恋人よ


Presented by BUND

プロローグ

 昭和54年はけっこうたいへんな年で、おれは元気をなくしていた。その夏、学生時代の友人が電話してきた。共通の先輩(といっても女なんだが)が、いつまでも嫁の来ないおれたちのために、イイ娘を紹介しに長野から来るという話だった。

 実際は、彼女が職場の後輩たちに、おれたちが昔しでかした愚行、悪行をマッコウ鯨くらいの尾ひれをつけて茶のみ話のネタに聞かせていたところが、えらく受けちゃったんで、一度そのバカたちに会わせてあげようってことになったらしい。

 二人とも彼女には頭が上がらないワケが山ほどあって、「来る」といわれりゃ断るわけにはいかない。で、二人そろって新大阪まで姐さんご一行の迎えに出た。


六甲山

 やがて、背が高く、長い髪を後ろで無造作に束ねた細身の女性が駅の階段を降りてきた。彼女の名は静子さんとしておこうか。後の二人は?と尋ねると、彼女はいたずらっぽく笑って、貴方たち、自分で探してごらんなさい、といった。友人の啓太郎と私は顔を見合わせ、全然変わんない人だなー、と胸のうちでうなずきあった。

 静子さんの期待に反して、啓太郎は苦もなく二人を捜し当てた。彼女がおれたちに会わせようというのに、ややこしいのを連れてくる筈がないから、ごく普通に見える二人組を探せばいい、という推理に私は感心した。こいつは静子さんの考え方を、おれよりずっと深く理解しているんだな、と。

 その娘たちの一人は静子さんと同じように細身で色白、年はわれわれより2-3歳若そうだった。もう一人は全体に小柄で少し太り気味、幼顔で中学生に見えたくらいだった。

 手配していた六甲山の山荘へ向かう道を登りながら、私は、こう説明した。
「この山は奥が深くて、ハイカーが迷ったり、昔は遭難者が出たこともあるんだ」
「えぇ、こんな山でですか?」
「そう、その事件は『六甲山死の彷徨』という小説になった」

 爆笑とともに、気分がほぐれたらしく、雰囲気が和やかになった。

 われわれは献身的に接待したといっていいだろう。彼女たちは休暇を満喫し、喜んで帰っていった。私と啓太郎はやれやれとビールで乾杯した。ま、二度と会うこともないだろうが、義理が果たせてよかったな、と。

 ところがそうはならなかった。その翌年の一月、静子さんから電話が来た。あの二人、すっごく喜んでて、また行きたい、って何度もいうから、行くね。


再会

 私は最初のときは、二人とも「静子さんの連れ」としか意識していなかったし、また会うことがあるとも思ってはいなかった。だが、二度目ともなると、仲間意識のような感情が生まれ、二人の個性の違いも分かるようになる。色白で痩せぎすの美佐ちゃんは、信州大学出で、左翼思想に親近感を持っている。ころころとして童顔の由紀ちゃんは、およそ思想的背景とは無関係の、素直に育った娘さんという感じだった。私に中学生扱いされて本気で怒っていたらしいが。

 彼女たちの今回のお目当ては、千里公園の一回転ジェットコースターだったらしいが、それはあいにく春までお休みだった。私たちは冬枯れの御堂筋を道頓堀まで下り、「露骨に想像力を刺激する」と開高健が表現した極彩色の看板に彩られた街を歩き、誰がどう見てもふぐ料理屋以外の何ものでもない店に入った。

 静子さんは、ふぐ料理のてっさを一噛みして「こんなゴムみたいなのがおいしいの?」とうそぶき、白子を「まずい!」と吐き出して私の味覚を呪った。私は、納豆と蕎麦こそ無上の美味と信じる東夷の味覚の貧しさを攻撃した。美佐ちゃんは我々の掛け合いのような応酬に屈託なく笑い、由紀ちゃんは、食べる方に余念がなかった。

 その後、啓太郎の知っているスナックに行った。私にとっては地元なのだが、ただ飲むだけの場所には今も昔も一軒のなじみもない。そこは、ウサギの耳と尻尾をつけたウェイトレス、つまりバニーガールの店だった。バニーが注文を取って奥に下がると由紀ちゃんがぽつりといった。「どうして女のひとにあんな格好をさせたがるんだろう」

 私は、冗談で受けようとして胸をつかれた。彼女はしんそこ悲しそうな顔をしていた。私は特に疑問とは思わず、別に悲しくもなかったが、この子はいい子だ、と思った。


 彼女たちも、これで思い残すことはないだろう。今度こそ、最後だな。動き出した新幹線を目で追いながら私は思った。最後にはしたくない思いが、いくらか胸の奥にあることを認めないわけにはいかなかったが。


信州の旅

 その後、美佐と由紀の二人から交互に手紙やはがきが届くようになった。最初はスキーの誘いだった。私は丁重に断った。次のは、5月の頃林檎の花を見に来ませんか、と書いてあったが、それも辞退した。一応、静子さんに電話をかけてみた。出不精で、なかなか動く気になれないんだ、と。彼女は、私は知らない、といった。あの子たちが誘いたがっているんでしょ。あの子たちに言えば?

「あたしはもう手を出さないから、誘いたければ自分で誘いなさい」と彼女たちに宣言する静子さんの姿が目に浮かんだ。変わらない人なんだよ。

 そして、夏が来た。今度の手紙には、どうしてもいらっしゃらないのなら、こちらから押しかけます、と書いてあった。私は苦笑して啓太郎に電話してみた。
「そこまで言っているものをムゲにはできんわな」
それで話が決まり、私は二人宛に9月になったら行きますと書いて送った。

 ところが予定の1週間ほど前になって、突然啓太郎が、行けなくなったと言い出した。どうしても都合がつかない、と。じゃあ、おれもやめるか、と一旦は思ったが、あの二人を落胆させるのは忍びなかった。私も実はやめたくはなかった。

 そうして、9月の晴れた朝、私は初めての長野へと旅立った。

 午後、長野駅頭で3人の出迎えを受けた。妙齢の美女3人の歓迎は、空前にして、今のところ絶後である(記録更新の可能性はもはやゼロに近い)。由紀ちゃんは私の軽装に眉をひそめた。夜は冷えるから長袖を、という忠告を無視したからだ。いかに山国とはいえ日本ではないか。何ほどのことやあらん、と私は思っていた。

 由紀ちゃんと静子さんの家に向かう道で私は初めて林檎の木を見た。丈が低く枝の張った木にぽこんぽこんという感じで下がっている赤い実は実に不思議な気がして、私は車を止めてもらい、飽かず眺めた。

 信州はすばらしい土地だった。もともと私は海辺には興味がなく、高原の風景に心惹かれるたちである。私はのびのびと3人に従って涼風漂う初秋の信州を満喫した。最後に彼女たちは白根山に連れて行ってくれた。由紀ちゃんがどうしてもその頂上の景色を私に見せたいと言っていた場所だ。

 ところがその日は霧雨が降り、風がきつく軽装のバチが当たって私はほとんど震えんばかりだった。山頂についても霧で視界がほとんど利かず、何も見えない場所で震えて待つのに耐えられず、私は坂を駆け下りて車に戻った。静子さんと美佐ちゃんも続いて車に入ってきたが、由紀はなかなか下りて来なかった。どうしたのか、見に行こうと思うほどになって彼女は下りて来たが、ほとんど無言だった。

 私は女性の感情の動きには鈍い男だが、このときはさすがに心ない振る舞いだと後悔した。私は謝りも弁解もしなかったが彼女の心遣いを無にした後悔はいつまでも残った。

 ともかく、旅は終わり、私はまた日常に戻った。便りが届くことはもうなかった。


決意

 日がたつにつれて、彼女たちとの交友の記憶は薄らいでいった。私はなんとなく、このまま通信が途絶え、過去の挿話になっていくんだな、と思っていた。心の奥底には何かありそうな気がしたが、そのまま封じこめておくことにした。昔の知り合いが友人を連れて来た。そのお礼にと誘われたから、おれも行ってみた。それで終わりだ、と。

 秋が深まり、紅葉のたよりを聞くようになったころ、由紀から電話があった。もう一度そちらに行ってもいいですか。聞きなれた無邪気で快活な口調ではなく、迷いながら言葉を選んでいることが感じ取れた。私はできるだけいつもの口調を保ち、快諾した。今度は啓太郎には電話をしなかった。あの子は一人で来るつもりにちがいないと思ったからだ。

 私は自責を感じていた。こうなる前におれが行動を起こすべきだった、と。彼女は私より7つも若く、私と二人だけで言葉を交わしたこともない。私も静子さんの知り合いとして接する姿勢を崩さず、それ以上のなれなれしいふるまいを禁じてきた。それは静子さんとのつきあい方とまったく同じだ。私は彼女の内面には立ち入らず、賢明な女性として尊重する姿勢を崩したことはない。彼女と私のつきあいはその土台の上に成り立っていることを私はよく知っていて、崩壊を招くような愚を冒す気はなかった。

 それが私の手を縛っていた。それに、静子さんや啓太郎の手前もあって、由紀に心を惹かれているようなそぶりは見せたくなかった。彼女が私に好意を持っているらしいことを意識しないことはなかったが、繋ぎとめるにはあまりにはかない縁でしかない、と私は思っていた。

 由紀が迷った末、何かを決意して私のもとに来ようとしていることは疑いようがなかった。年長の私はそれを察し、その前に自ら行動を起こすべきだった。

 ともかく、その日が来た。私は新大阪駅のホームで由紀を待った。

 由紀が下りてきた。やはり一人だけだ。心なしか硬い表情に見える。夜勤明け(彼女たちは同じ病院の看護婦なのだ)で、そのまま列車に乗り込んだ疲れもあるのだろう。

 私たちは大阪城に登ってみた。思いついて遊びに来た、という彼女のスタンスに合わせた見所としてはまぁこんなところかな、と思ったからだ。城内を歩きながら、型どおり自分や友人たちの近況から、自然に会話がはずんでいった。女性と対面したときのぎこちない雰囲気を上手に和ませ、自然な会話に導くことを大の苦手とする私にはめずらしい。考えてみればこの子と二人だけで話すのは今日が初めてなのだった。

 夜、私たちは「うどんすき」で有名な店に入った。小部屋に案内され、差し向かいで、庭を見ながらビールを注いでもらい、たわいない話に興じていると、難しい話はこの次にしたくなってくるが、今回はそうはいかなかった。

 私は彼女をホテルに送っていった。いつもならそこで帰るのだが、今日は中に入れてもらわねばならない。由紀を椅子にかけさせ、私はベッドの隅に腰を下ろし、由紀ちゃんにお願いがあるんだが、といった。彼女が無言でうなずくのを見て、私は続けた。

「結婚してほしいと思っているんだ」

 由紀は心持ち青ざめたようにみえる顔を上げ、短くこういった。

「わたしも、覚悟して来たから」

 私は息を吐き出し、立ち上がって由紀に歩み寄り、肩に手を置いた。彼女の体に触れたのもこれが初めてだった。私は、外へ出よう、と誘った。二人でお祝いをするんだ。

 私たちは、今はないプラザホテルの最上階のバーへ行った。窓際の席に座って、これまでの思いを語り合った。気遣いもためらいもなく、ここちよく言葉が出た。で、静子さんには言ったんだろ。大阪に行くって。私は尋ねた。彼女はうなずいた。何ていってた?

「『行けるもんなら行ってみろ』って」

 そうか、静子さんが背中を押してくれたのか。私は2年前、博多で彼女に会ったとき、彼女が私にいった言葉を思い出した。

「ひとりで生きられないのにかぎって、いつまでもひとりでいるんだから」

 ほっとけよ、と強がったものの、この人にはかなわないと思った。このときもそうだった。

 私は、聞いたら君の親はびっくりするだろうといった。おれは男で年を食ってるから、若い嫁が来るのに問題はないだろうが、君の家はそうもいくまい。何度か顔を出して、少しづつ覚悟させながら、来年秋くらいに、というのはどうだろう。

 由紀はうなずいた。このとおりに運べばよかったのかもしれない。だが、現実はそうはならなかった。

 翌朝、私たちは京都に向かった。婚約を交わしたばかりの二人として、休日を楽しもうと思ったのだ。あいにく嵐山へ行く道はひどく混んでいて、私たちは高雄に進路を変え、それから金閣寺に向かった。金閣は、消失後の再建とはいえ、昭和の名建築といっていい気品を保っていた。周囲の紅葉も文句なく美しかった。

 やがて由紀の帰るべき時が来た。私は京都駅で去り行く電車を見送った。この時には、さしたる感慨はなかった。この前長野で別れたときと比べ、何が大きく変わったということもなく、私はごくさりげなく彼女を見送った。まだ私には婚約を交わしたということ、いずれ夫婦として世間に対処することの重みなど、何も分からず、ただ恋を成就しえた喜びに舞い上がっていたにすぎなかった。


作戦会議

 その日を境にすべてが一変した、などということにはもちろんならない。これまでと変わりなく時が過ぎるだけだ。次に打つべき手を決めなければ、と私は思い当たった。静子さんには由紀が話すだろう。私はまず啓太郎と作戦を立てることにした。

 由紀の家を何度か訪れた後、機をみて両親に切り出そうと思う、という私のプラン(?)を啓太郎は一笑に付した。時間をかけようとかけまいと、娘にまとわりつく胡乱な男としか思われないことには変わりない。時間のムダだというわけだ。どうせ平和になんか行きっこない。それなら早いとこ勝負に出て、親がダメだといえば、飛び出して来いといえばいい。

 私はそれは無茶だと反論した。何も初めから喧嘩を吹っかけにいくことはない、と。勝負を急げば、娘はどこの馬の骨とも分からない、二人だけで会ったこともない30男にたぶらかされたと思われるだけではないか。

 啓太郎の考えはこうだった。いくら足を運ぼうとお前の印象がよくなることはありえない。逆に警戒を深めさせるだけだ。親のことなんかどうでもいい。それよりも問題は、お前と由紀の決意がふらつくことの方だ。ロクに相手のことも知りもせず、遠く離れてたまにしか会えない二人が、先入観に凝り固まった両親を、時間をかけて説得しようなど、とんでもない話だ。そのうち由紀の方が反対に「説得」されて「考え直したい」と言い出すに決まってる。ここは速攻勝負にかぎる。たった一晩いっしょに過ごしたからといって、女の心を掴んだと思うのは甘い!

「待て!」私は色をなした。「おれは一晩いっしょになんかすごしてない!」
「え?」啓太郎はあっけにとられていた。「お前、ほな…」
「あたりまえやないか」私は憤然としていた。「迷い、悩んだ末に直接確かめ ようと決心して来た子に、待ってましたいうて襲いかかれるか。見損なうな」啓太郎は珍しい生き物を見る目つきで私を見た。


 そこへ美佐と静子さんから立て続けに電話が入った。美佐は「腰が抜けそうになるほど驚いた」といった。静子さんは「あたしはちっとも驚かない」といった。「あんたはあの子を若紫のように慈しんであげればいいんだよ」

 その昔、『源氏物語』を真正面から取り上げた堂々たる論文を書いて担当教授を唸らせた静子さんらしい一言だった。「あの子は若紫なのか」と私はいった。「おれは末摘花じゃないかと思っていたんだが」呆れたような沈黙の後、高らかな笑い声が響いた。

 啓太郎との作戦会議は結論が出ないまま終わった。彼は、星とスミレの花の世界に漂うヤツにリアリズムは通用せん、と匙をなげたようだった。

 後は、いつものように仲間を呼んで麻雀になった。私は打牌に集中できず、ふとつぶやいたりした。

「あひ見ての…」

 静子さんと源氏に関わる話をしたことがとりとめのない連想となって、つい口に出たのだが、啓太郎はここぞとばかり切り込んでくる。

「後の心にくらぶれば、か?『新古今』やったかいな。ええなぁ、情緒纏綿として。せやけど牌も現実もちゃんと見といてや。ほら、それ当りや」

『百人一首』や、と私は点棒を放り出しながら訂正した。私は、婚約した、という事実がもうひとつ現実感を伴わないことに気づいていた。あれでコンヤクになってるのか?私は徹夜明けで朦朧とした頭を振った。やはり長野に行かなければならない。


恋人よ

 20数年を経てあの頃を振り返ると、つくづく私は世間知らずで愚かであったと思わずにはいられない(今も変わりなくこのような愚行を続けているが)。それに比べると啓太郎は事態を正確に見通していたといわねばならない。

 私は自分たちのことを、「ちょっと違うが、まあまあ普通の結婚話」とみなしていたが、彼は「世間並みと思う方がおかしい上に、唯一頼りとする絆が弱く、結束が崩れればひとたまりもない」と見ていた。そこから目標を「意思を貫いて一緒になる」ことだけに絞り、親や世間体は捨てろ、という結論を導き出したのだ。結びつきが弱く、意思の疎通もままならない二人が結束を維持するには、初期の昂揚が冷めないうちに正面突破作戦を敢行するしかない。外圧に対する反発を結束と絆に変え、断乎たる意思を示して敵の戦意を挫き、短期決戦に勝利する、という戦略であった。平和外交には、敵が屈服すれば、いつでも転化できるではないか。

 私は由紀をそこまで追い込むのは忍びなかった。できれば円満に祝福されて結婚したい、と思っていた。だが一方で、会えない時間が長くなれば、結束を維持することが難しいのも確かだった。現に今、他ならぬ私自身が、数日前のできごとを、あれでよかったのか、と考え出しているではないか。

 12月中旬、私は夜9時半発の寝台急行「ちくま」で長野に向かった。翌朝5時過ぎに長野に着き、その夜ふたたび夜行寝台に乗り、そのまま出勤するつもりだった。それがいちばん長く長野に滞在する時間の取れる便だから。「あずさ2号」ならともかく、「ちくま51号」では歌にもならん、と私は苦笑した。これから幾度も乗ることになる列車だった。車内は週末をスキー場で過ごす若者たちでごった返していた。名古屋、岐阜を過ぎ、木曾にさしかかると車窓の雪が凍ってツララができた。

 未明の長野駅前は闇に包まれ、街頭がほの紅く照らす路面は白く凍りついていた。そこに由紀が、エンジンをかけたままの車の脇に立って待っていた。私はこの朝の光景を死ぬまで忘れないだろうと思う。

 由紀の住まいで、初めて彼女の手料理をごちそうになったが、それが何だったか、うまかったかどうかも忘れてしまった。静子さんは気をきかせたのか、そこにはいず、私はその日一日を由紀と過ごした。ともかく年内に、お互いの親に結婚の意思を告げ、年明けの早い時期に両親に会わせてもらう段取りを決めた。由紀は戸惑っていたようだが、反対はしなかった。

 短い日はすぐに暮れ、窓の外は雪になった。私は食事に行こうと誘ったが由紀は立ち上がろうとしなかった。私の肩に頭を乗せ、いつまでもじっとしていた。数時間、私たちはそのままの姿勢でいた。やがて由紀は身を起こし、「もう行かなくちゃね」といい、外に出た。車のエンジン音がして、私も乗り込んだ。

 雪の夜道を私たちは無言で駅に向かった。そのとき、ラジオから歌声が聞こえた。

枯葉散る夕暮れは、来る日の寒さをもの語り…

私たちは無言で聞き入った。

恋人よ、そばにいて。凍える私のそばにいてよ…

どんなにか、この女のそばにいたかったことだろう。


説得

 昭和55年はこうして暮れた。私は帰郷して母に結婚することにした、と告げた。母は「男一匹、ひとりぐらいは惚れる女もいるじゃろ、と思ってた」といった。

 由紀の方は、まず母親は「こんな雪深いところで暮すより、お前の好きなところで」とあっさりいってくれた、というが、肝心の父親はまったく聞く耳持たぬ態度だという。私は、ともかく一度会いに行こうとしたが、仕事の都合がつかず、ようやく2月になって意を決し、黒姫高原の由紀の実家に行くことにした。父親は相変わらず、「そんなの、会う必要ねぇ」の一点張りだというが、押しかけて、それでも会わずに追い返すようなら、啓太郎のいうように覚悟を決めるほかない、と思った。

 こうして厳寒の2月、由紀と私は2メートルを越える雪に覆われた黒姫高原へと向かった。

 私たちは2階の広い部屋に通された。出てきた母親はさばさばとこういった。「わたしはね、本人が行きたいっちゃ、それでいいんだよ。でも父ちゃんがねぇ」

 その父親はまったく姿を現す気配もなかった。「お客だってぇのに、まったくぅ」と、ついに母親が席を立って呼びに行った。不承々々、妻を叱りつけながら現れた父親は、あいさつを交わす気にもならないようだった。

 私はかまわず型どおり、いきなり結婚話を持ち込んだ非礼を詫び、改めて娘さんを頂きたい(この表現は使いたくなかったが)と申し入れた。彼はそれには直接答えず、遠いところへやるのはどうか、とか、お互い何も知らないうちは、と異を唱えた。それに対して由紀が何かいおうとすると頭ごなしに叱りつけるといった調子で、話は進まなかった。

 私はひとつひとつ反論することはせず、堂々巡りするままに任せた。お互いに理由はどうでもよく、ただ、相手のいうことを認めたくないだけなのが分かっていたからだ。この場合、大切なのは内容よりも、会ってこの話を持ち出したという事実の方だ。

 最後に私はこういった。「由紀さんと私の意思は変わりませんが、是非お父さんに認めて頂いて式を挙げたいと思っています。いかがでしょうか」

 父親は、「まぁ、しばらく冷却期間をおいてから」といった。冷やしてどうする、と私は思ったが、それで話は打ち切りにした。最初はこんなものだろう。

 深い雪を危ぶんで、私たちは今日は電車で来ていた。黒姫高原駅から長野に向かう車中で由紀はこういって私を驚かせた。

「このまま一緒に大阪に行こう」


道行

 由紀はこの日に合わせて休みを取っていた。もとは、私の母に会いに一緒に郷里に行くはずだったが、予定が狂っても、休暇はそのままにしておいたのだという。

 今までも何度か行き来しているのだから、今回だけダメだという理由はなかった。私たちは、長野で電車を乗り換えて大阪に向かった。

 あいにく、私の方の仕事が立て込んでいて、充分時間がとれず、最後の日曜日以外は不本意ながら午前の帰宅となって由紀を落胆させてしまったが、それでも彼女は「もう、出て行かなくていいのね」と迎えてくれた。

 由紀を長野へ送り出した後、私は静子さんに電話を入れてみた。彼女は、由紀の父から電話があったといい、由紀は大阪へ行ったと告げると凄まじい剣幕で怒り出したといった。彼女は静かにいった。

「あんたも、もうあの子に優しいことばかり言ってても、しょうがないよ。覚悟させなきゃ」

 結局は、啓太郎の言ったとおりだ。私は自分の甘さで静子さんに迷惑をかけたことを詫びた。彼女は、そんなことはどうでもいいんだけど、それより、力もないのにあっちもこっちも立てようなんて思わず、ほんとに欲しいものだけ、しっかり手にいれるんだね、といった。

夜遅く由紀が電話をしてきた。私は静子さんのことを告げ、覚悟を決めてお父さんに最後通告をしてほしいといった。もう、時間をかけてもムダだと。

「分かった」と由紀は短くいった。「楽しみにしといて」

 その静かな、決然とした響きは、私の知る由紀のものではなかった。

 二日後、由紀から電話がきた。父親が折れて、結婚を認めたという。姉と妹を含む娘3人と母親に詰め寄られ、ついに承諾した、と。私はひとまず安堵したが、父親に対して当時も些か、今は大いに慙愧の念を禁じえない。

 父の反対と怒りは正当である、と私は思った。どこの世界に、このような形で結婚話を持ち出され、そのすぐ後で娘を連れ出されて、反対し、怒らぬ親があろうか。なのに、妻と娘に詰め寄られ、承諾を与えねばならなかったのは無念だろう。彼はただ、筋を通せ、これならと納得させろ、といっているにすぎなかったのに。

 身勝手なのは私たちの方であり、情に流され判断を誤ったのは私であったが、以後岳父は快く私を受け入れてくれた。私は心中深くこのことを感謝している。

 ともかく、私たちは、夏の盛りに、予定より数か月早く結婚式を挙げた。その後まもなく、妻が静子さんに関する噂を長野の友人から聞きつけた。それは驚くべき知らせだった。


追憶

 静子さんが、病院を辞めたというのだ。どうやら結婚するらしいが、相手はやはり関西の人らしい、と。

「なにっ!」私は思わず叫んだ。該当する相手は啓太郎しかいないではないか。冗談ではない。なぜ今さらそんなことを…。妻となった由紀は、それまで静子さんと数年間同居していたから、彼女と啓太郎の間にずっと連絡があったことは知っている。それは私も知っていた。だが、啓太郎には別に長くつき合っている女性がいた。あの、可愛く健気な子はどうするつもりだ!

 ふと、私は昔のことを思い出した。その頃から10年前、あさま山荘事件の起きた年のことだ。

 横浜にいた最後の年、啓太郎は突然行方が分からなくなり、数か月帰って来なかった。同時に5年もつき合っていた女性もぱったり姿を見せなくなった。と、思えば、京都から女性が彼を訪ねてきたりした。いかに鈍い私でも、彼らの仲が破綻し、失意の啓太郎はどうやら関西に行き、そこでもまた何かあったらしいことくらいは分かる。

 帰ってきた啓太郎は昔の彼ではなかった。部屋から一歩も外へ出ず、ろくに食事も取らず、夜はいつまでも起きていて、突然私をたたき起こしに来た。

 静子さんが頻々と我々の下宿に来るようになったのもこの頃だった。「啓太郎君、生きてるの?」と。そこで私が彼の部屋のドアを叩くと、不機嫌の国から不機嫌を売り広めに来たような啓太郎が「なんや?」とのっそり姿を現す…。

 学生のころ、啓太郎がつきあっていた女性は、本当にやさしい娘だった。啓太郎はそれこそ若紫のように慈しんでいたとっていい。彼が学を修め、望む仕事に就いていれば、二人は永く添い遂げたことだろう。

 啓太郎は矛盾だらけの、掴みどころのない男で、ドグマを振りかざす相手には容赦なかったが、何かしらユニークな、あるいはオリジナルな一面を見出した相手には男も女もなく、開けっぴろげの好意を示した。困ったときには実に斬新な知恵を出し、叱咤激励するだけでなく、我がことのように動き、人も動かして解決の手を貸した。彼の周りに人が集まり、梁山泊の主のようになっていくのは、当然のなりゆきだった。

 彼は卒業を前にして進むべき道を閉ざされ、悪戦苦闘していた。このような男にとって、これがダメならあれで、という選択はありえない。何年かかろうとも、どこまでもじたばたと諦めない気でいたに違いない。一方、女性の方は一足先に就職し、周りを見るようになってみれば、彼の強烈な個性も望みも、ただのわがまま、空しい夢に見えてくる。もともと平凡なお嬢さんだったのだから無理もない。このままあの人とつきあって、展望が開けるのだろうか。そこへ、母親が囁きかける。
あんた、ほんとにこのままでいいの?

 啓太郎には、その結末が見えていた。だが、彼には打つ手がなかった。あるとすれば、おとなしく普通の就職をし、彼女とその母(彼女は母一人、子一人の家庭に育った)を安心させることだろう。それは断じてできなかった。そうして、ある夜、彼女から電話があった。受話器を取る前に来るべきものが来たことが分かった、と彼は後で私にいった。彼はその後、高校時代の旧友に電話した。旧友はすぐ大阪から飛んできて、失意の彼を連れ帰った、というわけだった。


静子さん

 静子さんは横浜、鶴見駅からまっすぐ上る高台のお屋敷(私にはそう見えた)に住むお嬢さんである。小学時代、同級生に後に由紀さおりという歌手になった子がいて、なまいきだからいじめてやった、といっていた。

 彼女は、我々地方出の貧乏学生の生態に興味津津だった。当時、日の出町から桜木町にかけて軒を連ねていた居酒屋で、「マグロの山かけ」とか、「鯨のオバケ」とかを教えて上げると、目を丸くして驚嘆していた。

 そんな静子さんにとって、女にふられて行方不明になり、帰って来たら晩年の芥川龍之介のように憂鬱な風貌で、ほとんど飯も食わず、いつ死ぬか分からない、といわれた啓太郎は、何をおいても駆けつけねばならない見ものであったらしい。

 一方、啓太郎の方は、平然と男の部屋に乗り込むようでいて、ちゃんと身の安全を確保しておく静子さんの用心深さを見越し、せせら笑っていた。「あんなん、いっこも大胆なことあらへん。小心翼々としとるやないか」と。それがまた静子さんには悔しくてたまらないようだった。

 啓太郎と静子さんの、からかわれた猫がムキになって挑みかかるのを、また一層からかいにかかる、というトムとジェリーのような間柄は、彼が横浜を引き上げ、郷里の姫路に帰るまで続いた。友人の誰かは啓太郎に「静子さんを連れて行けよ」といった、というが、私はそれは見当違いだと見ていた。あの二人には恋愛感情なんてものはない、と。

 事実、それから一、二度私も交えて大阪で会うことはあったが、以後は会う機会も途絶えていた。ふたたび会ったのは、由紀と美佐を連れてきた年の前年、博多で「同窓会」と称してかつての仲間が集まったときだ。そして翌年、私と由紀が騒ぎを起こすことになったというわけだ。

 学生の頃は漂泊の人に見えた啓太郎は帰郷後は本来の土着性を色濃く現していた。一方の静子さんは、本来デラシネの人であった。私は一度彼女に父親の職業を尋ねたことがある。「CIAよ」彼女はにべもなく言い放った。え?と聞き返す私に腹立たしそうに繰り返した。「だからCIAだってば!」

 当時私は米軍か、外務省関係なのだろうと推察したが、もしかしたら本当にCIAのエージェントだったのかもしれない。CIAとは、本来情報収集と分析が主業務で、破壊活動は例外だったのだろうから。ともかく静子さんは父には敵意を抱いているようにみえた。逆に母に大しては深い敬意が見てとれた。彼女は、私のお酒好きは母譲りだといい、小さいころ、母は台所に立つときもコップ酒を傍らに置き、料理をしながら飲んで、出来上がる頃には自分も出来上がっていた、と、楽しげに語った。キッチン・ドリンカーだったのだ、と私は推察した。

 静子さんは、誰の束縛も受けず、思うまま、どこの空の下だろうと、漂い歩く人生を愛した。彼女はそのような生き方を支える手段として、看護婦の免許を取った。卒業した大学の医学部に聴講生として通いながら。そして長野に渡った。


啓太郎

 母を大事にすることにかけては、啓太郎も人後に落ちない。博打好きの夫に苦労し続けた母を見て育った彼は、母とほとんど同志のように親しく言葉を交わしていた。30過ぎの男には稀有なことだ。彼は家長として、母と妹と共に、慣れ親しんだ世界に骨を埋める気でいた。ここに、どうして静子さんが入り込めるだろう?その答は10年前に出たはずではないのか、と私は地団駄を踏む思いだった。



 身を捨てない女とは一緒にいられない、と啓太郎は思っていたのではないか。何かに心を残すとは、いざとなればそこに帰って行くということだ、と。静子さんは自立した人だ。固有の価値を身に帯びていないはずはない。この10年、それを捨てることなく啓太郎に愛を請わせようと計りながら、ついに果たせず執着を捨てて彼に従う決心をしたのかもしれない。

 私は啓太郎に電話をしてみた。結婚すると聞いたが本当か、と。
「そうや」と彼は何でもないように応えた。
「静子さんか?」
「そうや」
「式はいつや?」
「そんなもん、せえへん。おれとあいつのこっちゃ、いつやめるかもしれんのに。まぁ、手荷物だけ持ってくる、いうてるさかい、出て行くときも楽でええけどな」

 そんな結婚がどこの世界にある!私は声を荒げようとしたが、ばかばかしくなってやめた。ええわ、もう。好きにせぇ。

 11月の終わりに、私たちに長女が生まれた。どうか日数の計算はなさらないで頂きたいが。妻の妊娠を告げたとき、啓太郎は笑ってこういった。
「おまえ、あの時、どないいうたんや?」
あの時はあのときや。そうはいかんこともあるわい。

 静子さんは、みごとな手編みのベビー服を送ってくれた。彼女はこうした手芸や料理の名手だった。お礼に電話をすると、二言三言で忙しげに啓太郎に代わった。受話器の向こうで声がした。あんた、もうええの?いいんですよ、お母さん。あ、喜代子さん(啓太郎の妹の名だ)、それお願い。

 私は、手に汗を握る思いだった。ほんとに、それでいいのか?


離別

 結婚、長女誕生、転職と慌しい一年が過ぎ、春になって我が家はようやく落ち着きを取り戻した。5月、初めて初夏の長野を訪れ、妻が見せたいといっていた林檎の花を初めて見た。妻は美佐との再会を楽しみにしていたが、彼女はアメリカへ旅立っていて会えなかった。

 この頃、啓太郎の家に電話しても、静子さんが出ることがなくなった。それが何度も続くうちに、不安になり、意を決して啓太郎に尋ねてみた。

「横浜の実家に帰ったんや」と彼は応えた。「母親が病気でな」
「ふーん。ほな、2-3日くらいで帰って来るのかな」

 私は、努めて何気なく、そう尋ねたが、心中、もはやこれまでと覚悟していた。

「いや、永遠に帰った」

 啓太郎は静かに応えた。何か月、何年かかるか分からないが、回復は望めないとのことだった。彼女は、母を看取るために、啓太郎との離別を決意したのだ。そうせずにはいられない、彼女と母の絆だった。静子さんは、そう決めた以上は、啓太郎が何と言おうとも、この家には二度と戻らない覚悟だったに違いない。啓太郎が横暴で残酷だったからではなく、過去を認め合っていては夫婦ではありえない二人だったのだ。互いにそれが分かっていたから、10年もの付き合いがありながら、一緒にならなかったはずなのに。

 結婚を考えない、つかず離れずのつきあいというものは、所詮男と女の間には成り立たないんだな、と私は思った。それが成立しているように見えたのは、その陰の事情を私が知らなかっただけなのだ。静子さんにしてみれば、恐らく永くは続くまい、と覚悟しながらも、どうしても一度は一緒にならずには終われなかったのに違いない。つくづく業の深い連中だ。私はひとり長嘆息した。

 私には、初めから、啓太郎と静子さんの二人には縁があるとは思えなかった。それぞれの個性が決して両立を認めないのだ。無理にでも一緒になるとしたら、どちらかが自分らしさを捨て、相手のために生きるしかない。そんなことは不可能だ。だのに、静子さんは彼女らしいきらめきを封印して播州の浜の女房になろうとした。そして、短い結婚生活の後、ふたたび元の彼女にもどっていった。なぜそんな分かりきったことを、というのが私の疑問だった。


美佐

 啓太郎と顔を合わせる機会が作れないまま夏が来た。私たちはふたたび子供を連れて長野に向かった。由紀は美佐に会いたがっていた。静子さんが姿を消してから、妻には美佐が、静子さんと自分の関わり合いを共に語れるただ一人の人になっていた。自宅であった美佐は、しばらく見ないうちに、静かな落ち着き払った女性になっていた。妻と些細なことで笑いころげていたころの面影は微塵もなかった。私はどうして女というのは、こう急に変貌するのだろうと不思議だった。同じことは妻にもいえたが、美佐の変わりようは、こういうことに疎い私にも鮮烈だった。

 彼女も、静子さんのことについては、私たち以上には知らないようだった。彼女は、過去に繋がる一切の人との関係を断ち、ひとり横浜で母の余生を看取っているのだ。

 私たちはまた元の暮らしに戻り、長女が1歳の誕生日を迎えるころ、妻が美佐の消息を伝えた。

「美佐ちゃん、結婚するらしいのよ」

 ふーん、そうか。あの子もついに。彼女なら、どこに嫁いでも立派な奥さんになるだろう、と私は思った。

「そうなんだけど」

 妻は言い淀み、私の表情を探るように見た。

「相手の人って、啓太郎さんじゃないかって思うの」

 私は深い穴に落ちていくような感覚に捉えられた。生涯に、これほどの驚愕を受けたことはほかにない。私は我にかえって妻をたしなめようとした。そんな馬鹿なことがあるはずがない。小説なら、読者に放り出されるくらいの無茶苦茶なストーリーじゃないか。だが、今度は私が言いよどむ番だった。私は妻のいうことは当たっていると直感していた。そうだったのか!

 妻は、努めていた病院の元の同僚から聞いたといった。美佐が結婚のため退職するということ、相手が誰だかはいわないこと、遠くにいくのだということ、さらに静子さんがいたら喜ぶのにねぇ、と何気なくいったら、彼女の表情が一変したということ…

 私は思い出した。由紀と私の婚約を知ったとき、美佐は「腰が抜けそうになるほど驚いた」といったことを。彼女は今の私の驚きを経験したのだ。私は何もそんなに驚かなくたって、と思ったものだが、彼女の驚きは、自分と啓太郎、由紀と私が、まんまと静子さんのお膳立てに乗って行こうとしていることにあったのだ。そんなに都合よくいくものかしら、と。

 そう都合よくはいかなかった。静子さんが美佐と啓太郎の間に割って入ったからだ。私は静子さんという人の苦悩と妄執に初めて思い当たった。それに啓太郎!

 あの野郎。とんでもねぇ野郎だ!

 この時ほど啓太郎という男が化物じみて見えたことはなかった。それにしても、なぜ女たち、それも美しく才あふれる女にかぎって、それほどまであの男に引き寄せられるのだろう。妻はただただ恐くて、声をかけられただけでびくっとした、といっていたが、それが普通の反応だろうと私も思うのだが。

 由紀は美佐に電話をしてみる、といい、受話器を取り上げた。美佐が出て、由紀は私に目で合図を送った。二人の会話から結婚話は本当だと分かった。由紀は私に受話器をよこした。私は型どおりおめでとうございます、といった。美佐は悪びれた様子もなく素直に礼をいった。私は尋ねてみた。

「もしかして、お相手はぼくのよく知っている人ですか」
「さあ、どうでしょう」

 間違いない。美佐のしれっとした口調で私は確信した。この女は、もう何があろうとビクともしないだろう。私は色が抜けるように白く、細身で頼りなげな美佐の、梃子でも動きそうもない意外な強靭さを垣間見て内心舌を巻いた。この人なら、あの啓太郎と添い遂げられるかもしれない…。静子さんと同じく理知の勝った人なのだが、すべてを首尾一貫させねば気がすまない静子さんが、情念の前にあえなく破綻したのと違い、それと好きは別、と矛盾をあえて解消しようとしない分、この人の方が強いのだ、と私は思った。すでにして鬼の女房だ。

 なんせ「好き」には勝てんわ。私はまた嘆息した。


推理

 この一連の事件は、すべて静子さんが惹き起こしたことだ。彼女が我々を引き合わせようとしなければ、互いにこの世に存在することすら知らずにすんだはずだ。ではなぜ静子さんは、美佐を啓太郎に引き合わせておきながら、あのような行動に出たのか。

 静子さんは、初めから、啓太郎を愛していたのだ、と私は初めて悟った。だが、彼女は啓太郎の方が自分に愛を請うことを望んだ。何とかしてその一言を言わせたいために、あらゆる手を尽くしたが、すべて啓太郎に見破られた。彼は、静子さんにその芝居気があるかぎり彼女の愛を信じなかった。

 そして10年が空しく過ぎ、彼女は誇りを捨て、啓太郎に屈服するよりは、甲斐性のない弟分たちにとびきりのいい子を紹介する、頼れる姉御分を演じることを選んだ。同時に、それで自分の思いに決着をつけようとしたのではないか。

 私と由紀のことは静子さんの思い通りだったろう。だが啓太郎と美佐のことは、危険極まりない賭けだった。静子さんは絶対矛盾に逢着したのだ。意図した通りにことが運ぶことを、死んでも許せない自分がいることを承知の上だったかどうか。ともかく、最後の最後に啓太郎が手を差し伸べたか、一緒になってくれなければ美佐を殺すとまで静子さんがいったか、もはや確かめるすべもない。

 はっきりしていることは、たとえ鬼女といわれようと、美佐を地獄に突き落とそうと、静子さんは啓太郎を手に入れたかったということだ。その行動に踏み切った以上、静子さんは別人にならなければならなかった。これまでの彼女を支えてきたものは、ここにおいて全面的に崩壊したのだから。

 なのに彼女は母を捨てることができなかった。

 静子さんも啓太郎も、決して他人を意の如く操ろうとする人ではない。過去に何度も救われた私はそれをよく知っている。あの二人の好意の際立った点は、それが純粋に無償の行為であったことだ。彼らは決して恩に着せず、感謝を期待もせず、ただ快く手を差し伸べてくれた。この話の前半を読めば、それが分かって頂けると思う。

 だが、その二人が向き合うとき、互いの好意は微妙な部分ですれ違った。たとえば学生のころ、こんなことがあった。ある日、静子さんは私と啓太郎にメシを食わせてやるといった。たまには人間であることも思い出す必要があるし、私の料理の腕も見せておきたいからウチに来なさい、と。彼女は、そのような言い方でしか行為を表現しない人だった。私と啓太郎は何でもいいから、ありがたく食わせてもらう、といった。ところが当日、親の都合でウチが空かないことになった。彼女は強がってはいたものの、明らかにすまないと思っていた。いつもの歯切れのいい口調ではなく、外で奢ってあげようといった。

 私は、それは筋が違う、と思ったが、彼女の気分を阻害するまでのことはない、と考えた。だが、啓太郎は「いや、そらあかん。それはでけへん」と言下に断った。静子さんは、そんなことにこだわるのはおかしい、といったが、彼は頑として聞かなかった。私は双方の考えがよく分かるのだが、当事者同志は、微妙な部分の些細な違いに、それぞれの本質をなす核の部分をこすれ合わせてしまうのだ。互いの好意と譲れない部分を最もよく分かり合っているにもかかわらず。

 この上なく合いそうで、実は決して相容れない二人だ、というのはそういう意味だ。まるでシャム双生児のように背中を接したまま、抱き合うことのできない間柄だと私は思っていた。


喪失

 初めて美佐と由紀を伴って大阪に来たとき、静子さんは、あの二人、本当にこの子達を気に入るに違いない、と見抜いていただろう。だが、美佐がからかわれ、反発しながらしだいに啓太郎に惹かれていくのを見ているうちに、彼女の内面に小さな火が灯ったのではないか。その火に照らされる自分の姿に彼女は目をそむけることができなくなっていったのか。それは私の想像でしかないが、彼女の軌跡は、煩悩の修羅の炎を掻い潜ってきたことを示しているように思える。静子さんは、美佐を炎の中に追いやり、代わりにそこから抜け出してきたのだ。

 だが、そうして掴んだものは、また別の修羅ではなかったか。そのことに彼女は気づいたろうか。母の病気を知ったとき、近松の世話物を愛する彼女は「因果は巡る小車」とつぶやかなかったろうか。

 私は、こうなった以上、生きて彼ら3人にふたたび相まみえることはあるまい、と覚悟した。いかに我々が啓太郎夫婦に対してイノセントであろうと、美佐は我々の背後に静子さんの幻影を見ることに耐えられないだろう。静子さんもまた、同じだ。私と由紀、啓太郎と美佐の夫婦は、それぞれ伴侶を得た代わりに、生涯の友を失ったのだ。そして静子さんは、文字通りすべてを失った。

 こうして静子さんは、この世で会うはずもなかった4人の男女を、彼女の意図したとおりの、だが想像を絶する方法で結びつけ、互いに、二度と会うことのない運命をもたらし、我々の前から姿を消した。(終)


エピローグ

 かけがえのない友人たちを失ったことを悟ったとき、私は心に決めた。これからは誰のためにも生きない。ただ妻と子供のために生きよう、と。

 その後4年を経て私たちに2番目の男の子が生まれた。以後、私たちの物語は台湾、日本、そして上海へと続く。その過程で、妻は仕事を持ち、テニスを始め、私と関わりのない世界にも生きるようになった。私は当初認めなかったが、一度その人たちに引き合わされて以後、まったく彼女の自由に任せた。気の合う人たちと、思うままに過ごす時間が欲しいという望みは、きわめて正当なもので、私が制限を加えるべきことではないと思ったからだ。それ以後、夫婦でありながら、基本的に妻は妻の、私は私の人生を生きている。

 それでも私たちの間に何の秘密もなく(この連載のことだけは別だ…)、互いに信頼を失ったことはない。思えば、あの遠く離れていた時に、私たちはどう息を合わせるか、チームワークをどう作り上げるかを学んだのだ。

 啓太郎と美佐の間にも3人の子供が生まれた。それは長野に帰郷するたびに妻が聞いてくる消息による。彼女は首尾よく啓太郎の最後の女になりおおせたのだろうか。だが、今も静子さんに話題が及ぶと、みるみるうちに顔色が変わるそうだ。

 その静子さんは、やがて母を亡くし、数年後父をも亡くした。今どこに居を定めているかはわからないが、全国に知己を持つ彼女は、あるとき誰かのもとへ風のように現れては、また去っていくらしい。まるで寅さんのように「日本全国、私のふるさと」とうそぶきながら。

 天涯孤独の静子さんは、今どこの空の下にいるのだろう。


あとがき

 1か月以上に及んだ過去をさかのぼる旅がやっと終わった。人の記憶は不思議なもので、ふだん封印されているものが、何かのきっかけで、一気にほとばしり出ることがある。「失われた時を求めて」のスワンの場合はマドレーヌをひたした紅茶の香りだったわけだが、BUNDの場合はプーアル茶だったり、歌謡曲の一節だったりする(笑)。巨匠の品格に遠く及ばざることかくの如し。

 それにしても描写はむずかしい。人物の言葉と行動はなんとか表現できても、容姿、表情、心の動きを捉えるなんて至難の業だ。それに情景。信州の谷あい、由紀の部屋のたたずまいなど、的確に描写できれば、確実に奥行きが広がるのだが、これまたとうてい凡人の及ぶところではない。題材としては直木賞を取ってもおかしくない(爆)のだが、作者に恵まれなかったのが本作品の不幸である。

 というわけで薄っぺらな昔話の域を出ない私の書き物におつきあいして下さった方々に御礼申し上げたい。できの悪い作者ほど凝った書き出しと読者の賛辞を欲しがるものらしいが、どうして私ひとりが例外でありえよう(笑)。

 あのとき生まれた私の娘は20歳になった。あの一連の事件から、もう20年が過ぎたことになる。当時、もう二度と会うことはあるまい、と覚悟しながらも、時が経てば、愛憎を越えて、また合える機会があるかもしれないという期待も、心のどこかでは持っていた。だが、それぞれ老女となった美佐と静子さんが、笑いながら昔を語りあう図など、やはりこの世ではありえないようだ。

静やしず、しずのおだまきくりかへし昔を今にするよしもがな

それではどちら様も、また逢う日まで、ごきげんよう。