約束の場所

 年始年末は、高校サッカーに関わりのある者にとって『特別』な季節(とき)だ。
 激しい地区戦を勝ち抜いてきた48代表が、頂点を目指して集う。
 準決勝と決勝戦を国立競技場でプレーする事は、憧れであり誇りでもあった。
 あれから6年―。アップをしている選手達の少々緊張した表情が、高校時代の自分たちと重なる。
「夢の舞台だもんな」
 神谷の顔に、今日初めての笑顔が浮かんだ。
 国立のピッチを観客席から見下ろして、当時を懐かしく思い出す。
 国立競技場はJリーガーになって5年目になった今では、すっかり馴染みの場所になった。正月も天皇杯決勝の選手としてあそこで戦ったばかりだ。
―だけど、やはりここは聖地だと思う。
 そしてフィールドでは、高校生のままの自分達が久保と一緒にボールを追っている。
 独特の雰囲気の中、想い出を辿るようにゆっくりと周囲に視線を走らせ…
「!?」
 偶然目に入った人影に驚愕した。
 最前列の通路側、身を乗り出すようにピッチを覗き込んでいる後ろ姿は―
「久保っ!?」
 永遠に失ってしまった筈の大切な人。
 変装代わりの帽子を目深に被り直し、慌てて後ろ姿の正体を確かめに立ち上がる。
 その時、視線を感じたのだろうか、久保の気配を纏った人物がゆっくりと振り向いた。
 神谷を認めて、胸が痛むほど懐かしい笑顔が浮かぶ。
―だけど…。
「神谷さん!」
 声が上がると同時に、元気良く手を振る姿から瞬時に久保の影が消えた。
 そこに居たのは、良く見知った後輩。もっとも彼がそこに居るのも驚きではあったのだけど。
「田仲…」
 飼い主を見つけた子犬のように全身で嬉しさを発散して階段を駆け上ってくる後輩は、海外でプロになった。
 通路に出て、対面する。
「戻って来てたのか」
「お久しぶりです」
 ぴょこんと頭を下げる動作が子供みたいだ。
 変装のつもりで掛けているらしい不格好な伊達メガネが、妙に似合っているのが笑える。
 誰もが認める世界的プレイヤーとなっても、田仲は高校時代のまま変わらない。サッカーをしていないときは、相変わらず優柔不断で夢見がちでドジをする、良い意味で『普通』の青年だ。
 薄い色の付いたメガネを外すと、相も変わらぬ大きな瞳が人懐こい光を浮かべていた。
「天皇杯、見ました。惜しかったですね」
「フン、3月のゼロックスで雪辱は晴らすさ」
「頑張ってください。応援してますから」
 談笑している二人に気が付いた一部の観客達がざわめきだした。いくら平凡な格好をしていても、有名人の彼らの正体はすぐに知れる。
 二人とも全日本代表の選手だし、その知名度は有名人揃いの同期の中でも特に高い。
「取り敢えず、席に着こう」
「はい」
 隣の空いていた席へ、田仲を座らせる。
 座って落ち着いたのか、田仲がホウッと息を吐いた。息は冷たい外気で白く曇る。
「ほら、使うか?」
 持っていた予備の使い捨てカイロを渡すと、にっこりと笑って受け取った。
「ありがとうございます」
 早速袋から海路を取り出し、確かめるように振る。
 シャコシャコという音が、とてもリズミカルだ。
 そして気付いた。それは田仲のドリブルのリズムと同じだったのだ。
―とことんこいつの身体は、サッカーが染みついてるんだな。
 可笑しく思うと同時に、懐かしい。
―あいつもそうだったな。
 久保も、何をしていても、どこかにサッカーの香りがしていたものだ。
 脳裏に元気だった頃の久保の姿が甦った。
 久保(あいつ)の事なら、いつでも思い出せる。
 あいつのサッカー、あいつの生きざま。…天才的なプレー、普段の仕草、そして二人の間にあった事の全てを…心と身体の全てで覚えている。
 ほんの二年しか共に居られなかったのだけど、生涯で一人きりの運命の相手(パートナー)だった。
 出逢えた喜びは、別れの哀しみを差し引いても消えることはない。
「神谷さん?」
 自分を横目で眺めながら黙ってしまった神谷を訝しんで、田仲が名を呼んだ。
 吐き出す息で笑って答えてやり、改めて微笑んだ。
「お前、ホントにサッカー好きだな〜」
「え?」
「カイロの振り方、ドリブルするときのリズムと一緒」
「ええっ!?」
「お前童顔だから、あいつらに混じってもバレなさそうだぞ。いっちょ試合してくれば?」
 田仲にニヤリと笑ってみせると、ピッチ上の選手達を指差した。
「神谷さ〜ん」
 情けない声を出して、田仲は顔を赤らめた。実はチームの仲間やマスコミにも『子供のよう』と言われ続け、ちょっとしたコンプレックスになっているのだ。―まぁ外人から見れば、東洋人全体が実年齢より若く見えるのだけど…。
「なんだよ。いいじゃないか。オレも童顔だったらやってみたいぞ」
「本気ですか?」
「だって、国立だぜ」
「元旦にあそこに居た人のセリフじゃないでしょう?」
「高校選手権はな、別物だろ?」
 神谷の表情が、とても優しいものに変わった。
 それは神谷が親しい人間にしか見せない、とびっきりの笑顔だ。
 笑顔を向けられて、田仲は掛川時代を思い出した。
 無防備な笑顔は、神谷を高校生の頃みたいな少年の顔にさせていた。
「…そうですね」
 思い出す。初めてあの芝の上に立った時の感激を。
 そしてこの先輩が、どんなに複雑な思いを噛み締めていたかを。
「夢、だったな」
「オレたちは叶いましたけど…」
「きっといつまでも夢なんだろうな」
 夢、だった。
 一緒に夢を追って…逝ってしまった大切な人を想う。
 肉体を無くしても、いつも身近に感じる大切な人を。
「ああ、そろそろキックオフの時間ですね。みんな集まりだした」
 整列した選手達の元へ、審判陣が時計を見ながら歩いてくる。途端に雰囲気がピンと張り詰めた。
 夢をいっぱいに抱えた選手達の息遣いを感じる。
 夢の、ここは約束の場所。
 礼の後、ポジショニングに着いたのを確かめて、主審が高らかにホイッスルを鳴らす。
 走り出す選手達の間に久保の姿が見えたような気がして、神谷はもう一度、少年の笑顔を浮かべた。





                                                  終わりvvv

★実は密かに、神谷とトシの組み合わせが好きです。この二人には、穏やかな時間が似合うと思う。



                                 1998年12月12日脱稿
                                 初出:「REMIXES<omnibus>」収録(絶版)