入院
「入院」 
入院したのは2001年の6月。期間は30日間。目的は、PD発作の原因の詳しい検査・他の病気ではない事の確認と、自分の体に合う薬の模索や発作への対処法を体得する事でした。
最初のうちは、まだ仕事のことやプライベートの事でストレスいっぱいだったし、精神科の入院病棟という場所にまだ少し緊張もしていたので、神経がすごくピリピリしていました。多分、「それ以上近寄るなオーラ」がバリバリ出ていたと思います。必要以上にしっかりしようとしていたのかもしれません。

実際の話、僕が入院した病院はすごく快適なところでした。古い建物なので、夜はちょっとオカルトな雰囲気を醸し出していましたけど・・・。主治医にも恵まれましたし、病棟の人たちとも割と早く打ち解けてしまったので(最初は誰とも親しくなるつもりはなかった)逆に随分と楽しかったです。

「生活」
朝8:00頃には起きてそのまま朝食。食事は各自部屋で摂ります。微妙においしい(気がした)。まぁ元々グルメじゃないし、あんまり気になりませんでした。
病院の方針で昼間はパジャマから普段着に着替えます。で、着替えが終わる頃、副担当医の新人M先生がやってきます。このM先生は毎日必ず顔を出してくれた。たくさん話をしました。すごく面白い人で、僕は大好きでした。
10:00からラジオ体操。狭い廊下に一列に並んで体操する様は今思い返してもちょっと笑える。先頭で看護婦さんが見本をしてくれているんだけど、列の後ろに行くと全然見えない。
昼食は12:00から。ここの食事、量が多い。大体食べ切れなくて残してました。

 さて、午後。

僕が入院した病院では、集団療養が行われていて、曜日ごとに卓球やらちぎり絵やら、様々な事をしていました。勿論暇つぶしに参加。割と楽しかった。銀細工で指輪も作りました。これが、15:00まで。
あとは風呂や洗濯など、日常的な活動。予約制です。で、18:00から夕食をとり、就寝時間は22:00。・・・不眠症の僕は割りと遅くまで本を読んだりしてました。

「検査」
色々やりました。まさに、「ひと通り経験した」という感じです。勿論どこも異常なし。その中でも、ひとつ珍しいと思われる検査を受けることが出来たので、ご紹介します。
それは「終夜脳波検査」。文字通り、頭に脳波測定のための端子(?)をいっぱいくっつけて、一晩中記録を取り続けるというもの。これ、患者は普通に寝るだけ。逆に先生は僕が寝ている様子を一晩中観察しなくてはならない為、三人交代制で挑みます。機材は、脳波測定器と、収音マイク、ビデオカメラ。ケーブルを延ばして、僕が寝る部屋の外にモニターを設置します。寝返りの回数まで数えていたそうです。問題は、不眠症の僕が薬無しの状態でちゃんと眠れるかどうかだけ・・・。
頭からいっぱいミニケーブルをぶら下げたまま、寝る前におトイレへ。皆に「ケーブルが巻き毛みたいで面白い」とか「かわいい」とか言われたりしました。そして、「(頭についてるケーブル)痛くないの??」「頑張ってね!」「要、がんばれえぇぇ。」など、病棟の皆からの熱い声援を受け、満を期して布団に入るオレ。寝るだけだけど(笑)セットが大掛かりなもんで驚いた患者もいたらしい。「要大丈夫かなぁ?」とざわめきが部屋の中まで聞こえる。先生の「要さんは大丈夫ですから、皆さんも寝てくださいっ。」って言う声が聞こえた時にはさすがに笑ってしまった。

朝。目の下にクマを作ったM先生が「おはようございます。昨日はちゃんと眠れたみたいですね。大丈夫ですか?」と言った。先生の方が顔色悪かった。「3時間くらい仮眠取れるから大丈夫だよ〜」とか言いながらM先生はぺたぺたと部屋を出て行く。本当に大丈夫なのか?・・・明けのまま日勤かー。

 後日、分析結果が出ました。問題無し。
 これで、癲癇の疑いもほぼ100%消えました・・・・・。

「違和感を感じた日」
入院生活は至って順調でした。ストレスがなくなり発作も起こらなくなってきて、退院を早めようかという話も出ました。

そんな入院生活も後半のある日。いつものように清掃担当のおじさんが病室に入ってきました。僕もいつもの様に「お疲れ様です」と声をかけました。モップの様なもので簡単にベットの下や隅の方を拭いていく。何の変哲もないいつもの光景。でも僕はその時、自分のとげとげしい目線に気が付きました。睨むかのように、じっと清掃夫の様子をうかがっている。

・・・あれ、僕はいつもこんな風に見ていたのか・・?

「何であんな顔しちゃったんだろう?」
おじさんが出て行ったあとも、しばらく考えていました。あの時何を考えていたんだっけ・・?埃の立つのが嫌?ちゃんと隅まで拭いてくれないと嫌とか?
ああそうか・・・。朝っぱらからつまらない事に神経を使ってる自分がしんどかったんだ。「お疲れ様です」 あの挨拶も何だか嫌だったのかも。だけど、今までなんとも思ってなかったんじゃないのか?どう考えても大した事じゃないし、もはや習慣だし。それとも、もともと嫌いだったのかな。

この日を境に、僕は清掃夫が廻って来る時間帯は部屋を空けるようになりました。寝た振りしてるのも気まずいし。

それから何日かして母親が見舞いにきた時も何だか落ち着きませんでした。妙に神経質になっていて、作り笑いが耐えることのないように筋肉が突っ張ってるのが判る位でした。
いったい今までどうやって家族と過ごしてたんだ?実家にいた頃はこんな事なかったのに。感覚が思い出せない。いつからこんなによそよそしい雰囲気になったんだろう?「何か欲しい物はない?」「やっておいて欲しい事はある?」 母親は優しく言ってくれたけど、僕は何にも思いつかなかった。本当のところ、何もないはずはないのだ。だけど「ワザワザ コノヒトニ ヤッテモラウコトジャ ナイ」と考えてる自分が確かにいた。なんで?結婚してるわけでもないのに、家族に頼まなかったら誰に頼むんだ??
何だか調子が出ないまま、母親が帰る頃にはもうすっかり遠い親戚と話をしているような感じになってしまっていて、妙に淋しかった。

そうして、「意外な自分」の数々に気付くようになります。以前こんな時僕はどうしていたんだろう?全然分らない。
少し不安を感じた僕は退院を早めるのを辞めました。たった一週間だけど、少しでも時間を稼いで洗いざらい見つけて帰ろう思っていました。

その後も発作は起こらなかったけど、考え事は着実に増えていました。退院する日も問題は特になかったけど、一時実家に戻って静養するというのが何だか不安でした。
出来るだけ早く自宅に戻ろう。そう思ってました。