朝練に来るのが、入院前よりも早くなった。
学校側に黙認してもらった合い鍵で部室を開け、中にはいるとまず黒板の日付を今日に書き直す。チョークの立てるコツコツとした音が好きだ。
それを終えてから部室内を見回してみる。
四角く切り抜かれた窓から、陽光が斜めに差し込んでいた。
光の中に踊っているのは微細な埃。
まだ誰も来ない部室には、土の匂いと昨日の匂いが微かに籠もっている。
壁のカレンダーには予選の日が赤丸で囲まれ、机の上には誰かが仕舞い忘れた教科書が無造作に積まれている。勉強よりサッカーが優先、っていう訳だ。
カゴ一杯に詰まったサッカーボールは、昨日一年生達が磨いて帰ったので、白と黒のコントラストが光の中で際だっていた。
一つ取り上げてみる。白い部分の『掛高サッカー部』の文字は、去年皆で手分けして書いた。ずいぶんと薄くなってしまったけれど、書いたときの想い出は色褪せない。
想い出だけじゃない。病気を受け入れたときから、回りの全てが鮮やかに見えることに気が付いた。今まで漠然としていた世界が、とても愛おしい。
その世界の中心に、サッカーと…あいつがいる。
手に取ったボールの字は、偶然だろうけど神谷の物だった。思わず笑ってしまう。
その時―
「おっ、またお前が一番か。おはよう!」
ドアがいきなり開いて、陽光を全身に浴びた神谷が入ってきた。眩しさに目を細めてしまったオレに、まだ血圧が上がりきっていない時特有の硬い笑顔が向けられる。
「おはよう、神谷」
「なんだ、ボールと話でもしていたのか?」
「今日はオレを使ってくれってさ」
「お前が言うとマジに聞こえるな」
「早く蹴ってくれって」
「マゾだな〜。ま、ボールは蹴るもんだからなぁ」
軽口を続けていくうちに、神谷の笑顔が徐々に柔らかくなる。
オレの横に来たときには、無防備な笑顔が全開になっていた。
「なぁ、この字、神谷のだよな」
薄くなった字を示すと、どれどれと覗き込んで頷いた。
「ああ、オレんだ」
「これ書いた時の事、憶えてるか?」
「忘れる訳ないだろ。ピカピカの新品に失敗は出来ないって、緊張したぜ」
「だから普段の字と少し違うんだ」
「なんだよ。クソ〜、お前のも捜してやる!」
鼻息も荒く、目の前のカゴからボールを一つずつ取り出し確かめだした。
光の中、ボールを持つ神谷の姿が鮮やかに輝いている。
「あったあった!なんだよ〜あんまし変わらない字だな」
嬉しそうにボールを持ち上げて、薄くなった字を指で示した。
憶えている。これを皆で書いていた時、隣りに座った居た神谷が一つ書き終える度に満足げに微笑んでいた事を。
―その時は親友。でも今は…。
目の前の笑顔にそっと唇を寄せる。一瞬見開かれた瞳が、半分閉じられた。
光の中、鮮やかな存在に触れる暖かさが、身体に溶け込んでいく。
離したくないと思う。こいつと共に生きて、サッカーして、触れ合って。だけど…
叶わない願い。隠している残酷な真実は、何時もトゲとなって心を刺している。
「…ほら、さっさと練習すんぞ」
わざと仏頂面をする神谷に、オレは上手く笑顔を送れたろうか?
光の溢れる世界の中心に、神谷が居る。
そしてオレは、最期の時までこいつとサッカーをしたいと思う。
―輝きの中で、最期まで…。
終わり
★「天の軌道」初版時には、友人の開催する『ガンダムWオンリーイベント』の
広告が入っていたページに、再版時はこのSSを差し替えました。
じ…時代を感じます(汗)
1998年3月8日脱稿
「天の軌道(再版)」収録(完売・絶版) サークル・azure blue