奇跡があることは、掛川のメンバーなら誰もが知っている。
奇跡は決して不思議じゃない。
願う想いが奇跡を引き寄せるものなのだ。
想う心ほど、強いものはない。
想う心が奇跡を叶える。
その人形を見付けたのは、従姉の結婚式からの帰りだった。
通りがかりに何気なく見た輸入雑貨店のショウウインドウに飾られた、小さな裸の天使像。
黒い髪に縁取られた邪気のない微笑み、輝く黒い大きな瞳、健康的な肢体。
背から生えている白い小さな羽根を、今にも飛び立ちそうに広げている。
思わず足が止まってしまった。
「似てる……」
西洋製の陶器人形なのに、なぜか日本人である大好きな人にとても似ている。
馬堀は家に帰ったらすぐに返すと約束して父親から借金をすると、勢いよく店内に駆け込んだ。
手に入れた天使人形を包んだ箱を大切そうに抱える馬堀の顔には、両親が驚くほどの幸せそうな笑顔が浮かんでいた。
その翌日――
「んで、衝動買いしたって?」
ケンジが腹を抱えてゲラゲラと笑う。
もっとも笑っているのはケンジだけでなく居合わせた全員なのだけど。
笑っていないのはトシ一人。人形を手の平に乗せて、複雑そうな表情で眺めている。
「……そんなに似てるかなぁ」
こぼれたトシの言葉に、笑いを止めずにケンジが人形の股間を指さした。
「ここの大きさも同じじゃねーか!」
それはほんの形とばかりに付けられた、小さな小さなおちんちん……。
途端に笑いが高まり、トシだけがさらに表情を曇らせる。
そう、馬堀が買った天使像はトシによく似ていた。
カズヒロとケンジの証言によれば『中学1年の時のトシに、瓜二つ』なのだそうだ。
こうしてトシが人形を持っている姿を見ていると、自分の第一印象が間違っていなかったことが実感できる。
人形とにらめっこをするトシの手から、馬堀が人形を取り上げた。
「自分でも似てると思うだろ?」
悪戯っぽい笑顔を浮かべて話しかけると、恨めしげに睨まれてしまった
「それ、くれ」
人形にトシが手を伸ばす。
「ダメ」
笑いながら拒否すると、愛おしそうに人形を抱え込んだ。
その動作に益々仲間は笑い声を高め、トシは困ったような怒ったような複雑な表情を深めていく。
「からかうの止めてくれよ」
「好きだから、からかうんだよ」
しれっとした馬堀のセリフに、トシから諦めの溜め息が吐かれた。
散々騒ぎながらも、練習が始まると一同はそちらに集中する。
所詮はサッカー馬鹿の集まりだ。その辺の切り替えは自然に出来る。
ただし、私生活がプレイに反映されがちな人間もいた。
言わずと知れたトシである。
『なんなんだよ、まったく』
一年のFW・小菅のシュート練習に付き合いながら、時折カズヒロとパス練習をしている馬堀を見る。
息がぴったり合っている。プレイスタイルこそ違うものの、テクニックも同レベルだし頭の回転の良さも自分とは段違いだ。
たぶんカズヒロなら馬堀の事が理解できるんだろう。
でも自分はダメだ。いつも馬堀には簡単にあしらわれてしまう。
カズヒロのことならまだ解る。昔からの親友だし、それほど気兼ねすることもなくお互いの本音を晒しあえる。
だけれど馬堀相手だと、まるで子供になってしまったみたいに思えてしまう。
仲間として、馬堀を信用している。
でも友人としては?
小菅にボールを蹴り出しながら考える。
ポーカーフェイスに、気の利いた会話。
一緒にいて面白いとは思えるけど、どこか秘密めいていて、近寄る事に躊躇いを感じてしまう。
さっきもそうだ。
あんな人形でからかって、そのくせとても優しい瞳で見つめてくる。
混乱せずにはいられない。
馬堀のことが解らない。
それが、とても心に引っかかる。
『あの人形――、なんでオレに似てる?』
考えながら出したパスは、小菅の足元から大きく逸れ、フィールドの外に転がっていった。
そんなトシの動揺は、彼に近しい者にはすぐさま見て取れた。
「どういうつもりだ?」
カズヒロがパスと一緒に、剣呑な光を帯びた視線を送ってくる。
視線を受け止めた馬堀は、足元に届いたボールを見る事なく、余裕でパスを返した。
「どういうって?」
「トシだよ」
「田仲?」
「どう思ってるんだ?」
真っ直ぐな言葉。カズヒロは馬堀の気持に気付いている。
勘の良さに、感心した。
「お前が想像しているとおりだよ」
「……」」
それまで会話と同じリズムで交わされていたボールが、平松の左足で止められる。
一瞬の沈黙。
しかしすぐにパスが再開される。
「……本気、だよな」
馬堀にだけ届く、小さな声。
カズヒロの問いに目元で微笑み返事の代わりにすると、軽く睨まれた
「トシはね、オレ達の親友なんだ」
「お前と、ケンジのね」
「……」
今度返ってきたのは、ボール半分だけ足元からずらされたパスだった。それを余裕でトラップし蹴り上げ、ヘディングで送り返す。
そのパスを、今度こそカズヒロは足元でしっかり止めた。
二人、真面目な顔で見つめ合う。
沈黙を先に破ったのは馬堀だった。
「安心して良いよ。何かしようなんて考えてないから」
「馬堀?」
何を言い出したのか解らない。
首をかしげたカズヒロに、安心させるように微笑み掛ける。
「あと一年もしたら、きっとオレ達みんなバラバラになるだろ? 少なくともトシとお前は日本を出て世界に行くんだし」
「な……!」
「あ、オレもそのつもり。だからね、今のままで良いんだ。だから安心しなって」
軽い口調でさらりと重大発言をして笑う。
「平松なら、解るだろ?」
カズヒロは何も言い返せなかった。
馬堀は家に帰ると真っ直ぐに自室へ向かった。
ベッドのサイドテーブルに、天使像を置く。
「やっぱりまずったかなぁ。言わなくて良いことまで言っちゃったよ」
トシに似た天使に語りかける。
カズヒロは、ちょっと苦手だ。たぶん本質的なところが似ているんだろう、お互いの行動が何となく読めたりする。
ただしカズヒロの方が正直だ。
「オレってば、私生活もマリーシアだし」
離れ過ぎず、かといって近づき過ぎない。安全な距離を保って、人と付き合ってきていた
人はきっと、自分を明るい調子者と思っているだろう。
確かにそれも性格の一部なのだけど、種を明かせば深入りしないですむように目くらましをしているだけだ。
「日本を出る」と言ったのは本心だ。
最初から日本にいるのは高校の間だけだと決めていた。
本当は日本には長くいないで、ブラジルに帰るつもりだった。
掛川というチームに入らなかったら、とっくに戻っていただろう。
「こんなに水に合うなんて、思ってなかったもんなぁ。それに、トシにも会えたし」
人形の頬を人差し指の腹で優しく撫でる。
「まさか恋に落ちるなんてね。本当、人生なんて解らない」
笑いながらの独白。
最初は左足のパワーに驚いた。
同じクラスになって、普段とプレイ中の姿とのギャップに興味を持って見ている内に、すっかりハマってしまった。
目が離せない。
試合中の鮮やかな姿はもちろんのこと、感情のままにくるくると変わる表情も、優柔不断のせいでドツボにはまってしまう危なっかしささえ、全てを好きだと思う。
今まで何人かの女の子と恋愛をしてきたけれど、その誰とも違う。
今まで好きになった人間の中で、一番大切だと感じる。
出来るなら恋人になりたいけれど――
その想い以上に、トシを守りたかった。
ゲイのサッカー選手なんて、世界的に認めてもらえない。団体競技のチーム内に『自分を肉欲で見るかもしれない者』がいるのは嫌われる。それが現状だ。
たぶん、自分たちの世代の選手は多くが世界に出るだろう。
イタリアに旅立った神谷はその先駆けで、仲間達は数年もすれば世界各地に散るだろう。
トシは世界に出るべき選手だ。
その将来を、気持ちを押しつけることで障害にはなりたくない。
「だからさ、お前、代わりにずっと付き合ってくれよ」
もう一度人形を撫でてから、着替えて食事を取りに部屋を出て行く。
馬堀は気付かなかった。
自分が出て行った後の暗い部屋の中で、天使の羽根がわずかに光ったことを。
そして悪戯な奇跡は起きた。
馬堀が食事を取りに部屋を出たのと同時刻――
食事の前にシャワーを浴びたトシは、自室に入るとクーラーのスイッチを入れた。
季節は秋になったというのに、まだ気温は高い。夕方なんか蝉時雨まで聞こえてくる。
でも夜になった今は、窓の外は秋の虫が鳴く音が始まりつつある。
きっと暑いのはあと少し。 選手権予選が始まることには、涼しくなっていることだろう。
部屋着にしている短パンとTシャツ姿でベッドにダイブする。
練習で疲れた身体に、ベッドのスプリングはとても優しかった。
天井を見上げながら、帰り道でカズヒロから言われた言葉を思い出す。
『馬堀のこと、どう思ってる?』
恐る恐るといった風に、すこし細めた瞳が不思議だった。
「仲間だろ?」
カズヒロに答えた同じ言葉を呟いてみる。
サッカーの時には、頼もしい仲間。クラスメイトとしては話術の巧い、愉快な友達。
そう、その筈だ。
だけれど練習中にも感じていた混乱は、今も確かに胸の内に澱んでいる。
自分に似た小さな天使像を、大切そうに抱えていた馬堀の姿を思い出しながら目を閉じる。
晩ご飯の用意が出来たと呼ばれるまでのしばしの間、微睡むのも良いだろう。
目を閉じたまま、ゆっくり呼吸をする。
照明を点けたままだったので、瞳の裏が赤く見える。
と――
異変は急に訪れた。
急に辺りが暗くなり、違和感に包まれる。
『な、何!?』
叫んだつもりなのに、声が出ない。
それどころか身体が動かない。
『金縛り!?』
焦って身体を捩ると、ほんの少し指先が動いた。
それだけで、妙に落ち着くことが出来た。
暗い中に目をこらす。
目の前に、なだらかな山があった。
いや、山じゃない。布の固まりだ。
と言うか――
『巨大マクラ!』
あの形はマクラに違いない!
『ど、どういう事!?』
せっかく落ち着いたばかりなのに、前以上の混乱だ。
逃げだそうとしたものの、身体がどうしても動かない。
『夢だ、これは夢なんだ』
自分言い聞かせながら、何とか動く指先だけを握り拳にすることで現実感を取り戻そうとする。
どのくらいそうしていただろう。
疲れたのに座り込むことも出来ないもどかしさに泣き出しそうになった頃、不意に明かりが背後から差し込んだ。
最初は細い光だったのが、次の瞬間には大きな縦長長方形になる。
『ひっ!』
声なき悲鳴を上げると同時に、辺りは溢れんばかりの光に包まれた。
そこは大きな部屋の中だった。
全てのサイズが巨大で、まるで巨人の国に迷い込んだガリバー気分だ。
目の前の山はやっぱりマクラだった。
見知らぬ部。様子は自分の部屋とは全く違う。
『何なんだよ〜!』
パニックを起こしているトシの背後から、人の気配が押し寄せる。
『!』
振り向けない上に目も閉じられない。
恐怖に見開いた目の前に、巨大な指が近づいて来た。
諮問の渦巻きが、恐怖を更に煽っていく。
『死にたくない〜!』
握った拳に力を込めた時――
「ただいま」
この声は、知っている。
だけどこんなに優しかったっけ?
拍子抜けして拳を開くと、頬を巨大な指が柔らかく撫でてくれた。
「トシ」
名を呼ばれてビックリする。もし彼だとしたら、自分のことは名字で呼ぶはずなのに?
でもこの声は間違いない!
『馬堀?』
身体全体が大きな陰に覆われて、目の前に巨大な馬堀の顔が現れた。
しかし驚くべきはその大きさでなく、浮かんでいる優しい笑顔だった。
恐怖感は無くなった。
だけど混乱だけはどうしようもない。
『オレ、小人になったの!?』
どう考えたって、そうとしか思えない。
身体が動かないから、今の自分がどんな姿になっているのか解らない。
何とか見える範囲で目をこらすと、自分のすぐ横に絵はがきの入った写真立てがあった。
絵はがきの柄は、夜空を彩る星座を描いたものだった。
ガラスに自分の影が反射している。
そのシルエットは……
『天使!』
思い出す。
練習前に部室で見せられた天使の人形だ。
途端に意識が薄れていく。
気が付くと世界は赤くなっていて、自分のうなされる声が聞こえた。
あわてて目を開く。
見慣れた天井がそこにあった。
手だけじゃなく、身体も動く。
跳ね上がるように別途から身を起こすと、そこは確かに自分の部屋だった。サイズも普通に戻っている。
「夢?」
呟く声に、力はない。
時計を見ると、横になってから30分ほどしか経っていない。
両手をあげ、そっと自分の頬を包み込む。
自分の体温に安心すると同時に、先ほど巨大な指が優しく撫でてくれた感触を思い出した。
あれからというもの、トシはたびたび人形になった夢を見ている。
動けないし口もきけない、ただ真っ直ぐ前を見ていなくてはいけない夢だけど、回数を重ねることでそれにも慣れて来た。
でも、どうしても慣れないこともあった。
「田仲?」
5時限目と6時限目の合間の休み時間にボウッと馬堀を見ていたら、気付かれて名前を呼ばれた。
「あ……何?」
「考えごとか? お前、頭使うの苦手なんだから、無理しない方が良いぞ」
小馬鹿にしたニュアンスを含んだ笑い声。
夢の中と同じ声なのに、ぜんぜん違う。
人形になった自分にはあんなに甘く優しい声で名前を呼んでくれるのに、現実では名字のまま変わらない。
それが何だか悲しい。
自分が人形だという以外は、見続けている夢はとてもリアルだった。
ベッドサイドからくつろぐ馬堀が、とても身近に思えてきているのに……。
部屋の中では、馬堀はとても自然だ。
普段の余裕がある笑みは無く、とてもリラックスしている。
部活でケンジと言い争った日の夜はベッドのマクラを蹴り上げて八つ当たりしたり、テレビのお笑い番組を見ては大笑いし、どこか外国の曲をかけては楽しげにリズムを取り、時折曲に合わせて一緒に歌っている。
何の構えも無い姿は、眺めているだけで楽しくなってくる。
そんな中で、時折見せる表情にどっきりすることもあった。
考え事をしている時の静かな横顔は初めて見るものだったし、天使像に向けられる甘く感じるほどの笑顔には恥ずかしくなる。
人形の自分にとっては、馬堀はとても優しい存在だ。
今では夢を見るのが楽しみになっている。
なのに現実世界では、相変わらず馬堀には距離を感じてしまう。
「具合でも悪いの?」
馬堀がトシのおでこに手のひらを当てて熱を測る。
すっかり夢の中で馴染んでしまった暖かさを、トシは目を半分閉じて確かめる。
「熱は無いな」
離れていく手を見ながら寂しくなる。
「なあ、あの人形、どうしてる?」
すんなりと言葉が出た。
「人形?」
尋ねられた馬堀が思い浮かんだのは、あの天使だ。でもあれを学校に持ってきてからもう二週間近くが経っている。
考え込んでしまった馬堀に焦れて、トシが更に言葉を継いだ。
「オレに似てるって言う、あれ」
「え? ああ、突然なんだよ」
「ベッドの横に置いてるんだろ?」
「!」
驚きに目を見開く馬堀を目の前にして、トシは本能で理解した。
「夢じゃ無かった!?」
混乱のままに立ち上がる。
「トシ!」
とっさに馬堀は『田仲』でなくて『トシ』と名前の方で呼びかけた。
その声に、トシの顔色が変わる。
「人形の横、絵はがき飾って無いか? なんか良くわからない星座が書いてあるやつ」
今度顔色が変わったのは馬堀だった。確かに南半球で見える星座の絵が描かれた絵はがきを写真立てに入れている。それもあの天使の横に飾ってある。
トシを部屋にあげたことはない。なのになんで知っている?
混乱する馬堀の前で、トシは机の横に掛けていた鞄を取り上げた。
「オレ、気持ち悪いから帰る。先生とカズヒロに言っといてくれる?」
青ざめた顔で笑ってみせる。
「! 待って、送ってく」
あわてて引き留める馬堀にアイコンタクトで拒否をする。
「一人で帰れる。まだ授業残ってるだろ?」
「でも」
「大丈夫だから、眠れば解るから」
自分に言い聞かせるかのように呟くと、学級委員にも具合が悪いので早退する旨を告げて、トシは一人で帰っていった。
トシは自宅に帰り着くと、痛み出した頭を押さえながらベッドに俯せた。
『眠れば解る』
呪文のように唱えて何とか眠りにつくと、意識の混濁の後にいつものように馬堀の部屋にいた。
いつもと違って、ちゃんと昼間だ。
枕元の目覚まし時計も、自分がベッドに横になった時間とそう変わらない。
『夢じゃなかったんだ!』
ではなぜ、人形に同化している?
これじゃB級のSF映画だ!
笑い飛ばしてしまいたいのに、この身体背は笑えない。
唯一動かすことが出来る指を、握ったり離したりを繰り返して現実を掴もうとする。
どうやら夢を見ている間だけ、この人形の中に意識が入っているらしい。
やがて日が暮れる。
馬堀はすっかり疲れて重くなってしまった身体を引きずるように、いつもより遅い時間に帰宅した。
トシが参加しなかった部活は、さんざんなものだった。
まずはカズヒロが不機嫌になった。
どんな風に具合が悪かったのかと詰め寄られても、馬堀にだって説明出来ない。
『まるで透視でもしたみたいにオレの部屋の様子を言い当ててから、真っ青になって帰っていきました』と真実を語ってみても、きっと信じてくれないだろう。
第一自分でも信じられなかったのだから。
カズヒロが荒れると、実は誰よりも手が付けられない。
治められるのは、掛西トリオのトシとケンジだけだ。
ところが今日のカズヒロは、ケンジですらなだめることが出来なかった。
おかげで恐ろしくハードになった練習に、部員全員が疲れ切ってしまった。
いつものように、真っ直ぐに部屋に置いてある人形へ向かう。
ベッドに腰掛けて見つめて、そっと指で撫でる。
「一体さっきのは、何だったんだ?」
返事が返ってくるわけではないと解っていても、つい声を掛けてしまう。
「トシ、大丈夫かな」
誰もいないときだけ『トシ』と名前で呼ぶ事が、すっかり癖になってしまった。特にこの人形を買った日からは今まで以上の頻度で名前を口にしているから、意識しないと普段でも名前で呼んでしまいそうだ。
さっきトシが突然立ち上がったとき、とっさに名前で呼んでしまったことには気が付いていない。
人形を取り上げて、じっと見つめる。
「大好きだよ」
本物には言ってはならない告白をして、そっと人形の頭にキスを落とす。
「ははは、オレって馬鹿みたい」
自嘲を含んだ笑い声を上げながら人形を見つめて、ようやく初めて不思議な現象に気が付いた。
「えっ!?」
目の前の人形が、動いたみたいだ。
「人形が動くって、まさか、これ陶器だぞ」
疲れているせいかと目をこらして見ると、人形がゆっくりと指を動かしている。
「わっ!」
思わず悲鳴を上げ人形をベッドの上に投げ出す。
転がった人形は、もう動かない。
「気のせいだよ……な?」
自分を納得させようとしたとき、突然部屋に置いてある電話の子機が着信音を奏で始めた。
人形に同化していたトシは、馬堀に投げ出されたおかげで目が覚めた。
急いで立ち上がり、一階に駆け下りる。
玄関の脇に設置してある電話の受話器を手に取ると、壁に貼りだした連絡表から馬堀の電話番号をチェックしてダイヤルする。
馬堀が受話器を耳に当てて接続ボタンを押すと、前置きもなくトシの声が飛び込んで来た。
『いきなり投げるなんて酷いじゃないか!』
馬堀は一瞬で真実を悟った。
それから小一時間ほど後。
馬堀の部屋には本物のトシが訪れていた。
初めて肉眼で見る馬堀の部屋は、サイズこそ小さくなったものの、すっかり見慣れてしまった場所の光景そのままだ。
真っ直ぐにベッドの横のサイドテーブルに近付き写真立てへと視線を送った後、ベッドの上から天使の人形を取り上げる。
不思議な気持ちだった。ついさっきまでこれは自分だったのだ。
そんなトシの様子を見ながら、馬堀も気持ちが落ち着かなかった。
「本当に、それだった?」
訊ねると、トシが顔を向けてきて真剣に頷いた。
「もう二週間かな。ずっと夢だと思ってた」
「そうだよな、オレだって信じられない」
歩み寄り、トシの手にある人形の頬をいつものように指で撫でる。
その動きに、トシが小さく震えた。
「田仲?」
「『トシ』って呼べよ」
今度は馬堀が身体を震わせた。
「どこまで知ってる?」
質問は自分の想いをどこまで知っているかと言うこと。今となっては赤面ものだけど、人形には正直な気持ちで接していたから――
「大切に扱ってくれて嬉しかった。お前ってば普段と違って優しかったし、撫でてもらうのも慣れてからは気持ちよかった」
「そう言うんじゃなくて……」
「『大好き』って言われたことなら、さっきが初めてかな。夜の間中、人形になってるって訳じゃないから、今まで知らなかったし」
平然と言ってのけるトシに対して、馬堀は今まで見たこともない勢いでうろたえてしまう。
そんな馬堀を、トシは好きだと思った。
「さっきのはそれに言ったんだ」
お得意の笑顔で人形を指さすが、以前と違い馬堀の素顔を知ってしまったトシにはもう通用しなかった。
「そんな顔してもごまかされないからな」
強気に告げる。
しかし馬堀はもう少しあがいてみようと判断した。
「ああ、確かに言ったさ。だけどそれは仲間として好きって事で――」
言葉は途中でトシに止められた。
「オレもたぶん、馬堀が好きだよ」
戸惑うように微笑んでくる。
「トシ……」
「あれさ、キスするほど好きって意味だったんだろ?」
夢と現実と似散々振り回された後、吹っ切ったトシは強かった。
「素直でいてくれる方が、嬉しいんだけど」
手にしていた人形を馬堀に手渡す。
人形の質感に、しばし呆けていた馬堀が現実に引き戻された。
ゆっくりと、笑顔が浮かぶ。
「今更とぼけたって、確かに無駄だよな」
そっと顔をよせ、トシの唇に軽くキスを落とす。
「本当は告白なんかしないで、墓場まで持っていこうと思ってたんだけど」
おどけた口調ではあっても、本心から言ってくれた言葉はしっかり届く。
つい二週間前までは解らなかったのに、自分の変化に驚いてしまう。
馬堀のことが好きだ。
ポーカーフェイスでマイペースな所も、その下に潜んでいた穏やかな優しさも、全部ひっくるめて大好きだ。
でも――
「とりあえず友達から、やってみない?」
微笑みながら馬堀に告げる。
「なんで?」
「だってこんな訳のわからない事で始めるなんて、納得できないじゃないか」
それでなくとも世間一般から見たらアブノーマルな恋愛だ。せめて普通の交際から仕切り直したい。
「了解。よろしく、トシ」
人形を掴んだままの馬堀の手が、トシの背に回る。
そっと抱き寄せて、頬をよせた。
奇跡は決して不思議じゃない。
願う想いが奇跡を叶える。
二人が清い(?)交際を始めてから、トシが天使像と同化することはなくなった。
きっかけを与えて満足したんじゃないかと、それから何度も話にのぼる事となる。
二人の変化に最初に気付いたのは、やっぱりカズヒロだった。
馬堀と部室で二人きりになった機会に、詰め寄りながら文句を言う。
「今のままでいいなんて言ってたくせに、この嘘つきが!」
しかし馬堀にはもう迷いはなかった。
「気持に正直なのが一番だって解ったんだ」
何の飾りもない素直な笑顔で答える。
その笑顔の前に、カズヒロは言おうと思っていた言葉を全て失った。
たぶんそんなに遠くない未来、二人は遠くに離れるだろう。
だけど離れるのは活躍する場所だけだ。心はきっと側にある。
「やっぱりこれのおかげなんだろうな」
あれからもずっとサイドテーブルに置いてある天使像に、慣れた仕草でをそっと触れる。
そんな馬堀を見て、遊びに来ていたトシが楽しそうに声を上げて笑った。
天使と思いこんでいる人形の正体を、誰も気付いていない。
指が動いたのは、元々そこには弓と矢が持てるように作られるはずだったからだ。
人形の本来の名はキュービット。
恋の矢を射り愛する心を芽生えさせるという、翼持つギリシアの愛の神だった。
終わり
2003年8月16日・azure blue発行(絶版)
たまにはトシの方が強い話を書いてみたくてこの話が出来ました。
……う〜ん、何だか微妙な気持ち。
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