歴史を少しでも知っている人で、八犬伝を読んで一番気になるのが、鉄砲の存在である。八犬伝の時代で鉄砲が初登場するのは長禄二(1458)年、金碗大輔が伏姫を八房から助けるために携えていたものである。歴史上、鉄砲の伝来は1543年だから、八犬伝の世界では100年も早く鉄砲が、関東の一浪人が持っているくらい普及しているのである。フィクションといったらそれまでだが、時間感覚も正確で、漢籍や太平記などの出典を非常に大切にする馬琴が、鉄砲の伝来時期を知らなかったのだろうか。
この問題の解答の一つは、「近世説美少年録」にあった。ここで鉄砲が登場するのは永正六(1509)年。九州に従軍した大江弘元(毛利弘元のこと)が、山賊・川角頓太連盈を攻めたときに、連盈が持っていたものである。ここで馬琴は、九州のとある島に密かに伝わったものを入手したのだと解説し、さらに三十一年後の天文八(1539)年に公に伝わったということも説明している。ということは馬琴は「八犬伝」の執筆中は鉄砲伝来を知らず、「美少年録」を執筆するときにようやくその時期を知ったということだろうか。
改定前のこの文では、「八犬伝」と「美少年録」の刊行時期が同じと書いたが、実はこれは私の間違いであった。「八犬伝」は文化十一(1814)年刊行、「美少年録」は文政十一(1828)年刊行。文化と文政を間違えていたのだ。
というわけで、この間実に14年。ひょっとしたら馬琴は、この期間中に、鉄砲伝来の時期を知ったと考えられる。しかし現在知られている鉄砲伝来の時期は天文十二(1543)年であるし、この「美少年録」の文章が何を典拠にしているか不明であるため、もう少し考察が必要であろう。あるいは「開巻驚奇侠客伝」などの室町以降を舞台にしたほかの著作に、なんらかの情報があるかもしれない。
どちらにしても、「美少年録」初輯刊行以後も「八犬伝」は執筆されているのだから、馬琴は史実を無視して「八犬伝」世界で鉄砲を使用しつづけていることになる。たしかに鉄砲の存在なしに、八犬伝のシナリオは成り立たない。もし大輔の持っていた飛び道具が鉄砲でなく弓であっなら、富山での誤射事件も起ることはなかった。時代考証に厳しい馬琴も必要上やむを得ず、鉄砲を登場させた、ということだろう。
もう一つ南蛮渡来のものとして、荘助が荒芽山の茶店で道節を発見した遠眼鏡というものがあるが、ガリレオ=ガリレイが望遠鏡を制作したのは1609年。「八犬伝」時代には、南蛮にも存在しなかったという代物である。しかし鎖国中の日本。この事実は、博学の馬琴といえども知らなかったであろう。