「・・・ここでひとつになりたい・・」
久保に耳元でささやかれたとき、神谷は耳まで赤くなった。
その桜の大木は久保の家の近くにあった。
樹齢数百年に及ぶ古木。
その手足ともいえる枝垂れた枝に無数の小さくがどこか艶っぽい花をまとい、夜の闇に浮かび上がるその姿は神がかりですらある。
そのありがたい桜の樹の下で、久保と神谷のふたりは抱き合ってキスを交わしていた。幾たびも、幾たびも。
角度を変え、お互いを貪りあう。
ふたりを見ているのは月と桜の古木だけ。
そのことがいつもは照れ屋な神谷を少し大胆にさせていた。
退院を控え、二日前から自宅に帰ってきている久保から電話があったのはつい30分前のこと。
「例の枝垂桜の前で会おうよ、神谷。待っているから来て」
神谷の返事も聞かないうちに電話は切れた。
これは半ば強制だ。
だけど、神谷は抗えない。
なぜなら・・・彼も久保に会いたかったから。
顔をあわせるや、挨拶もそこそこに抱き合った。
そして、お互いの与え合う温もりに酔った。
耳元で件のセリフを甘くささやかれたとき、瞬間的に神谷は身を固くした。
「こっ、こんなところでか!!」
「うん、こんなところでだからこそだよ♪」
罪の意識のかけらもなくにっこり笑う恋人に呆れた視線を投げかける。
それなのに敵はいっこうに構う様子もなく神谷のシャツをたくし上げてくる。
「しゃーねーな。退院の前祝いだ! 今日は特別だからな」
半ば呆れ、半ばあきらめの表情を浮かべる神谷を、久保はにっこり笑って抱きしめた。
「神谷・・大好きだよ・・・」
久保が羽織っていたコートを脱ぎ、桜の樹の根元に広げるとゆっくりとそこに神谷の身体を横たえていく。
「神谷・・」
見上げる久保の顔はいつにも増して端正だ。
その顔がゆっくりと近づいてきて、軽く神谷の口唇に触れてくる。
さっきまでの熱いキスと打って変わってのやさしいもの。
「久保・・・」
キスの合い間にその名を呼ぶ。
微かな風がほほを掠めるたび、淡くてやさしい色の花びらがゆっくりとふたりの上に舞い落ちてくる。
まるでふたりを包むように。守るように。
「久保」
首筋に口付ける相手に声をかける。
「なに」
「『桜の樹の下には』って短編小説知ってっか?」
「うん、現国の教科書に載ってたから。それがどーかした?」
久保には神谷がどうして突然こんな話題を持ち出してくるのかが、皆目わからなかった。
神谷は婉然と笑う。
「桜の樹の下には・・・何が埋まってる?」
久保はほとんどパブロフの犬状態で思考を巡らす。
有名な一文だ。
思い出せないわけはない!!
あっっ。
そして思い当たる。
今度は久保がコーチョクする番だった。
「おい、久保。何が埋まってる? 覚えてるだろ、優等生」
「・・・・・・」
こーいうときの神谷はひたすら意地が悪い。
「屍体・・」
絞りだすように唸るように久保は答える。
神谷はにっと笑う。
「どーした? 来いよ、久保」
その腕を伸ばして久保を抱き寄せる。
久保は微かに震えている。
・・・怖いのだ。
久保は想像力過多ぎみで、怪談の類が大の苦手だった。・・・意外だが。
このことを知っているのは神谷だけで・・。
だが、それゆえに何かにつけそれで久保をからかった。
神谷から久保に触れてくる。
うれしいのに、すごくうれしいのに久保は集中できないでいた。
愛しい神谷の伏せたまつげが目の前に広がり、ゆっくりと口唇をずらしていく。
――それなのに。
頭に浮かぶのは、小説のリアルな屍体の描写ばかり。
馬のような屍体。
犬猫のような屍体。
そして人間のような屍体。
腐乱して蛆が湧いて・・・
たまらなく臭いのに水晶のような液をたらたらとたらしているそれ。
静謐な夜。
神々しく咲き誇る桜の古木の樹の下。
これ以上ない、シチュエーション。
いまにも、木の根元から・・何かが這い出してきそうで。
「おい、久保。オマエ何考えてる?」
神谷が訊いてくる。
わかっているくせに・・・。
冷たい汗が背中を伝う。
もう、限界だ!
脱兎。
神谷の腕を取り助け起こすと、一目散に駆け出す。
振り返りもせずに。
その桜の古木が見えなくなるまで、全速力で走った。
神谷の高笑いを間近に聞きながら。
「神谷〜〜〜〜!! おまえよくもーーっっ」
久保は息も整わないうちから文句をたれる。
神谷は今も腹を抱えてひーひー笑っている。
また、やられた!
久保は結局詰めが甘いのだ。
いつも、いいところまで行くのに・・・最後はこの気まぐれ猫にしてやられる。
道理で素直に頷いたわけだ。
最初っから、からかうつもりで・・!!
くくく。
やっと、やっと今夜こそ最後までいけると思ったのに。
幽玄な桜の古木の下で・・・。
だが、久保の野望(?)はあえなく未遂に終わる。
「あんな場所でおいたをするからだぜ。病み上がりのくせしてよ」
神谷は尚も笑いつづけ、久保はその傍らでブスくれている。
「さ、送ってやるから帰ろうぜ!」
ひとしきり笑い転げた神谷が、そっぽを向いていじけている久保の腕を取る。
「うん・・・」
素直に従う。
ふたり肩を並べて夜道を遡って帰ろうとしたとき、久保ははたと気付く。
「コート!!!」
あの桜の樹の下に放っぽり出して来てしまった。
「あー? 別にいいだろ?」
神谷はのんびりと答える。
「そうはいかないよー! あれ、クリスマスプレゼントに親からもらったものなんだー。本物のバーバリーだよ! 取りに行かなくちゃ。」
そんなものをエッチするための敷き物代わりにしようとしたのか・・・と内心神谷は思ったが言わないでやった。
「しゃーねぇなぁ。取ってきてやっからここで待ってな」
踵を返して駆け出そうとする神谷の腕をあわてて掴む。
「待ってよ、俺も行く!!」
「・・・怖いくせに。いいから待ってろって」
呆れて振り返る。
「取り残される方がもっと怖いんだよー、神谷ぁ」
桜の古木が夜の闇に浮かび上がってくる。
久保と神谷、二人はそれを目指して並んで夜道を急ぐ。
「・・・オマエ、言っとくが変な気起こすなよ!」
「もう・・・そんな気萎えたよ・・・」
そんな不謹慎な会話を交わしつつ。
半ばケンカ腰な物言いで。
だけど、久保が羽織っているのは神谷のコート。
病み上がりの彼を気遣って神谷が無理やり着させたもの。
「ガキじゃあるめーし。その異常な怖がり、さっさと直せ!」
「怖がりじゃないよ! 想像力過多なんだってば! 神谷」
「・・・へりくつ言うな!!」
ふんわりとした春の夜風が、そんなふたりをやわらかく包んでいく。
桜の垂れた枝が梢を揺らし、神谷と久保の頭上に淡いやさしい色彩の花を降らしていく。
まるで、桜の古木に宿る神が、ふたりの再訪を歓迎するかのように。
犬も食わない口げんかを耳にして、微笑んでいるかのように。
* 引用 梶井基次郎著『桜の樹の下には』より
2002.5.13
by ミハ
銀 まりこさまのリクエストにお答えして・・・「久保をからかう神谷の幸せな光景」
すっすいませんっ(汗)、まりこさんっ。
こんな・・・こんなもので(汗汗)。
季節外れもはなばしくっ。
リクに適っているのか、甚だ不安ですが、どーかどーかお納めくださいませーー!!
初カキコに感謝の意を込めてvv
いつも、私の心をギュッと捉えて離さない素敵な小説を書かれるまりこさまへ。
お世話になってますv
★ミハさん、どうもありがとうございました!v
なんて幸せな光景、そして優しい意地悪。
そこはかと漂う儚い雰囲気の中で、二人の姿が浮き出るようです。
透明で優しいミハさんの世界を眼前に出来て、私がどんなに幸福だったか、
とても文章では書き表せません。
心の中に、桜の花が咲いた気分です。
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