私が初めてワンコとともに暮らすようになったのは中学1年生の終わりでした。
私達姉妹は犬を飼いたいと必死に親に頼みました。
ある時、母親が”そんなに犬を飼いたいなら飼っても良いよ。”と言いだしたのでした。
私達は天にも昇る気持ちでどんな犬を飼うか話し始めました。元来、動物好きの父親も何だかウキウキしていました。
すると、母親は”飼う犬ならもう決めている”と言い出したのです。
とにかくワンコを飼いたかった私達は母親の気が変わらぬようにと文句も付けずに、
母の決めた子で良い、ということになりました。
その子は母親の通勤途中にあるペットショップで売られていました。もう5ヶ月過ぎのヨークシャーテリアでした。
母は次第に安くなっていく彼の売値を見ていて、この子は私が飼おう、と思ったのでした。
こうして小鉄は我が家の家族になりました。
彼は共稼ぎの両親をもつ鍵っ子の姉妹に、両親が与えてくれた大切な家族でした。
家に帰った時、誰もいないのは可哀想かも、と両親は考えたそうです。
5ヶ月過ぎまでたった一人でケ−ジに入れられていた小鉄は最初、なかなか心を開いてくれませんでした。
ドックフードを食べませんでした。いたずらもしました。
叱るとしばらくの間落ち込んでしまうような子でした。(ブランと全く違うのです)
それでも、全員犬好き一家の私達は毎日小鉄中心で大騒ぎしていました。
そうこうしている間に、彼は私達のりっぱな家族になりました。小鉄は帰ってくるといつも玄関まで迎えに来てくれました。
いつも家族の話題の中心でした。
思春期の私を支えてくれた大切な友達であり兄弟であり、ある時は親代わりだったのでした。
悲しいことがあった時、泣きながら小鉄に向かって話していたことがいったい何回あったでしょうか。
一生懸命に聞いてくれているような気がしました。
妹は恐い話を聞いたり、テレビを見た夜、小鉄を連れてトイレに行っていたそうです。
”迷惑そうだったけど”と今でも笑います。
母は一度、公園(近所)に小鉄を置いてきたことがあります。帰巣本能を確かめたかったんだそうです。
1時間しても小鉄は戻ってきませんでした。さすがに心配になった母は、置いてきた公園に小鉄を探しに行きました。
すると、小さい男の子とその父親の親子が小鉄のリードを握っていました。
その親切な親子はハーネスもリードもついているヨーキーだから、きっと迷子になったんだ、
きっと飼い主さんがあわてて探しにやってくるに違いない、と思って待ってくれていたそうです。
母は、”ううむ。あの親子のせいで帰巣本能が確かめられなかった”と悔しそうでしたが
当然の事ながら家族みんなに責められていました。う〜ん。今考えても危険な人です。
母以外はあの親子のおかげで小鉄は車にも轢かれず無事だったと心から感謝しました。
今ほど、トリミングが一般家庭に浸透していなかったあの頃、小鉄のカットはほとんど母がやっていました。
湿疹が出てしまったし、夏は暑いだろうと、体だけ丸刈りにされた小鉄はライオン丸のようでした。
私と妹が指をさして笑うと、ものすごく怒ってうなり声をあげました。プライドの高いワンコでした。
(上の写真は12歳の時のもので、ずいぶん母のカットの腕も上達してます。デジカメが出始めた頃に撮った写真です。)
長い年月の中で、子供だった私は小鉄の世話を面倒くさく思ったり、さぼったりしたこともありました。
絶対自分達で世話を全部する、と言った約束も破られていました。
もうちょっとこうしてやれば良かった、あれもしてあげたかったと言う気持ちが今更ながら沸いてきます。
私や妹の為に我が家にやってきた小鉄ですが、本当に全員で可愛がりました。
彼の13年9ヶ月の命のうち、最後の4年間は糖尿病を抱えていました。毎日毎日インシュリンの注射を朝夕、打つのです。
一日も欠かせません。その頃は、家から職場が近い母が残業も飲み会も全て断り、定時に帰宅してインシュリンを打っていました。
それでも母が帰れない時は私が猛ダッシュで帰宅しました。父は自分の小遣いを入院費の足しに、と出してきました。
みんな、病気の小鉄のために何かしてあげたかったのです。
調子がいい時は元気な時と変わらず生活できます。しかし発作を起こす度に入院を繰り返し、安楽死も考えました。
でも、小鉄は注射器を見せるとすぐに飛んできて背中を向けるのです。母とその姿を見て泣きました。
”鉄は生きたいって言ってるんだね。生きたいって言ってるんだから私達も頑張ろうね”
それから、私は結婚して家を出ました。結婚式の前には初めてのトリミングにも行きました。
最後の冬、妹は、寒いかもとフリースで洋服を作ってあげました。
洋服なんて嫌いな小鉄がこの服は好んできていました。
おじいちゃんなのに、まだまだ子犬のようなかわいい小鉄でした。
結婚してからも母が用事のある木曜日には、職場から直接実家に帰宅し散歩と注射をしていました。
夫は私とつき合っている頃から小鉄と仲良しでした。本当は小さい頃の経験から犬が苦手だったのです。
それでも、我が家のプリンスは夫(当時は彼)を気に入ったようで、遊びに来る度になついていきました。
そうやって夫も小鉄とは8年もつき合ってきたのでした。
”小鉄に吠えられたことがない”というのが今でも彼の自慢です。
そういうわけで、私が小鉄のために何かする、と言うことにとても協力的でした。
そして私の結婚から4ヶ月後、小鉄は逝ってしまいました。
小鉄が逝った日、私は友人のお通夜に行っていました。
小鉄は発作を起こしており、その前の日に私と母で獣医さんに入院させました。
発作は今までよりかなりひどかったのですが、獣医さんのところで少し落ち着いたので、
まさかこんなに早く逝ってしまうなんて思っていませんでした。
帰りの遅くなった私を駅まで夫が車で迎えに来ていました。そして小鉄の訃報を知らせてくれて、
その足で実家に連れて行ってくれました。何時間も夜通し家族で泣きました。
かなりの時間、我が家は泣き声でいっぱいでした。そして放心状態。
父は、「小鉄は暑いのが大嫌いだった。それなのに火葬なんて絶対出来ない」と言い、
家族全員が反対したのに自分で庭に穴を掘り、埋葬しました。
そして、何かしていないと気持ちが落ち着かなくなり、長い間小鉄を可愛がってくれた近所の人にと、
塀に写真入りの張り紙をしました。
庭に出すとよく脱走していたのです。フェンスをすり抜け4軒先のお庭にまで遊びに行っていました。
「小鉄君がたまに来てくれると、うちの子が喜んでるの」と言ってもらいました。
「小鉄が道路に出てるけど大丈夫?」と知らせてくれたこともありました。
”みなさん、長い間お世話になりました。今までかわいがってくれてありがとう”
それを見た近所の方から、お悔やみの言葉を頂きました。
「小鉄がいたからうちの家族は仲良くやって来れたね。」
これがみんなの思いでした。数え切れないほどの楽しい思い出を残してくれた小鉄。
何時間も思い出話をしました。世話をしてあげてたんだけど、世話をされていたのはこちらかもしれません。
そして、趣味の多い人なのに、闘病生活の時にはほとんど自分の時間を犠牲にしていた、母の背中を見て私は
いっぱいいろんな事を学んだんだと思います。
小鉄なくしては私のワンコと一緒の日々は無い、と思っているので一気に書いてしまいました。
思い出すにまかせて書いてしまったので読みにくかったことと思います。
しばらくの間は喉に異物感があるストレス球が出来たり、いわゆるペットロス状態になりました。
あれから3年が経ちました。一番ペットロス症状がきつかった母も笑いながら思い出を話せるようになりました。
今でも、時折思い出して泣いています。そしてこれを書いている今も。
いつかきっと来る別れは本当に辛いけど、それ以上に素晴らしい日々を過ごせるから、
ワンコとの生活はやめられない!
長々と書いてしまいました。最後まで読んでいただいた皆さん、本当に有り難うございました。