ライオンは眠っている

 その日は、まるで夏に逆戻りしてしまったような暑さだった。
 暑さ自体はブラジルでの6年間で慣れているつもりだけども、日本の蒸し暑さは別物だ。大気に充満する湿気の方はどうもいただけない。
 せめて昼休みの間だけでもどこかの日陰で昼寝でもしようと校庭をうろついている時に、部室のドアが少し開いている事に気が付いた。
 誰か居るのかと覗き込むと、影になっていて誰とは判別出来ないけれど、壁に背を凭(もた)れるように床に座り込んで眠っている人が居た。
 どうやら昼寝の先客らしい。
 そして確かにそこは日陰の上に風通しも良く、絶好の仮眠所と見て取れる。
「…おじゃましま〜す」
 小さく声を掛けて、仲間入りすべく部室に入る。
 その途端に感じる不思議な感覚。
 見慣れた部室の筈なのに、始めての場所みたいだ。
 外気よりも涼しい風が吹き込んでいた。
 風には、日だまりの匂いが残っている。
 僅かに薄暗い室内は、外の昼休みの喧噪とは別の時間が流れている。
「となり、失礼しま〜す…」
 目を覚まさない先客を気遣って、足音を忍ばせながら回り込む。
 ついでに誰だろうかと顔を覗き込んだ。
 正体に、思わず吹き出してしまう。
「!…そうだよナ。ここのカギ開けられるのって、そう居ないもんな」
 普段のキツイ表情からは想像もつかないような幸せな寝顔を晒しているのは、キャプテンの神谷だった。
 脱いだ学ランを腹に掛け、熟睡している。
「…なんか、可愛いの」
 思わず傍らにしゃがみ込んで、そっと頬をつついてしまう。
「う…ん…」
 触られる感覚に僅かに身じろいだ神谷の口から、小さな息が漏れた。
 慌てて手を引っ込めて様子を窺(うかが)うと、どうやら目を覚ました訳ではなく、神谷の規則的な寝息は変わらない。
 何となく悪戯(いたずら)心が湧いてきて、そっと身を乗り出す。 
 母親が眠る我が子に送るような、音の出るキスを頬に送る。
 それでも目を覚まさないことを確かめると、調子に乗って唇を重ねた。
 ここまでやれば流石に目を覚ますだろうと、慌てる神谷を想像して心の中でほくそ笑む。
 目を覚ましたらどうやってからかってやろうとあれこれと思いを巡らせて、触れるだけのキスをほんの少し深くする。
―然し、事は真穂利の思う通りには運ばなかった。





「どうしたんだよ?昼寝場所見つかんなかったの?」
 外から帰って来るなり机に突っ伏してしまった馬堀に気付いて、トシが近づく。
「ん…先客が居た」
「で、諦めたんだ」
 空いていた前の席に腰掛けて、馬堀の顔を覗き込む。
 上目遣いに見上げる馬堀と視線を合わせて、いつもと違う沈んだ様子に驚いた。
「!どうしたんだよ?情けない顔して」
「うん、ちょっと衝撃の事実ってやつに気が付いて、動揺してんだ」
「なんだよ、おまえらしくない」
 慰めのつもりで言ってくれたであろうトシの言葉に、微かなシニカル笑いで応える。
「…まったく、オレらしくないよ」
「馬堀?」
 馬堀が視線を逸らせながら、溜息を吐いた。
 そのあまりにもいつもと違う反応に、トシは戸惑ってしまう。
「オレじゃ役に立てない?」
「ん…、こればっかはオレの気持ちの問題だから」
 また溜息が一つ。
 それきり黙り込んでしまった馬堀の髪を、トシがクシャリと掻き回した。
「…トシ?」
 見上げた先のトシに、心配そうな色がありありと浮かんでいる。
 そんな様子にほだされて、周りの級友に気付かれないように気を配りながら、小さな声で告白を始める。
「いや、実は恋煩いってやつでさ。ついさっき自覚したばっかでちょいとまいってんの」
「……そっか、大変だな」
 トシは馬堀の頭に置いていた手を離して、机の上に頬杖を着いた。
 トシも複雑な恋愛をしている事を思い出して、少し気持ちが浮上した。同志が居るというのは心強いものだ。
「で、その娘(こ)は馬堀の気持ち、知ってんの?」
「知らないよ。だってあの人にはもう恋人いるし」
「諦める気?」
「まさか!オレが好きになる相手なんだから、モテて当然だろ?恋敵(ライバル)の一人や二人、蹴散らせてみせるさ」
 笑って見せると、トシからも笑顔が返ってきた。
「そうだよな、その方が馬堀らしい」
 半分呆れたようなトシの返事に被さるように、昼休み終了のチャイムが鳴る。
「オレに出来る事があったら、協力するよ」
 自分の席に戻るべく立ち上がりながらトシが言う。
「いいよ。おまえってこういうのに関しては、てんでダメって知ってっから」
 追い払うように手を振って答えると、途端にトシがムッとした。
「どういう意味だよ」
「その通りの意味。ま、オレの相手を知ったら、そうも言ってられなくなると思うぜ」
 思わせ振りな台詞に、あからさまな困惑の表情が浮かぶ。
「まさか一美じゃ…」
「違うけど、トシも知ってる人だよ」
 ?という表情のまま立ちつくすトシに、ニヤリと意地の悪い笑みを送る。
 その笑みの意味を計りかねているところに次の授業の教師が入ってきて、話はそこで立ち消えになった。





 悪戯のつもりで送ったキスを、神谷は目覚めるでもなく平然と受け止めた。
 拍子抜けして唇を離そうとした時に、その反応は不意にやって来た。
 慌ててキスを解くと、様子を恐る恐る窺う。
 規則正しい寝息はまだ続いていた。目を覚ました様子などは微塵もない。
 では今の反応は?
「…!…」
 思い当たる事があって、首を振る。
 幸せそうな神谷の寝顔を見ていると、何故か心が痛かった。
 なぜ心が締め付けられるのかぼんやり考えていると、やがて一つの答えに行き着いた。
「…そっか、オレ、神谷さんのこと好きだったんだ」
 息をするのも苦しくなる。
 いつもなら、誰かを好きになると嬉しくってワクワクする。
 なのに今回はどうだろう!?
 急にこの切り離された空間に居るのが怖くなって、入ってきた時と同じように、そっと部室から立ち去った。





 桜ヶ丘を大差で破ってからというもの、チームの意気は上がる一方だった。トシに至っては普段は滅多に見せないような『テクニック』まで連発する。
「よーし!じゃ、次はハーフのオーバーラップ練習だ。DF、しっかりカットしろよ!」
 神谷の号令の元、皆が一斉に散る。
「行くぜ、大塚、馬堀」
 後方の平松から送られたボールをトラップして、神谷が走り出す。
 掛川のMFのうち、大塚は主に攻撃(オフェンス)を得意とし、神谷と馬堀は攻撃・防御(オフェンス)のどちらも出来る。このハーフの充実は、掛川の大きな強みだ。
「馬堀!」
 声と共にアイコンタクトで神谷が無人のエリアを知らせてくる。
 同時に大きくボールを蹴り出した。
 真穂利が石橋と新田を振りきってボールに追いつく。
 目の端に、スイーパーの赤堀の動きが見える。
 激しいスライディングをボールをキープしたままジャンプしてかわし、ゴールポスト左上ギリギリにシュートを決めた―と思ったのだが、いかんせん、ボールは白石のパンチングによって弾かれてしまった。
「くっそー!」
 白石を睨み付けると、
「ケッ、十年早いんだよ」
 相変わらずの憎まれ口が返ってくる。
 そんな二人を神谷が一喝する。
「ぼやぼやすんな。もう一本行くぞ!」
 皆は指示通りに戻っていくが、なぜか馬堀だけは神谷の方を向いたままその場に留まった。
「?どうした、馬堀」
 動こうとしない馬堀に、神谷が疑問の視線を送る。
 視線が合い、馬堀が微笑む。
「いつもならゲンコツなのに、今日は機嫌がいいんですね。―夢見でも良かったんですか?」
 からかうような口調に、神谷は一瞬驚いた顔をした後、笑顔で頷いた。
「国立に行く夢を見た」
「誰が?」
「もちろんオレ達に決まってんだろ」
 早く戻れと小突いてから走り出した神谷の背中を、馬堀が追う。
『―夢、ね。国立に行くのはあの人とあなたの一番の夢だったんですよね』
 神谷の背中を見つめながら思う。
『いいですよ。あなたの夢でもあるんだから、叶えて見せます』
―それに元々負けるのは嫌いなタチだから。
 口元だけで軽く笑う。





 重ねた唇が、不意に軽く開かれた。
 まるで誘い込むようでいて、あくまでも自然に。
 その人の無意識の慣れた動きに、衝撃を覚える。
 そして心が痛かった。





「恋敵(ライバル)が死んだ人、っていうのはズルいと思わないか?だって一番良い想い出だけ残して、嫌われることなんか絶対無いんだぜ」
 練習が休憩になり、近付いてきたトシに言う。
「馬堀の好きな人って、そういう人なんだ」
 しばし考え込んで、不意に昼間の会話が甦る。
「…!?オレも知ってて恋人が死んでる人って、まさかお前が好きなのって、北原さん?!」
 トシの反応に、馬堀は人の悪い笑顔を向けた。
「惜しい!ちょ〜っと違うなぁ」
「違うって…おい…?」
 今度は深く考え込んでしまったトシに、出血大サービスの大ヒントを与える事にした。
「サッカーが大好きで、もちろんプレーも上手い、ニキビ顔の年上の人さ」
 途端にトシの顔が蒼ざめて行く。
「――それってまさか…」
 視線が神谷の方に泳ぐ。
「そっ。その人。―協力してくれる?」
 ブンブンと首を横に振るトシの様子に、馬堀から軽やかな笑い声が発せられた。
「な?まぁトシには無理だって思ってたよ。―そうだな、ジャマしないでくれるのが一番の協力かなvvv」
 目を丸くしたまま無言でコクコクと頷く返事に、馬堀は満足そうに微笑んだ。
「オレ、絶対にあの人の『一番』になってみせるから」
 決意を言葉に乗せると、俄然元気が出てきた。
「取り敢えずは、国立に行こうぜ。期待してるよ、おまえの左v」
 ウインクしながら言うと、トシの返事も待たずに神谷の方へと足を向けた。





 あと三ヶ月早く帰国すれば会えた久保喜晴という男は、とにかく凄い人だった。
 サッカーは勿論のこと、性格も良かったらしく、誰に訊いても尊敬や憧憬を込めた答しか返って来ない。
 ただ一人、神谷からだけは話が聞き出せなかった。
 誰かが久保の話を始めると、会話に加わる代わりに、寂しそうな愛しそうな不思議な瞳で黙り込む。
 そんな様子を目にするたび、神谷にとって久保がどんなに大切な存在だったかを想像したものだ。
―だから―無意識の内に返されたキスの、本当の相手が解ってしまった。
 無防備に受け入れてしまう程、未だに心はその人と共にある。





 大塚と話し込んでいる神谷に近付くと、馬堀はわざと腰を屈めて、下から覗き込むように見上げた。
「何だ?」
 不信感もあらわに見下ろしてくる神谷に、満面の笑顔を送る。
「神谷さん、さっきの国立に行く夢の話ですけど、久保さんも出てきませんでしたか?お祝いのキスなんかされちゃったりしてv」
 馬堀のからかい口調に一瞬ギクリとした後、神谷は烈火の如く怒りだした。
「馬鹿野郎!休憩中とはいえ今は練習中だぞ!そんなくだらない事言ってる暇があるんだったら、グラウンド10周して来い!!」
 凄い勢いで振り下ろされるゲンコツを余裕で避け、軽やかにウインクしてみせる。
「本当に夢が叶ったら、オレがキスしてあげますよvvv」
「…部活が終わったら、一人でボール磨きやっとけよ!」
「解りました〜v」
 青筋を立てて怒る神谷を見て、馬堀は心から楽しげな笑い声を上げて、グラウンド10周に出発した。
 そんな様子を逐一目の前で目撃してしまった大塚が、深い溜息を吐く。
「おまえ、苦労すんナ」
 しみじみ言うと、神谷が噛みつかんばかりに掴みかかって来た。
「まったく一年どもときたら、なんでこんなに問題ある奴ばっかりなんだよ!」
「…おまえだって、去年は結構問題ありだったぜ」
 大塚の呟く声は、怒り心頭に発している神谷には届かない。
「オレはガキのお守りは得意じゃねぇんだ!」
「………」
―久保じゃあるまいし、オレだっておまえのお守りは得意じゃねぇよ。
 大塚は、心の中でぼやきを押し止めた。





 自覚した恋心から、痛みと愛おしさが溢れていく。
 眠っているあの人の傍らに、自分の場所を作りたい。
 目が覚めた時に、一番最初に微笑み掛けてやりたい。
 そう出来たなら、きっと自分達は誰よりも幸福になれるだろう。





 走りながら神谷に手を振ると、凄い形相で睨み返されてしまった。
 然しそれぐらいでへこたれるような馬堀ではない。
―だって、恋は始まったばかりなのだから。




                                        終わり



                         1994年9月22日・執筆
                         初出:Ficar Feliz
                         (サークル「俺たちドリーマーズ」さま)
                         再録本 REMIXES<omnibus>収録(完売)