少年管領・細河政元

 文明十五(1483)年の京都。里見家の正使として赴いた犬江親兵衛の才能と美貌を愛し、京都に留めるのが室町幕府管領・細河政元(ほそかわまさもと)であった。あまり有名ではないが、細川政元は実在の管領である。
 しかしその生年を調べてみると、なんと文正元(1466)年。満年齢で17歳、数えでも十八歳である。若い。犬江親兵衛よりはもちろん年長だが、犬坂毛野より一歳若い。さらに将軍足利義尚(よしひさ)よりも一歳年下である。
 若くして管領という重職に就いて、一つ年上の将軍を手玉に取り、四三歳、応仁の乱を戦い抜いてきた畠山政長(はたけやままさなが)を傀儡とする政元の政治手腕は、見事である。しかし本当は孤独だったのだろう、政元が親兵衛を留めたのは、男色のためではなく、ただ仲間がほしかっただけだったのかもしれない。そう考えると切ないものである。
 また逸匹寺の住職、徳用は細河政元と同い年だという記述があり、そんな年齢で八犬士と大喧嘩をするとは、これもたいしたものである。
 いろいろとつまらない事を書いた。馬琴も「稗史は少年少女に対する教訓であり、正史と違っているからといってもそれは問題にならない」ということを言っている。ただ細河政元の活躍する第九輯下套の附言に、馬琴本人が年齢考証をしているので、それに加わっただけの話である。やっぱり揚げ足を取るつもりだったのだ。
 また正史では、細川政元がはじめて管領職に就いたのは1486年である。それでも若いものだ。ついで1493年にはクーデターを起こし独裁政権を築き、政敵・畠山政長を滅ぼしている。しかし修験道(≒男色)に凝り子供ができなかったせいで、3人もの養子を迎えてしまい、家督争いの激化の中1507年に殺されている。この辺の記述については「美少年録とその時代」を参照のこと。


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