「ねぇ神谷、キスしても良い?」
「…嫌だ。」
先ほどから何度繰り返したか分らない問い掛けをした。
テーブルを挟んで向かい合っての攻防戦。
だが再三のお願いにも決して首を縦には振ってくれない神谷は、それどころか聞き飽きたとでも云うように、
俯いたままで雑誌から視線を外すことすらしてくれない。
その余りにもそっけない態度に、俺は雑誌を取上げて強引に視線を合わせて食い下がる。
「えーっ、なんでだよ〜?」
「…お前がケダモノだからだよ!馬鹿久保!!」
俺の手にある雑誌を奪い返そうと、神谷が身を乗り出してきた。
その腕を右手で掴んで、左手でその頬を突つきながら微笑みかける。
「失礼だなー。キス以上はしないってば。だから、ね?」
右手に力を込めて引き寄せながら囁くと、神谷は途端に頬をピンクに染めて手を振り解こうと懸命に抵抗を始めた。
でも俺は離してなんかやらない。
やがて、どれだけ力を入れてもびくともしない戒めに、悔しそうな顔をして神谷は視線を逸らしてしまった。
「お前…んなコト言って、どうせまた後で"何処にキスするかなんて言ってない"って、しゃあしゃあと言うんだろっ」
呟かれた言葉は思いっきり図星で。俺は少し攻め方を変える事にする。
「…可愛くないなぁ神谷。アノ時みたく素直におねだりしてくれたら良いのに」
「な、何、馬鹿なコト言ってやがる!!」
予想もつかなかっただろう俺の言葉に、神谷は頬を真っ赤にして睨みつけてきた。
でも羞恥に潤んだ瞳は、俺を煽るだけで本人が望む効果は得られない。って分ってんのかな?
あぁ…もうっ。カッコ悪い程、神谷に夢中だよ、俺は。
「嘘。もう、可愛過ぎて困っちゃうな。」
云うが早いか、神谷の唇を俺のそれで掠め取る。
「………っ」
「もっと…しちゃダメ?」
不意をつかれて絶句する神谷にトドメの一言。
真っ赤になって押し黙ってしまった神谷の表情に、もう一息だ、と思った瞬間――――。
ガチャっとドアノブを回す音がした。
驚いた俺達は慌てて離れる。
開かれたドアの隙間から、ひょっこり顔をだしたのは。
「み、実花!!」
「実花ちゃん!?」
神谷の妹の実花ちゃん。目下、俺の最大のライバルだった。
どうしてライバルなのかと云うと…。
「なーに?なんでそんなに驚くの?」
にっこりと微笑んで俺に視線を向けた彼女の瞳は全く笑っていない。
寧ろ、睨みつけられているといった感じだ。
…つまり、俺の気持ちは思いっきりバレているらしいという事。
もちろん神谷はそれに気付いていないけど。
マズイ所を見られたなと、俺が言い訳を考えていると神谷が先に口を開いた。
「何でもねーって。…それより何の用だよ?」
そのおざなりな態度に、ドアの影から箱を突き出した実花ちゃんが膨れっ面をする。
「もう!何よ。その態度。せっかくドーナツ持ってきてあげたのに!!」
すぐにも兄妹喧嘩が始まりそうな雰囲気だったが、実花ちゃんの台詞に食欲に勝てなかったらしい神谷が態度を一変させた。
「おお!サンキュー。腹へってきたところだったんだよ。」
「調子良過ぎよ、お兄ちゃん。」
呆れたと言いながらも、実花ちゃんは大人しく神谷に箱を手渡した。
「ゴメンね実花ちゃん。ドーナツありがとう」
俺は邪魔されるのかな〜と警戒したお詫びの意味も込めて、部屋から出て行こうしていた実花ちゃんに御礼を言った。
「いいえ。お腹が空いたなら、それを食べてくださいね?」
…鋭い視線と共になんだかトゲがある言い方をされた気がする。
やっぱり牽制なんだろうな。
でもゴメンね実花ちゃん。俺はドーナツより神谷が良いや。
心中で謝って、俺はドーナツの箱を空け始めた神谷の隣りに移動すると、ぴたりと身体を密着させた。
「ん?久保はどれがいい?」
ドーナツから視線を外すことなく、見当違いな事を聞いてくる神谷の首に腕を絡ませる。
「…神谷。俺は神谷が食べたいんだけどな…?」
「えっ?!」
その囁きに真っ赤になって振りかえった神谷を、俺は思いっきり抱き締めた。
その瞬間―――。
またしてもドアノブが回る音が、静かな部屋に響いた。
「…ごめんね、紅茶忘れちゃった!…久保さん、どうしたんですか?」
紅茶を乗せたトレイを持った実花ちゃんが、神谷に突き飛ばされてタンスに頭をぶつけた俺にイジワルな視線を向ける。
「い、いや…なんでも無いよ。」
強かにぶつけた頭を抑えながら、俺はしどろもどろの言い訳をする。
ふと神谷に視線を向けると真っ赤になってそっぽを向いていて。
嗚呼、これは今日はもうお許しは出ないなと俺は盛大な溜息を吐いた。
「……あの、久保さん私、お願いがあるんですけど。」
声を掛けられて視線と向けると、実花ちゃんが可愛らしく首を傾けながら両手を顔の前で合わせていた。
…はっきり言って何か嫌な予感がする。
「え、何かな…?」
「久保さんにね、英語教えて欲しいの。」
何を言われる事やらとドキドキしてた俺は少し拍子抜けした。
まだ嫌な予感は解消されていないけど、突っぱねるわけにもいかない。
「…ん。いいよ、おいで、実花ちゃん。」
「やった。ありがとうございます!」
「…おい久保。お前、付き合い良過ぎだぜ。かったるい。」
実花ちゃんを自分の横に手招きした俺に、神谷が呆れたように横槍を入れてきた。
その言葉に、実花ちゃんがぷっくりと頬を膨らませる。
「お兄ちゃんには聞いてないもん。」
「あーそうかよ。俺は雑誌読んでるからごゆっくり。」
「ごめんね、神谷。ちょっと待ってて」
あっさりと言い返されて、不機嫌そうに雑誌を拾い上げたっきり、
顔を上げるそぶりを見せない神谷を宥めるように声を掛けて、俺は実花ちゃんに向き直る。
「何処が分らないの?」
「ここです。」
「…………。」
指差された場所を覗き込んで、俺は自分の嫌な予感が正しかった事を知る。
そこには。
『お兄ちゃんはあげないから!』
と可愛らしい文字で書いてあった。
さすがに自分の表情が固まって行くのを感じる。
「…どうしたんですか、久保さん?」
「あ、いや、なんでもないよ。…実花ちゃん、ペン貸してくれるかな。」
引きつっているだろう笑顔を浮かべながらも、神谷に気付かれないように極力普段通りの声を出す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。」
受け取ったペンで、実花ちゃんのメッセージの下に返事を書いた。
「はい。これでいいかな?」
ノートを返すと俺の書いた文字を見て、実花ちゃんは複雑な顔をする。
「……考えてみます」
「うん。」
僅かな沈黙の後、やっとそれだけ言った実花ちゃん。
俺達の間に、居心地の悪い沈黙が流れる。
それを破ったのは、不意に顔を上げた神谷だった。
「おい、終わったか?」
「とりあえずわね…でもまだまだ先は長いの。」
「はぁ?お前、ずっと久保に家庭教師させる気かよ」
その見当違いな言葉に俺達は同時に吹き出しまった。
途端に不機嫌な顔になった神谷が、俺を見て焦った声を上げる。
「な、なんだよっ」
「ゴメン、ゴメン。何でも無いんだってば。」
「………。」
笑って誤魔化そうとするが、そんなことが通用するはずも無く、
機嫌を損ねてしまった神谷は再び雑誌に視線を戻すと完全に黙りこんでしまった。
「ねぇ…神谷ってば。聞いてる?!」
「……………………。」
「神谷〜。機嫌直してよ、ねっ?」
すっかりむくれてしまた神谷を宥めようと、必死に声を掛けるが効果はない。
そんな様子を溜息まじりに見ていた実花ちゃんは、俺の耳元に『もう少し様子をみます』小声で告げると部屋を出て行ってしまった。
その後姿を黙って見送りながら、俺はノートに書いた言葉をもう1度心の中で繰り返す。
『ごめん。俺も引けない。でも、ずっと大切にするから』
さて、最強のライバルとの約束を守る為にも、頑張って神谷の機嫌を直さなきゃ。
俺は気合を入れ直して神谷の横へと歩き出した。