびやかな響きだろう。同じ楽器を使用しても、ハイフェッツの音色とは明らかに異なる。高音は限りなく繊細にして艶やか。ヒステリックなところは微塵もなく、はんなりとした色香が漂う。中低音は豊麗。芯はあるが、適度なふくよかさもある。この銘器を、諏訪内氏は自在に駆使する。半年そこそこの使用で、よくぞここまでドルフィンを手中に収めたものだ。と感心するほど、楽器と一体化している。それだけではない。この日の諏訪内氏の演奏には、気迫がみなぎっていた。情熱のたぎりが感じられた。どうもこれまでの彼女は煮え切らないクール・ビューティという印象が強かったのだが、イメージを少し修整しなければいけなくなったようだ。ppのところで音量を抑えすぎ、ヴァイオリンの音がオケに埋もれて聞きとれない箇所があったのは残念。カデンツァにおける集中力は、おみごと。なお、この日のカデンツァはヨアヒム。プログラム所載のインタビューによると「カデンツァはそのときの気分で選ぶ」のだそうで、ひょっとすると翌日の東京芸術劇場、翌々日のサントリーホールの公演においては別のカデンツァを弾いた可能性もある。知りたいところだ。第2楽章はアダージョ。ここでもドルフィンと一体化した諏訪内氏の歌心を堪能。気品があって、どこまでも清澄なリリシズムを感じさせる演奏であった。第2部のいわゆるアリアのところで、最高音がやや弱すぎるような気もしたが、これは個人的な好みの問題であろう。第3楽章はアレグロ・ジョコーソ、マ・ノン・トロッポ・ヴィヴァーチェ。第1副主題(B主題)中盤の、弾みながらスラーで上昇していくところ。ここは、もっと弾んで飛翔してほしかった。第2副主題(C主題)のドルチェ。その入りの、ニュアンス感は抜群。また結尾に入る少し前のエネルジカメンテで、少しアッチェレランドしてオケを煽ったりするという積極果敢さも。全体的に、ソリスト主導型の演奏であったと思う。それにしても諏訪内さん、聴くたびによくなっていってるなあ。これからどこまで高く翔てゆくことができるのか、とても楽しみである。

休憩後、交響曲第4番。アルブレヒト氏の指揮は、ここでも堅実そのもの。テンポは、やや速め。ところどころオケのアンサンブルに粗さを感じさせるところがあり、いまひとつ聴いていて気分が乗らない。弦セクション、とくにヴァイオリンのアンサンブルに難あり。リハーサル不足だったのであろうか。ところが、第1楽章アレグロ・ノン・トロッポの結尾に入る直前、菅原淳氏のティンパニ連打をきっかけに音楽がにわかに活気づいた。アルブレヒト氏も、ここぞとばかりにオケを煽る。思わず、私は身を乗りだした。第2楽章アンダンテ・モデラートでは、第2主題に入ったところでぐっとテンポを落としたのが印象的。よく聴いていると、けっこう細かくテンポのギアチェンジをおこなっている。第3楽章アレグロ・ジョコーソでは、やはりティンパニの菅原淳氏の活躍がめだった。ほとんどアタッカで第4楽章アレグロ・エネルジーコ・エ・アパッショナートへ。ここでも、テンポの細かいギアチェンジにアルブレヒト氏の芸を感じた。はやくも第4変奏で、アルブレヒト氏は煽る。いちいち細かくは挙げないが、いちばん印象的だったのは第20変奏。ここで煽って、テンポアップ。続く第21変奏では、少しテンポを落とす。と、芸が細かい。などと感心しながら聴いていると、ハプニングが。第23変奏でコンサートマスターの弦が切れてしまったのだ。ひょっとすると、ひとつ前の第22変奏のときだったかもしれない。ということで、ときたましかお目にかかれないヴァイオリンのリレーを拝むことができた。コンサートマスターが、まず隣へ。そして楽器を交換しながら、どんどん弦の切れたヴァイオリン後ろにリレーしてゆくのだ。そのせいでオケの緊張感がより高まったのか、結尾の盛りあがりは凄まじいものがあった。全体的にはいろいろ細かい粗が耳につき、心底満足というわけには行かない演奏であった。が、終わりよければすべてよし、といった感なきにしもあらず。じっさい、終演後ブラボーがいくつも飛んだ。

けっきょく、この日のコンサートで私がいちばん楽しむことができたのは諏訪内氏のブラコンであった。全体的には、まずまず満足といったところ。

2001.3.15記


新日本フィルハーモニー交響楽団 第316回定期演奏会
2001年3月8日 すみだトリフォニーホール
キンボー・イシイ=エトウ指揮
ユーリ・バシュメット(ヴィオラ)、崔文洙(ヴァイオリン)

ブルッフ:ヴァイオリンとヴィオラのための協奏曲/ロマンス
ニールセン:交響曲第5番


キンボー・イシイ=エトウ氏は台湾出身、今年で34歳という若い指揮者。これまでにも日本のオケを振ったことがあるそうだが、私が聴くのは今回がはじめて。

前半はブルッフ2曲。「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏曲」のオリジナルは、クラリネットとヴィオラのための二重協奏曲作品88である。クラリネットのパートをヴァイオリンに移しかえる形で、バシュメット氏が長く埋もれていたこの作品を甦らせた。ヴィクトル・トレチャコフ氏のヴァイオリン、そしてネーメ・ヤルヴィ氏指揮のロンドン交響楽団と共演したCDもリリースされている。いっぽうオリジナルのほうは、ケント・ナガノ氏がリヨン国立歌劇場管弦楽団を振り、クラリネットのポール・メイエ氏とヴィオラのジェラール・コセ氏がソリストをつとめたERATO盤のディスクがリリースされてから、俄然注目されるようになった。私もこのCDは愛聴している。今回はバシュメット氏の希望により、クラリネットではなく、ヴァイオリンとの協奏とあいなった。1911年に作曲された作品だが、当時としては時代錯誤といっていいほどメロディアスにしてロマンティック。しかも超絶技巧を派手にひけらかすようなところはなく、全体的にしみじみとした渋い味わいをもった音楽である。そのせいで長いあいだ忘れ去られていたのであろう。それにしてもバシュメット氏の、この作品に寄せる愛情は本物だ。この日の演奏からも、それがひしひしと伝わってきた。ありとあらゆるフレーズに、深い慈愛が満ち満ちているのだ。何気ないテヌートにまで、しっかり心が込められている。ヴァイオリンの崔文洙氏とのコンビも良好。どちらかいっぽうが出すぎるということもなく、やさしく繊細にこの音楽の魅力を描きだしてゆく。オーケストラは、完全に伴奏型の演奏。この場合は、これでよい。翳りをおびた少しくぐもったような響きも、この曲にふさわしいもの。あえて難をいえば、第2楽章のピチカートが少し不ぞろいであったことと、もう少しセンシティヴに演奏してほしいと思ったところがいくつかあった程度。はじめてこの曲を演奏するひとがほとんどだったと思うが、それを考えればなかなかの出来といってよかろう。続く「ロマンス」は、もともとヴィオラ独奏とオーケストラのために書かれたもの。作品85。こちらもバシュメット氏はすでに録音ずみで、先の協奏曲とカップリングされリリースされている。協奏曲以上に、しみじみと渋い作品だ。ここでも、バシュメット氏のヴィオラは深い慈愛を感じさせるもの。しめやかではあるが、奥に秘めた歌心の豊かさがはっきり伝わってくる演奏だ。中盤、オケがやや遅れ気味に感じられたところもあった。が、すぐに持ちなおした。この曲でもオケは伴奏に徹していたが、これはこれでかまわないと思う。こうした限りなく地味な作品においても、しっかり聴衆の心をつかむことができるのだから、やはりバシュメット氏は真の音楽家だ。改めて、そう痛感した。前半の主役は、まちがいなくバシュメット氏であった。

休憩後は、ニールセンの交響曲第5番。こちらは指揮者のキンボー・イシイ=エトウ氏の希望で組まれたプログラムだという。この交響曲は2つの楽章からなり、第1楽章は2部、第2楽章は4部にそれぞれ分かれる。第1楽章第1部はテンポ・ジュスト。その冒頭におけるヴィオラのトレモロが、ひじょうに明瞭。そのトレモロに乗っかる木管の響きも、くっきり鮮やか。もやもやしたところは微塵もない。しだいに音楽は緊迫の度を増し、やがてスネアドラムがミリタリー・マーチ風のリズムを奏しはじめる。スネアドラムは舞台裏、パイプオルガンのある高い通路のやや左手におかれた。音楽的にも目立つが、視覚的にも目立つ目立つ。音楽は一気に沸騰。イシイ=エトウ氏の手にかかると、とにかくその緊迫感が尋常でない。そして、みなぎる力感。ひじょうにスケールの大きさを感じさせる音楽づくりだ。オケの音色は総じて明るめ。したがって、あまり悲劇的という印象は受けない。第1楽章の第2部はアダージョ・ノン・トロッポ。その冒頭のメロディアスな主題は、抒情味たっぷりに朗々と歌う。しばらくすると、そこに木管が繰り返し乱入してくる。その鋭角的な響きは、ショスターヴィチを彷彿とさせる。戦場をイメージした解釈か。やがてふたたびスネアドラムが加わり、音楽はクライマックスを迎える。圧倒的な高揚感、そして迫力だ。響きの明るさも相まって、どうしても勝利を謳歌しているように思われてならなかった。終盤のクラリネットは、抜群の甘さで歌う。続いて第2楽章。まず第1部はアレグロ。音楽は、いきなり緊迫する。ここでも、オーケストラはたいへん力強い。明らかにブラームスの交響曲第3番最終楽章を連想させる楽想が出てきたりして、なかなか楽しめるところだ。第2部はプレスト。フーガ風のスケルツォ。ヴァイオリンのひそやかなスタッカートが、とても美しいのに驚いた。その後、音楽は大きく盛りあがってゆく。第3部はアンダンテ・ウン・ポーコ・トランクィロ。静謐な哀歌。とにかく弦楽合奏が、限りなく美しい。新日フィルの弦セクションは、この日も充実のきわみ。第4部は再度アレグロ。ふたたびブラームスを連想させる楽想があらわれる。音楽が迫力と強大さを増し、圧倒的な高揚感のうちにフィナーレを迎える。実に骨太かつ明解なニールセンだ。どんなに音量が増そうが、音楽が錯綜しようが、音色が汚れたり、響きが混濁することいっさいなし。どこまでも明晰。そしてパワフル。ひじょうに聴きごたえのある演奏であった。ホルンがすばらしかったことも付記しておこう。

前半はバシュメット氏の至芸に酔い、後半は新日フィルの充実ぶりを堪能した。イシイ=エトウ氏の指揮にも好感。まだキャリアは浅いようだが、その将来には期待大だ。ベルリン・コーミッシェ・オーパーの専属指揮者をつとめているというから、そのうち彼のオペラを耳にする機会が来るかもしれない。楽しみに待ちたい。ということで、この日も満足。

2001.3.13記


ヴィクトリア・ムローヴァ「鏡の国のアリス」
2001年3月7日 王子ホール

ヴィクトリア・ムローヴァ(ヴァイオリン)
マシュー・バーレイ(チェロ、アレンジ、プロデュース)
ジュリアン・ジョセフ(ピアノ)
ポール・クラーヴィス(パーカッション)
ニール・パーシィ(パーカッション)
サム・ウォルトン(パーカッション)
スティーヴ・スミス(ギター)

アラニス・モリセット:オール・アイ・リアリ・ウォント
ジョージ・ハリソン:フォー・ユー・ブルー
ビー・ジーズ:愛はきらめきの中に
ジュリアン・ジョセフ:フェイス/ガーディアン・エンジェル
デューク・エリントン:アドリブ・オン・ニッポン
マイルス・デイヴィス:ロボット415−オリジナル、デュオ、ワルツ、サイコ、ソロ

モーリス・ラヴェル:ヴァイオリンとチェロのためのソナタ
ユッスー・ンドゥール:ライフ(人生)
ホリーズ:ジ・エア・ザット・アイ・ブレース
ジョー・ザビヌル:貴婦人の追跡
ジャコ・パストリアス:ティーン・タウン


昨年リリースされたムローヴァ氏の新譜「鏡の国のアリス」収録曲に、ピアノのジュリアン・ジョセフ氏によるソロとラヴェルの作品を加えたプログラム。この手の、クラシック演奏家による他ジャンル作品演奏というのは、無惨な結果に終わることが多い。これまで失望を味わったこと数知れず。が、ムローヴァ氏がマシュー・バーレイ氏とのコンビでつくりあげた「鏡の国のアリス」は予想に反し、その選曲といい、アレンジといい、センス抜群。CDを聴いて、私は感心した。しかも今回の日本ツアーのメンバーは、パーカッションのコリン・カリー氏がニール・パーシィ氏にかわった以外、すべてCDと同一の顔触れ。というわけで期待して出かけたコンサートであったが、実演はCD以上に楽しいものとなった。

まずはムローヴァ氏とギターのスティーヴ・スミス氏が登場。ふたりのデュオで2曲。ムローヴァ氏はオレンジのキャミソール風トップに、極彩色のパンツルックという派手な衣装。アラニス・モリセットの衝撃的なワールド・デビュー・アルバム『ジャグド・リトル・ピル』の冒頭を飾った「オール・アイ・リアリ・ウォント」で、コンサートは幕を開けた。ギターが刻むリズムに乗り、ムローヴァ氏のヴァイオリンが歌う。モリセットの過激さが影をひそめ、ひじょうに心地よい繊細な音楽となっている。ほぼCD同様の演奏であったが、曲の後半がリピートされ、そのさいアレンジが若干変化していた。続いてビートルズの「フォー・ユー・ブルー」。『レット・イット・ビー』という、同名映画のサントラ盤ともなったアルバムに収録されている曲。これもアレンジは、CDとほぼ同様。だが、ギターのスミス氏のノリはCD以上。ムローヴァ氏も、より大胆に歌っていた。この曲が終わるとスミス氏は退場。

かわって、イギリスのジャズ・ピアニストを代表する存在といってもいいジュリアン・ジョセフ氏が登場。ビー・ジーズの「愛はきらめきの中に」を、ムローヴァ氏とふたりで。私の中学生のころのヒット・ナンバーだ。ムローヴァ氏にとっては思い入れのある一曲。チャイコフスキー国際コンクールの準備中、この曲をむさぼるように聴いていたのだそうな。まずCDにはないピアノ・ソロの長めの前奏。これはアドリブか。その後、ムローヴァ氏がメロディを限りなく繊細に奏ではじめてからはCDとほぼ同じ。と思いきや、途中からそうでなくなった。CDにはないピアノ・ソロが、途中で挿入されたのだ。それも、かなり長く。そこから先は、だいぶアレンジが変わっている。CDで聴いて気に入っていたヴァイオリンのフラジョレットが、CD以上にたっぷり聴けて嬉しかった。

いったんムローヴァ氏が退場し、ジュリアン・ジョセフ氏によるピアノ・ソロが2曲。まずは日本語でMC。カンニング・ペーパーを見ながらではあったが、なかなか達者な日本語であった。曲目は当日発表。おそらくツアー中、毎日その日の気分で異なる曲を弾いているものと思われる。掲示によると、この日演奏されたのは「フェイス」と「ガーディアン・エンジェル」。前者はあまりメロディらしいメロディのない、神秘的かつ内省的イメージの強い曲。後者はがらりと雰囲気が変わり、メロディアスかつスイング感抜群で大いに盛りあがる曲。現在、いずれもCD捜索中。

ふたたびムローヴァ氏登場。ジュリアン・ジョセフ氏とふたりで、デューク・エリントンの傑作アルバム『極東組曲』に収録されている「アドリブ・オン・ニッポン」を。エリントン楽団によるオリジナルも11分ほどと長いが、CD「鏡の国のアリス」ではヴァイオリンのカデンツァ風の部分が加わったりした結果、オリジナル以上に長くなり15分ほど。そして、この日の実演ではそれがさらに長くなった。時計で計っていたわけではないので正確ではないが、体感的には20分前後といったところではなかったか。CDとのいちばん大きなちがいは、中盤のジョセフ氏によるピアノ・ソロ。CDではエリントンのオリジナル同様、かなりロマンティックに演奏しているのだが、この日はのっけからリズム感を際立たせた、ごつごつした感じの演奏。そしてその後、タイトルどおりアドリブに次ぐアドリブが展開されたというわけだ。その他にも、終盤でCDにはないヴァイオリンの短いカデンツァ風フレーズが加わったり。と、アレンジが異なるところがいくつか耳についた。なお演奏時間が長くなったからといって、けっして退屈したわけではない。むしろ、その逆。ふたりのノリは抜群で、私は大いに楽しんだ。とくに終盤の盛りあがりは、聴いていて興奮を禁じえなかったほど。ムローヴァ氏が、ここまでジャズのスイング感を出せるとは驚き。前半の白眉は、これ。

前半最後は本日の出演者全員が舞台上に登場して、「ロボット415」を。原曲はマイルス・デイヴィスの1980年代を代表するアルバムのひとつ『デコイ』に収録されている、わずか1分そこそこの小曲。それを「鏡の国のアリス」では、さまざまなバージョンにアレンジしているのだが、CDではそれらの曲を意図的に離して配置していた。それが実演では、そのすべてのバージョンを連続して演奏。まずは全員で「オリジナル」。続いてヴァイオリンとチェロによる、しんみりしたムードの「デュオ」。といっても途中からはバルトークを思わせるような不協和音が炸裂したり、不気味さを感じさせる瞬間も。その後、CDにはない間奏が挿入された。しばらくピアノ・ソロが続き、やがてヴァイオリンとチェロもそれに加わる。続いて、ヴァイオリンとピアノによるメランコリックな「ワルツ」。これはマシュー・バーレイ氏が語ったという「サティ、古きウィーンに行く」という言葉がぴったりの音楽だ。その後、またもやCDにはない間奏が。先ほどの間奏とは別のもの。ピアノ・ソロが、さらに長い。そこに、しばらくしてヴァイオリンとチェロが加わる。いったん静寂が。照明も落とされる。と、暗闇からわきおこってくるマリンバの響き。奏者たちにスポットライトがあたる。「サイコ」である。ヴァイオリンが激しく恐怖感をあおりたてる。まさにヒッチコック監督の映画「サイコ」を思わせる世界だ。続いてヴァイオリンの「ソロ」。これまたバルトークを思わせる不協和音にもとづいた、無窮動的な音楽。こういうのはムローヴァ女史、さすがにうまい。そして最後にジュリアン・ジョセフ氏のスリー、フォーのかけ声とともに、もういちど全員で「オリジナル」を。いやあ、しかしよくぞここまでバラエティに富んだ種々のバージョンをつくりあげたものだ。と、実演で聴いて改めて感心した。「オリジナル」以外は、事情を知らずに聴いて、これが「ロボット415」のアレンジだと見破れるひとはまずいないだろう。天国のマイルス氏にぜひいちど聴かせてやりたいものだ、と思ったりもした。

休憩後、まずはムローヴァ氏とマシュー・バーレイ氏が登場。ふたりで、本日唯一のクラシック作品であるラヴェルの「ヴァイオリンとチェロのためのソナタ」。第1楽章アレグロから、いきなりテンポが速い。ムローヴァ氏が、ぐんぐん飛ばす。チェロのバーレイ氏も懸命に食らいつく。が、ところどころ遅れが耳につく。第2楽章トレ・ヴィフは、当然ますますテンポが速くなる。やはりチェロの遅れが、ところどころ気になる。中間部に入ったあたりから、ようやくがっちりアンサンブルが噛み合ってきた。しかしまあ、なんとも過激きわまりない音楽だ。できるかぎり速く、できるかぎり激しく、といった方向性の演奏。第3楽章ランになっても、その印象は変わらない。この楽章としては、かなり速めのテンポ設定。フランス的な香気といったようなものには、このご両人、ほとんど関心がないらしい。中間部ラストの疾走の、なんと激烈だったことか。そして迎えた第4楽章ヴィフ・アヴェク・アントランの爆走爆裂ぶりには、もう開いた口がふさがらなかった。アクセントは徹底的に強調。ピチカートも強烈無比。なにもそこまでしなくてもいいような気もしたが。とにかく徹頭徹尾ラヴェルの音楽のもつ前衛性を抉りだすことに執念を燃やした演奏、といった感。さすが、ムローヴァの姉御。お母さんになったからといって、まるくなってはいませんでした。やはり彼女には、いつまでも尖っていてほしいと思う。

出演者が全員舞台上に。ユッスー・ンドゥール氏の「ライフ(人生)」を。これは『ザ・ガイド』という1990年代に入ってからのアルバムに収録されている曲。ここからはパーカッションのポール・クラーヴィス氏が大活躍。いきなりCDにはない、アドリブからスタート。クラーヴィス氏が手にしたのは、シェイカー。筒の切り口から、ひものようなものが伸びている。その切り口のところを何度か手のひらで叩き、その後シェイクすると、空気がもれるような奇妙な音が発せられるのだ。他の奏者も演奏しているのだが、聴衆の目と耳はクラーヴィス氏に釘づけ。その後はCDとほぼ同じに演奏が進行。マリンバのリズムに乗せて、ヴァイオリンが媚びるような音色で歌う。クラーヴィス氏は、ジングルのついていないタンバリン状の楽器に持ちかえての演奏。ステップを踏み、ときどきハミングしたり、声を発したり。と、とにかく楽しそう。曲の最後に、またCDにはないアドリブが。そして、そのまま続けてホリーズの「ジ・エア・ザット・アイ・ブレース」へ。1970年代のヒット・ナンバーで、当時「安らぎの世界へ」という邦題で呼ばれていた曲である。それが「鏡の国のアリス」では、なんともしみじみとした味わいをもつ趣深い音楽に変貌。こちらはCDとほぼ同じ演奏。ヴァイオリンのやさしい響きが、聴き手の心を桃源郷にいざなう。クラーヴィス氏のジャンベも、ここではやさしい。

そしてプログラムの最後は、ウェザー・リポートを2曲。まずは、ジョー・ザビヌル氏が作曲した「貴婦人の追跡」。これは『Mr.ゴーン』収録曲。原曲はエレクトリックな音楽だが、ここではそれをすっかりアコースティックな装いに。マリンバの刻むアフリカン・ビートが、なんとも耳に心地よい。CDとほぼ同様のアレンジの演奏。続く「ティーン・タウン」はジャコ・パストリアスの作曲で、ウェザー・リポートの最高傑作アルバムといってもいい『ヘヴィー・ウェザー』に収録されている曲。こちらもエレクトリックからアコースティックへの模様替えは同様。ジャコがエレクトリック・ベースで弾くフレーズを、ヴァイオリンとマリンバがなぞる。これまた全体的にはCDとほぼ同様のアレンジであった。が、いきなり冒頭にクラーヴィス氏がジャンベを炸裂させた。これはCDにはない。強烈なインパクトであった。その後も、例によって彼はステップを踏みながら楽しそうにジャンベをたたき続ける。完全に場をさらっていった、といった感。

アンコールは、ドナルド・フェイゲン氏の「雨に歩けば」。スティーリー・ダンのフェイゲン氏がはじめてソロ名義でリリースしたアルバム『ナイトフライ』に収録されている曲。本日の出演者一同が舞台上に。CDではヴァイオリンとピアノのデュオだが、ここではそれにクラーヴィス氏のスネアドラムが加わる。その他のメンバーもみな、指パッチンで演奏に参加。冒頭のアドリブ演奏のせいか、ムローヴァ氏が入るタイミングを失する。笑顔で、ワンス・モア。ということで仕切り直して、もういちど。今度は、うまくいった。こんなおちゃめなムローヴァ氏、クラシックのコンサートでは決して目にすることはできないだろう。CDの演奏以上に、楽しい「雨に歩けば」となった。

すでに終演予定時刻の9時をだいぶまわっていたので、残念ながらこれ以上のアンコールはなし。CDに収録されている、ヴァイオリン・ソロによる「ミスティ」。アンコールで聴けると思って、期待してたんだけどなあ。本日唯一の不満は、これ。

とにかく、めちゃめちゃ楽しいコンサートであった。これぞ音を楽しむ、まさに音楽である。王子ホールというアット・ホームな雰囲気の会場で、こういうコンサートを聴くことができ最高に幸せであった。聴衆が埋まりきっていなかったのは残念であったが。それにしてもムローヴァの姉御がこんなに楽しそうにヴァイオリンを奏でる姿を見たのは、はじめて。当然、この日も大満足。

2001.3.12記


ニュー・オペラ・プロダクション第10回公演 オペラ《耳なし芳一》
2001年3月4日 なかのZERO大ホール
池辺晋一郎作曲、矢代静一脚本

杉理一演出
池辺晋一郎指揮、日本フィルハーモニー交響楽団メンバー
半田淳子(琵琶)、石井美紀(チェンバロ)

芳一:中鉢聡
和尚:池田直樹
寺男:志村文彦
その妻おふく:森永朝子
平家の亡霊 武士:山田祥雄
平家の亡霊 奥女中老女:坂本朱
平家の亡霊 奥女中若女:平井香織

ナレーション:仲代達矢
合唱:杉オペラ演技研究所研究生/カメラータ・リリカ


原作は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの「怪談」冒頭を飾る短編である。現在NHK教育テレビ「N響アワー」の司会でおなじみの池辺晋一郎氏が、本来は、テレビ・オペラの国際コンクールであるザルツブルク・オペラ賞の1980年度出品作として作曲にとりかかったもの。ところが完成が遅れ、出品はかなわず。1982年になって、ようやく録音。なんとかFM放送にだけは漕ぎつけたものの、テレビ映像化は実現しないままに終わってしまったという。当時NHKに勤めていた杉理一氏が定年退職後ニュー・オペラ・プロダクションを設立し、1993年に舞台初演を実現。そのときの芳一役は福井敬氏。1995年に再演。今回は再々演にあたる。私が見るのは今回がはじめて。

第1幕。舞台は暗い。そこに平家の怨霊たちの声が。まずは低い男声。やがて女声も加わる。舞台上の合唱団のメンバーがライトを灯し、鬼火を表現する。そのうち仲代達矢氏のナレーションがテープで流れ、芳一について語られる。なお矢代静一氏の脚本は、平井呈一訳にもとづいたもの。

舞台が明るくなると、芳一がひとり座っている。芳一の後方に衝立のようなものが立っていて、それが室内であることを示す。もちろん芳一が居候している阿弥陀寺のひと間なのであろう。やがて芳一が琵琶を奏ではじめる。芳一役の中鉢聡氏は弾くまねだけで、じっさいに弾いているのはオケ・ピットのなかにいる琵琶奏者の半田淳子氏。舞台上の中鉢氏とタイミングを合わせやすいように、半田氏は高い位置に。

やがてPAによる門の開く効果音が聞こえ、武士があらわれる。平家の亡霊である。「芳一!」「芳一!」という呼びかけが印象的。原作には「いやにけんどんな、ぶしつけな呼びかた」であるとか、「ちょうど、侍が下郎をきびしく呼びつけるような調子」であるとか、「声音の高飛車な」などと書かれているが、武士に扮した山田祥雄氏による呼び声は実にみごとで、そのどれにもぴたりと当てはまる。武士に誘われて芳一がいったん舞台から姿を消すと、すだれ状の大きな紗幕が舞台前方におりる。その前の、せまい通路のようになった舞台に、ふたりがふたたび姿をあらわす。と、ここに、平家の亡霊である奥女中若女が。これは原作には登場しない役だ。平井香織氏の、その楚々のした風情には魅力あり。武士の「開門!」の声で、紗幕があがる。女中衆が、次つぎに姿をあらわす。目の見えない芳一のまわりを、ぐるぐるまわったりする。やがて一同座し、平家の亡霊である奥女中老女が芳一に平家の壇の浦合戦の段を語るように命じる。奥女中老女役の坂本朱氏は、すでに1995年の再演のさいにも同役を演じているだけあって達者な老け役ぶりであった。続く芳一による平家語りが、第1幕のハイライトである。半田氏の弾く琵琶に合わせ、弾くまねをしながら中鉢氏が歌う。彼の声は、実に甘くのびやか。多用されるファルセットも美しく、魅力大。ただいまひとつ、劇的表現力が弱い。この長丁場、申し訳ないが私は途中少し眠くなった。池辺氏による音楽自体、やや単調すぎるような気も。すだれ状の大きな紗幕がおりると、その前に武士と芳一が。夜明けが近づくと慌てて武士が別れを告げる。武士が亡霊であることを暗示しているわけだ。紗幕があがると、寺のひと間で寺男とその妻が騒いでいる。芳一がいない、というわけだ。和尚も姿をあらわし、どうしたことかと案じていると当の芳一が帰ってくる。原作では芳一が夜中に出歩いていることが露見するのはふた晩めのことなのだが、このオペラではいきなり最初の外出で発覚することになっている。和尚の説教にも聞く耳をもたず、姿を消す芳一。和尚が寺男に、芳一から目を離さぬように告げたところで、第1幕は終わる。

第2幕。雨が降っている。PAによる雨音とレーザー光線による雨の視覚化あり。なおPAによる効果音は、その他にも虫の鳴き声や閂をはずす音など随所に。舞台は寺のひと間。寺男夫婦が寝ているすきに、芳一が寺を出ていく。和尚に起こされ、慌てて芳一の後を追う寺男夫婦。すだれ状の大きな紗幕がおり、その前を芳一が歩く。後を追ってきた寺男夫婦が芳一を見失い、不思議がる。この先は海なのに、と。紗幕があがると、阿弥陀寺の墓地。鬼火がいくつも飛んでいる。そこに芳一が座し、一心不乱に琵琶をかきならしながら声をはりあげている。腰を抜かす寺男夫婦。舞台奥の紗幕の向こうに、平家の亡霊たちの姿が浮かびあがる。そして芳一の声に和し、ともに平家を吟じる。ここの音楽には聴きごたえがあった。意を決した寺男夫婦が芳一に声をかける。ここで芳一が乱れるところ、もう少し派手にやってほしかった。中鉢氏の声は、あくまでやさしい。

ふたたび舞台は寺のひと間。事情を知った和尚が対策を講じる場面だが、ここで和尚役の池田直樹氏が圧倒的な存在感を示した。日本語の発声の明瞭さといい、ユーモラスな味つけといい、本日の歌手陣のなかでは群を抜く出来であった。とくに「八つ裂き」のリフレインはユーモア抜群。その後、芳一のからだに般若心経を書きつける場面。芳一は衝立の後ろにまわり、その前には寺の小坊主3人が座し、般若心経を唱える。かわいい、という聴衆の声。寺の小坊主など原作には登場しないので、これは明らかに聴衆向けのサービスであろう。いよいよクライマックスへ。平家の亡霊たちがやってくる。
武士は家来をふたり引き連れている。奥女中たちの姿も。武士が耳を見つける場面では、舞台奥の紗幕に大きな耳の輪郭線が映し出される。そして耳が引きちぎられる瞬間、それが赤く染まる。なかなか効果的な演出であった。音楽も、このあたりはさすがに緊迫感がある。聴きごたえじゅうぶん。やがて亡霊たちは消え去り、しばらくすると和尚たちが帰ってくる。耳のない芳一を見て、驚く和尚たち。泣きいる芳一を慰める。やがて舞台は暗転し、仲代氏のナレーションがテープで流れる。これは平井呈一訳「耳なし芳一のはなし」の最終段落をそのまま読んだものだったと思う。いつしか背景が海となり、舞台上に芳一がひとり。客席のほうに向かって座り、琵琶を演奏する。逆光と頭巾のため、顔はよく見えない。が、これは中鉢氏ではなく、明らかに半田淳子さんのほうだ。その、日本を代表する琵琶奏者のばちさばきに酔う。幕がおり、ジ・エンド。その後、聴衆の拍手に応え、ふたたび幕があがったところで半田さんが頭巾をとってみせるという仕掛け。そう、このオペラの主役は琵琶であったといっても過言ではないのだ。なお音楽的にはもうひとつ、チェンバロの使用がひじょうに効果的であったことを付記しておこう。

ということで、私がこの日いちばん満足したのは和尚役の池田直樹氏。次いで半田淳子氏の琵琶。その次は奥女中老女役の坂本朱氏。続いて武士役の山田祥雄氏。タイトルロールの中鉢聡氏は、その次くらいか。池辺氏の音楽も第1幕ではやや単調に感じられるところもあったが、第2幕には劇的な盛りあがりもあり、まずまず満足。ただ仮にこのオペラがCD化されたとしても、音楽だけ聴こうという気にはならないかも。とりあえず、見て損はなかったオペラである。

2001.3.11記


タカーチ弦楽四重奏団
2001年3月3日 カザルスホール
バルトーク:弦楽四重奏曲第2番/弦楽四重奏曲第4番/弦楽四重奏曲第6番


前日に続き、タカーチ弦楽四重奏団によるバルトーク弦楽四重奏曲全曲演奏会。この日は偶数番号の3曲が演奏された。

まずは第2番。バルトークの弦楽四重奏曲中、最もメロディアスな作品として知られる。となれば新タカーチには、もってこいの曲だ。前日と同様、限りなくインティメートにしてロマンティック、そしてときにはセクシーですらある演奏が展開された。第1楽章モデラートの第1主題から、第1ヴァイオリンが明るく艶やかに歌う。展開部に入ると、男女の親密な対話を思わせるようなインティメートなやりとりが続く。続く再現部で奏でられる第1主題のメロディーの、なんとセクシーであったことか。第2楽章アレグロ・モルト・カプリッチョーソの原始舞踊的なリズミックな主題も、野趣あふれるといったイメージはない。むろん音楽は疾走し、しっかり盛りあがっているのだが、棘がないのだ。ここでも、いちばん印象的だったのは第1ヴァイオリンによるドルチェのなまめかしさ。第3楽章レントは、将来に翳りのみえた男女ふたりによる深刻な対話とでもいった印象。深刻ではあっても、あまり悲痛感は感じられない。響きが、あまりになまめかしいからだ。けっきょく最後まで艶めいたまま、曲を閉じる。楽曲の性格上、仮に前日の演奏に違和感を抱いたひとであっても、この曲の演奏には満足したのではなかろうか。

続いて、第4番。最も前衛的な第3番以上に無調的で、半音階進行や不協和音が頻出する作品だ。が、構造面や主題の関連性などは、ひじょうに明解でわかりやすい。さすがに、この曲の演奏からはあまりセクシーとかエロティックといった印象は受けなかった。ただ刺激を極力回避し、歌えるところでは心置きなく歌うという彼らの行きかたに変わりはない。第1楽章アレグロの第1主題終盤に、チェロによって奏でられるffの重要音形は、さほど強調せず。展開部において頻出するグリッサンドやトレモロにも、とげとげしさは皆無。コーダの疾走においても、野性味は薄められている。第2楽章プレスティッシモ・コン・ソルディーノにおけるグリッサンドやピチカートも慎ましやかで、まろやか。第3楽章ノン・トロッポ・レントにおけるチェロは、実によく歌う。ハンガリー民謡を思わせるメロディーが郷愁を誘う。中間部に入り、第1ヴァイオリンが高音で鳥のようにさえずるところにも歌を感じる。そして極めつけは、第4楽章アレグレット・ピチカートの美しさ。新タカーチの手にかかると、バルトーク・ピチカートですら美しいのだ。第5楽章アレグロ・モルトにおける民族舞曲風のリズミックな主題は、いかにも楽しげ。迫力はあるが、野趣には乏しい。全体的には徹頭徹尾、愛を感じさせる演奏であったと思う。といってもこの場合の愛は、男女の恋愛ではなく、故郷への深い愛情。

休憩後、第6番。すべての楽章の冒頭でメスト(悲嘆)の主題が歌われるという、深い悲しみに彩られた音楽だ。バルトークが祖国ハンガリーを亡命する直前に作曲した、祖国別離の哀歌である。が、しかし、新タカーチの演奏に陰々滅々とした暗さはない。第1楽章冒頭のヴィオラによって奏でられるメストから、そうだ。さすがに明るいとまではいえないが、どこかに希望のようなものを感じさせる暗さだ。ピウ・モッソ・ペサンテからヴィヴァーチェにかけて第1ヴァイオリンが加わってくると、その音色のせいもあり、いちだんと音楽は明るさを増す。展開部に入ると、もはやなじみとなった親密な対話が繰り広げられる。ラストの第1ヴァイオリンによる消え入るような高音は、限りなく艶やか。第2楽章冒頭のメストは、いくぶん暗め。チェロが主旋律を奏でるここのメストが、けっきょくいちばん悲哀感あり。続くマルチャ(行進曲)に荒々しさはなく、まさに洗練美の極致といった感。トリオがまた、極めつけの美しさ。とくにヴィオラのギター風ピチカートの華やぎ。第3楽章冒頭のメストは第1ヴァイオリンが主旋律を歌うこともあって、だいぶ明るめ。続くブルレッタは野趣には欠けるが、滑稽味はじゅうぶん。トリオのドルチェでは、またヴァイオリンが実によく歌う。その後のピチカートがまた美しく、ここにも歌が感じられる。そして迎えた第4楽章。メストの主題が楽章全体を通じて展開される最終楽章だ。が、ここでも極端な暗さは感じられない。第1ヴァイオリンが登場してくると、とくにその感強し。やはり明るい音色で、艶やかに歌うのだ。この曲のもつ旋律美を前面に押し出した演奏、といった感。その結果、祖国を離れなければならない悲哀や絶望とともに、新世界に向かう夢や希望といったものまでかすかに感じとれる、不思議な味わいをもった第6番となった。

以上2日間にわたり、新タカーチならではの超個性的なバルトークを満喫。バルトークの前衛性を執拗なまでに抉りだしてみせたアルディッティ弦楽四重奏団の、まさに対極にある世界である。クァルテットというものの奥の深さを、改めて実感させられたコンサートであった。この日も当然、大満足。

2001.3.10記


タカーチ弦楽四重奏団
2001年3月2日 カザルスホール
バルトーク:弦楽四重奏曲第1番/弦楽四重奏曲第3番/弦楽四重奏曲第5番


2日連続のバルトーク弦楽四重奏曲全曲演奏会の初日。この日は奇数番号3曲の演奏。

タカーチ弦楽四重奏団といえば、1975年の結成当時はメンバー全員がハンガリー人であった。ハンガリーを代表する新世代のクァルテットとして快進撃を続けたが、1993年に第1ヴァイオリン、1995年にはヴィオラが、どちらもイギリス人のメンバーに交代。ハンガリー色は、だいぶ後退した。看板のタカーチ氏が消えたこともあり、クァルテットの名前は同じであっても、旧タカーチと新タカーチは、まったく別の弦楽四重奏団と考えたほうがいいかもしれない。新メンバーになってから再録音された「バルトーク弦楽四重奏曲全集」のディスクは、極めて個性的なバルトークとして世界的に高い評価をえた。そのひじょうに洗練されたバルトークを、私もたいへん面白く聴いた。実演でも同じ路線で行くのか、それとも実演だとがらりと印象が異なるのか。と、興味津々で足を運んだコンサートである。

まずは第1番。第1楽章レント冒頭の第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの対位法的なやりとりが、いきなり限りなくインティメート。まるで恋を語らっている男女のような親密さだ。実演で聴くと、CD以上に抒情的でロマンティックな印象。中間部に入ってすぐのヴィオラの歌も、CD以上におだやか。その後のチェロの歌も、しみじみとやさしく。やさしくはあるが、とてもよく歌う。アタッカで第2楽章アレグレットに。ここでも、抒情的かつ親密な対話が繰り広げられる。いちばん印象的なのは、何度か出てくるチェロのピチカートのおだやかさ。CDでもおさえめに演奏しているが、実演だとにさらにソフトに感じられる。新タカーチのバルトークを象徴している場面といっていい。音楽が盛りあがるところでは、しっかり盛りあがっているのだが、けっして棘は感じさせない。どこまでもマイルドなバルトークなのだ。第3楽章アレグロ・ヴィヴァーチェに入っても、その印象は変わらない。ふつうこの終楽章の演奏は、白熱し、圧倒的な高揚感のうちに幕を閉じるものだ。もちろん新タカーチの演奏においても、音楽は躍動し、起伏もじゅうぶんにある。が、刺激は極力回避するのだ。この楽章でも、彼らの手にかかると激烈さより抒情のほうが前面に出てくる。激しいフガートの部分においてすら、みな歌おうとするのだ。野性味とは無縁。まさに洗練の極致、といった感。それにしても、みな楽しそうに演奏していたなあ。技術的には、なんら問題なし。余裕綽々の演奏であった。

続いて第3番。常識的にいえば、抒情性やロマン的情緒が入りこむ余地のほとんどない作品である。ありとあらゆる特殊奏法が駆使され、バルトークの弦楽四重奏曲のなかでも、いちばん前衛的な作品として知られるもの。やりようによっては、限りなく刺激的な演奏が可能。もう、いたるところ棘だらけ。聴いていて耳から血が吹き出そうな演奏に出会うことも稀ではない。が、しかしである。この曲においても、新タカーチの演奏は信じられないくらいにロマンティックなのだ。実演に接し、さらにその感を強くした。第1部モデラートにおけるチェロのグリッサンドの、なんと艶めかしくセクシーであったことか。まるで恋のやるせなさに、ため息をついているかのようなのだ。刺激を極力回避する姿勢は、ここでも変わらず。特殊奏法を、これみよがしに誇張して演奏するようなことはいっさいない。どこまでもマイルド。それでいてテクニックは完璧、余裕のよっちゃんである。第2部アレグロの民謡風主題により音楽が激してきたところでも、彼らはあくまで楽しげに演奏する。あたかも恋の喜びを謳歌しているかのよう。グリッサンドの嵐のところなど、エロチックですらある。これほど愉悦感にあふれたこの曲の演奏を聴いたのは、はじめて。びっくり仰天、である。CDで聴くかぎりセクシーとかエロティックといった印象は受けなかったので、これは新発見であった。

休憩後、第5番。この曲の演奏も、前2曲と同様の印象。第1楽章アレグロのリズミックな第1主題にも、さほど荒々しさは感じられない。第2主題メーノ・モッソにおいては、親密な対話が。展開部も、野性味より愉悦感。第2楽章アダージョ・モルト冒頭のトリルのやりとりは、やたらセクシー。中間部において幾度となく繰り返される短い上行動機も、同様。いわゆる「夜の音楽」であるが、冷たさはほとんど感じられない演奏だ。終盤のトリルがまたエロティックで、男女の夜のいとなみを連想させるほど。第3楽章スケルツォにおけるブルガリア風リズムの欣喜雀躍ぶりは、見るからに楽しげ。ヴィオラの弾きっぷりに、ジャジーな雰囲気を感じさせる瞬間も。第4楽章アンダンテは第2楽章の自由な変奏であるが、ここで多用されるグリッサンドやトリルが、またまた限りなくエロティック。第5楽章アレグロ・ヴィヴァーチェにおいても野性味や壮絶さは影をひそめ、愉悦感やユーモア感覚が前面に出てくる。ハーディ・ガーディを模倣したところの滑稽味も抜群。

アンサンブルは全3曲とも、ほぼ完璧といっていい出来。主導権を握るのは、場面場面によって異なる。4人のメンバーが、まったく対等な立場でアンサンブルを形づくっているクァルテットだ。それにしても第1ヴァイオリンの音色の、なんと明るく艶やかなことか。そして豊かな歌心。おそらく新タカーチの個性を決定づけているのは彼、エドワード・デュシンベル氏の存在であろう。

限りなくインティメートにしてロマンティック、そしてときにはセクシーですらある。しかも、明るく楽しいバルトーク。ある程度予期してはいたものの、ここまでとは思わなかった。こんなバルトークを耳にしたのは、はじめて。実に、えがたい体験であった。当然のごとく、大満足である。

2001.3.8記



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