病院で知り合ったその子は、名前を『鷹志』といった。
本当だったら4年生のはずなのに、入院したせいで3年生のままだという。
治療のせいですっかり毛の抜け落ちてしまった頭に巨人の野球帽を被って、病院中を冒険しまくっている。
始めて久保と鷹志が出会ったのも、彼が冒険している最中だった。
前日にようやく無菌室から解放された久保は、医者や看護婦の目を盗んで、屋上でリフティングをしていた。
そんな時に突然、足元に野球帽が転がってきたのだ。
風で飛ばされてきたらしいその帽子を拾い上げると、禿げ上がってしまった頭を恥ずかしそうに手で覆いながら、やけに色の白い男の子が姿を現した。
それが鷹志だった。
病名は訊かなくても解った。
「ジャイアンツのファンなのかい?」
帽子を返しながら訊ねると、
「ううん、あんまり好きじゃない」
笑顔で答え、受け取った帽子を目深く被った。
「お兄ちゃんはサッカーが好きなんだね」
ひさしの影から、好奇心に輝く瞳がボールを捕らえる。
「うん。すごく好きなんだ」
答えると、途端に身を乗り出してきた。
「ボクも好き!でもヘタクソなんだ。体が弱いからって、学校の友達も仲間に入れてくれなかったし」
仲間に入れてくれない、の下りでシュンとしてしまった彼に、久保一緒にサッカーをしないかと誘った。
その日はただボールを地面に転がすように蹴るだけのパスをして、次の日は母親に頼んで持ってきてもらった子供用の4号ボールでワンバウンドリフティング(一回地面にバウンドさせたボールを、足の甲で蹴り上げる、リフティングの入門編。まだ継続しては蹴らない)を教えた。
リフティングからキャッチボールのようなパスが出来るようになるには、お互いの治療スケジュールとの兼ね合いもあって、2ヶ月の期間が掛かった。
それまでサッカーを本格的に習ったことの無かった鷹志の上達はめざましく、リフティングに限っては2分近くも続けられるようになっていた。
「ずいぶん隠れて練習したんだな?」
からかって訊くと、
「この前やり過ぎて鼻血出しちゃった」
いたずらっ子の笑顔が浮かぶ。
「怒られただろ。無理しちゃダメだぞ」
「いいんだ。サッカー好きだって言ったら、お母さん許してくれたもん。でも無理しちゃダメって怒られたけど」
巨人軍の帽子は、いつの間にかワールドカップの物に変わっていた。
「ねぇ、退院したらもっと本格的に教えてくれるんだよね。嘉晴兄ちゃんとお友達と、一緒にサッカーするって約束、忘れちゃ嫌だよ」
「忘れるわけ無いだろ。篤司兄ちゃんもサッカーすごく上手いんだ。ちょっと見は怖いけど、とっても優しいぞ」
「楽しみだなあ」
鷹志はそう言うと、移植の日程が決まったことを告げた。
年末から前処理のために無菌室に入り、骨髄移植は年明けになるという。
「がんばれよ」
「うん。ねぇ、これ持ってっていい?」
鷹志が、手に持っていたボールを示す。
「いいけど…それ、もう随分汚くなったから、新しいの買ってあげるよ」
「これがいいんだ」
必死の瞳に見詰められて、久保は笑顔で了承した。
「おまえ、本当にサッカー好きなんだな」
笑いながら言うと、
「嘉晴兄ちゃんも好きだよ」
本当に嬉しそうな笑顔が返ってきた。
それからまもなく鷹志は無菌室に入っていき、年が明けると久保の維持強化療法も始まった。
いまだに骨髄のHLA(骨髄の抗原の型)が一致する適合者が見つからない久保の場合、化学療法に頼るしか手はない。幸い今のところそれは上手く行っているが、その療法は決して楽な物ではない。体力と免疫力を奪われて、どうしても無菌テントから出られない生活が続いてしまう。
そんな久保の元に鷹志の情報をもたらしてくれたのは、看護婦だった。
年明け早々に姉からもらった骨髄の移植を受けた鷹志の状態は順調で、あとは様子見だけだという。
病室内に、きれいに洗われて殺菌されたサッカーボールを置いて、お守りにしているそうだ。
光景を思い浮かべて、優しい気分になる。
しかしの事態は急に変わった。
選手権が帝光の優勝で終わった日、久保は突然に、取り乱した鷹志の母親の訪問を受けた。
鷹志が感染症を起こして危ないと言う。
うなされながら『嘉晴兄ちゃん』と呼んでいるから、来て欲しいと叫ぶように訴える。
駆けつけたいのは山々だが、残念ながらそう頼まれた久保の方も無菌テントの中で治療中という有様では叶うはずもない。
生きたいけれど今は無理だと謝るが、鷹志の母親は納得しなかった。
今にもテントを壊しかねない勢いに、騒ぎを察知して駆けつけた二人の看護婦に押さえつけられる。
「ひとでなし!あの子はあんなに会いたがってるのに」
悲痛な叫びを残して、鷹志の母親が退室していく。
しばらくして今度は鷹志の姉が、母親の無礼を謝罪に来た。
たぶん自分よりも年下の少女は、やけに大人びいた表情をしていた。
本当はどんなことをしても鷹志の所に行きたかった。
楽しそうにサッカーをする鷹志の姿が浮かんで、胸が締め付けられる。
その夜は眠ることも出来ず、ただただ彼が持ち堪えてくれる事を祈った。
やがて長い夜が明ける。
結局一睡も出来なかった久保の元に、昨日の看護婦の一人が、鷹志が死んだことを伝えに来てくれた。
その看護婦も鷹志と親しかったことを知っている。目が赤く充血し瞼がはれぼったく、先程まで泣いていただろう事が容易に想像できた。
久保が涙を流すと、彼女も改めて声を殺して泣いた。
無菌テントから出られなかった久保は、鷹志に最期の別れを告げに行くことが出来なかった。
ようやくテントから解放されて数日後。
久保は突然に、鷹志の姉の訪問を受けた。
まだ中学生だという彼女は、すっかりやつれてしまった身体をセーラー服に包み、儚げに佇んでいた。
男の子のように短く刈上げた髪の毛が、生前の鷹志の面影と重なる。
少女から、鷹志に渡したサッカーボールが返された。
「最期の時、そのボールを枕元に置いてあげたら、鷹ったら目を開けたの。それからゴメンねって…。また閉じて、お母さんって呟いてそのまま…。きっと『ゴメンね』はあなた宛だったと思うの。母さんは違うって言い張るけど…。だって鷹、元気になったら嘉晴兄ちゃん達と一緒にサッカーするんだって、すごく張り切ってたの。
―だからね、このボール返すわ。あの子、このボールあなたと蹴りたかったの。だから鷹の分まで、あなたが蹴って」
せがまれるままにその場でリフティングをしてみせると、鷹志の姉は何度も礼を言って帰っていった。
小さなボールは高校では使わない。
それでも退院するまで、久保はそのボールを蹴り続けた。
蹴る度に、鷹志の笑い声が聞こえてくるような気がした。
なぜ人は生まれるのだろう。
なぜ人は死ななくてはならないのだろう。
遙か昔から、人の中で繰り返されてきた疑問。
それでも生まれてくる方の理由は思いつく。
人は、人と出会うために生まれるのだ。
鷹志と出会ったのもそう、出会うべくして生まれて来た。
しかし死の方は?
解らない。なぜ死ななくてはならないのか。
次の世代に全てを委ねる為?
では鷹志は誰に委ねたのか?
小さなボールが伝える。
『ボクはお兄ちゃん達とサッカーがしたかった』
病気を抱える自分に、鷹志のボールを受け取る資格があったのだろうか。
全ては疑問のまま、永遠に解けることはないだろう。
―自分は誰に委ねる事になるだろう?
神谷の姿が鮮やかに思い浮かんだ。
あの大切な存在は、それにふさわしい資質を持っている。
―けれども、残して逝きたくない。
自分はここまで『生』にこだわっている。
神谷とこの世で並んでいられるのならば、他に何もいらないとまで思ってしまう。
「ごめんな鷹志。お兄ちゃん、お前が思っていてくれたほど、良いお兄ちゃんじゃないみたいだ」
想い出の屋上で、ボールを高く蹴り上げる。
何処までも昇って行きそうに見えたボールは、やがて力つき、地面に落ちた。
◆◇◆◇◆◇◆
ボールを蹴っていても、どうもいまいち調子が出ない。
セットプレーを試してみても、相手が久保じゃないと物足りない。
前は一人でもなんとか練習していたというのに、今は仲間もいるのに上手く行かない。
「何もかも、久保がいけないんだ」
我ながら理不尽だとは思うけど、どうしてもぼやいてしまう。
久保が入院して、早くも3ヶ月が経とうとしていた。
キャプテンを欠いた掛高は、結局予選を早々に負けてしまい、選手権に行くことは出来なかった。
その大会も、東京Aの帝光の優勝で終わっている。
冬休みももうすぐ終わる。けれども世間にはまだ正月気分が漂っていた。
冬の風は身を切るように冷たく、この前なんて掛川では滅多に見られない雪までがちらついたいた。
季節は確実に過ぎて行く。
何かをしていても、何もしないでいても、時間は流れて行く。
そして神谷達サッカー部員は、今日もサッカーをしていた。
「帰り、いつもの店に寄ってかないか?」
大塚の提案に、いつものメンバーが同意する。
そんな中で、神谷だけが申し出を断った。
「すまん、オレ今日財布忘れたからパス」
「ラーメン一杯ぐらいなら、余分にあるから貸しておくぞ」
「たまにはおごろうか?」
大塚と赤堀の言葉も振り切って、一人帰路に就く。
しかし神谷は自分が降りるはずのバス停の一つ前で降りてしまった。
通い慣れた道を辿り、久保の家に着く。
呼び鈴を押すと、久保の母親が顔を出した。
「あら、神谷くん、いらっしゃい」
にこやかに中に招こうとしてくれる。
その申し出を急ぐからと辞退して、家から持ってきたリンゴを手渡した。
「久保の具合はどうです?」
いつもの問いに、
「順調よ。でもまだ退院は無理なの」
母親もいつもの答えを、悲しげに答えた。
「…まだ、見舞いに行ってはいけませんか?」
絞り出すような声で訊ねると、久保の母親の表情が気の毒そうな物に変わる。
「ごめんなさい。嘉晴ったら、もう少し経ってからって、なかなか首を振らないの。まったくあの子の強情さと来たら、我が子ながら呆れちゃうわ」
「…じゃあ、また来ますから」
いとまを告げて、今度こそ本当に帰路につく。
何気なく振り返ると、まだ久保の母親が見送ってくれていた。
見舞いすら断られる日々が続く。
会いたい気持ちだけが空回りしている。
病名も今の病状も解らない不安は、神谷をいつも不機嫌にしていた。
お互いに親友同士と認め合っているのに、やけに他人行儀じゃないかと腹が立つ。
それでも考えてみれば、もし自分も病気になって、それも風邪なんてセコイ病気じゃなくってヤバイものだったら、やはり病人になった姿を人には見せたくないだろう。
したしいならなおさら、やつれた姿を見せて心配させたくはない。
だからと言って、今の状況はやっぱり納得できない。
晩ご飯をすませ、テレビを見ているときに電話が掛かって来た。
取ろうとする母親を押し退けて、急いで受話器を耳に当てる。
「はい、神谷です」
期待を込めて名乗ると、
『よかった、オレだよ』
一番聞きたかった声が流れて来た。
こんな風に、久保はいきなり電話をよこす事がある。
決まった時間とか曜日は決まって無くて気紛れに掛かってくるのだが、それでもベルが鳴った途端に何となく久保からのものは分るようになっていた。
「なんだよ、ずいぶんと久しぶりじゃないか。電話ぐらいもっとよこせよ。そのつもりでこの前おばさんにテレカ渡したんだぞ」
『ごめん。なんか最近立て込んでてさ。新しい薬が身体に合わなくって散々だったんだ。悪気は無かった』
「もういいよ。でも心配してたんだぞ」
『ごめん!』
電話の向こうの越は思っていたよりも元気そうで、聞きながら嬉しくなった。
顔が見られないのは寂しいけれど、こうして離せるだけでも幸せだと感じてしまうほど、神谷は久保の存在に飢えていた。
『新学期までには何とかここから出たいし。一緒に二年になりたいもんな』
「出席日数、足りねぇんじゃないか?」
『大丈夫。その辺は学校とも打ち合わせ済みだから』
軽口を叩き合う。
横で会話の様子を見ていた神谷の母親も、そんな息子の表情を見て嬉しそうに微笑んだ。が、神谷に迷惑そうに手を振られると、はいはいと小さく返事をして離れていった。
あれやこれやと正月の話題や部活のことで盛り上がっている内に、久保に少し元気が無い事に気が付いた。
「どうしたんだ?」
『実は仲良くしていた子が死んだ』
寂しげな声が帰ってくる。
「鷹志って子か?」
『うん。術後に感染症を起こして、突然だったんだ。別れも言えなかった』
何度か話題に上っていたその子供は、たしかまだ10歳だった。退院したら、一緒にサッカーしてくれと頼まれていたのに…。
『もうすぐ退院出来たのに、残念だよ』
「そうか…。お前、大丈夫か?落ち込んでないか?」
『ちょっとね。今日鷹志のお姉さんから形見のボールをもらったよ。…オレが退院したらさ、一度で良いからこのボールでサッカーしないか?いまさら4号ボールじゃ小さいのは解ってるけど、鷹志が喜びそうだから』
「そのくらいお安いご用だ。何ならみんなで試合するか?話しておくよ」
『そうして貰えるとありがたいな。まえに大勢でサッカーがしたいって言ってたから』
「じゃあ明日にでも皆に話しておく。だから、お前も早く戻って来いよ」
『解ってるよ…』
そしてお休みの挨拶の後、二人は電話を切った。
電話が切れても受話器を下ろすのが寂しくて、しばらくそのまま耳に当てていた。
久保と話せた事はとても嬉しかった。
しかし鷹志という子供の死が、その嬉しさを相殺してしまった。
久保がこの子にかなりの思い入れを持っていたのは知っている。その子が死んだのだ。かなり気落ちしているのだろう。
―ふと、久保が死んだら、と考えた。
考えに大きく身震いをする。握った拳に、じっとりと脂汗が噴く。
今までに久保の死をまったく考えなかったと言ったらウソになる。
それでもあえて目を背けてきた。
「あいつが死ぬわけないじゃないか。そんな馬鹿な事、冗談でもある訳が無い」
自分に言い聞かせるように呟く。
それでも不安はいつも心の隅に隠れていた。
早く久保に会いたいと思う。このままではどんどん怖い考えになってしまう。
「早く戻って来い。お願いだから…」
願いは誰の耳に届くまでもなく、その場でかき消えていった。
◆◇◆◇◆◇◆
昨晩、神谷に電話をした事で、久保の気持ちは随分と落ち着いていた。
次の治療にはいるまでの二週間は、医者達の目を盗んでボールを蹴ることも可能だろう。
窓の外は、また雪がちらついたいた。
掛川と違って、ここでは良く雪が降る。
―雪の白さはあまり好きじゃない。
音が消え、緑が消え、サッカーをするにふさわしい環境ではないからだ。
「鷹志くん、可哀想だったわね」
母親がリンゴを剥きながら話しかけてくる。
何気なく漏らした言葉に、しかし久保は激しい反応を返した。
「可哀想だなんて言わないでくれないか?」
見詰める目には、非難がこもっていた。そんな視線を浴びて、母親が戸惑う。
「だってまだ10歳だったんでしょ?移植自体は上手く行ってたんだって言うし…」
「それでもオレだったら、可哀想だなんて言われたくない。死んで残念だったと言われても、可哀想がられたくない。…オレはそう思っているし、他の人を可哀想に思うほど慢ぶってもいないよ」
息子が言いたいことを何となく理解して、母親は儚げには破顔した。
降る雪は、地面を薄く覆い始めている。この分だと積るだろう。
天から降りてくる白さは、回りの音を吸い込んで、固まって地に落ちる。
窓から外を眺めていると、一緒に見ていた母親が「もうすぐ春ね」と呟いた。
春にはここから出られるかも知れない。
この前主治医から『春に通院治療に切り替えよう』との返事を得ている。
―しかし、あくまでも見込みだ。病気が完治する訳ではない。
医者とのインフォームドコンセントの結果は、重い現状を告げていた。
久保の白血病は『慢性骨髄性』だった。それも慢性期を過ぎて急性転化に移行しつつある。
今は化学療法で抑えていても、病状が急性転化(急性憎悪)を起こしてしまうと、骨髄移植も不可能になる。待つのは確実な『死』のみ。
自分の病気を恨む時期はもう過ぎた。今は、これからをどう生きるかを考えている。
残してしまうものが多すぎた。
両親・友達・サッカー・夢。そして…
『早く戻って来いよ』
大切な友の声が蘇る。
電話口で告げられた言葉に、出来ることならすぐにも応えたい自分が居る。
狡いかも知れないが、これからは綺麗な想い出だけを作ろうと思う。
綺麗な想いだけを抱えて死のう。
綺麗な想いだけを残して死のう。
どうしても避けられない『死』ならば、見事に生き抜いて見せよう。
「それでも、あいつを置いて逝くのは辛いな」
独り言は、雪に吸い込まれて消えていった。
そして…やがて彼は天使となる。
終わり
医療知識を持った方が見たら「何書いてんの」じょうたいでしょうね(^^;)
一応連載当時の「治療指針」に沿って書いたつもりですが…どうぞお許しください。
1994年7月29日脱稿
初出:やがて彼は愛を求めて天使になる サークル・ECTOGENE
「天の軌道」収録(初版・再版とも完売)