大島旅行記



2003年9月14日から15日にかけて、伊豆大島へ行ってきました。


9/13 出発前日
 本当は、この連休に伊豆大島へ行く、という予定は全くなかった。もちろん、為朝ゆかりの地である大島にはいずれ行きたいとは思っていたが、まだ残暑の厳しい9月半ば、行くとすればもう少し涼しくなってからだと思っていたのだ。
 しかし、3連休の1日目を、いつもの休日として川崎駅前で人ごみにまみれて過ごすうちに、突然「ここではない何処か」へ逃げ出したくなってしまった。それは自宅に戻っても治らず、どこか遠いところへ行かなければ、精神の平衡が保てないような気分になってしまった。もちろん1泊2日で帰ってくるつもりだから、それほど遠いところへ行く必要はないが、その間はできるだけ日常生活との連絡を絶てるところが良い、その点で、船と飛行機しか移動手段のない伊豆大島は、逃亡先として最適な場所だったのだ。
 早速、ウェブでアクセス方法を調べ、久里浜から朝に出ている船があることを知り、為朝ゆかりの史跡にどんなものがあるのかを調べ、大島町観光協会のHPから地図をプリントアウトして、リュックに1日分の着替えと岩波文庫『椿説弓張月』の上巻を放り込んだ。これだけの準備が整ったのが、日付の変わった9月14日、午前2時のこと。出発予定時刻の5時間前だった。

 ともかく唐突に、まるで夜逃げのように決定された大島行きではあるが、「こんなこともあろうかと」今年に入ってから用意していた二つの装備品を、今回はじめて投入してみることにした。
折りたたみ自転車。2003年3月購入。  まずひとつは、折りたたみ式の自転車。地方都市で史跡めぐりのような旅をする場合、常に問題となるのは移動手段である。だいたいはひたすら歩き回ることが多いのだが、あまりにも移動速度が遅いので、町の中心から反対方向に二つの史跡がある場合、一つしか見て回れないことがある。かといってバスを使えばいいかというとそうでもなく、本数が少ないと歩きよりも遅くなる場合があるし、徒歩のようにガイドマップにも示されていないような小さな史跡や道端の風景などを、自由に楽しむことができない。その点で自転車は、バスの機動力と徒歩の自由度を兼ね備えており、また折りたたんで輪行袋に入れれば電車にも乗せられる。船に乗せる場合も、竹芝桟橋から出ている東海汽船の高速船はどうもあやふやだが、久里浜から出ている東京客船便なら500円で乗せられることが明記されている。レンタサイクルという手もあるが、それならば普段から乗りなれた自転車の方が便利だと判断したのだ。
 もうひとつは、auのカメラ付携帯電話、A5401CAである。もともとは「携帯電話を換えたい」「デジカメが欲しい」という欲求が平行してあったのが、この夏にメガピクセル級のカメラ付携帯が出たので、二つの欲求を同時に満たせると判断して、購入に踏み切ったものだ。もちろん、買ってみればカメラの機能としては満足しない部分もあって、特に光学ズーム機能がないのは最大の問題なのだが、そもそもカメラの技術もこだわりも希薄な私にとっては、撮った写真を見返してそのときの情景を思い出せる程度で十分で、それ以上に携帯電話として普段からポケットに入れているため、邪魔にならないのは非常にありがたい点であった。ちなみにデータは専用のケーブルを通じてパソコンに送っている。

9/14 一日目
 朝6時に起床。長旅に出る自転車に簡単なメンテナンスを施して、6時40分ころにJR新川崎駅へ向かって出発。JR横須賀線新川崎駅は、自宅から3kmくらい離れていて、南武線やその他私鉄にも連絡しない、普段は全く使えない駅なのであるが、久里浜まで乗り換えなしで移動できる最寄の駅である。いくら自転車が折りたたみ式とはいえ、12kg以上する大荷物を抱えて階段を上り下りするのは非常に難儀なことであり、可能な限り乗り換え回数が少なく、かつ乗客の少ない電車に乗るのがもっとも体力を使わない手段なのだ。駅舎の直前まで自転車で乗り付け、そこで折りたたんで袋に格納する。スタンドが立った状態で袋に入れるのは少々時間がかかるのだが、そもそも久里浜までの電車は本数が少なく、急がなくても出港まではギリギリの時間になってしまっていた。
東京客船・エルム号。9月15日岡田港にて撮影。  久里浜駅から港まではまた自転車を組み立てて移動する。「バスで約10分」という距離は、まさに自転車の得意分野だ。久里浜は上総の金谷港へ渡る東京湾フェリーが出ていて、到着時も出航準備が進んでいたのだが、港内の案内はそのフェリーのりばばかりで、伊豆大島行きの船がどこにあるのかわからない。交通整理のおじさんに聞いて見つけたのは、フェリー乗り場から身を隠すようにフェンスで隔てられた小さなプレハブ小屋。そしてその先に泊まっている、フェリーとは比べ物にならないくらい小ぢんまりとした船が、東京客船のエルム号であった。
 乗客は予想以上に少なかった。連休中だけに、予約がないと乗船できないかもしれない覚悟もあったのだが、プレハブ小屋内のチケット売り場で往復分をすんなりと買えた。往復で5000円は、東京から出ている高速船(片道6500円)や飛行機に比べて破格の安さである。自転車も、Webサイト等では輪行袋に入れる必要があると書いてあるのだが、実際はそんなこともしなくて良いらしく、ハンドルに荷物札(500円)をつけて、甲板の手すりに紐で固定してもらうだけでよかった。乗客は、おそらくダイビング目的であろう、若い小グループやカップルが中心で、そこに初老の夫婦や子供連れなどが混じって50人程度。隣の桟橋のフェリーが出港したのを見計らうようにして、午前9:00に久里浜を出港した。
 外は絶好の晴天。もちろん、だからこそ旅に出ようという気になったわけだが、喜び勇んで甲板へと出る。左手に見えるのは房総半島。真っ先に目に入る特徴的な稜線は、名前のとおり鋸山。フェリーの向かった金谷港は、その北側にある。そこから南側は、くねくねと入り組んだ海岸線と、ぽこぽこと小さく突き出たような山並が見える。これが里見八犬伝の地、安房だ。富山もそのうちの一つにあって、はっきりと特定はできないがおそらくは形のいいあの山だろう。しばらく進むと大きく突き出た岬が見えて、これが洲崎。ふと逆方向に目を転じると城ヶ島が目に入る。里見義実はその周辺の浜から船を出し、洲崎を目標にしてそこからぐるりと回りこんで白浜へ到着した。たしかに、そんなに遠くはない。史実でも里見家が三浦半島を支配したことがあり、北条家が里見の水軍力に手を焼いていたことが知られているが、この海岸線を見ると、なるほどと納得できる。
 しかし、余裕があったのはここまでだった。なぜか、だんだんと気分が悪くなってきたのだ。横になればましになるだろうと寝転んでみたが、それも逆効果で、いよいよ危険な状態になってくる。船酔いだ。子供のとき以来、乗り物酔いなどしたことがなかったし、船には何度も乗っているはずなのだが、よくよく考えてみれば、今まで乗った船は宮島連絡船、琵琶湖周遊船、東京ビッグサイト行き水上バスなど、おだやかな内海を渡るものばかりで、外海を2時間30分もの間波に揺られ続けるのは全くの初体験だったのだ。しかも夕べは4時間しか寝ていないので睡眠不足、朝食は新川崎駅で買ったパン一個だから空腹と、船酔いの条件は十分に整っている。とくべつ波高いわけではない。周囲を見ると子供ははしゃいでいるし、初老の夫婦は肩を寄せ合って眠っている。たった一人苦しい状態に、いたたまれないのと気持ち悪いのとで、逃げるように船室を飛び出して、転げ落ちるように船底への階段をくだる。幸いなことに船底は、おそらく夜行便用に雑魚寝ができる広いスペースがあり、他の乗客も二人しかいない。可能な限り横揺れにあわないように体を縦にして、クーラーが利きすぎているのでリュックから引っ張り出した輪行袋をかぶって、大の字で寝転がる。船員に窮状を訴えるという余裕すらなく、ただただ時間が過ぎ去るのを待つ。吐き気がひどいかったが、胃の中のものを吐き出して楽になるとはとても思えないし、そもそも脳の平衡感覚が悪くなって吐き気がする、というメカニズムが理解できない。だから胃と脳を叱咤激励しながらこらえていたのだが、到着まであと30分というところになって、なんとなく理解した。嘔吐すると、頭と胃にだけ集中していた不快感が、背中から指先までまんべんなく浸透するから、楽になるのだ。
 ほどなくして船内にアナウンスが流れ、まもなく岡田港に到着することが知らされる。薄暗い船底で疲労しきった体を元に戻すため甲板に出ると、最初に目に入ったのは海から切り立ったような断崖絶壁。これが、今回の旅の目的地、伊豆大島だった。
 11時45分、ようやく陸地にたどり着く。
岡田港客船乗り場前の為朝記念碑。9月15日撮影。  岡田港に上陸して、はじめにやらなければならないことは、体力の回復だった。ともかく空腹であることには間違いないのだから、自転車で移動する以上、いくら気持ちが悪かろうがなんとしても栄養を補給しなければならない。近くの食堂に入って、栄養価が高くて胃にやさしそうな明日葉そばを注文する。料理が来るまでの間、港の待合室に置いてあったパンフレットを眺めて、観光ルートを選定する。昨日の夜は観光協会のHPから地図をプリントアウトしたのと『為朝 大島 史跡』でGoogle検索しただけで、ほとんど計画らしい計画を立てていなかったのだ。パンフレットをめくると、為朝神事という催し物が翌週の9/21に開催されるという情報が目に入る。早速準備不足を露呈した形だ(もっとも翌週は以前から予定が入っていたし、事実台風15号の直撃でとても大島に来られるような状態ではなかった)。また大島の北に位置するこの岡田港は、遠流になった為朝が上陸した地らしく、八幡神社があると書いてある。そういえば、船酔いによる判断力低下で確認しなかったが、待合室の前に立っていた記念碑に彫られている武者は、源為朝であった。為朝関連の史跡では、岡田からやや北西の乳ヶ崎に源為朝の古戦場があり、そこから南へ行った元町に為朝館跡がある。岡田から元町へは幹線道路が走っているが、岡田から直接乳ヶ崎に行く道はない。幹線道路を南に下りながら、途中の郷土芸能館や郷土資料館に立ち寄り、そこから乳ヶ崎へ北上し、引き返して元町へと向かうルートを選定した。
 そうするうちに、注文した明日葉そばがやってきた。麺のなかにわずかに明日葉が練りこんであるのだろうか。胃がけだるくとても食べられるような気分ではなかったが、無理やり箸を進めているうちにだんだんと食欲が戻ってきて、結局全部食べることができた。
岡田港遠景。9月15日撮影。  体力が回復したので、ついに移動を開始する。火山島らしく、行く前に想像していたよりもアップダウンが激しいようだが、問題のない範囲だ。まず、岡田の八幡神社を探す。さっそく漁港の方向、駐在所の前に鳥居が見えたので、そちらに行ってみると、これは『龍王神社』だった。縁起を見ると、安徳天皇が祭神であるらしいことが記されている。岡田の民衆が八幡神社ばかりを信仰して海が荒れるので、バランスをとったらしい。ともかく道中の安全と帰りの船の安全を祈願して、その場を去る。そこから先は元町へ向かう上り道だから、八幡神社は逆方向にあるらしい、そう思って港の反対側へ向かうと、そこからまた上り道になって、結局八幡神社には出会わないまま、岡田港を見下ろす交差点まで来てしまった。八幡神社へ行くには、港からまっすぐ集落の中へ入るのが正解だったらしい。引き返すことも考えたが、ずいぶん坂を登ってきてしまったせいもあって、そのまま次の目的地へ向かうことにした。往復の切符を買った以上、必ず明日には岡田港に戻ってくるのだから、そのときに立ち寄ればいい。為朝に少し申し訳ない気がしながら、大島一週道路と通称される都道を、元町方面へ向かうのだった。時間は午後1時ごろである。

 伊豆大島は三原山の噴火の繰り返しによってできた火山島である。そのため、島自体の起伏は地図でイメージしていたよりも厳しかった。岡田からはしばらく上り坂が続いて、快適なサイクリングとはいかなかったが、上り坂があれば必ず下り坂があるもので、坂を登りきったら見通しの良い住宅街になった。これが北の山という地区で、空港が近くにあるために開けた場所になっているのだ。東京から100kmそこそこしか離れていないし東京だって同じくらい暑いはずなのに、どことなく南国情緒を感じるのは、台風を強く意識して作られている民家と、植生のせいであろう。しばらく坂を下っていくと『郷土芸能館』の案内が見えた。
 この『郷土芸能館』は、伊豆大島の伝統芸能を観光客に披露する施設で、1日3回のステージがあるらしい。ステージの始まる2時まで少し時間があったので、待合室で従業員のお姉さんに薦められた明日葉煎茶や明日葉抹茶を飲みまくって水分を補給した。時間になって客席に移動すると、民謡が流れ出して3人のあんこさんが舞台に登場する。司会をしているのはさっきお茶を薦めていたお姉さんだ。民謡踊りはゆったりとしているが、手の形は3人きっちり揃っていた。しばらく時間をおいて、今度は御神火太鼓の演奏だった。三原山の噴火をイメージした勇壮な太鼓を叩くのは、さっきまで民謡踊りをしていたあんこさんだ。しかもさっきの司会のお姉さんも叩いている。民謡踊りとは一転した激しいリズムへの切り替えに感心しながらステージは終わる。外に出ると、大型の観光バスがやって来た。3時からのステージも、あんこさん達は変わらぬ静と動のパフォーマンスを見せてくれることだろう。
 大島一週道路を少し進んで、右へ曲がると『郷土資料館』へ向かう道になる。町営の資料館はキャンプ場に併設されていて、むしろキャンプの方がメインになっているようだ。資料館は三原山の溶岩の展示が中心で、為朝に関する展示はほとんどない。もともと資料そのものがないのだろう。その隣には役行者もこの地に流刑になったことが書かれている。島の東側に行者浜という場所があるらしく、そこに役行者が住んだ窟があるという。『八犬伝』では活躍する役行者、行っておかなければなりますまいということで、明日の観光ルートに設定した。小さな土産物コーナーに売っていた明日葉アイスクリームを食べて、資料館を出る。
碁石浜と風早崎  郷土資料館からさらに進み、トンネルで大島空港の下をくぐって、滑走路を右手に見るようにしながら海岸へ出る。ここが野田浜で、奥に見える岬が乳ヶ崎、為朝の古戦場らしい。野田浜は有名な海水浴場・ダイビングスポットらしく、4時を回ったところだが砂浜にはかなりの観光客がいる。サイクリングロードはここで終わりなのだが、資料館で入手したハイキングマップには岬の上まで行けるようなことが書いてあり、その道を探して奥へ進む。しかし、案内板のようなものは発見できず、岬の根元をぐるりと回って岡田方面へ向かう道に合流してしまう。仕方ないので引き返して、途中にあった砂道へ勘を頼りに押し入ってみる。これが正解で、隣の風早崎を見渡せる展望の利く草原に出た。目印になる陸軍少佐の石碑があり、ここが為朝古戦場周辺であることがわかった。
 しかし、ここで大失態を犯した。写真を撮ろうとして携帯のメモリがいっぱいだったため、以前の写真を消去しようとしたら、間違ってすべての写真をきれいさっぱり消してしまったのだ。まさか全フォト削除などという恐ろしいコマンドが、選び易い階層にあるとは思っていなかった。もちろん確認メッセージが出ていたのだから、それをろくに読まずにOKしてしまったのは操作者の判断ミスなのだが、せめて消去される写真枚数やバイト数などを示していれば、違和感に気づいて中断できたはずである。だが、auや端末製造元のCASIOを責めたところで消えたデータが戻ってくることはなかった(そのため、これまで展示してきた写真はすべて、この事故以降に撮ったものである)。
乳ヶ崎の突端から見下ろす野田浜対岸は下田。思いっきり逆光だけど振り返ると大島空港が一望できる  気を取り直して、為朝古戦場めぐりを続行する。石碑の右の雑木林に小道があり、そこを上っていく。ガイドではこのあたりに木柱が立っているというのだが、どうも発見できない。そうするうちに坂を上りきって、乳ヶ崎の突端へ出た。正面に伊豆半島を望む、もっとも見晴らしのよい高台だ。左を見ると野田浜から元町へ続く海岸線が、背後を振り返れば大島空港と三原山が広がっている。おそらく為朝はこの場所で、十年来支配した大島と先に落とした妻子のことを思いつつ、迫りくる工藤茂光の軍船を自慢の強弓で狙い打ったのだろう。寄せ手の軍勢にとっては、まるで大砲のような脅威だっただろう。結局案内板らしきものは最後まで見つけられなかったが、別に案内板を探して旅をしているわけではない。時計はもう5時を回っていて、そろそろ元町へ向かうことにした。

サンセットパームライン。遠くに見えるのが利島長根浜公園内、為朝石碑  野田浜から元町へ向かう道は、サンセットパームラインという名前のサイクリングロードである。その名のとおり、夕日を右にしながら走る。海の向こうに見えるのは利島。『弓張月』では為朝はあの方面へ落ちていったことになっている。赤土を混ぜて舗装したような道は、アスファルトに比べると車輪がざらざらして走りにくかったが、最大出力でペダルをこいでいると、ほどなくして交差点に出た。その右側が、長根浜公園。ここには、大正年間に建てられたという為朝の記念碑があった。この公園はどういうわけか、観光客で賑わっていた。為朝の記念碑を見に来たようではない。その隣に、浜の湯温泉という公営浴場があるのだ。自分の姿を見返すと、残暑厳しい南の島を4時間近くサイクリングしてきたせいで、すっかり汗だく。すでにシャツは水に濡らしたように体に張り付いている。入浴料とコインロッカー代500円を払って、温泉に入る。水着で入る露天風呂だった。南の島ということで念のため用意していた水泳パンツが、こんなところで役に立った。伊豆の山の端へ落ちてゆく夕日を眺めながら、旅の汗を流す。船酔いのこともメモリ消去のことも忘れて、ゆったりとした時間を過ごしたのだった。
大島の夜。食事処かあちゃん大島の夕暮れ  だが、実はそんなにゆっくりしていられる状況ではなかった。宿がないのである。せっかくだからと選んだ為朝館跡のあるホテル赤門で断られたのを皮切りに、あちこちホテル・民宿で宿泊を断られる。甘かった。残暑厳しい、好天に恵まれた三連休は、絶好の行楽シーズンだったのである。行きの船がガラガラだったせいで油断していたが、すでに土曜から泊まっている客も大勢いるのだ。元町港の観光案内所も、すでに5時で閉まっている。あるホテルでは「こんな三連休に予約をしないのが悪い」と言われた。そのとおりだ。そのとおりだが、私はこの島に、都会の雑踏・無機質さが嫌になって逃げてきたのだ。そんな人間に、もう少し温情をかける言葉があってもいいじゃないのか。日はすでにとっぷりと暮れている。大島の夜風も私には冷たいのか。元町をぐるりと一周して、港へ戻ってくると、「釣具・宿泊案内」と壁に書かれた建物が目に入る。宿を紹介してくれる店はずっと探していたが、さっき通ったときは方向が逆だったから、気づかなかったのだ。これがもう最後のチャンスだと、店を守るおばあちゃんに声をかけると、「じゃあ、うちの2階に泊まっていきなさい」という言葉。このおばあちゃん、昔は民宿をやっていて、今夜はたまたま特別に旧知の客を泊めているので、ついでに泊めてもらえるというのだ。元町に来て初めて受ける厚意に、涙のこぼれる思いだった。
 食事は宿から歩いてすぐの『かあちゃん』という店でとった。店内は混んでいてなかなか注文が来なかったが、そのぶん刺身定食は品数が充実していて満足だった。宿に戻ったのは9時すぎ。同宿の人とテレビでやっている世界柔道を見ながらあれこれ話しているうちに、定食を待つあいだ2杯飲んだ中ジョッキとこれまでの旅の疲れが重なって、眠気が襲ってきた。おばあちゃんが急ごしらえで整えてくれた部屋で、いろいろあった今日の出来事をひとつひとつ思い出しながら、眠りにつくのだった。

9/15 二日目
大島、元町港の朝。  7時前に目覚めた。ぐっすり寝たおかげで、疲労はたまっていない。1階に降りると、おばあちゃんが朝食を用意してくれていた。アジの開き、明日葉のおひたし、味噌汁、酢の物に卵に納豆と、どうやら大島の料理は品数が豊富らしい。食堂と釣具屋は一体になっていて、おそらく東京から夜行便で今朝ついた観光客だろう、朝から釣具や飲み物を買いにまばらに客が訪れるなか、食事を摂る。開け放たれた扉からは、元町港の朝の香りが入ってくる。今日も良い天気、暑くなりそうだった。バランスの良い朝食をたっぷりと摂って、出発の準備が整う。出る前に、おばあちゃんから冷凍庫で凍らせた水のペットボトルをもらった。最後まで、おばあちゃんにはお世話になりっぱなしだった。おばあちゃんの娘さんは、元町の大きなホテルに嫁入りして、女将さんをやっているという。今度大島に来るときは、そちらへ泊まりに行くことにしよう。
 さて、二日目の行程でもっとも主要なテーマは、大島一周の完遂である。元町から南下し波浮の港に立ち寄り、役行者の窟をめぐって16時50分の出港までに、岡田港へ戻らなければならない。昨日はただ岡田から元町へ移動しただけで、一周にはまだ3/4周も残っているが、地図の上では自転車を飛ばせば問題のない距離だと思われる。吉谷神社溶岩流跡ただその前に元町の為朝伝説めぐりのしめくくりとして、昨日時間切れで見ることができなかった、為朝館跡を訪問しなければならない。観光できるのは朝9時からというので、それまでの間はまだ見ていない元町の散策である。自転車を三宅山方面へ向け、赤穂義士の遺児や大島の歴代代官などが眠るという墓地を過ぎて坂を上っていくと、1986年の噴火時に流れ出した、溶岩流の跡が現れる。17年たった今でも、草を生い茂らすこともなく、生々しい噴火の跡を残している。港までは1kmもないだろうか、当時はこの元町も含め、現在の三宅島のように全島避難が行われたということだが、たしかに、これは危険だ。元町の市街地へと戻って、一番大きな神社が吉谷神社。この神社では正月に「神子舞」という、10歳ぐらいの男児が女装をして踊る神事が奉納されるという。その舞手は、島の言葉で「ミコンジョーロ」と呼ばれるらしい。なかなか、良い語呂で気に入った。
為朝館跡・赤門頭殿神社  為朝館跡は「ホテル赤門」の敷地内にある。というよりも、館跡の土地を割って建てたのがホテル赤門だ。元町港の大通りを、案内板にしたがって路地に入ると、いきなりホテルの名前でもある赤い門が建っている。為朝のために特別に許された朱塗りの門は、後に代官屋敷にも使われたという。門は閉まっていたのでそのままホテルの敷地に入る。駐車場出口とホテル本館のあいだの木立に、小さな石段がつながっている。この小径を登っていくと、そこが為朝を祀る為朝神社こと頭殿(こうどの)神社である。萱葺きの本殿は、為朝が身をめいっぱいかがめても入れるかどうかわからない小ぢんまりとした建物だが、それがかえって、島の為朝信仰の素朴さを感じさせる。木立を下って、今度は本館の右側、赤門の裏手へ回る。ホテルの裏庭を奥に行くと、そこに、為朝が戦いに備えて作ったという抜け穴があった。見えない物見台入れない抜け穴しかし、穴は子供が入れるくらいの大きさしかなく、また先は細ってしまっている。為朝はこの穴から逃げられない。もっともこの穴を抜けられたとしても、出口が大島内のどこかであったなら、さほど苦もなく為朝を見つけられたであろう。もともと為朝はこそこそ逃げ回るにはあまににも目立ちすぎる。抜け穴の先、ホテルの敷地の一番隅に石段があって、そこを上がった先が物見台である。おそらく為朝の部下は、毎朝この位置に立って、対岸の伊豆半島の動きをつぶさに報告していたのだろう、そうイメージして上ってみたら、木々が生い茂っていて、あまり物が見えなかった。木を取っ払ったとしても、正面に民家があるし、民家がなかったとしても、たいして見晴らしは良くなさそうだった。同じイメージするなら、為朝がたまに退屈しのぎに簓江を連れて上った、というくらいのほうがしっくりくる感じだ。
間伏地層切断面  為朝史跡の訪問が一通り終わったので、元町を出る。途中「火山博物館」に立ち寄る。やたらと大きくてたいして使い道のなさそうな庭園の先に、博物館がある。大島をはじめとした世界の火山の紹介や、観測機材の様子を見学した後、一気に自転車を南へと走らせる。10時30分を回って、気温はさらに上がっていったが、風を切るように走れば気持ちいい。水分も、宿のおばあちゃんにもらった氷のペットボトルがまだ残っている。元町と波浮のちょうど中間地点の間伏という集落の手前で、自転車を停める。都道を整備する際に現れた地層をそのまま残した「地層切断面」だ。バームクーヘンのように幾層にも折り重なった断面が、1kmばかり連なっている。褶曲や断層がいくつもあるのは、それだけ大島の火山活動が激しかったということだろう。普通の道路工事なら、落石防止のためにネットを張ったり草を生やしたりするところ、きれいな断面のおかげでよく残しておけたものだ。
波浮の町並み波浮港  そしてさらに自転車を快走させて、波浮港に到着する。ここはもとは火山湖だったのが、元禄年間の大津波によって海とつながってできたということで、どちらかというと歴史の浅い港だ。ただ、波止場にたって静かで透明な入り江の風景を眺めていると、ずっと昔からこの場所があって、これからもずっとこのままの景色が続いていくような気がした。車道はここで行き止まりで、そこから先は階段での移動になる。自転車を抱えて階段を上るのは重労働で、上っているうちに川端康成の「伊豆の踊子」のモデルになったという「踊り子の里資料館」を行き過ごしてしまう。しかしもう一度下るのも大変なので、そのままやり過ごしてしまった。「旧甚の丸邸」だけを見物して、波浮を出る。昼食は都道沿いの食堂でカレーピラフを食べた。こんな旅だからこそ、なんとなくごく普通の食事を摂りたくなったのだ。残暑厳しいさなか、自転車で汗をかきながらやってきて、辛いものを注文するというのに、熱い茶を出されてしまう。少し気が利かなかったが、たまにはこういうのもありだろう。
 食事を終えたときには、時計は12時30分を過ぎていた。今度は、北に向かって自転車を走らせる。エルム号の出港時間は16時50分。元町からこの波浮まで、正味の移動時間は1時間ちょっとだったから、岡田港までの約半周は、2時間程度と考えていいだろう。行者窟やその他の道草をしても、十分に余裕がある。出発時におばあちゃんにもらった氷のペットボトルはすでに空になっていたが、ここから先も筆島やその他の観光スポットを通るのだから、どこででも水分補給はできるだろう。
筆島遠くに見えるのは波浮の入江。もちろん、ここからさらに上がってゆく  甘かった。
 大島の東半分、波浮から泉津までの道は、三原山の山腹をえぐるように登っていく、険しい峠道だったのだ。期待した筆島周辺も、ただ展望用の駐車スペースがあるくらいで、人が住んでいる気配も自動販売機もない。こんなひどい場所だということは、たとえ等高線のないガイドマップであっても、道路の曲がり方から想像力を働かせばわかったはずだが、噴火と溶岩の堆積の繰り返しによって頑固に曲がりくねった急斜面は、とても自転車をこいで登れるものではない。太股の腱がつりそうになるのを抑えつつ、自転車を押しつづける。あまりにも甘い見通しを後悔したが、ここで集中力を切らせてしまったら腱も切れてしまいそうだ。頭の上から照りつける太陽を避けるようにできるだけ日陰を選びながら、見えないカーブの先が下り坂であることを願って何度も裏切られながら、ただひたすら峠を登りつづけた。
 ようやく下り坂らしい下り坂に出会ったのは、1時間近く押しつづけた、バス停「大島大砂漠」のあたりだった。結局三原山を半分くらいは登ってしまっただろう。そこに「海のふるさと村キャンプ場」へ向かう、セメント舗装の下り坂があった。ここを下れば、役行者ゆかりの行者窟へ行くことができる。ただしここで海岸まで一挙に下ってしまうと、もう一度坂を登りなおさなければならない可能性もある。しかしそんなことよりも、水場の存在を明確に期待できるキャンプ場で、早く水分を補給して休憩するのが先決だ。ところがこの道は、一気に海へ下るせいで「羊腸の小径」という表現がまさにあてはまるほどぐねぐねと曲がりくねっていて、しかも道が悪いので、常にブレーキに手をかけていなければ脱輪の危険性もある。行者トンネル行者浜 今度は腕の筋肉がつりそうになりながら、無事にキャンプ場まで到達できた。水道の水を頭からかぶって、火照った体を冷ます。ようやく、一息つくことができた。
 キャンプ場から行者窟へは、「行者トンネル」を通っていく。メメズ浜から、軽自動車がぎりぎり通れる程度の小さなトンネルを抜けたところが、行者浜だ。断崖絶壁が続く大島の東岸で、わずかに存在する砂浜。おそらくはここから食料が運ばれてきたのだろうが、周囲にまるで集落がないことだけとっても、役行者もとんでもないところに居を構えたものだ。ただし目的の行者窟は、地震による崩落のため現在は立入禁止となっていて、見ることはできなかった。
 都道まで復帰するために、ふたたび坂を登っていく。その先にあるのが「都立大島公園」だった。ようやく茶屋のような土産物屋で、真水以外の栄養補給ができる。ミルクシロップのたっぷりとかかったかき氷。時計を見ると2時半で、なんだかんだと2時間で、大島一周の最大の難関を通りぬけることができたのだった。公園を出がけに道路をキョンが横切った。中国からやってきて野生化した外来種で、猪の仔のような体に鹿の顔がついたような見なれない風貌に驚く。
岡田の集落八幡神社  泉津を走りぬけて、岡田港へたどり着く。為朝紀行の締めくくりとして、昨日行き損ねた、八幡神社を訪問する。岡田の集落を進むと、漁港だけあって雑魚なども容易に手に入るのだろう、猫が集団でたむろしていた。そこで足を止めたら、その右に見えたのが八幡神社だった。さほど広くはない境内だ。1月15日にはこの場所で、為朝がテコを用いて溶岩を取り除いた故事にのっとった、手古舞の神事が行われるらしい。境内と同じく小さな本殿に、昨日最初にこの場所を訪問しなかったことのお詫びと、二日間の自転車旅行を無事に終えることができたお礼をする。そしてもう一つ大事なお願いは、帰りの船の後悔の安全だった。そう、まだ旅はすべて終わっていない。最後の難関、船での移動があった。
さらば岡田港。ただしこのときは船酔いが心配でガクガクプルプル  帰りも同じくエルム号。昨日の船酔いの記憶が鮮明に残る私は、ついに薬に頼ることにした。土産物屋で酔い止め薬を買う。塩酸メクリジンという成分が、どれくらい効くかどうか薬学の知識がないのでわからない。ただひとつ言えることは、薬を飲んだ安心感による偽薬効果という側面は、まるで期待できないということだ。乗り物酔いの原因は空腹や睡眠不足のほかに、酔うことに対する不安も大きな要素になるらしい。もしものときのためにビニール袋を確保して、船に乗りこむ。座った場所は、昨日酔ったのと同じ、甲板のベンチ。さすがに出港のときくらいは、船底にすっこんではいられない。と思ったら次々と乗客が乗りこんできて、隣の席も埋められてしまった。連休の最終日とあって、船はほぼ満員で、行きのように自由に席を替えられない状況のまま、定刻どおりにエルム号は岡田港を出た。だんだんと遠くなっていく大島を眺めながら、私の心は惜別の情よりも船酔いの不安でいっぱいだった。
久里浜に到着 結局、船酔いはまったくの杞憂に終わった。薬が本当に効いているのかもしれないし、事実として、今日の波は昨日よりはるかに穏やかだった。夕日は伊豆半島に落ちて、船が東京湾に入ったときにはすっかりあたりは暗くなっていた。房総半島のまばらに光る漁港の明かりと、横須賀のにぎやかな明かりを見比べながら、船は19時20分に久里浜に到着したのだった。

旅のまとめ
 衝動的に決まった旅だったので、ともかく見通しの甘さや準備不足が目立ってしまった。しかし天候にも恵まれ、自由で楽しい一人旅だった。とはいえ、これで大島のすべてを見たわけではない。三原山の火山も見ていないし、波浮の港もそれほど詳しく回ったわけではない。また為朝の旧跡も、文献に当たればさらに見つけられるだろう。今回はあえて挑戦を避けたくさやの干物にも手を出さなければならないし、船酔いの克服も完璧ではない。そして、宿がなくてさまよっていた私を泊めてくれた釣具屋のおばあちゃんにもお礼を言いに戻らなければならない。正月には吉谷神社のミコンジョーロの神子舞と、八幡神社の手古舞があるが、それだけに限らず、今後何度も大島には訪問することになりそうである。


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