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NT 1 きれいな、まあるい月が出ていた。 自分の車を運転している最中だというのに、僕は月に見とれていた。 助手席で麻奈美が何か言っているような気がするけど、何も聞こえなかった。 初めてのデートのはずなのに、なんでだろう…? ちょっと前までは緊張してたのに、今は月が気になるだけ…。 なんでこんなに月が気になるんだろう? 『こっちへおいで』 「え?」 突然聞こえた声に、助手席を見た。 「どうしたの?」 麻奈美はそう言った。 麻奈美じゃない。 そのまま目線を前に戻そうとしたとき、助手席の窓の外に、女の人が立っているのを見た。 僕は思わず車の速度計を確認した。 時速50キロ辺りを指している。 もう一度、助手席の窓を見ると、女の人がまだ立ったままだった。 『おいで』 その女の人の声だ。 「弘樹!前みて!前っ!」 麻奈美の悲鳴のような声で振り返ると、目の前を大きなトラックが走っていた。 慌ててハンドルを右に切ってブレーキを踏んだ。 『こっちよ』 またそんな声が聞こえた。 僕は思わず、声のする方向へハンドルを切りなおし、アクセルを踏んでいた。 「きゃぁ〜〜!」 麻奈美が悲鳴をあげていた。 僕の車は寸でのところで、トラックの後ろをすり抜けた。 その右側を、対向車がけたたましくクラクションを鳴らして通り過ぎた。 右にハンドルを切ったままだと、対向車に突っ込まれえるところだった。 僕は少し走ったところで車を端に寄せて止めた。 麻奈美を見ると、肩を震わせて泣いていた。 大丈夫かと声をかけようとした、そのとき、気がついた。 まだ助手席の窓の外に、女の人が立っていた。 『こっちへおいで』 そう言って手招きまでしていた。 誰なんだ? 僕を呼んでいるのか? だったら彼女は…! 女の人の目線が、僕ではなかった。 麻奈美を…。 『こっちへおいで』 『ダメッ!逃げて!』 別の声が聞こえたとき、また僕は指示に従っていた。 前も確認せず、ギアを1速に入れてアクセルを踏み込み、サイドブレーキを叩き落した。 正面を向くと、右側の視界を塞ぐように大きなものが迫っていた。 次の瞬間、鈍い衝撃がつたわって、車の制御を失った。 ぶつかる瞬間に声がして、そのとおりに左へハンドルを切っていた。 でも、そこから先は、何も覚えていなかった。 2 目の前に、白い天井が見えた。 蛍光灯が並び、僕を囲むようにレールがあった。 黄色く変色した白いカーテンがかかっている。 「ここは…」 僕は体を起こそうとした。 「痛っ…」 体中に痛みが走った。 頭を起こそうにも、首は痛いし、堅いもので固定されてるみたいだ。 手は…動く。 足は…あれ? 右足のこの痛み。まとわりつくような堅く重い感触…。 う、動かない…。 手を上げてみると、包帯やらガーゼやらがあちこちにあった。 顔や頭を触ってみる。 頭にも包帯が巻かれ、顔もガーゼがいくつかはってあった。 僕がいるのはベッドの上らしい。 こんな景色は、病院くらいしかないか…。 どうしてこんなところに…? ………。 ………。 ………。 そうだ。事故ったんだった…。 生きてるんだ。僕。…ありがとう。 え?ありがとう…? 何がありがとうなんだろう? 誰に対して…? いくら考えてみても、分からなかった。 そういえば、麻奈美は…? 目だけで左右を見てみる。 どちらも黄ばんだ白いカーテンに仕切られて見えない。 突然、天井の蛍光灯が光った。 「は〜い、おはようございま〜す」 女性の声が部屋の中に響き渡った。 「朝ですよ。ほら起きて」 容赦ない口調で、次々に黄ばんだ白いカーテンを開け放っていった。 僕のところにもやってきた。 白いあの格好をした人は、看護婦さんしかいないだろう。 「おはよう、三上くん」 看護婦さんは僕がまだ眠ってると思ったのか、顔を覗き込むようにしてきた。 「あ、おはようございます」 「今日もいい天気よ〜」 看護婦さんのテンションが妙に高いのは、夜勤明けのせいだろうか。 まさか、早出であんなにテンション高くないよな…。 などと考えていると、看護婦さんはさっさと隣のベッドへ移っていっていた。 くッ…い、痛い…。 それでもなんとか、上半身を起こしてみた。 全身痛いけど、どうやら首と右足…やっぱりギブスで固定されてた。とにかくその2ヵ所以外は、たいしたことないみたいだ。 首は、むち打ちだろうな…。あんな事故だったから。 横を見ると、テレビの台に松葉杖が立てかけてあった。 麻奈美はどうなったのかな…? 探しに行ってみるか。 手を添えて右足をつっている台から降ろすと、体を滑らせてベッドの端へ座った。 ぐぅう…。 足を降ろすと痛みが増した。 「あ、三上くん。検温、お願いします」 さっきの看護婦さんが部屋中のカーテンを開けて戻ってきた。 テレビ台においてある体温計を取って手渡してくれた。 僕はそれをわきの下に入れた。 「それにしても三上くんて、運が良かったんだね」 「え?」 看護婦さんにいきなり運がいいと言われても、何のことだかさっぱりだ。 「だって、すごい事故だったそうじゃない。タンクローリーの運転手が居眠り運転して、反対車線のわきに止めてあった三上くんの車に突っ込んで、爆発炎上よ。普通、死んでるか大けがと大火傷で、最低でも1年は病院生活ね」 「ば、爆発炎上?」 ぜ、全然記憶にない…。 「あれ?三上くんが昨日自分で、治療を受けながら警察の人に説明してたのを聞いただけよ。私のは」 「うそ…。全然覚えてません…」 「あらまあ…。ショックで一時的な記憶喪失かしら?主治医の先生に伝えておくから、聞いてみるといいわ。はい、体温計を出して」 看護婦さんに言われるまま、わきの下から体温計を取り出して差し出した。 「うん。少し熱があるわね。まあ、骨折すると次の日に少し熱は出るものだから。大丈夫よ」 そう言って笑った。 「それから、今日の午後に予定通り右足の手術を行うから、何も食べないでね。飲み物も極力控えて」 「はあ」 「後で点滴があるからね。たくさん」 そう言って看護婦さんは他の人のところへ行こうとした。 「あ、待って」 「ん?なに?」 「麻奈美…北村麻奈美さんは…?」 「北村………。ああ、一緒に運ばれてきた女の子ね。彼女ならたしか、405号室よ」 看護婦さんは答えると、他の人の体温を聞きに行った。 3 なれない手つきで松葉杖を使うのは、一苦労だ。 下手に足をつくと痛いし。 みんなの体温を聞いて回った看護婦さんのほうが、部屋をでるのは早かった。 ともかく、苦労して部屋から出た。 一応、部屋の入り口を振り返って、部屋番号を確認した。 502号室か…。 階段はっと…。 左右を確認しようにも、首が回らない。 松葉杖を使い、体ごと向きを変えた。 左右とも見ても、どちらに階段があるのかよく分からなかった。 左に行けば、ホールがあるみたいだ。 右に行けばナースステーションがあって、廊下はそこで右に曲がっている。 「左だな…」 口に出して確認し、ホールへ向かうことにした。 すぐそこに見えるホールへたどり着くのも、一苦労だ。 松葉杖での移動は意外と全身を使うらしい。 大きく移動しようと前へ杖を突くと、腕からわき腹にかけて痛みが走り、杖のところまで体を運ぶと今度は下半身のあちこちで痛みが走る。 打ち身だよな…。こんなにあちこち、どうやって打ったっけ…? 事故の記憶は、急発進したところまでしかなかった。 なんとかゆっくりと、ホールへたどり着いた。 そこにはイスとテレビとが備えられ、何人かの患者さんがくつろいでいた。 エレベーターと階段もある。 エレベーターのランプは1階を照らしていた。 う〜ん、階段で行くか…。どうせ、慣れなきゃなんないんだし。 階段は、下りしかない。 階段の途中の踊り場には喫煙コーナーが設けられていた。 松葉杖を一段下についた。 体を杖へ預けていく。 「うわっ」 急にぐらつき、慌てて体を起こした。 こりゃ難しいぞ…。 よし…。 中央の手すりを片手で持ち、2本の杖をもう片方の手に持って、手すりに体を預けて左足と杖をついて降りた。 ゆっくりと、一段ずつ、確実に降りていく。 踊り場まで降りたとき、後ろから声がかかった。 「あら?エレベーター使えばよかったのに」 タンクトップにジーパン、片手にジャケットを持った女性が階段の上に立っていた。 どこかで見た顔のような気もするし、まるで見たことない人のような気もする。 「何見とれてるの〜?」 いたずらっぽく笑いながら、その女性が僕の隣へ来た。 あ。 「さっきの看護婦さん?」 「はい、ご名答♪今日はもう上がりだから」 「ふ〜ん」 「ほんとは後1時間あるんだけど、早引けなのよ」 看護婦さんはそう言って片目をつむって見せた。 「デートですか?」 「まっさかぁ。こんな仕事しているとね、付き合ってくれる奇特な人、そうそういないわよ」 「そう、なんですか?」 「そういうことにしといて。さ、私は婦長に会いたくないから。さっさと帰るわ」 そう言って先に行った。 ところが、急に戻ってくる。 「ほら、貸して」 そう言って僕から松葉杖を奪うと、僕の右手を自分の肩に回し、僕の体を支えてくれた。 この看護婦さん、やせて見えるけど、結構柔らかいな…。 あ、いや、そんなつもりはないからね! 自分で自分に言い訳してみる。 でも、こんなに異性と接近することもあまりないだけに、意識せずにいられなかった。 ちょっときつそうな感じに見えたけど、結構優しいし…。 な、何考えてんだ。僕は…。 麻奈美がいるじゃないか。 僕は思わず、首を振っていた。 「どうかした?」 看護婦さんに気づかれてしまう。 僕は僕で、振った首が痛くて答えられなかった。 とりあえず、手で何ともないと訴えた。 「そら。はい、これで4階到着で〜す」 看護婦さんの肩に体を預け、最後の段を降りた。 看護婦さんは肩を持たせたまま、松葉杖を僕に渡した。 松葉杖に体重を移すと、看護婦さんが離れていった。 なんか、悲しい気もする…。 「ほーら、私の胸に気を取られてないで、彼女に会ってらっしゃいな」 「うん…。え?ええ!み、見とれてないって!」 「あら、そう?この格好、結構ワイルドでセクシーでしょ?」 そう言って胸元を広げて見せた。 「あ、う…」 目のやり場に困る。 「ふふ。ジョーダンよ」 そう言って僕の肩をポンと叩いた。 「イタッ…」 「あ、ごめんごめん」 看護婦さんは3階への階段に向かった。 そこで振り返った。 「私、高坂令子。502号室を担当してるから、何かあったら言ってね」 そう名のって階段を一歩降りた。 また振り返る。 「言いなさいよ」 「は、はい」 看護婦…高坂さんは僕の返事を聞いて満足したのか、そのまま駆け足に降りていった。 僕はそのまましばらく立ちすくした。 なんだったんだろう…? か、からかわれたのかな…。 うん。そうに違いない。 でも、あれはあれで、いいかも…。 美人、とはいかないかもしれないけど、きれいだよな…。 あ。 いけない、いけない。 麻奈美の様子を見に行くんだった。 4 405号室は僕の502号室と同じ、6人部屋だった。 ただ、こちらは女の人だけだ。 廊下では看護婦さんたちが朝ご飯を運んでいた。 もうすぐ、この部屋にも大きなワゴンを押してくる。 彼女のベッドは部屋の一番奥の窓際だった。 彼女のベッドのわきに、両親らしい40くらいの男女がいた。 嫌な予感がするな…。 両親に怒られるのは、当然だ。 あれだけの事故に巻き込んでしまったんだから。 そうか…?巻き込まれたの、僕なんじゃ…。 え?なんで…? 突然浮かんだ考えが、なぜなのかさっぱり分からない。 やっぱり嫌な予感がする。 怒られるのとは別の、何か嫌な気配がする。 そうはいっても、部屋の入り口で眺めているわけにもいかない。 僕はゆっくりと、部屋へ入っていった。 麻奈美も、僕と同じく足をつっていた。首も同じらしい。 麻奈美が入ってきた僕に気づいた。 「あ、弘樹…」 その声に、彼女の両親らしいのが振り返った。 2人とも、鬼のような顔してにらんできていた。 男のほうが僕に近づいてくる。 「お父さん!」 麻奈美が声を上げた。 「追い出して!」 麻奈美のそのセリフに、耳を疑った。 次の瞬間、僕は胸に激しい痛みを感じ、廊下へ吹き飛ばされていた。 ちょうど通りかかった、食事を積んだワゴンに激突した。 父親に突き飛ばされた…。 「うちの麻奈美に近づくな!この疫病神め!」 父親が吐き捨てるように叫び、転がった松葉杖で思いっきり、僕の胸を突いた。 「か…はぁ…」 い、息ができない…。 胸が激しく痛み、セキが出た。 「ゴホッゴホッ…」 でも、息を吸うことができない。 父親がまだ、僕を殴ろうとしていたらしい。 「や、止めてください!」 近くにいた看護婦さんが必死に止めようとしていた。 「娘に近づいてみろ!今度は殺してやる!」 父親はそう吐き捨て、部屋に戻っていったようだった。 でも今の僕に、そんなこと、どうでも良かった。 とにかく、息がしたい。 このままじゃ、死んじゃう…! 胸を押さえると、ものすごい痛みが走った。 痛みなんでどうだっていい! 動いて! 自分で胸を叩いた。 くっ…。 胸をかきむしる。 周りで何か騒ぎが起こっていた。 そんなもの、全然耳に入らない。 動いて! 胸をかきむしる。 のどを…これ、邪魔だ! 息が、息が…! このままじゃ、本当に死んじゃう。 空気を、空気を…! 早く、空気を! もう…だめかも…。 『………!』 もともと、生きてても仕方なかったんだ…。 父さんと母さんに死なれてから…。 (嫌よ。あんな気味悪い子、引き取りたくないわ) 僕なんて、必要ない人間だったんだから。 もう、いなくなっていいんだ…。 なんであのとき、父さんと母さんと一緒に死ななかったんだ…。 そうだ。だから、今、死ぬときが来たんだね。 もう、休んでいいんだね…。 『ダメッ!死んじゃだめ!しっかりして!』 誰…? もう、ほっといてよ…。 『何よ!あたしと約束したじゃない!そんことであきらめないで!』 約束…? 思い、だ・せ、な…い……。 5 車は暗闇の中を走っていた。 ヘッドライトだけが道を照らしている。 「ずいぶん遅くなってしまったな」 懐かしい声だ…。 僕は動かない体をがんばって動かすと、運転席に父さんが見えた。 「弘樹、もう少しの辛抱だからね」 助手席に、母さんがいた。 「この峠を超えれば家へはすぐですから」 「まったく、こんな日に限って高速で事故だわ、下道は工事中だわ…。まったく…」 父さんがぼやいていた。 僕は車の外を眺めた。 まん丸の、大きなお月様があった。 どこかで、見た光景だ…。 ヘッドライトの景色に女の人が見えた。 でも、車にひかれることも、離れることもない。 ずっと同じ位置にいて、こっちを見つめていた。 「ダメだよ。この道いっちゃ…」 僕は呟いていた。 「え?」 母さんは驚きと、何だろう、少し、怖がっていたのかな? 「ここを通らなきゃ、家に帰れんだろうが」 父さんは、いつものように怒っていた。 「でもダメだよ!ここは!」 「うるさい!お前はダメって座っていろ!」 「でも、あなた…」 「いいから!俺が事故を起こすとでも思うのか?これだけ安全運転しているんだぞ!」 運転席の速度計をのぞくと、30キロを刺していた。 クネクネと曲がる峠道を確実に登っていっていた。 車の前にいる女の人がしゃがんだ。 ガコッ 車が何かをひいていった。 でこぼこした道だから、それ以外にも何度もガコガコと鳴っている。 でも、この音だけは、気になった。 女の人がまた立ち上がっていた。 「引き返そうよ…」 僕は半分、泣きそうな声で言っていた。 返事はない。 「あなた!」 「うるさい!そう何度も不吉なことが当たってたまるかっ!」 父さんと母さんが何か言い合っていた。 道は上り下りが激しくなってきた。 それが次第に、下りが多くなってくる。 30分もすると、下のほうに町の明かりが見えだした。 「ほらみろ。何もなかったじゃないか」 父さんがそう言った次の瞬間、急に何か、慌てだした。 「どうしたの?」 母さんが聞いた。 「ブ、ブレーキが…」 父さんの耳が青ざめていた。 やっぱりだ。あのガコッて音、これだったんだ…。 車のスピードがどんどん上がっていく。 前のほうにガードレールが見えた。 そのガードレールに重なるように、さっきの女の人が立って、笑っていた。 父さんも母さんも、言葉にならない声を上げつづけていた。 ガードレールへまっしぐらだ。 その先は崖だった。 確かその下、父さんと釣にきた湖があったはず…。 僕はバックシートのシートベルトをしていた。そのベルトを両手でつかみ、頭をひざにくっつけた。 車が飛び跳ねる。 少しして、何かにぶつかった。 ジェットコースターみたいに、体が浮き上がった。 ものすごく、静かになる。 次の瞬間、激しくゆれて、何がなんだか分からなくなった。 シートベルトがお腹に食い込んで引きちぎれそうになる。 体がゆれてひざで頭を打つ。 それでも僕は、シートベルトにしがみついていた。 それから少しの間、僕は気を失っていたのかもしれない。 気がついたら、車がゆっくり沈んでいくところだった。 僕は顔を上げてみた。 窓の外に水面があった。 車のハンドルとかフロントガラスとかの位置が、だいぶこっちに寄っていた。 車のヘッドライトが点滅し、そして消えた。 湖に反射する月の明かりで今は、なんとか周りが見える。 手が痛い…頭も、足もお腹も…。 僕はまだ、シートベルトを握りしめていた。 手を離そうにも、体が震えてうまくいかない。 「つめたっ…」 靴の中に水が入ってきた。 いつのまにか、前のほうから水が入ってきていた。 水に気を取られていたら、いつのまにか手がシートベルトから離れていた。 手を見ると、握っていたシートベルトの形に切れて、血が出ている。 そういえば、父さんと母さんは…? 今の位置からではよく見えない。 僕はシートベルトをはずし、立ち上がった。 車がゆれる。 僕は思わず運転席にしがみついた。 何か、ぬるっとしたものが手に触れる。 座席を支えに助手席と運転席の間に行って、父さんを覗き込んでみた。 顔が黒かった。 湖に反射した月の光が当たって、その黒いのが少しテカテカしていた。 「父さん?」 僕は父さんの肩をゆすってみた。 ねっとりしたものが手につく。 父さんはそれでも反応しなかった。 父さんの体に触れるくらいの位置にハンドルがあった。 「母さん?」 反対を向いた。 母さんもぜんぜん動かない。 母さんの横の窓はなぜか、外が見えなかった。 「わっ…」 急に車が傾き、前側から一気に沈み始めた。 早く出ないと…。 早く父さんと母さんを連れて出ないと…。 フロントガラスは雲の巣状にひびが入っていた。後ろのガラスもひび割れている。 でもそこからは出られない。 近くのすぐ開けられそうなドアは、後部座席だ。 そのドアは開けようとしてもびくともしなかった。 カギは…かかってない。 窓に水が打ち寄せた。 ひび割れたフロントガラスから水がしみだしてきていた。 車の前側は完全に水の中に沈んでいる。 入ってくる水の勢いが増したようだった。 早く出ないとおぼれちゃう…。 そだ。窓を開ければ…。 僕はドアの横に座り、レバーを握って一生懸命、回した。 手が痛い。 いつもと違ってレバーが重い。 『ふふふ。無駄な努力よ』 どこからか、そんな声が聞こえた。 「そんなことない!」 僕は力いっぱいレバーを回して窓を開けた。 開けた窓から、勢いよく水が入ってきた。 「わっ」 僕はその水に押し流された。 まるで、誰かに引っ張られるように窓から遠ざけられる。 さっき車の前にいたあの女の人が、僕の足をつかんで笑っていた。 「は、はなして!」 女の人は笑うだけで、手を離しても、答えてもくれなかった。 水がどんどん入ってきて、座席の上にいる僕の腰まできていた。 足をふって振り解こうとしても、ぜんぜん離れない。 僕はもぐって、女の人の手を引き離した。 女の人の顔から、見る間に笑顔が消えていった。 『何なの?この子は…?私に触れるの?』 僕の顔に近づいてくる。 『ダメよ。そんなこと、許さないわ』 女の人が僕の首を両手でつかみ、押さえ込んできた。 く、苦しい…。 水から出なきゃ…。 はな、して…。 『あなたも一緒にくるのよ。そう、お父さんとお母さんと一緒にね』 女の人が笑った。 父さんと母さん…? 前を見ると、父さんと母さんが水の中でゆらゆらとゆれていた。 は、早く、父さんと母さんを連れてここから出ないと…。 息が…。 やだ、いやだ、死にたくないよ…! 『さあ、楽になりなさい』 いやだ、いやだ、いやだぁーーー! 『ぎゃぁ…』 女の人が突然離れた。 僕はすぐに立ち上がって、天井にわずかに残っていた空気を吸った。 その空気もあっという間に水に変わった。 『いったい何をしたの?』 女の人が手で顔を押さえて迫ってきた。 手のすき間から見える顔が、ただれていた。 『危険だわ。この子。危ない子はここで一緒に死ぬのよ』 また迫ってくる。 途中で急に止まった。 何…? 『じゃ、邪魔しないで!』 女の人を誰かが後ろから捕まえていた。 あれは…父さん! 前を見ると、父さんはまだ、水の中でゆれていた。 え? 『弘樹、あなただけでも逃げなさい』 母さんが僕の隣で言った。 でも、母さんの体は父さんの隣でゆれていた。 『早く行かないかっ!』 父さんが怒鳴る。 『離せっ!邪魔するなっ!』 女の人が暴れている。 『弘樹、行きなさい。これからは、一人で生きていくの。あなたならできるわ』 母さんがそう言って、僕の顔をなでようとした。 その手が僕の体をすり抜けた。 母さんの顔が悲しそう。 僕は母さんの手を取って、僕のほっぺたに触れさせた。 『ありがとう』 母さんは泣きながらそう言って、手を引いた。 僕は窓に近づいて、もう一度振り向いた。 母さんが頷いた。 『行けっ!』 父さんの声だ。 うん。 僕はそれ以外に何も言えなかった。 窓から湖の中へ泳ぎ出た。 車がゆっくり離れていった。 息が苦しい…。 僕は上を見た。 どこが水面なのか、まるで分からない。 あれ…? 周りは真っ暗で、もうどこへ車が離れていったのかさえ、分からなくなった。 どっちに行けばいいの…? 息が苦しい…。 きょろきょろと周りを見渡していると、ふと、明かりが見えた。 僕はその明かりを目指して泳ぎだした。 そこにたどり着けば…。 く、苦しい…。 ま、まだ、死にたくない。 そうだ! 僕は、死にたくないんだ! 6 窓の外に、大きな月が輝いていた。 白いシーツの上に転がっている。 横には点滴がぶら下がっていた。 点滴の中身はもう、無くなりかけていた。 目の横がぬれていた。 僕はそれを手でぬぐった。 「忘れてた…」 思わず、呟いていた。 そしてため息が漏れた。 すると、急に胸に痛みが走った。 手で触ってみようとすると、堅いものが当たった。 首が固定されていて見えない。 多分、コルセットだな…。あばらが折れるかどうかしてるんだ…。 カラカラカラ 何かがスライドする音が聞こえた。 足音が近づいてくる。 その人が僕の顔を覗き込んできた。 「あら?気がついたのね」 看護婦の高坂さんだ。 「あれ?帰ったんじゃなかったの?」 僕は思わず、そんなこと聞いていた。 「何言ってるの。もう夜よ。ほら、満月も出てるじゃない」 「そういえば…」 夢の続きかと思ってた。 「あの後大変だったみたいね」 高坂さんが点滴を交換した。 「よく、覚えてないんだ…」 「そう…。まあ、忘れたほうがいいと思うわ」 そう言って、ベッドの端に腰をおろした。 「なんだったら、私が忘れさせてあげようか?」 いたずらっぽく笑って、僕に近づいてきた。 「ちょ、ちょっと…」 僕は動かない体で下がろうとする。 あまりにも唐突なのでびっくりしたのと、戸惑いと、そしてなんとなく、妙な期待があった。 「ふふっ。冗談よ」 高坂さんが体を起こした。 僕の期待を見透かされたような気がした。 鏡を見たら、今の僕の顔、真っ赤だろう。 「でも、病院以外だったら、考えてもいいかも」 え? 「な〜んてね」 そう言ってベッドから離れていった。 「そういえば、お見舞いの人が来てたわ。呼んでくるね」 それだけ言うと、さっさと出て行った。 あ、あの人はいったい、何なんだろう? 僕をからかって遊んでるのかな? はぁ〜。 でも、やられたって感じ。 高坂令子、さんか…。 何歳くらいなんだろう…? あれ? 「さっき、見舞いの人とか言ってたような気が…」 僕はなんとか体を起こしてみた。 ベッドの横にかばんが置いてある。口が開いていて、中身が見えた。 あれは…僕の服…? 僕のアパートから…?誰が? そうこう考えていると、また誰かが入ってきた。 部屋の電気がついた。 わっ、まぶし…。 手で目の上に屋根を作った。 「よお。生きてるか?」 背広を着た男の人が視界に入った。30代後半くらいの人だ。 僕の後見人をしてくれている木村賢吾さんだ。 「だれ?あんた」 僕はわざと、そう言った。 「あ、あんた…?てめぇ…。自分の後見人つかまえて、誰とは何だ!」 男の人が詰め寄ってきた。 「冗談ですよ」 相変わらずだな。この人。 僕はおかしくなって、笑った。 「俺をおちょくってそんなにおかしいか?」 「お前、こんなガキにもからかわれているのか?」 別の人の声がした。 その声の主らしい男の人が部屋に入ってくる。 20代くらいで、革製のズボンに革のジャケット姿をしている。 目の上の手をどけてみても、見覚えがない。 「誰です?木村さん」 僕は訪ねた。 でも答えは返ってこなかった。 「何だ?木村さんとは。よそよそしいじゃないか。いつものように賢吾にいちゃんでいいぞ」 「な、なんでいまさら…」 恥ずかしい…。 「僕もう、18ですよ。そんな歳じゃないです」 「そうか?」 そう言って木村さんが笑った。 「何だ。もう立場は逆転か。つまらん」 革のジャケットの人が、本当につまらなそうに呟いた。 「こいつはうちで使っている探偵の皆川龍也君だ」 木村さんが紹介してくれた。 へ〜探偵ねぇ…。 「そんなに珍しいかい?」 皆川さんがベッドの横にイスを持ってきて座った。 その間ずっと、僕が見ていたことに気がついていたみたいだ。 「え、いや、その…。はい。探偵さんを見たの、初めてですから」 「正直者だな。損するぜ」 そう言って懐からタバコを出してくわえた。 「おい」 木村さんがその一言でいさめた。 「わーってるよ。口元が寂しいんだ」 皆川さんはそう答えて、片手に持ったライターで遊び始めた。 ふたの部分をつまんで手首を振ってあけ、指を動かして持ちかえると火をつけた。 すぐにふたを閉め、親指でふたを開けてその指の戻し際に火をつける。 人差し指でふたを押して閉じ、また親指でふたを開けた。 カチッシュッパチン 個室の中に音が響いた。 「まったく。タバコ止めろよ」 木村さんがベッドの端に腰かけた。 横においてあったかばんを持ち上げた。 「お前のアパートから着替えを持ってきといたぞ」 「あ、はい」 「他にいるものがあったら言ってくれ」 「う〜ん、これといって別に…」 「そうか?」 「あ、じゃあ、ジャンプとマガジンとサンデーと…」 「下に売店がある」 「この体で、ですか?」 僕の体も今は、すごいことになっていた。 我ながら、感心してしまう。 ちゃんと症状は聞いてないけど。 「右足の圧迫骨折。首はむち打ち。胸は打撲による、あばら2・3本にヒビ」 皆川さんが呟くように言った。 「ほんとに見事にやったもんだ」 木村さんが言った。 「右足の治療はかなりかかるそうだ。骨は若いからすぐ治るだろうとのことだが…。見てのとおり、足首が固定されているだろう?元通りになるには、かなりリハビリが必要になるだろう、とさ」 木村さんが、少し怒っているんだろうか?一応、説明してくれた。 「首は動かさなければすぐに治る。あばらは1ヶ月くらいか。あまり動くな。ちょっとしたことで折れるかもしれないそうだ」 そうなんだ…。 「ああ、そうだ。その胸の件は、向こうと話をつけてきた」 「え?」 「1つ聞いておくが、あの北村を訴えるつもりはあるのか?」 「麻奈美の父さんのこと?」 「ああ」 僕の胸を突いたことか…。 訴えたところでどうなることでもないし。 (追い出して!) 麻奈美の声が響いた。 もう、関わりたくない…。 「別にいいよ」 なんであんなの、好きになってたんだろう。 でも、嫌いになってない自分がいる。 麻奈美のこと、気になってる自分がいる…。 「そうか」 木村さんが呟いた。 「まあ、そう言うだろうと思ってな。もう示談してきた」 「え?」 「あばらの治療費および慰謝料を貰う。代わりに二度と北村麻奈美に近づかないようにとのことだ」 「はあ」 「こっちが被害者だからな。父親にもお前に近づかないように念書を書かせておいた」 「そうですか…。そっちは任せます」 「ああ」 「後、今度の交通事故の処理も…」 「分かっている。それが俺の仕事だ」 木村さんは投げやりに言って、ベッドから降りた。 「今晩はゆっくり休め」 背中越しにそう言うと、皆川さんを促して部屋から出て行った。 その皆川さんが僕のそばに寄ってきて、耳打ちしてきた。 「AVとか必要ないか?必要なら一式そろえてやるぞ」 皆川さんの顔は笑っていない。からかっているわけでもなさそうだ。 「い、いりません」 「そうか?何ヶ月もこんなところに閉じ込められると、たまるぜ〜」 やっぱりからかってるんだろうか…? 「龍也、行くぞ」 部屋の外から声がかかった。 「必要になったら言ってくれ」 皆川さんはそう言ってウインクすると、部屋から出て行った。 やっぱ、からかってんだ…。 7 木村さんと皆川さんが帰った後に、看護婦の高坂さんが戻ってきた。 何か用なのかな?点滴はまだ残ってるけど。 「えっと、けがの説明は、明日先生が来てからしてくれるから」 「あ、はい」 「それと、いまさらな説明だけど、これがナースコールね。何かあったら押して」 ベッドの頭のそばにあったスイッチを僕に見せた。 「それと、さっきの2人のことだけど」 高坂さんの声のトーンが落ちた。 あの2人がどうかしたんだろうか? 「はい?」 「面会時間がだいぶ過ぎてるのよ。来たこと、内緒ね」 小声でそう言った。 「はあ…」 そういえば、今、何時なんだろう? 「ところで、今何時です?」 「12時よ」 「え…?」 言われてみれば、月が南の空にあった。 「僕、そんなに気を失ってたの…?」 「そうみたいね。昨日の事故の疲れとか、今朝のこととか、精神的なものとか、麻酔とかいろいろあったからじゃない?」 「はあ」 ん?麻酔…? 「今はとにかくゆっくり休まないと」 「はい…」 そうは言っても、今の状態だと寝れそうにない。 「点滴は、今日はこれが最後だけど、寝てていいわよ。後で取りにくるから」 点滴で思い出した。僕、手術の予定だったんじゃ…。 「あの、手術は…?」 「したわよ」 「え?」 「予定より遅れて夕方だったみたい。あ、意識なかったのなら、自分のあそこ見てショック受けないでね」 「ど、どういうことでしょう?」 「見れば分かるわ」 な、何なんだろう…? 「ところでさあ。聞きたいことがあるんだけど」 高坂さんがイスを持ってきて、ベッドの横に腰かけた。 「な、なんでしょう?」 「ゆみちゃんて、誰?」 「はい?」 「ゆみちゃんよ。寝言で呼んでたわよ。でも、三上くんの彼女って、確か麻奈美、よね。もしかして、ふたまた?」 「なわけないでしょ!」 否定してみたものの、「ゆみちゃん」に心当たりがなかった。これでは高坂さんの疑いを晴らすこともできない。 「あの麻奈美とは別れるんだろうから、もう問題ないわね」 高坂さんがいたずらっぽく笑った。 「別れるのは、たぶんそうでしょうけど、でも僕、ゆみちゃんてのも知りませんし、ふたまたもしてません」 「そう?じゃあ、そういうことにしておいてあげるわ」 まったく、この人は…。 「でも、三上くんの後見人って人、すごいのね。あの北村さんをやり込めるなんて…。みんなのうわさになってるわよ」 「木村さんね。あの人、一応、弁護士ですから」 「へえ、弁護士なの〜」 高坂さんの目があらぬ方向を眺めて笑っていた。 「ダメですよ。あの人、ちゃんと奥さんいますから」 「え〜妻帯者なの〜?もったいない」 ほんとに何考えてんだか、この人は…。 「もう1人の皆川さんとかは?」 ためしに高坂さんのノリに便乗してみる。 「革ジャンの人?う〜〜〜ん、ちょっとカッコいいんだけど、どこか幼く見えるのよね〜」 じゃあ僕は? 聞いてみたいんだけど…。 そのつもりでノリに便乗したんだけど…。 胸につっかえて出てこなかった。 8 次の日に、主治医の先生が来て、僕の右足に鉄板を入れて固定しているとか、いつ頃それを取り出すかとか、いろいろ説明してくれた。 あまりのことに、ほとんど聞き流していた。 それ以降は、トイレに行くのも不自由で、何もない入院生活が続いた。 バイト先からクビを宣告されたりもした。 まあ、仕方ないね。何ヶ月も入院じゃ。 大学も1年目から、留年かな? それはともかく。 高坂さんはあのとき、点滴がなくなるまで僕と話をしていたことや、時々僕のところへ遊びにきていたことが問題になって、かなりしぼられた、らしい。 本人はけろっとしていて、私服に戻ってから遊びにくるようになった。 案外、僕はそのほうがうれしかったりして。 だって、高坂さん、結構ラフな格好してくるし…。 白衣の天使もいいけど、あのラフな格好って…すごいよ…。 あれ、挑発してるのかも…。 まさか、ねぇ…。 そんな感じで4週間が過ぎた。 テレビとマンガと高坂さん。 これだけが、退屈な入院生活の救いだった気がする。 その間、他に変わったことと言えば、2週間ほどで首が自由になり、昨日、胸のコルセットも外れた。 僕は首が自由になった時点で、病室から出て院内を歩き回るようになっていた。 その途中に耳にはさんだんだけど、やっぱり高坂さんの立場はかなり危ういらしい。 婦長さんと仲が悪くて、どうしても同じ時間に出勤することになったときは高坂さんが下の階へ行き、下の階から別の看護婦さんが上へくることになっているようだった。 他にも何か、問題があるようだった。 他の看護婦さんの噂話からすると、代わりの人が見つかり次第、クビになるんじゃないかってことだった。 そんな状態なのに、なんで火に油を注ぐような行動を取るんだろう? 僕への接し方で、そう感じずにはいられなかった。 でも、だんだんその理由も分かってきた。 あの天真爛漫で破天荒な行動も、理由があれば、少しは理解できる。 天真爛漫なのはもともとの性格だろうけど。 あれは、僕を励ましてくれていたんだ。 たぶん、僕はここへ運ばれてきたとき、今にも死ぬような顔をしてたんじゃないかな。 そう、あのときのように…。 え?あのとき…? 『まだ思い出してくれないの?』 え? また、あの声だ…。 あれからぜんぜん聞こえてこないから、すっかり忘れてた。 事故のときに『こっちよ』って逃げ道を教えてくれた声と同じだ。 誰なんだ? 問いかけてみても、返事はなかった。 何なんだろう…。あの声は。 首を回し、胸を大きく膨らませて背すじを伸ばし、一息ついた。 そしてもう一度考えてみる。 約束…?そうだ、約束したとか言ってた…。 ベッドの上で体を動かす。 コルセットで固定していたおかげで、僕の体は一回り、小さくなっていた。 あれから増えたところといえば、手術のためにそられた下半身の毛くらいなものだ。 あの高坂さんに剃られなかっただけ、マシかな? あの人に見られたら、恥ずかしくて仕方ない。 でも、誰が剃ったか分からないのも、少し怖いものがあるなぁ。 おっと、そんなこと考えてる場合じゃない。 う〜〜〜ん…。やっぱ、分からん…。 屋上にでも出て、気分転換するかな。 僕はベッドわきにおいてある松葉杖を取って立ち上がった。 コルセットがなくなったおかげで、だいぶ歩きやすい。 僕は個室を出て左に曲がり、ナースセンターの前にある階段へ向かった。 階段の隣にはエレベーターもあって、これを使えば屋上へ出られるんだけど、細くなった体を見ると、動かなきゃって思えて仕方ない。 だから、階段を使うことにしている。 ナースステーションの中に高坂さん…。 れ、令子さんがいた。 よし、今度から令子さんと呼ぶぞ! その令子さんが僕に気づいて小さく手を振ってくれた。 僕も手を振って答えて階段へ行った。 階段の上り下りもうまくなった。 今は誰かの肩を借りなくもて大丈夫だ。 といっても、貸してくれる人もいないけど。 屋上はいい天気だった。 この天気じゃ、まだ梅雨入りはしないだろうな。 いい天気なのに、誰も屋上にいなかった。 この時期の日差しは強いから、みんな避けてるのかも。 と思ったら、2人いた。 車椅子に乗った患者さんと、その車椅子を押す看護婦さんだ。 あの看護婦さん、確か、高坂…令子さんが4階で働くときに代わりにくる…遠藤…さん? 令子さんと違って、ポッチャリ系の人だ。 でも実は僕、あの人、嫌いなんだ。 どこが嫌いかと言われると困るんだけど、何か、とにかくいやなんだ。 患者さんはどんな人なんだろう? 今日は令子さんが出勤してるから、4階の患者さんだよな。あの人が連れてるんだから。 だったら、女の人…? 僕は回り込んで横顔だけでも見ようとした。 茶色に染めた髪が根元から黒く戻っている。 入院が長いんだ…。 目じりは上がっている。 鼻は低め。 あれ…? 細い唇。 広いおでこ。 麻奈美だ…。 そういえば、麻奈美の父さんが看護婦さん相手に大暴れしたとか、説教したとか聞いたなぁ…。 麻奈美の家って確か、産婦人科の病院…。 看護婦の教育がどうこうとか、言ったのかも。 車椅子の向きが変わり、僕から遠ざかっていく。 僕に気がついた様子はなかった。 その先は屋上の手すりの修理中で、だいぶ手前にロープを張って進入禁止にしてある。 なのに、看護婦さんがロープを持ち上げ、車椅子を進入禁止区域へ入れた。 え…? 嫌な予感がした。 僕は慌てて後を追った。 車椅子が手すりのない場所に止まった。 看護婦さんの後ろ姿が、笑っているように見えた。 何をしようとしてるんだ…? 『こんなやつ、死んじゃえばいいのよ…だって』 いつのまにか、僕の隣に10才前後の女の子が立っていた。 パジャマっぽい薄い服を着ているところを見ると、入院患者さんだろう。 「なんだって?」 僕は聞き返していた。 それと同時に、僕は走り出していた。 聞かなくとも、なんとなく予感があった。 今は何か話をしている様子だ。 まだ間に合うかもしれない。 松葉杖だって、使い慣れれば走れるんだ! 僕はロープをくぐった。 「きれいね…」 麻奈美の声が聞こえた。 辺りの景色を見ているみたいだ。 「端に寄ればもっときれいよ」 看護婦さんが車椅子を押した。 『誰もいないわ、今よ。だって』 僕の後ろから、女の子の叫ぶ声がした。 そんな声出したら気がつくじゃないか! 気づいて急に突き落としたらどうするんだ! でも、看護婦さんはまるで気がつかないかのように行動していた。 車椅子を強く押し出す。 クッ、間に合って! 僕は片方の杖を槍のようにして、飛び込んだ。 杖が車椅子の車輪に入り込み、急ブレーキがかかると同時に方向が90度回転した。 「きゃぁっ!」 麻奈美の悲鳴が上がっていた。 顔を上げると、車椅子はすんでのところで止まり、麻奈美はその車椅子の手すりにしがみついていた。 「な、何するの!」 看護婦さんが怒ったような顔をした。 「患者さんを突き落とそうとするなんて!」 え? 僕は何も言えなくなってしまった。 そこへ麻奈美が追い討ちをかけてきた。 「酷い…。私をあんな目にあわせておいて、こんな仕打ちするなんて…」 「ち、ちがう…」 「いいえ、違わないわ。私、見たのよ。あなたが後ろから突き落とそうとするのを。だから慌てて向きを変えてんだから」 この看護婦さん、何言ってるんだ…?後ろなんてまったく見てなかったくせに…。 『そうよ。また邪魔するなんて…』 え…? 僕はゾッとした。 この声は、事故のときにいた…。 車椅子の先に、女の人が立っていた。 そうだ。あの人は車で事故ったときにいた女の人だ…。 「ここにいたくないわ。看護婦さん、早く中へ」 麻奈美が看護婦さんをせかした。 「覚えてらっしゃい!お父さんにお願いして、酷い目にあわせてやるんだから!」 麻奈美はそう言い残して去っていった。 僕は女の人から目が離せなかった。 麻奈美の捨て台詞なんて、どうだっていい。 その女の人が屋上に降り立ち、僕をにらみつけたまま、麻奈美の後を追った。 蛇ににらまれたカエルのよう、とはこのことかも。 僕は息もできないくらい、固まっていた。 女の人の姿が見えなくなって初めて、呼吸ができた。 「はぁはぁはぁ…」 僕は大の字に寝そべり、空を眺めた。 いったい、あれは何なんだ…? 『だいじょうぶ?』 さっきの女の子が僕の顔を覗き込んだ。 「あ、うん。だいじょうぶ。ありがとう」 『ほら、立って』 女の子が僕の手を引っ張ってくれた。 そして肩を貸してくれて、僕は立ち上がることができた。 さらに、転がった松葉杖を拾って渡してくれた。 「ありがとう。本当に助かったよ」 『クスッ。いいの』 女の子が笑った。 なんか、あったかい…。 ふう…。 とはいっても、和んでる場合じゃないな。 どうしよっか…。 とりあえず、木村さんに連絡して、対策を立ててもらおう。 酷い目にあわせてやるとか言われてたような気がするし。 『あの女の人のことも調べてもらったら?』 女の子が言った。 そうだな…。 麻奈美と何か関係があるのかも。 そういえば、皆川さん、探偵だって言ってたな…。 よし! 僕の行動は決まった。 9 外が夕闇に包まれ、大きな月が顔をのぞかせた。 あれからすぐに駆けつけてくれた木村さんと皆川さんに、僕の知っていることを全て話し、根掘り葉掘り、質問されていた。 途中に麻奈美の父さんが怒鳴り込んできたけど、皆川さんがあっさり部屋から押し出して、木村さんが話をつけてきてくれた。 皆川さんに僕が、 「よく追い返せたね」 っていうと、 「ふん、男は度胸とハッタリだ。これがありゃ、何だってできる」 そう言ってタバコをくわえていた。 木村さんが話をつけて戻ってきてから、話の続きをした。 そして今にいたった。 「一つ、確認させてくれ」 木村さんが窓の外を眺めながら言った。 「なんですか?」 「お前、小さな女の子が今もこの部屋にいるというんだな?それが見えるんだな?」 「そ、そうだけど…。え、見えないの?この子が…」 僕の隣に、あの女の子がちょこんと座っていた。 「弘樹。10年前のこと、覚えてるか?」 木村さんが急にそんなことを聞いてきた。 「え?父さんと母さんが死んだときのこと?」 「それもだが、その後のことだ」 「死んだときのことは思い出したけど、その後…?」 「そうか」 木村さんが振り返った。 「お前はあのときのことをなんとしても思い出せ。それが解決への近道だ」 「は、はあ」 「龍也」 木村さんが不意に、ジッポライターで遊んでいた皆川さんに声をかけた。 「十中八九、あの親父は訴えてくる。徹底的に洗うぞ。あの親父をグーの根も出ないほどに叩き潰すチャンスだ!」 木村さん、すっかり燃えてる。 「龍也は北村家を徹底的に洗ってくれ。どんな些細なことでもいい。それと、看護婦の遠藤についてもだ」 「了解」 「俺は院内での聞き込みをやっておく」 「何々?捕り物?」 そこへ看護婦の令子さんが入ってきて、目を輝かせて話に割り込もうとした。 「女には関係ない」 皆川さんがにべもなくあしらった。 でも、それでくじける令子さんでもなかった。 「院内禁煙!」 皆川さんの口からタバコを引ったくり、ごみ箱へ叩きつけた。 「いや、看護婦さん、ご迷惑をおかけします」 木村さんがやんわりとわびた。 「ハンッ!おい、弘樹!今度何かあっても、度胸とハッタリで乗り切れ!いいな。男は度胸とハッタリだ!」 皆川さんは令子さんをにらみつけて、部屋から出て行こうとした。 その背中に浴びせるように、令子さんが言う。 「な〜にが男は度胸とハッタリよ!弘樹くん、あんな単細胞を見習っちゃ、いけないわよ。困ったことがあったら、私がやさ〜しく、介抱してあ・げ・る」 「おえぇ〜!」 皆川さんだ。 「気持ちわりぃ!止めろ!」 「なんですって!」 「女は黙ってりゃいいんだ!この男女!」 「にゃにおぉ!この時代錯誤やろう!」 「なんだとぉ!」 「あんたなんて、江戸時代の産物だわ。とっとと江戸時代に帰ったら?」 「ハン!ブスが!」 「なんですって?わ〜たしのど・こ・が、ブスなのよ!」 令子さんが体をくねらせてポーズを取る。 こ、これはこれで、色っぽいかも…。 ラフな令子さんも捨てがたいけど、しなをつくった白衣の天使も捨てがたい…。 「おうおう、そうやって患者に媚びてろ!」 「あ〜ら、妬けるのかしら?自分には相手にしてくれる女の人がいないからかしら?」 「のぼせ上がるな!女の1人や2人や3人や4人…」 「いないんでしょ」 「いるに決まってんだろが!てめえみたいなのに慰めてもらう必要もないし、それじゃ、慰みにもならんわ!」 「慰み物になんかして欲しくないわね!」 2人がどんどん詰め寄っていた。 「まあまあまあ」 木村さんがそう言って、2人を部屋の外へ追い出していった。 少しして廊下から、 「何だと!勝負するのか!?」 「いいじゃない?勝負してやろうじゃない!」 そんな具合に叫んで、どっかへ行ったようだった。 「いいんですか。ほっといて」 あまりの勢いに呆然としてたけど、勝負はちょっとまずいんじゃないかな。 「ほっとけほっとけ」 木村さんは冷めたものだった。 「でも」 「あいつもあれで男だ。女に手を上げるようなやつじゃない」 「そう、ですか…?」 そういう問題なんだろうか…? まあ、僕じゃどうにもできないし、仕方ない。 それにしても、令子さん、何しに来たんだろ? 「俺も入院しようかな」 不意に、木村さんが呟いた。 「な、なんで?」 「面白そうじゃないか」 何なんだか、この人たちは…。 10 みんながいなくなって、女の子と2人だけになった。 「キミ、誰なの?」 僕は触れることも見ることもできるのに、みんなには見えない存在…。 女の子は悲しそうな顔をしていた。 『まだ、思い出してくれないの?あたしのこと』 あったことあるの…?どこで…? 『思い出せないんだね』 女の子が呟いた。 あれ? もしかして、僕の思ってること、聞こえてる? なわけないよな。 ………。 自分がロリコンで、どっかで手を出してあんなことやこんなことをしていた、てなこともあるわけないし…。 実は僕の子供、なわけないか。まだ経験ないんだもん。 はぁ、むなし。 『聞こえてます。しっかりと』 女の子が顔を背けていた。 「げっ…」 き、聞こえてた?今のが…。 『もう…、ヒロくんのエッチ』 「うっ…」 『前はそんなことなかったのに、なんで男の人ってそんなにエッチになるんだろう…』 前は…? いつから僕のそばに…? 『ずうーーーーーっと前から』 なんか、怒ってるみたいだ…。 誰なんだ?いつから…? その前に、この子はいったい…。 冷静に考えてみよう。 僕以外の人には見えず、触れず。 これから考えられるのは、僕の中にある別人格。妄想。後は、幽霊…。 幽霊…? (あんな気味悪い子、引き取りたくないわ) そうだ…。僕、幽霊が見える子供だったんだ。 でも、なんで見えなくなってたんだろう…? いつから見えて、いつから見えなくなっていたのかな? 今日の、あの女の人とこの女の子は、幽霊だろう。たぶん。 事故のときも見えたな。 そうだ…。父さんと母さんが死んだときもだ。 他には…。 僕はふと、窓の外を見た。 満月が空の端から少しずつ上がってきている。 あ。 事故のときも確か、満月…。 父さんと母さんが死んだときも…。 そうか。僕は満月の前後にかけて、幽霊が見えるんだ。 それ以外のときは見えないか、見え難くて、見ようとしなければ分からなかった…。 そう考えるとつじつまがあう…。 そういえば…。 「ああ!麻美とデートのときに邪魔した女の子!」 思わず指差して叫んでた。 でも女の子は目の下に指を当ててアッカンベーをしている。 「紀子とときもそういえば…。夏美のときも、美由紀のときも…」 そうか、ぜーーーんぶ、こいつが邪魔してたんだ。 こいつ、悪霊だったんだ…。 『そんな分けない!』 「でも邪魔はしただろう?」 『ぶぅ…』 まったく…。 「で、結局誰なんだ?」 『もっと前を思い出してよ』 もっと前、か…。 (10年前のこと、覚えているのか?) そういえば、木村さん、そんなこと言ってたな…。 10年前といえば、父さんと母さんが死んだときのこと…。 僕はなんとか湖から出ることができたけど、そのまま意識を失って、気がついたら病院にいた。 僕のけがはたいしたことなくって、1日検査入院しただけだった。 それから、父さんと母さんの葬式があった。 親戚のおじちゃんおばちゃんが集まっていた。 僕が父さんの部屋にいたら隣の部屋に集まってきて、話し合いをはじめてた。 「兄貴のこの土地、どうするんだ?」 「株もやっていたわね」 誰かがそんなことを言っていた。 「相続のことはどうなる?」 「やっぱり、あの子が全部相続するのかしら?」 「だったら、あの子を引き取れば、この土地も株とかも貰えるわけだ」 「あの子いらないけど、この家、欲しいわね。株あげるから、あんたんところで引き取りなさいな」 「私も嫌よ。あんな気味の悪い子、引き取りたくないわ」 「そうだ。兄さん夫婦が引き取ってくれよ」 「な、なんでよ。私はいやよ」 「ちょっと待て、この家と株、もろもろあわせて財産、どれくらいあるんだ?」 「億は超えてるんじゃないかしら?」 「それに子供がついてくるだけ…」 「それがいらないのよ。あなた」 「財産だけ貰うこと、できないのかしらねぇ」 そんなことを話しつづけていた。 そうか。ぼく、いらない子なんだ…。 『そんなことないよ』 でも…。 僕が振り向くと、そこに同い年くらいの女の子がいた。 病院で出会った女の子だ。 僕を心配してくれて、一緒に来てくれた。 『あんなの、かってに言わせておけばいいの。きっとヒロくんのみかたが来てくれるから。ね』 「てめぇら、葬式のときに何考えてやがる!」 女の子の言ったとおり、誰かが隣の部屋に怒鳴り込んできた。 『ほらね』 うん、でも…。 『じゃあ、あたしがずっとそばにいてあげる』 ほんとうに? 『うん!だから、一生けんめい、生きていこう』 いつもいっしょにいてくれるの? 『うん。ずーーーーと』 ずーーーーーーとずーーーーーっと? 『うん。ずっとずっとずーーーーーっと』 やくそくだよ?ゆみちゃん。 『うん!あたし、ユウレイだからうそつかないもん!』 11 「あーーー!」 僕はまた、女の子を指差して、大声を上げていた。 『な、なに?』 「あのときのゆみちゃん…」 すると、女の子は目を輝かせた。 『思い出してくれたんだ!』 「ゆみ、ちゃん…?」 呟く声が聞こえた。 声のほうを見ると、令子さんが顔だけをのぞかせて…、あれは、疑いのまなざし? 「な、何やってるんですか?」 「そっちこそ何やってるのよ。1人で大声出したりして」 令子さんがこっちへやってきた。 私服に着替えている。 「仕事、終わりなんですか」 「そよ」 「電車の時間とか、いいんですか?」 「いいの。私にはかわいいスティードくんがいるから」 そう言ってイスに腰かけた。 「スティード、くん?」 「私のバイクのこと」 へぇ〜バイク乗りだったんだ…。 「ところでさ。1人で何やってたの?」 そう言われて、僕はゆみちゃんと顔を見合わせた。 いつもからかわれてるし、今日は反撃だ! 「1人じゃないですよ。ここにゆみちゃんがいるんです」 「ど、どこに?」 ほら、ゆみちゃん、お願い。 するとゆみちゃんはうなづき、ベッドから降りた。 令子さんの隣へ行き、そっと足に触れた。 『こんばんは』 「わぁ!」 ゆみちゃんが声をかけると、令子さんが飛び跳ねた。 「あははははっ」 僕はおかしくて、お腹を抱えて笑い転げていた。 「やったわねぇ!どんなトリック使ったの!」 令子さんが詰め寄ってきた。 「クククッ…」 僕は笑い転げてて返事ができなかった。 ゆみちゃんがまた令子さんに触れた。 『トリックじゃないよ』 「わッ、またよ…。どこ!どこに隠してるの?」 令子さんがベッドに上がってきて、僕に覆いかぶさるように僕の背中を覗いた。 「ここかぁ?テープでも隠してあるんでしょう?」 あ…。 僕の目の前に、令子さんの胸があった。 目のやり場に困るどころか、視界のほとんどがそれで埋まってしまっていた。 タンクトップの胸元が広がり、肌色のそれが見えていた。 まるで、今にもこぼれてきそうなほどだ。 あれ…?ブラ、してない…? 令子さんの動きに合わせてゆっさゆっさとゆれていた。 『こらっ!ヒロくん!何見てるの!』 ゆみちゃんが怒っている。 でも僕は、目を離すことができなかった。 『はなれなさ〜い!』 ゆみちゃんが叫びながら、何かやっていた。 「わっ」 急に令子さん倒れてきて、僕を押し倒すような格好になった。 ゆみちゃんが令子さんの足を引っ張ったみたいだ。 あったかくて、柔らかい…。 「びっくりした〜。あ、ごめんね」 令子さんが僕から離れようとする。 僕は思わず、令子さんの体に手を回して離れないようにした。 あ、何やってんだ…僕は…。 でも、離れたくない…。 「弘樹、くん…?」 令子さんが首をかしげている。 そ、そうだ。このチャンスに…。 「あ、あの、ぼ、僕…」 僕は思い切って告白してみようと思った。 『だめぇ!』 そこへ、ゆみちゃんが割って入ってきた。 文字通り、僕と令子さんの間の狭いところへ入ってきて、両手で引き離そうとしていた。 「ああっ!」 令子さんが大きな声を上げた。 あれ?あの目線…。ゆみちゃんを見てる? 令子さんが僕の手からするりと抜けて体を起こした。 「あらら?」 今度は腕組みをして考えているようだ。 うう。せっかく告白するチャンスだったのに…。 僕が体を起こしてもう一度、なんて思っていると、ゆみちゃんが僕の肩を押さえ込んだ。 『スケベ!』 ちょ、ちょっと…。また邪魔するつもり? 「ちょっと失礼」 急に、また令子さんが僕の上に重なってきた。 『何するの!はなれなさい!』 また、ゆみちゃんが僕と令子さんを引き離そうとする。 止せよ。令子さんから僕にこうしてきてるのに…。 でも、女の人に押し倒されるのって、なんか、ドキドキ…。 と思ったら、また令子さんの目線はゆみちゃんのほうへ向いていた。 「ねねねね」 令子さんが僕に体をくっつけたまま、手招きして、ゆみちゃんを指差した。 「女の子がいる!」 いや、だから…。 え? 「み、見えるんですか?」 「この子が、ゆみ、ちゃん?」 『そうです。だからはなれてっ!』 ゆみちゃんが必死に僕と令子を押した。 でもびくともしない。 令子さんが自分から、体を起こして離れた。 「フム…」 頷いたかと思うと、また体をくっつけてきた。 「な、何やってるんですか?」 「どうやら、弘樹くんと引っ付いていると見えるみたい」 令子さんはゆみちゃんを見つめたまま、答えた。 『もぉ!知らない!ヒロくんのエッチ!』 ゆみちゃんが怒って離れていった。 「あ、見えなくなった…」 令子さんが僕に体を引っ付けたまま、考え込んだ。 「ねね。ゆみちゃん、もう一度、弘樹くんと私に触ってみて」 令子さんが適当な方向に向いて、ゆみちゃんに声をかけた。 ゆみちゃんは別の場所にいたところをみると、本当に見えなくなったみたいだ。 ゆみちゃんはふてくされていて、ぜんぜん言うことを聞いてくれなかった。 「ゆみちゃん、僕からもお願い」 でも、後ろを向いたまま、動かなかった。 「ごめん、ゆみちゃん、怒っちゃったみたい」 僕が代わりに、令子さんに謝った。 「そう…」 令子さんが残念そう。 体を起こして僕から離れた。 あ、もっと引っ付いてたい…。 令子さんはイスに戻った。 僕の心の声なんて、聞こえてないもんなぁ。 まあ、聞かれないほうがいいけど。 「でも、分かったわ」 「なにが?」 僕も体を起こした。 「ゆみちゃんが見える方法」 令子さんが改まった。 こんな真剣な顔もするんだ…。 「ゆみちゃんと弘樹くんが私に触れているとき、私もゆみちゃんを見ることができるようになるのよ」 なるほど…。 だらか、僕にくっついたり離れたりしてたのか。 そういえば、もともとゆみちゃんは人の心を読んだり、相手に触れて心に呼びかけたりできるんだよな。 そして、僕は幽霊を見たり、幽霊に触れたりできる。 『それだけじゃないよ』 後ろを向いたまま、ゆみちゃんが僕の考えに割って入った。 『ヒロくんはたぶん、ユウレイをやっつけることもできると思う』 やっつける?僕が? 『うん。だって、この前、ヒロくんのお父さんとお母さんがじこに合うところを見てそう思った』 い、いつみたんだ?ゆみちゃんて、事故の後で僕と会ったんだよね? 『ほら、この前、じこのこと思い出して、ユメに見ていたでしょ?あのとき、あたしもいっしょに見ていたの』 な〜るほど。 でも、どうして? 『ほら、ユウレイの女の人に首をしめられたとき、どうやったのかは分からないけど、女の人の顔にキズをつけた…』 「ああ。そういえば…」 思わず僕は、口に出して頷いていた。 「何を話しているのかな?」 令子さんが不満そうだ。 「あのさ、お願いがあるんだけど」 令子さんが僕を見つめた。 うっ…。何でも聞いてしまいそう…。 「なんでしょう?」 「ゆみちゃんにね、私のひざの上にきてもらえないかな?そうすれば、ゆみちゃんの声は聞こえるから、2人の会話が聞こえるわけでしょ?」 う〜ん、そうかもしんない。 でも、令子さん、怖くないんだ…幽霊とか。 それとも、まだトリックだと思ってるとか。 まあいいか。 それで、どうする?ゆみちゃん。 「できれば、3人でくっついて話をするのが、姿が見えていいんだけど」 令子さんがさらに言った。 あ、僕もそれ、賛成。大賛成。 あれ?ゆみちゃん? ゆみちゃんは何も言わずに令子さんに近づき、ひざの上にのった。 「そう、3人ではくっつきたくないの?とにかく、ありがとね」 令子さんが急にそんなことを言った。 途中、意味ありげに僕の顔を見ていた。 な、なんなんだ? あ、ゆみちゃん!僕に聞こえないように話をしたな?何言ったんだよ! 『べっつに。いーーーだ!』 「もう1つ注文。弘樹くんは声に出してしゃべって。でないと、私に聞こえないから」 あ、う、うう。仕方ない。 「分かりました」 「ありがとう」 ゆみちゃんをひざにのせた令子さんって、すごく絵になる気がした。 令子さんて、お母さんが似合うのかも…。 「それで、何の話をしてたの?」 「ああ、それはですね。僕の力のことを」 「ちから?」 「そう。ゆみちゃんはそうやって、人の心を読んだり心に直接話かけたりできるんです」 「ふんふん」 「僕のほうは、幽霊を見たり、触れたりできる。で、ゆみちゃんが気づいてくれたんだけど、もしかしたら、僕は幽霊を退治する力もあるかもしれないってこと」 令子さんは僕の言うことに1つ1つ、うなづいていた。 「なるほどね。…ほら、じゃ、続けて続けて」 結局令子さんは、ただたんに、仲間はずれみたいで嫌だっただけなんじゃ…。今のこと、信じてないんじゃないかな…。 まあいいか。とりあえずは。 「でも、どうやったんだろう?ゆみちゃん、分かる?」 僕は声に出してゆみちゃんに聞いた。 ゆみちゃん相手に声を出すのって、なんか違和感。 『あたしたちって、気持ちしだいで強くなったり弱くなったりするから、ヒロくんの気持ちしだいなんじゃないかな?…あとは、月がかんけいあるとか』 「月…?」 「だってヒロくん、満月の近くじゃないとユウレイ見えないみたいだし、あたしの声も聞こえないみたいだから」 満月か…。 「ありえるな…」 「ねえねえ。その力って、訓練していつでも使えるようにはできないの?ほら、自転車乗るのも最初は練習が必要じゃない」 話を理解しているのか理解していないのか分からないけど…、令子さんて、鋭い気がする…。 「可能性、高いですね!」 『使えるようになったら、あの女の人もこわくなくなるね』 「女の人?」 「あ、麻奈美…北村麻奈美さんのそばにいた女の人の幽霊です」 「へぇ〜…。あ。そういえば、ね。屋上での事件、もううわさになっているわよ」 「げ…」 「殺人未遂犯になっちゃってるから。それと、いい忘れてたんだけど、病院からのお達し。この部屋から極力出ないようにって」 「ええ!?」 「個室はトイレもついているから、そんなには不自由しないと思うけど。病院側は部屋の前に警備員を置いて監視しようとかっていってるから、もっと状況が悪くなるかもよ」 うそだろう…。なんか、ショック…。 『あれは、かんごふのあの人がマナミをつきおとそうとしていたのを止めただけなのに』 ゆみちゃんが代わりに言い訳してくれた。 「看護婦?えっとあの部屋の担当は…」 「ほら、令子さんが下の階で仕事するときに代わりに上がってくる人」 「ああ、遠藤さん?」 「うん、ゆみちゃんがその遠藤って看護婦の心を読んで、僕に教えてくれたんだ」 「でも、その遠藤さんが、弘樹くんの犯行を証言しているのよ。それって、まずくない?」 「うっ…非常に、まずいです」 困ったなぁ…。 一応、木村さんや皆川さんにお願いしてあるけど…。 僕が身動き取れないってことは、麻奈美をあの幽霊から守れる人もいないってことで…。 「分かったわ。私が遠藤さんのこと、調べてみてあげる」 令子さんが急にそんなことを言う。 「え?でも」 「いいの。私も協力したくなったから」 「あ、ありがとう…。あ、でも、令子さんてクビに…。あっ」 言いかけて、僕は手で口を押さえた。 でも、ゆみちゃんが通訳したみたい。 おのれ…。なんとか2人の仲を裂こうとしてるな…。 負けないぞぉ! 「ああ、いいの。だいぶ前からクビは決まってることだから。それに、クビが決まってるから、楽にできるってもんでしょ」 令子さんは優しく笑ってくれた。 「でも、あまりむちゃはしないで。令子さんに何かあったら、僕…」 「大丈夫。相手が見える人間だったら、私、男にだって負けないんだから」 令子さんが拳を作って殴る仕草を見せた。 「あ、皆川さんにも勝ったの?」 「ああ。あれ?う〜ん、引き分けかな。あの人、見かけによらず、根性あったわね」 「引き分けって、令子さんどっかけがでもしてるの?」 「え?してないしてない。殴ったのは私だけだったから。心配してくれてたの?ありがとう」 『ヒロくんはレイコのおっぱいが心配なだけ』 ゆみちゃんがそんなことを言う。 「な、何言ってるんだ。ゆみちゃん」 僕が慌ててとりつくろうとしても、どうやらゆみちゃんと令子さんは僕に聞こえないように何か話をしているようで、聞いてくれなかった。 「な、何を話しているのかな?」 「男の子には関係のない話よ」 令子さん、にべもない…。 「ねぇ」 『ね〜』 2人して…。 いんだいんだ。どうせ僕は令子さんのおっぱいが気になるスケベなやつさ。 ………。 いじけてみても、なんかむなしい。 「いいのよ。弘樹くんは男の子なんだから、異性が気になって当然よ」 令子さんがいきなりそんなことを言った。 またゆみちゃんが伝えたなぁ! 「ゆみちゃん!」 でもゆみちゃんは、反省するどころかアッカンベーをしていた。 令子さんはああ言ってるけど、絶対僕の印象、下がってるよ。きっと。 またゆみちゃんの思うがままなのか…。 いんや、負けないぞ! 今度こそ、令子さんとはちゃんと、お、お付き合いまで…! 「何?決意しているの?」 令子さんのその一言には、さすがに凍りついた。 「ゆみちゃん…!」 『今の、あたし、何も言ってないよ』 ヌウ…。 「とにかく、遠藤さんは私が調べてみるから、弘樹くんは自分の力の制御を練習してみたら?どうせ、ここから出られずに、ヒマなんだから」 令子さんはどう解釈したのか分からないけど、そう言ってくれた。 そうだな…。僕は練習しておかなきゃ。 「令子さんも無理しないで。木村さんや皆川さんにもお願いしてあるから」 「うん。大丈夫だって。まっかせなさ〜い!」 なんか、頼もしい…。 後は、麻奈美についている幽霊が何なのか分かれば、もう少しやり方もあるかも…。 「令子さん、木村さんに連絡を取って、皆川さんに、北村麻奈美さんが生まれてから今までの間に彼女の周りで死んだ人がいないか調べてもらってください。とくに女の人が死んでいないかどうかを」 「オッケー。じゃ、早速電話しくるわ」 強い味方がついてくれた気がする。 僕は、自分の力をもっと理解して、使えるようにならなくちゃ。 12 でも、どう修行していいのか分からなかった。 1週間ほどして右足のギブスが取れた。 本当はリハビリセンターへ行ってリハビリを受けなければいけないんだけど、僕は部屋から出してもらえず、リハビリセンターが終了した夜に、持ち運べる機材を持ってきて、部屋で受けることになった。 僕を担当する看護婦も、令子さんだけになった。 食事を運んでくるのも、シーツを換えにくるのもぜーんぶ、令子さんだ。 そのせいか、令子さんは看護婦さんのローテーションから外れてずっと日勤になったって、喜んでたけど。 お風呂も入れないから、令子さんが体を拭いてくれるんだけど…。 令子さんに拭いてもらうのって、うれしいんだけど、恥ずかしい…。 なんかもう、体の隅から隅まで全て、令子さんに知られてしまったような感じで…。 もうお婿にいけないわ…。 『バッカじゃないの!』 わっ! ゆみちゃん…。 そういえば、結局練習も何も、見えるんだよな。今も。 『じゃ、今度は攻撃してみて』 やだ。 『なんで?』 だって、僕だって女の子に手を出すような趣味はないよ。 『何それ』 とにかく、ゆみちゃんにけがさせたくないだけ。 『ふ〜ん。やさしいんだぁ』 ゆみちゃんはそう言うと、僕の腕にしがみついてきた。 ちょっと…。 ま、いいか。 外を眺めると、雨が降っていた。 梅雨入りしたとかなんとか。 そのおかげか、右足がジクジク痛い。 はあ…。早く令子さん、来てくれないかなぁ? 「イタッ!」 ゆみちゃんが僕の腕をつねっていた。 なんで僕にだけ、ゆみちゃんはこうやって触ったりできるんだろう? ………。 「なんか、廊下のほうが騒がしくない?」 『さあ?』 「見てきてくれてもいいんじゃない?」 『ヤダ』 最近のゆみちゃんは僕に引っ付いてはなれない。 ゆみちゃんがもう10歳年をとってれば、これはこれでいいもんがあるんだけどなぁ…。 「イッタァ!」 『スケベ!』 うるさいやい。 そういえば、今日、皆川さんが来る予定だったような気がする。 木村さんにもお世話になった。 あれから警察の人が来て、いきなり尋問されるところだったのを、木村さんが撃退してくれた。 そのおかげで、部屋の前の警備員はいなくなっているそうだ。 そうだ。警備員もいないんだし、ちょっと外を見てみようか…。 『止めたほうがいいんじゃない?』 「じゃ、じゃあ見てきてよ」 『いやだもん』 これだからもう…。 「だから、痛いって」 ゆみちゃんがまた僕をつねってきていた。 僕はゆみちゃんの手を取って、止めさせた。 こうしていると、生きている子供と接しているのと、まるで違いがない。 『もう子供じゃないもん』 子供でしょう。 『いじわる』 意地悪で結構。 だから外を見てきて。 『ヤダ』 堂々巡りだった。 でも、見に行く必要もなかった。 すぐに、何があったか知らせが来たから。 13 その場を見れなかったのが、残念だ。 皆川さんが推理ショーをしてたんだって。 何の推理かというと、えーと、前から看護婦さんのロッカールームからお金やら貴金属やらが盗まれてて、今までは全部、令子さんのせいにされていた。 前から問題があるように見えたのは、このことだったんだ。 でも、実際の犯人は、もちろん令子さんじゃなかった。 盗難にあった日は全て、令子さんが4階で働いていたときだった。 令子さんは4階で働くときは4階のロッカールームで未使用のものを使っていたので、わざわざ5階に行って犯行に及ぶには無理があるとかなんとか…。 しかも、犯行がすべて、令子さんが4階に行ったときに行われていることから、皆川さんは別の人物を上げた。 令子さんの代わりに5階へくる看護婦さんで、僕を殺人未遂犯に仕立て上げてくれたあの看護婦さんだ。 もちろん、そんなこと、本人が認めるわけがない。 だけど、皆川さんはあの未遂事件の件に絡んであの看護婦さんを調べるように木村さんに頼まれていたので、いろいろ調べて、動機と、盗品売買の証拠までも見つけてくれた。 何でも、あの看護婦さんにはヒモがいたんだって。全部貢いだり生活費に当てていたとか。 証拠を突きつけたら、全部犯行を認めるかと思ったら、 「これは誰かの陰謀よ!」 とか言い出して、逃げ出した。 それで騒ぎになっていたって。 ところが、事はこれだけでは終わらなかった。 木村さんも来て、話を聞くと、麻奈美の殺人未遂事件の捜査責任者と病院の責任者を僕の病室へ呼びつけた。 んで、今、僕の病室には、木村さん、皆川さん、令子さん、医院長と婦長、警察の人が2人にゆみちゃんと僕がいた。 これだけ人がいると、さすがに狭いなぁ…。 「さて、単刀直入にいきましょうか」 木村さんが切り出した。 「北村麻奈美殺人未遂事件の容疑者は、まだこの少年ですか?」 「当然です。目撃者もいるではないですか」 医院長も強気だ。 「当初の予定通り、彼には事情聴取を受けてもらいます」 警察の人も、だ。 大丈夫、なのかな? 「はて、おかしいですね。どんな目撃証言です?自分の後ろから彼が突き飛ばそうとした?正面を向いていて自分の背後を見ることができるなんて、器用な人がいたものですね」 木村さんがそう言って、皆川さんに目配せした。 「病院内において、屋上のあの位置が見える病室で聞き込みをした結果、目撃者が多数いました」 皆川さんが木村さんの代わりに口を開いた。 懐から手帳を取り出した。 「看護婦が車椅子を押していた。後ろを振り向いた様子はなかった」 皆川さんは一呼吸置いて、また手帳を読んだ。 「手すりのないところへ車椅子を押していくから、危なく思っていた。そこへ少年が飛び込んだ」 「彼が突き落とそうとした、と証言したのは、どなたでしたか?」 木村さんが婦長に詰め寄った。 「か、看護婦の遠藤さんです」 「そう。車椅子を押していた人物です。そうすると、おかしいですね。手すりのない危ない場所だというのに、前を確認せずに車椅子を押し出していたんでしょうか?」 木村さんが窓に近づいていった。 「だとしたら、看護婦の行動にもかなり、問題があったといえます。また、事件現場はロープで立ち入りできないように遮断し、立ち入り禁止の札も掲げてあった」 木村さんが振り向いた。 木村さんの仕事って、こんな風にしてるんだ…。 「あのロープを誤って越えた、などということはありえない。ロープを持ち上げないと車椅子は通りません。看護婦であれば、立ち入り禁止であることは病院より通達を受け、知っていた、そうですね」 不意に婦長を指差した。 婦長が医院長の顔をうかがう。 「ここは法廷ではありません。どうぞ、相談なさってお答えください。ただし、この事件が裁判になれば、もちろん三上弘樹が犯人とされれば、こちらから裁判で争いますが、その場では、そのようなことは通用しませんよ」 婦長、固まっちゃったみたい。 「みんなに通達してありました。ロープから出ないようにしっかりと」 婦長の声が震えていた。 「ありがとうございます」 木村さんは、今度は警察の人に向かった。 「問題の看護婦は先ほど、窃盗容疑で逮捕されましたね」 「ええ」 さすがに警察の人は、動じてないみたいだ。 「遠藤容疑者は405号室を担当する看護婦でした。これに間違いはないですね?」 「はい」 婦長が答えた。 「405号室は被害者の北村麻奈美が入院しています。すでにこの病院内でも有名になっていますが、北村麻奈美の父、北村宗雄氏は看護婦の態度や対応に対して、かなり激怒していた、そうですね?」 「は、はい」 また婦長が答えた。 「北村宗雄氏が看護婦に手を上げたこともありますね?」 「はい」 「その相手が遠藤容疑者だった…」 「はい…」 また婦長の声が震えだした。 「北村宗雄氏に怒られ、暴力をふるわれたのは主に、遠藤容疑者ですね」 「ええ、被害にあったのは彼女だけです」 「北村宗雄氏は、北村産婦人科の医院長をなされています。看護婦の育成にも、熱心だったようです。ところが、北村宗雄氏は行き過ぎた教育を行った。しかも、自分の医院ではなく、娘の入院する病院で」 木村さんが警察の人に近づいた。 「何が言いたい」 警察の人が逆に詰め寄った。 「遠藤容疑者が北村宗雄氏に恨みを抱き、娘に手を出した、とも考えられます」 「はっ。ばかばかしい」 「では、なぜ立ち入り禁止区域に被害者を連れ出したのでしょう?」 「それくらいでは動機にも証拠にもならん。よくそれで弁護士ができるな」 木村さんが警察の人に背を向けた。 「その言葉、今は受け流しておきましょう」 木村さんは再び婦長に詰め寄った。 「婦長さん。北村麻奈美の症状は、何週間も入院し、車椅子で生活しなければならないほど、酷かったのですか?」 この質問に対し、医院長が割って入った。 「そのことについては私から話そう」 「どうぞ」 木村さんがうながす。 「彼女のけがは左足の骨折と首のむち打ちで、リハビリも含めて2ヶ月ほどのものでした。ところが術後、原因不明の虚脱感から、体を動かすこともままならない状況に陥っています。ですが、我々は適切な処置を…」 「処置について追及するつもりはありません」 木村さんは皆川さんの隣へ行ってうなづいた。 すると、皆川さんが箱を出した。 小さなクーラーボックスだ。 そのふたをあけて見せた。 「婦長さん、これが何だかわかりますか?」 婦長さんの前にクーラーボックスを持っていき、中身を見せた。 「これは、点滴液です」 皆川さんが隣の医院長にも見せた。 「医院長、それは何の点滴でしょう?」 「これは、ただの栄養剤です。手術前や術後、あるいは、食事がのどを通らない患者に点滴します」 「では医院長、これはその点滴の成分を検査した結果です」 木村さんが一枚の紙を取り出し、医院長に手渡した。 「こ、これは、筋弛緩剤…」 その答えを聞いた木村さんが手袋をして、点滴袋を持ち上げた。 「この点滴はある人物にされるものでした。それを皆川くんに手に入れてもらいました」 袋には油性マジックで、人の名前が書かれていた。 「婦長。ここに書かれているのは?」 「405の北村…」 「つまりは?」 「405号室の北村麻奈美さんへの点滴です」 木村さんは点滴をクーラーボックスへ戻した。 「刑事さん。これでも動機と証拠がないと、言い張るのですか?」 警察の2人は何もいえなかった。 「この件は、公にさせていただきます。聞き込みを怠り、無実の少年を犯人と決め付け、捜査を行わなかった警察の責任。院内での盗難事件を放置し、まったく関係のなかった高坂令子さんを犯人扱いにして、解雇にしようとしていた上、看護婦の不正行為に気がつかない管理体制。双方とも、大いに問題ありですな」 す、すごい…。 みんな口が開けなくなってる。 なんか、すっきりするなぁ。 僕の無実も証明してくれたし、令子さんのまで証明してくれて。 「ま、待ってください!」 医院長が慌てていた。 そうだよなぁ。このことが表に出れば、いろいろ問題になるだろうし。 「そうです。待ってください。捜査に影響します」 警察の人も慌てていた。 「無理です」 木村さんはにべもなかった。 「北村宗雄氏が先日、民事法廷に訴えを起こしました。北村麻奈美の殺人未遂に対しての訴えです。当方としましては、被告人の三上弘樹を弁護します。その折に、この証拠は使わせていただくことになります。それまでに、警察も病院も、対策をたててください」 「し、しかし!」 みんながいっせいに木村さんに詰め寄った。 「身から出たサビ、というものでしょう。ご自身で何とかなさい」 そう言うと出口へ行った。 「用件は以上です。さあ、被告人と打ち合わせがありますので、どうぞ、出て行ってください」 木村さんの言い方、すごく嫌味…。 木村さんも病院や警察の対応に怒ってたのかな? 14 何だかんだで、いつも木村さんに助けられるなぁ…。 10年前のあのときだって、遺産だ何だってもめる親戚から僕の養育権を奪って、僕の後見人になってくれた…。 今回も犯人にされそうだったのを、こうやって助けてくれて…。 「ありがとう、木村さん」 「ほんと、すごかったわ…。私の立場まで救って頂いて…」 令子さんも木村さんに見とれていた。 「これで終わりというわけではない。大体、本当に裁判になったらこんなに簡単には行かんぞ」 あれ? なぜか木村さんは怒っていた。 「でも、今ので向こうは…」 ドラマの結末みたいで、すごかったのに…。 「ばか。龍也でもないが、ハッタリをきかせただけだ」 「え?」 「俺の言った遠藤容疑者の話は推測に過ぎない。あげた証拠もつつけるあらが多い。あの程度では、弁護士や検事には通用しない」 「じゃ、じゃあどうして?」 先に知らせてしまえば、向こうに考える余裕と対策を立てる時間を与えてしまうじゃないか。 「今回の目的は、北村宗雄氏に訴えを取り下げさせることだ。医学界と警察から圧力がかかれば、あの男でも取り下げざるを得なくなるだろう」 「は、はあ…」 「それに、もしも裁判になっても…」 木村さんがそう言ってポケットから何かを取り出した。 あ、録音機だ。 「今までの会話を録音してある。証拠能力はないが、これをマスコミにでも流せば、世論が黙っていない。…ま、これは最後の手段ってやつだな」 「うわ…悪党…」 「ばかやろう!誰のためにやってると思っているんだ!」 「ごめん…」 実際の弁護士って、ドラマとぜんぜん違うんだ。 みんながみんな、こんな手を使っているとは思えないけど。 「ねえ、ちょっと気になったんだけど」 令子さんが改まっていった。 「なんですか?」 みんなを代表して僕が訊ねた。 「まさか、遠藤さんの窃盗容疑もハッタリだった、なんて言わないよね…?」 「あ?ああ、あれか。我ながら見事に決まったぜ」 皆川さんが眉間に指を当てて、ポーズを決めているみたい。 「は、ハッタリなの?」 「あったりまえだろ?1週間でそこまで調べられるか」 皆川さんは当然のように答えた。 「分かっていたのは彼女にヒモがいること。ナースの給料からは考え難いほどの生活ぶり。そんなところだ」 「そんな…。ということは、1つ間違えば、私の立場が危うかったってこと?」 令子さんが皆川さんをにらみつけた。 「なんてことすんのよ!」 「なんだ?疑いが晴れたんだからいいだろうが」 「結果が良ければすべて良し、なんて都合よくはいかないのよ!」 あ〜。また始まった。 この2人って、なんでこうなるんだろう? 犬猿の仲ってやつ? 令子さんのこういう攻撃的なところって、ちょっと嫌だな…。 でも令子さんて、優しいし、美人だし…。 木村さんがベッドに腰をおろした。 後ろでは相変わらず、令子さんと皆川さんが言い争っていた。 「あの遠藤って看護婦のことは、警察が証拠を見つけるさ」 木村さんは落ち着いたものだ。 「でも、犯行を認めてないって言ってませんでした?」 「ああ。あの手の女はな、回りのみんなにうそだと分かるようなことでも本当だと言い張る。しかも始末の悪いことに、本人は言っているうちにそれが本当のことだと思い込んでしまう。そんなタイプだ」 「はぁ…。そんな人がいるんですか…」 「ああ、女には気をつけろ」 木村さんがその言葉だけ、耳打ちした。 「ともかくまあ、盗品の売った先も含めて、警察がすぐに見つけるさ」 「はあ」 「そっちはいいが、お前のほうは厄介だぞ」 僕が…? 「あの女が殺人未遂の自供をするとは思えん。彼女の証言の信憑性がなくなったことでだいぶ楽なのは確かだが、彼女の殺意は立証されていない。それと同時に、お前の無実も立証されないことになる。分かるな?」 「あの人が犯人でなかったら、次に犯人の可能性があるのが僕だから?」 「まあ、そんなところだ」 そこで木村さんが後ろに振り返った。 「おい、うるさいぞ、お前ら!」 僕はすっかり気にしてなかったけど、まだあの2人、続けてたんだ。 「なんですって!?」 「あんだとぉ!?」 2人同時に、木村さんをにらみ返していた。 「いや、悪かった。好きなだけ続けてくれ」 木村さんもあきらめたみたい。 「まったく…」 呟きながら僕のほうへ向き直った。 「なあ、弘樹。お前、まだあの北村麻奈美と関わるつもりか?」 関わるも何も、もうふられちゃってるし…。 「お前、彼女の周りで死んだ人がいないか調べるように言っていたそうだな」 あ。 「うん。麻奈美、幽霊に取り付かれてるみたいだったから」 僕の返事を聞いて、木村さんが押し黙った。 な、何か、まずいこと言ったかな? 「思い出したのか…」 「え?」 「お前の隣に今、誰がいる?」 急にそんなことを聞いてきた。 今、隣に? 正面に木村さん。その後ろに令子さんと皆川さん。 隣といえば…。 『はあ〜い』 ゆみちゃんが手を上げていた。 「ゆ、ゆみちゃん」 僕は恐る恐る、正直に答えた。 「だぁ〜!」 雄叫びと共に、げんこつを食らわされちゃった。 イッタァ…。 僕は頭を押さえながら、木村さんを見た。 「まったく、なんで10年前と同じ答えをしやがるんだ!しかもこんなときに!」 「き、木村さん?」 いつのまにかおとなしくなった令子さんと皆川さんも、木村さんの様子をうかがっていた。 「なんでこんなときに思い出すんだ!」 「え?ええ?この前、木村さんが10年前のこと思い出せとかなんとか言ったんじゃないか!」 なんか、木村さん、むちゃくちゃだ…。 「状況は刻一刻と変化するんだ!お前の無実を証明できるかもしれない要素が見つかった以上、お前はもう北村麻奈美に関わらないほうがいい!」 「でも、幽霊がついているって分かった以上、放っておけないよ」 「だめだ!」 「でも…!」 「いいから近づくな!彼女がたとえ、どうなろうとも、な」 こうなると、僕の言うこと何も聞いてくれなくなるんだよなぁ…。 仕方ない。 「分かりました…」 言うだけでもね。 15 それからは、リハビリセンターへ行くようになったんだけど、行きと帰りは必ず、405号室の前を通るようにしていた。 まあ、周りの目は明らかに、僕を犯人扱いで見てたけど、このまま彼女が取り殺されるかもしれないのも放っておけない。 でも、令子さんもおんなじ状態なんだろうな…。今まで犯人扱いされてたんだし。 でも今はそのことは置いておこう。 そういえば、病状が悪化したのに麻奈美の病室って、大部屋のままなんだ。 405号室の名札の1つに、北村麻奈美と書いてあった。 あの父親なら、個室くらい取りそうな気がするんだけど…。 『ユウレイのせいじゃない?』 ゆみちゃんが言った。 え? 『だって、あたしならできるよ。心にちょくせつ話して、人の考えを、その…』 自分の願う方向へ運ぶのね。 『うん』 可能性あり、か…。 僕は部屋の前を通りながら、中を覗いてみた。 一番奥の窓際のベッドに、今日も背広姿があった。 あの人、ヒマなのかな? そんなわけ、ないか。 父親がいるんじゃ、今日もチャンス、ないかな…? 僕はそのまま、1階にあるリハビリセンターを目指した。 いつも、リハビリセンターへ行くときは、ゆみちゃんがついてきた。 何でも、見てて面白いんだそうで…。 どこが、だろう? 僕は痛いだけだ。 長い間固定してた足首を台の上に乗せて、電動で角度が変わるその台に無理やり曲げられる。 石みたいに固まった足首がきしんで、すごく痛いんだけど、ゆみちゃんはそれが見たいらしい。 もしかして、僕が痛がってるのを見て楽しんでるのかな? サディスティックなのかも…。 『そんなこと言ってると、メモリをふやすぞ』 いや、それだけは勘弁を…。 あれ以上曲げる角度を増やされたら、たまったもんじゃない。 とはいっても、実は手元のボタンで止めれるんだけどね。 さあ、今日も苦痛の時間だ…。 『ねえねえ、あれ』 ん? あ…。 麻奈美。 やべ、目があっちゃった…。 麻奈美の目がうつろだった。 ただただ、リハビリの先生のなされるがままになっていた。 『あれ、おかしいよ』 薬のせい? 『ちがうと思う』 ゆみちゃんは別のものが原因だと思ってる。 僕もそう思っていた。 ゆみちゃん、確認してきてくれる? 『うん』 麻奈美を見に行ってもらっている間に、僕はいつもの機械に足を乗せ、台を動かす角度を小さくセットして、電源を入れた。 つま先が上がってくる。 ぐぅ…。 ボタンを押す。 するとつま先が降りていった。 ふう…。 そのまま今度は足首を伸ばす。 ぐおぉ…。 またボタンを押す。 つま先が上がってくる。 はぁ…。 どんどん上がってくる。 おおっ…。 またボタンを押す。 ふう…。 『ねえ、せっかく小さくせっていしてるんだから、さいごまでガマンしたら?』 いつのまにか戻ってきたゆみちゃんが、両肘をついてあごを乗せていた。 『じゃないと、メモリふやすよ』 あ!ダメ、分かった、ちゃんとするから! ぐあぁ…。 い、痛すぎ…。 こんなの、おお…、毎日続けなきゃなららああ…ないなんて…。 うぐぐぐっ…。 それで、ぐぎぎぎ…どうだった? 『何が?』 ゆみ、おおぅ…。 ゆみちゃん。 『フフッ。ジョーダン。あたしと同じ力であやつられているみたい』 くぅ〜…。 あの女の人の幽霊が? 『分かんない。でも、あたしより力が強いみたい』 そおぉおお…っか。 『ねえ、さっきからまじめに聞いてる?』 とおっ…ぜん。 『………』 ゆみちゃんの疑いのまなざしだ。 僕は機械の大本のスイッチを切った。 仕方ないだろう。痛いんだらさ。 『うっそだぁ。そんなにいたくないよ』 じゃやってみろよ。 僕は台から足をどけた。 ゆみちゃんを持ち上げて僕の足の代わりにゆみちゃんの足を台に置いた。 それからメモリを調節してどのくらい動くか見るフリをして、台を動かした。 『おお…。あははっ』 ゆみちゃん、楽しいの…? 『うん!』 ああ、そうか、ゆみちゃんはけがしてないや。 いくら足首を動かされても、もともと正常なら、痛いわけもない。 僕は機械を止め、ゆみちゃんを持ち上げて僕の足を台に戻した。 『え〜まだやるっ!』 だめ。 ゆみちゃんて、大人っぽかったりすることもあるけど、やっぱり子供だよな。 16 僕はそれから、麻奈美に近づくチャンスが何度かあったものの、周りに人が多すぎて接触できずにいた。 せめて幽霊の女の人だけでも取り除いてあげたいんだけど、なかなか…。 そのまま1週間たって、異変があった。 僕が405号室の前に差しかかると、人だかりができていた。 何かあったのかな? 部屋の中を覗こうとすると、誰かに僕の肩を叩かれた。 振り向いてみると、令子さんだった。 「やっほ」 「あ、令子さん、どうしたんです?」 「何かあったみたいなの。また、あの例の親父らしいわ」 僕は令子さんと一緒に中を覗いてみた。 でも、もうことが終わった後みたいで、何があったのか分からない。 看護婦さんが部屋から出てきた。 すかさず、令子さんがその看護婦さんを捕まえた。 「何があったの?」 「もー大変よ。同室の患者さんが北村さんに腹を立てて、果物ナイフで襲いかかっちゃったのよ」 2人とも小声で話しているから、よく聞こえなかった。 代わりにゆみちゃんが聞いて、僕に聞かせてくれた。 「あらら。だから個室にしておけばよかったのに」 「そうよねぇ。北村さんの意向かなんだか知らないけど、婦長があんな人の言うこと聞くからこうなっちゃうのよ」 「それで、どうなるの?」 「問答無用で個室に移すわ。北村麻奈美さんを」 「そう、がんばって」 令子さんが戻ってきた。 説明してくれようとするのを、僕は止めた。 「ゆみちゃんに聞いてもらったから」 そう答えて、405号室から離れた。 離れてみていると、看護婦さんが慌しく廊下を行ったり来たりした。 荷物を個室へ運んでいるんだ。 そして最後に麻奈美が乗ったベッドごと運んできた。 横を向いて気づかれないようにする。 僕の横をそのまま通り過ぎていった。 幸いなことに、父親は出てきていなかった。 顔を戻したら、あの女の幽霊が僕に気づいて、こっちによってきた。 僕の顔の前まで来てにらみつけた。 そして離れていこうとする。 僕はとっさに、手が伸びていた。 令子さんが僕の顔を覗き込んだ。 「どうかしたの?」 「え、いや。その。とっさに、幽霊、捕まえちゃった…」 令子さんがあとずさった。 令子さんの目には、空気をつかんだ僕の手が見えるだけなんだろうな。 ここに思いっきり、幽霊の腕があるんだけど。 『離せ!』 幽霊が僕の腕を殴った。 「イタッ…」 痛い痛い…。 っと、ここでこんなことしてたら、目に付いちゃう…。 どこか人のいない場所は…。 「この近くで人のいない場所は?」 「屋上かしら?」 令子さんが手を伸ばして僕の前を触れてみようとしていた。 あ、そこ、もう幽霊に当たってる。 でも、令子さんには分からないみたいだ。 そのまま幽霊の体を突き抜けていた。 「じゃあ、僕、屋上へ行きますから」 松葉杖を開いた手に2本とも持って、エレベーターへ向かった。 もちろん、ケンケンで。 都合よく、エレベーターには誰も乗っていなかった。 「痛い!噛み付くな!」 僕は屋上へのボタンを押して扉が閉まったことを確認してから、松葉杖を手放して、僕の手を離させようと噛み付いている幽霊の頭を引っ張った。 ほとんど取っ組み合いになってきた。 幽霊と取っ組み合いってのもなんだけど。 けど、これ放したらきっと、壁とか抜けてどっか行っちゃうんだろうな…。 逃がしちゃいけないし、それに、だいたい、捕まえてからどうするんだ? 何にも考えてなかった…。 『ヒロくん、またかんでるけど…?』 う〜ん、どうしよう…。 え? ゆみちゃんが不思議そうに僕を見ていた。 「うわ!ち、血が出た!」 慌てて幽霊の顔を引き離した。 エレベーターが止まった。 右手で幽霊の手を、左手で髪の毛を引っ張った状態で、ケンケンをして踊り場に出た。 途中で灰皿にぶつかる。 あ〜あ。灰だらけ…。 ライターまで転がってる…。 幽霊の顔が変化してきた。 女の人の顔だったのに、だんだん、化け物みたいになってきた。 口が耳まで裂けて、牙が生えてくる。 う、うわァ…。 ゆ、ゆみちゃん、代わって…。こわい…。 あれ? ゆみちゃん? ゆみちゃんはさっさと屋上に逃げて、物陰からこっちを見ていた。 うう。これ、頭放したら、がぶりとやられそう…。 僕は踊り場で固まったまま、動けなくなっていた。 「ど、どうしよう…?」 幽霊の力はそんなに強くないから、腕はしばらく疲れないだろうけど、気が抜けない。 気を抜いたら何されるか…。 考えよう。 ………。 ………。 ………。 ゆみちゃん、なんかいい方法ない? 『はーい、あたし、心を読めるだけ』 意味ないじゃん。この状況で。 ぐう…。 思わず幽霊をつかむ手に力が入る。 すると、幽霊が痛がっているみたいに顔をゆがめた。 待てよ…。 ゆみちゃんに腕をつねられて、痛かった。 この幽霊にかみつかれて痛かった。 逆に幽霊の腕を強く握ったら、幽霊が痛がった。 ………。 そうか。僕の力って、幽霊と、人間と同じように接することができるんだ。 お互いに触れることもできるし、人間とケンカするみたいなことも幽霊とできる…。 てことは、拳で語る? なわけないか。 格闘技なんて苦手だし。 他に何か方法は…。 『はい、これはどう?』 いつのまにかゆみちゃんが戻ってきて、足元に転がっていた灰皿を僕に差し出した。 灰皿…? ま、試してみましょう。 ゆみちゃん、幽霊の動きを止めててくれる? 『どうやって?』 あのね。心をあやつれるんでしょうが。 『あ、そうだった』 ゆみちゃんが幽霊に手を向けた。 すると、幽霊が逃げようとするのをやめ、力が抜けた。 僕は幽霊の手を放し、ゆみちゃんから灰皿を受け取った。 それを使って幽霊を殴りつけた。 コーンっといい音が鳴って、ダメージもあるみたい。 って、これじゃあプロレスの場外乱闘じゃん。 パイプ椅子でもあれば完璧。 そんな問題か? 落ち着け落ち着け…。 これじゃあ、拳で語るのと同じレベルじゃないか…。 僕は足元の散らばった灰を眺めながら考えにふけった。 『ヒロくん、あんまり長くもたないよ?』 でも、幽霊に物で攻撃できるんだ…。 そういえば、ゆみちゃんもあのリハビリマシン、利用できてたよな…。 僕が使えば幽霊にもってこと…? 『ねえ、いいかげん、逃げられちゃいそうなんだけど…』 床にライターが落ちている。 『ねえってば!』 え?あ、何?ゆみちゃん。 『だから、もう押さえてられないんだけど…』 幽霊の体が小刻みに震えていた。 考えているひまはなさそうだ。 実行あるのみ! 僕は幽霊の髪の毛からも手を放して、右足を横に滑らせて体を低くした。 片手を床についてバランスを取ってライターを拾った。 『も、だめ…』 離れて! 僕は幽霊に飛び込み、ライターの火をつけた。 上から幽霊が僕をにらんだ。 裂けた口を大きく開け、僕に迫ってくる。 頼む!効いて! 僕はライターの炎を幽霊に押し付けた。 次の瞬間、充満していたガスに火がついたように、炎が一瞬にして燃え広がり、そして消えた。 幽霊も消えていた。 「効いた…」 『すごい…。ヒロくん、すごーい!』 ゆみちゃんが僕に抱きついてきた。 「できた…。僕に幽霊退治…」 今ごろになって手が震えてきた。 足も震えてる。 しばらく立てそうもないや。 「やった…」 『やったね!』 僕はやったぞぉーーー! 17 1週間後、僕は再手術を受け、中の鉄板を取り除いた。 また包帯ぐるぐるになったけど、もう自由の身だ! ギブスと違って足が軽い軽い。 リハビリのかいもあって、足首もだいぶ曲がるようになったし。 明日で退院か…。 それまでに、令子さんに告白して、なんとか付き合ってもらえるように…。 隣のゆみちゃんを見た。 また邪魔されないようにしないとなぁ…。 令子さん、僕と付き合ってくれるかな? 『ムリムリ』 ………。 なんでさ。 『だって、令子、ヒロくんのこと弟みたいって言ってたもん』 弟…? ショック…。 あ、でも、弟ってことは、弟みたいにかわいいってことでしょ? かわいいってのが男としてちょっと引っかかるけど…。でもそれって、望みある気がする…。 『あれ?うそ、なんであきらめないの?なんでその気になるの?』 ふっふっふっ。 今回ばかりは、ゆみちゃんの妨害も通用しないよ! そこへ看護婦さんが入ってきた。 令子さんだ!チャーンス! と思ったら、違った…。 「あの、令子さんは?」 看護婦さんに聞いてみた。 「高坂さん?彼女なら今日はお休みですよ」 が〜〜〜ん…。 『クスクス』 ゆみちゃん、笑わなくても…。 「明日で退院ですね。おめでとうございます」 「あ、はい。ありがとうございます」 「退院の手続きなどがありますので、ご両親に来てもらってください」 「あ、はい」 この看護婦さん、僕のこと知らないんだ。 別にいいけど。 「ああ、それじゃ、電話かけてきます」 声をかける必要もないのかもしれないけど、僕は看護婦さんにことわってから部屋を出た。 鉄板がなくなったせいか、歩くのもだいぶ楽になった。 まだ走れないけど、杖なしでも歩けるのがうれしい。 でも、まだ足首が完全じゃないんだよなぁ。 完全に治るには、もうしばらくリハビリを続けないといけない。 退院しても通院生活が続くんだ。 今日がだめでも明日があるし、明日がだめでもあさってがある! がんばって令子さんに告白するぞぉ! なのに次の日は早くから木村さんが迎えに来て、令子さんと2人っきりになるチャンスがなかった。 その後の通院で、わざわざ5階まであがって令子さんに会いに行くのもなんだか、気が引けてしまった。 そうこうしている間に、1週間が過ぎた。 はあ…。 僕って肝心なときになると、意気地なしだなぁ…。 18 「よう。弘樹」 皆川さんがリハビリ中の僕のところへやってきた。 僕を訪ねてくるなんて、どうしたんだろう? 「こんにちは。どうかしたんですか?」 「お前に頼まれていたことが分かったんで、報告に、ね」 「何か頼んでましたっけ?」 「おいおい。北村麻奈美の近辺で死んだ人がいないかどうか調べろって言ったじゃないか」 「え?ああ、そういえば」 「忘れてたのかよ…」 「ええ、まあ。一応、解決しましたし」 「そうなのか?でも仕事をした以上、報告をしないわけにもいかないからな」 皆川さんが周りを見渡した。 「ここではなんだ。ついてこい」 そう言って僕をリハビリセンターから連れ出した。 エレベーターに乗り、屋上に出た。 今日は雨が降っている。 屋上の踊り場には患者さんが数人いて、タバコを吹かしていた。 その患者さんがいなくなるのを待った。 誰もいなくなると皆川さんは椅子に腰かけ、タバコをくわえて火をつけた。 さらに懐から紙切れを取り出して僕に手渡した。 僕も皆川さんの隣に座ってその紙を開いてみた。 びっしりと人の名前が書いてあった。 よく見ると、名前のないものもあった。 「北村産婦人科で死亡した人物の一覧だ。多いだろう?」 死んだ? ざっと数えても20人くらいはいる…。 「これ、多いなんてもんじゃない気が…」 「ああ。賢吾さんはそこのところを追及するらしい」 「木村さんが?ふ〜ん…」 僕はリストのある名前で引っかかった。 「北村、佳奈美?」 性別女性。18年前、出産時に死亡。 「気がついたか。佳奈美は北村麻奈美の双子の妹だ。いや、妹になるはずだったというべきか」 「え…?」 「佳奈美という名も母方の祖母がつけていただけで、実際にはその死亡した双子の妹に名前はない。そこに引っかかって調べてみたら、これだけの数の死亡者が出てきた」 皆川さんの顔がいつにも増して、真剣だった。そして、暗く、こわばっていた。 タバコの煙を吐き出した。 「その全てに共通点があった。何か分かるか?」 共通点? 一番古いのは30年前。一番新しいのは今年…。女性・男性・男性…。 出産時に死亡、出産時に死亡…。 「みんな出産のときに死亡してる…」 「ああ。だが、それ以外にも共通点がある」 これ以外にも? リストを見る限りじゃ、分かんない…。 僕は首を左右に振った。 「全部、双子の片割れだ」 「双子…」 「その昔、双子というのは家督争いを引き起こしやすく、悪魔の子として片方を殺す習慣があった。地方によって、それは先に生まれたほうであったり、後に生まれたほうであったりと多少の違いはあるが、日本に限らず、世界各地で行われた風習だ」 生まれたばかりの赤ちゃんを殺す…? 残酷すぎる…。 「その風習を、この北村産婦人科は続けている可能性が高い」 「そんな…」 「霊に取り付かれるのはどういう行いをした者かは知らないが、取り付かれて当然の家系じゃないのか」 皆川さんの言うとおりだと思う。 ………。 雨の音が妙に響いた。 まただ。 また、嫌な予感がする…。 整理して、考えてみよう。 ねえ、ゆみちゃん。 『なあに?』 いつものごとく僕の隣に座っていたゆみちゃんが僕を見上げた。 赤ちゃんが幽霊になって誰かに取り付くってこと、あると思う? 『あると思う。だって、赤ちゃんのレイって、どうぶつのレイと同じでものすごい力があるから…』 僕はあの女の幽霊が原因だと思ってた。 でも…。 あの女の幽霊の力はあんまりに強くなかった…。 麻奈美の周りで起こる異常現象…。 麻奈美を狙うように起きた交通事故。 異常なまでに凶暴な北村宗雄さん。 まるで放心状態を続けていた麻奈美。 北村さんに触発されて殺人をおこそうとした看護婦さんや患者さん…。 そして、あの女の幽霊までが引き付けられ、操られていたとしたら…。 (あたしより力が強いみたい) そうだ。ゆみちゃんもそう感じていた。 なのにあの女の幽霊はゆみちゃんでも動きを封じることができて、僕なんかが倒すことができた。 皆川さんから受け取ったリストが手から滑り落ちた。 「解決してなかったかもしれない…」 だとしたら…。 麻奈美が危ない! 僕は思わず、立ち上がっていた。 でも、僕はもうふられちゃって、関係ないじゃないか…。 彼女がどうなったって…。 取り付いてた幽霊だって退治してあげたんだし…。 『それでいいの?』 ゆみちゃんの言葉はぐさりときた。 いいわけがない。 ふられたのは確かだけど、嫌な言葉をかけられたのも確かだけど…。 『まだ嫌いになってないもんね』 うん。 それに、知ってしまった以上、放っておいて何か問題が起こったら、絶対後悔する。 僕はエレベーターのボタンを押していた。 でもエレベーターは下へ向かっている。 階段へ走った。 足首が痛むけど、気にしてる場合じゃない。 「おい!どうした?」 皆川さんが僕の後を追ってきた。 「僕、麻奈美に取り付いてた幽霊を倒して解決したと思ってた」 5階を通り過ぎて4階を目指す。 「でも、まだ赤ちゃんの幽霊が取り付いてるかもしれない…!」 「ちっ!」 皆川さんがくわえていたタバコの火を親指と人差し指でつまんで消した。 4階と5階の間の踊り場にある灰皿にタバコを放り込んで僕の後についてきた。 「何やってるの?」 そこへ令子さんが追ってきた。 この階段はナースステーションの前にあるから、気がついたんだろう。 その階段を僕がびっこを引きながら走ってたから、何事かと思ってきてくれたのかもしれない。 ちょうどいい! 「お願い!麻奈美の病室へ案内して!」 僕の顔は相当切羽詰っていたのかもしれない。 令子さんは何も聞かずに、 「ついてきなさい」 と先導してくれた。 『ヒロくん…』 ゆみちゃんが心配そうな顔をしていた。 できるだけのことを、やってみるしかない。 19 麻奈美の病室に飛び込むと、やっぱりというべきか、父親がいた。 車椅子を用意して、麻奈美の荷物をまとめていた。 退院させるつもりだったんだ。 「貴様ら、娘に近づくなといっておいたはずだぞ!」 父親がすごい剣幕で迫ってくるのを、皆川さんが片手であっさりと、床に押し倒してしまった。 す、すご…。強かったんだ…。 その皆川さんに挑んで「引き分け」だという令子さんていったい…。 「こら弘樹!俺たちは幽霊だとかわかんねぇけどよ!ここまでさせといて救えませんなんてことになってみろ。俺がお前をスクラップにしてやるからな!」 皆川さんなりの励ましだろうか。 「は、はい」 「あ、私はここで応援してるから」 令子さんは入り口のところで手を振っていた。 令子さん、あなたって…。 好きです。そういう、妙なところが。 『こらヒロくん!変なこと考えてる場合じゃないよ!』 あ、そうでした。 麻奈美を見た。 うつろな目をして、まるで無気力だ。 近くに霊は…。 見あたらない…。 どこ…?どこだ!? 『あたしにも分かんない』 ゆみちゃんでも見えていないなんて…。 僕は麻奈美に近づいた。 気の強い子だったのに、今はその面影すらなかった。 大学で知り合った。 同じ講義を受けてて、隣に座ったことも何度かあった。 新入生歓迎パーティーとか、講義で知り合った仲間同士での飲み会とかでもちょくちょく会うようになって…。 どうせ断られると思って誘ったデートが、なぜか返事はOKだった。 その初デートの帰り道であんな事故にあって…。 「麻奈美…」 僕は麻奈美の肩に触れてみた。 まるで力が入っていない。 「麻奈美!」 麻奈美の体を揺さぶった。 『ヒロくん!』 ゆみちゃんが異変に気がついて指差した。 麻奈美のおなかを指している。 僕が手を乗せている肩から何か光のようなものが流れ、麻奈美のおなかへ通じていた。 違う!おなかからこっちへ流れてる! そう思った瞬間に、手のひらに激しい痛みを感じた。 「うわっ!」 とっさに後ろへ飛び退いていたのに、間に合わなかった。 手から煙が上がっている。 麻奈美のおなかに見える光はへその緒をつけたままの赤ん坊の形をしていた。 くっ…。 「見つけたぞ!」 僕は麻奈美へ駆け寄り、彼女のおなかに手を置いた。 もう一度来い! 今度は捕まえてやる! 光が僕の手に触れ、手が焼けただれるような痛みが走った。 かまわずにその光を握りしめ、引っ張った。 麻奈美のおなかからしわだらけの赤ちゃんが出てきた。 それと同時に、麻奈美がベッドの上に倒れこんだ。 「麻奈美、麻奈美!きさまぁ!麻奈美に何をした!?」 「おっさん、てめえはしばらく黙ってろ」 騒ぎ出した父親を皆川さんが押さえ込んだ。 部屋の中の空気が変わった。 風が吹いた。 「なんだ…?」 皆川さんがタバコをくわえながら呟いた。 窓は閉まっている。 雨が窓を叩いていた。 嫌な予感がする…。 「令子さん、扉を閉めて」 僕は念のために扉を閉めてもらうことにした。 令子さんは廊下から中に入って扉を閉めた。 なのに、風が強くなる。 カーテンが激しくゆれ、服がばたばたと風になびいた。 「どうなってるの?」 さすがの令子さんも動揺してるみたいだ。 目の前を煙がたなびいた。 皆川さんのタバコの煙だ。 その煙が部屋の中央に、渦を巻くように集まっていった。 中心にあるのは、赤ちゃんの幽霊だ。 「すごい…」 僕はこんなに力があるとは思っていなかった。 幽霊の赤ちゃんの周りに煙が集まり、煙の中に透明な空間を作った。 「赤ん坊…?」 令子さんがそれを見て、呟いた。 「まったく、どうかしてるぜ…」 皆川さんは自分の目をこすり、頭を振っていた。 あれが見えることをあまり認めたくないらしい。 まだまだ風は強くなってきていた。 「何なんだ、これは…。いったい何を始めた!?」 父親が立ち上がってうめいた。 同時に風がさらに強くなり、窓ガラスが割れた。 その割れたガラスが風の渦に取り込まれ、次々に僕らに襲いかかった。 「うわっ」 避けるも何も、僕の体は壁に叩きつけられていた。 みんな風に吹き飛ばされて近くの壁に張り付いていた。 そこへガラス片が追い討ちをかける。 『ヒロくん!』 ゆみちゃんが叫び声を上げた。 目の前にガラス片が迫る。 「くそぉ!」 僕はとっさにベッドの手すりをつかんで体を壁から引き離した。 床に転がって見上げると、さっきまでいた辺りの壁にガラスが突き刺さっていた。 あ、危なかった…。 「きゃぁっ!」 令子さんの悲鳴だ! なんとか体を起こしてみると、皆川さんが令子さんに覆いかぶさるようにして床に転がっていた。 もちろんその後ろの壁にはガラスが突き刺さっていた。 父親も床に転がっていた。 この赤ちゃん、僕らを狙ってる…。 風も、ガラス片も、全部操ってる…。 「ちょ、ちょっと?しっかりしてよ!」 令子さんの声だ。 何かあったの? 令子さんが皆川さんの肩を揺さぶっていた。 皆川さんの背中にガラス片が1つ、突き刺さっていた。 「皆川さん!」 駆け寄りたいけど、動けない。 動いたら吹き飛ばされそうだ。 「ちょっと…え?わ、分かった」 令子さんはそう言うと、皆川さんの背中からガラス片を引き抜いた。 血が吹き出して風に舞った。 皆川さんが体を起こして背中を壁につけた。 そしてタバコを取り出して口にくわえる。 カチッシュッ 顔の前に手をかざして火をつけた。 煙が流れる。 「俺は無事だ。さっさとけりをつけやがれ」 見とれていた僕にハッパをかけてくれた。 「うん!」 僕はベッドにしがみついたまま、幽霊を見た。 皆川さんからライターを借りて、この幽霊にもなんとか火をつけないと…。 幽霊からへその緒がでている。それが途中で光の帯に代わり、ベッドに倒れ伏したままの麻奈美につながっていた。 ゆみちゃん…、あれは…? ゆみちゃんがベッドに上がって麻奈美を見た。 『たいへん!この子のたましいとユウレイがつながっちゃってる!』 てことは? 『ユウレイをたいじしたらマナミも死んじゃうかも…』 さ、最悪…。 とにかく考えろ、考えるんだ。 何か方法は…。 麻奈美と魂がつながっている。しかもへその緒で…? 「キミは佳奈美ちゃんなのかい?」 僕は声に出して聞いてみた。 すると、麻奈美の体が急に起き上がり、無機質な声を出した。 「そう。麻奈美と命を共にする者…」 だったら…! 「だったら、なぜ麻奈美に危害を加えるんだ!麻奈美が死んじゃったら、キミも消えちゃうんじゃないのか!?」 「死ねばいいの。私を殺したあいつも、呪われて死ねばいい」 殺したあいつも? 麻奈美の父さんのこと? 「だめだよ!麻奈美が死んじゃったらキミの望みもかなわないんだよ!」 「死ねばいいのよ」 繰り返すだけだった。 「だめだ…聞いてない…」 話ができるなら、説得できるかと思ったんだけど…。 『まって、あたしがやってみる!』 ゆみちゃんが飛び上がり、赤ちゃんの幽霊に触れた。 『ほら、落ち着いて。…あ…』 ゆみちゃんの手が赤ちゃんの中に入っていった。 いや、違う!ゆみちゃんが取り込まれていってる! 「ゆみちゃん、離れて!」 『ダメ!このまませっとくする!この子たちをしずめないともっと大変なことになっちゃう!』 この子たち…? ふと、皆川さんが見せてくれたリストを思い出した。 「そうか!佳奈美ちゃんだけじゃないんだ!この幽霊!」 『そう。佳奈美ちゃんを中心に集まってるだけ…』 ゆみちゃんの腕がすっかり赤ちゃんの中に取り込まれてしまっていた。 「くそっ」 僕はベッドから離れ、風の中に飛び込んだ。 目の前にゆみちゃんがくる瞬間を見計らう。 通り過ぎて、また戻ってくる。 通り過ぎて…。 ここだ! 僕がゆみちゃんを捕まえると、急に風が止まって床に叩きつけられた。 「かはっ…ゴホッゴホッ…」 くっ、苦しい…。 でも、離すもんか…! 「お願い!ゆみちゃんを放して!」 返事はない。 「みんな、こんなことしちゃだめだよ!殺されて恨む気持ちも分かるけど、だめだよ!」 ゆみちゃんの体が半分まで赤ちゃんの幽霊に溶け込んだ。 ゆみちゃん、しっかり! もう少しの辛抱だ! 『う、うん…』 「みんなの恨みは、僕らが必ず晴らしてあげるから!だから今は怒りを押さえて!」 ゆみちゃんの体がさらに溶け込んだ。 『ごめん、あたし、もうだめみたい…』 だ、だめじゃない! (あたしがいつもそばにいてあげる) そうだ!約束したじゃないか! 『ごめんね…』 ゆみちゃんの体が全部、赤ちゃんの中に溶け込んだ。 「ゆみちゃん!」 返事をして! 僕は赤ちゃんの幽霊を抱きしめていた。 ゆみちゃん…! お願いだから…。 (あたし、ゆみって言うの。よろしくね。ヒロくん) 嫌だ…。 (ヒロくんのエッチ!) こんなの…。 (ずーーーとずーーーーと…) 一緒にいるんじゃなかったの…? 僕のそばにいて、僕が好きになる人を片っ端から追い返すんじゃなかったの? (あたしがいれば十分でしょ?) そうだよ。 ゆみちゃんがいなかったら…。 ゆみちゃんがいなかったら僕、何もできないよ…。 ゆみちゃんがいなかったら生きていく意味がないよ! お願いだから…。 (ねえ、キミ?泣いてるの?) ゆみちゃん…。 (あたしが見えるの?) ゆみちゃん。 (すごーい。ね、なまえおしえて) ゆみちゃん! (うん、約束。あたしがずうーっといっしょにいてあげるから、ヒロくんは死んじゃだめだよ) ゆみ…ちゃん………。 僕はゆみちゃんを抱きしめた。 赤ちゃんに取り込まれたゆみちゃんを、きつくきつく抱きしめた。 『ありがとう。ヒロくん』 え? ゆみちゃん? 突然、赤ちゃんがまばゆく光りだした。 「な、なんだ?」 皆川さんたちにもこの光は見えているみたいだった。 皆川さん?…令子さん…。 そうだ。僕は幽霊の赤ちゃんと…。 僕は光の塊を抱きしめていた。 光が僕の腕から抜け出て、割れた窓のほうへ移動した。 窓からゆっくりと空へ上っていく。 「ゆみちゃん!」 僕はとっさに光と捕まえようと飛んだ。 でも、届かなかった…。 光が見えなくなる瞬間、 『また会おうね…』 そんな声が聞こえた。 20 僕の火傷の手当てをしてもらった。 皆川さんは背中を縫った。 それでも入院せずに帰ると言い張って、一緒に病院から出た。 いつのまにか雨も上がって夕闇が広がっていた。 皆川さんがまた、タバコをくわえて火をつけた。 「あれで終わったのか?」 「うん…」 僕はもう、どうでもよかった。 あの後、麻奈美は意識を取り戻し、父親と一緒に、無理やり退院していった。 「あ、待ちなさい」 私服に着替えた令子さんが追ってきた。 「令子さん…」 「やけ酒なら付き合うわよ」 「いえ。そんな気分じゃ…」 「泣きたいなら、私の胸を貸してあげる」 「いえ、ほんとにそんな気分じゃないんで…」 こんな気分じゃなかったら、喜んで飛び込むんだけど…。 ゆみちゃん…。 「ほんとにデリカシーのない女だな」 「なんですって?」 皆川さんと令子さんがまたにらみ合った。 「今日のところは止めといてあげる。借りもあることだし」 珍しく、令子さんのほうから引き下がった。 「これからどうするの?」 聞かれても、分からない…。 ゆみちゃんはもういないし…。 「やることないなら、俺を手伝え」 え? 皆川さんが僕の背中を力いっぱい叩いた。 「いったぁ…!」 「気合を入れろ!ハッタリを効かせ!」 そう言って、タバコを僕の口に押し付けた。 「ごほっごほっ」 煙がむせる。 タバコを手にとって新鮮な空気を吸わないと…。 「あの北村のくそ親父を叩き潰す。光になった赤ん坊の幽霊のためにも、やらなきゃならんだろう?」 赤ん坊のためにも…。 「それ、ゆみちゃんのためにもなるんじゃない?」 令子さんが言う。 「ゆみちゃんだって、あの赤ちゃんを救いたかったんじゃない?」 そうかもしれない…。 「だが、このままだとまた別の幽霊が生まれるだろうな」 皆川さんが新しいタバコに火をつけた。 「俺たちはやらなきゃならないんだ」 やらなければならないこと…。 手のタバコを見た。 煙が空へ立ち昇っていく。 月が西の空にあった。 丸い、大きな月があった。 月を見ていると、ゆみちゃんが語りかけてきているような気がする。 分かったよ…。 僕は、生きていくよ。 いつかきっと、ゆみちゃんともう一度会うために。 だって、 『また会おうね』 って言ってくれたじゃないか。 だから、それまで精一杯生きてみよう。 僕はタバコをくわえてみた。 煙が目にしみる。 どうだい?少しはさまになる? ………。 うるさいやい。 絶対に皆川さんみたいにさまになる男になって待ってるからな。 ………。 「僕、やってみるよ」 皆川さんが僕の肩に手を回した。 「そうか」 ただそれだけ呟いて、いっしょに歩き出した。 「あたしも手伝うわよ」 令子さんが反対側から僕の肩に手を回して3人で歩いた。 「看護婦ごときの手はいらねえよ」 「残念でした。私、いま無職。さっき辞表出してきたから」 「ちっ、好きにしろ…」 なぜか、おかしかった。 この人たちって、ずっとこうなのかな? いつも強引で、張り合って。 ねえ、ゆみちゃん。 僕も令子さんも、皆川さんも木村さんも、みんなで待ってるから。 いつものように騒ぎながら、ずっとずっと。 だから、きっといつかどこかで、また会おうね。 END |