歌が、聞こえる。
子供の頃に母が歌ってくれた子守唄のように、優しく穏やかな響き。
その心地良さの音源を求めて瞳を開けると、見上げる横に一番大切な者の姿が見えた。
丸椅子に腰掛け、窓枠を支えに頬杖を着いている。
外を眺めながら小さく何かを歌う横顔が、ガラス越しに差し込んでくる夕日に包まれて、驚く程に印象的だった。
「…何の歌だ?」
問い掛けると、歌が止まった。外を見ていた顔がこちらを向き、からかうような瞳で覗き込んでくる。
「よっ、おはよう」
「今、歌ってただろ?」
「なーにノンキな事言ってんだよ。人がちょっと便所に行ってる間に熟睡とはなぁ」
「え?あ、あ、そうか?」
言われて漸く気が付いた。
神谷が部室を出ている間に、椅子に座ったまま机に上半身を伏せて眠ってしまったのだ。
枕にしていた腕の下に開かれたままのノートがある。鉛筆の線が、摺ってしまったせいで薄くなっていた。
「どの位、寝てた?」
伸びをしながら尋ねると、神谷は壁の時計と久保とをチラリと見比べた。
「30分位かな」
「起こしてくれれば良かったのに」
「気持ち良さそうだったからな」
さらりと言う神谷の声音に、久保は自分をいたわるものを感じた。
「―もう病人じゃないんだから、気を遣うなよ」
「してねぇよ」
神谷が柔らかな笑顔を浮かべる。
出会った頃より、神谷はずっと良く笑うようになった。―だけどこの無防備な笑顔を見せるのは親しい人間…主に久保に向けてだけだ。
人付き合いが下手で感情を表すのに不器用な神谷にとって、久保は特別だった。
そして久保は神谷の笑顔が大好きだった。―だから、この笑顔の為になら、どんな事でも出来ると思う。
立ち上がり、窓辺に座る神谷の横に立つ。
「神谷…」
「ん?」
「キスして、いいか?」
途端に神谷が赤面する。
次いで久保を睨み付けながら立ち上がり、ゲンコツを作ると久保の頭を軽く小突いた。
「寝ぼけてんじゃねえよ」
「神谷ぁ…」
「学校じゃ、そーゆーのは無しって約束だろ」
「ちょっとぐらい、いいじゃないか」
「馬〜鹿」
久保と入れ替わるように、机の方に行く。
そんな様子に久保は小さく肩を竦めた。
「馬鹿な事言ってる暇があったら、続きするぞ」
机の上のノートを叩いて言う神谷に、笑って頷く。
戻る前に、窓から外を見た。
先程まで神谷が見ていた外の風景は人影の無いグラウンドで、夕日のあかね色から夜の群青色までのグラデーションで染まった空には、気の早い星が一つ瞬いている。
とても静かで、綺麗な光景。
頭の中に神谷が口ずさんでいたメロディーが浮かんだ。だけど訊いたことがある筈の旋律なのに、どうしても題名が思い出せない。
「なぁ神谷…さっきの歌って…」
「何だ?」
「ん…、いや、いい」
何となく、題名を訊くのを諦めた。
退院して目にしたのは、はっきりと形を表した『可能性』だった。
日本のサッカーを世界レベルのものにする―そんな野望に近い夢が、叶う予感。
神谷は勿論の事、新規参入の掛西中トリオは、きっと世界に通じる選手になる。特にトシは指導次第で大きく化けるだろう。
人生の最期で、運命は自分の夢を継いでくれる者との出会いを用意してくれた。
―でも…やはり出来るなら自分でも、その夢が叶う瞬間に参加したかったのだけど。
「なんだよ、また寝ぼけてるのか?」
神谷の声に、はっとする。
帰り道。歩きながら、いつの間にかぼうっとしていたらしい。
「あ、悪い」
「相変わらず、サッカー以外はぼ〜っとしてる奴だな」
「酷い言われ方だな」
「ははは!」
愉快そうに笑う神谷の声が心地いい。
笑い続ける肩に手を置くと、存在の確かさにほっとした。
「なぁ、神谷」
「ん?」
「国立で試合するって、どんな気分かな」
「はぁっ?」
「もしも、だよ」
「もし、にしても随分気の早い話だな」
呆れて溜息を吐きながらも、神谷は真剣に考え込んだ。
答えを待つ久保に、ちょっと困ったような表情を送る。
「神谷?」
「解んねぇ。やってみなくちゃ」
「…そう言われちゃ、しょうがないんだけど」
「お前こそどう思うんだよ?」
「う…ん。きっとね、楽しいだろうな」
「プッ!」
あまりにも久保らしい台詞に、吹き出してしまう。
「神谷ぁ〜」
「まぁそうだな。お前と一緒なら楽しいだろうな」
普通なら『感動する』とか『緊張する』って言うものだと付け加えて、神谷は笑った。
語る神谷の声が、まるで歌っているみたいに柔らかく響く。旋律に、久保はうっとりと聴き惚れた。
この歌の題名なら知っている。『夢』だ。
神谷の夢は、きっと叶うだろう。そしてそれは国立を終点とはせずに、世界へと広がって行く。
「一緒に行こうな」
口をついて出たのは自然な気持ち。
言ってから、心の奥が痛んだ。
別れ道で、すっかり降りてしまった夜の帳(とばり)に紛れキスをする。
素早く掠めるようなキスは、久保にとって口に出来ない謝罪の言葉だったのかも知れない。
久保は神谷の歌声を、それからも忘れることは決して無かった。
終わり
1998年8.月30日第一稿・12月1日改稿
初出:azure
blue インフォメペーパー
REMIXES<omnibus>収録(
絶版)