レギュラーも決定し、インターハイ予選に向けて、掛高サッカー部の練習も一段と熱が入っている。
特に一年生の参入は、刺激になっていた。
田仲のシュート力は『秘密兵器』の名に恥じないし、平松の超高校級のテクニックは久保に引けを取らない。佐々木の俊足もウイングとして最高のものだ。
さらにGKに白石という強い見方を得、二年は中盤のゲームメイクとDFに徹することになったのだが、それが予想以上に上手く行った。
ネックだった守備力の強化が解決し素早い攻撃が可能になり、チームバランスが良くなった。
それにより個人技も生かし易くなる。
これこそ、掛高の目指すサッカーの一つの形だった。
ただし、その指導に当たる久保の練習時間は、確実に減ってきている。
「そろそろ我慢も限界じゃないのか?」
柔軟体操に付き合いながら、神谷がからかうように訊ねると、
「入院してる事と比べれば、天国みたいなものさ」
背中合わせで笑って答えた。
こんな風にまだ他の部員が来ていない早朝と、皆が帰った後の夕暮れが、久保と神谷の練習時間だ。
「神谷がつきっきりで練習つけてくれるから、オレとしてはすっごく幸せなんだけどな」
半分本気で呟くと、
「馬鹿言うんじゃねぇ!」
神谷が思いきり勢い良く背負い投げに入る。
しかし慣れたもので、久保は着地を綺麗に決めた。
「神谷〜、酷いよ〜」
「オレは悪くないぞ」
「もっと優しく扱ってくれたって良いだろ?オレ達の仲じゃないかぁ」
拗ねたように言うと、途端に神谷が顔を真っ赤に染めパンチを繰り出してくる。それをヒョイとかわすと、怒りも露わに睨み付けてきた。
「…誰か居る時にそんな事言ってみろ、二度と口きいてやんないからな」
「なんで?」
「言わすな!」
完全にへそを曲げて、神谷は腕組みをすると身体ごと久保から顔を背けた。
そんな神谷の背後から、久保はそっと腕を回して抱き寄せた。
「ごめん、気をつける」
耳元に口を寄せて囁くと、腕の仲で神谷がもがいた。
「解りゃいいんだ。離せ!時間がもったいない。皆が来る前にさっさと練習しようぜ」
腕から抜け出してそう言う神谷の顔は、まだほのかに紅色のままだ。
そんな様に、久保橋は幸せを噛み締めてしまう。
「なにニヤついてんだ!行くぜ!」
何とか気を取り直して、神谷がボールを蹴ってくる。
真っ直ぐに飛んできたボールを胸でトラップすると、二人でパス練を始めた。
そう、実は久保と神谷はお互いを『友達以上』と認め合っていた。
『親友』とか『恋人』なんて言葉では簡単には括れない、『絶対無二』の存在。
愛しくて、お互いが自分以上に大切だった。
離れたくなくて、一つになりたくて、身体まで重ね合った。
深い想いが、確かな実感を求めて起こした行動だ。
…肉欲が全く無かったと言えば嘘になる。
それでも二人にとっては、それは必要な事だった。
後悔は、無い。
ただし二人きりになると、久保が神谷に甘えまくるようになったけれども…。
ボールを追っているうちに、一人二人と部員が加わって来る。
決められた練習開始時間には、全員がフィールド上を走り回っていた。
威勢のいい声が、辺りに響く。
皆がサッカーを楽しんでいた。表情が輝いて、つまらなそうにしている者は誰も居ない。
久保も早速、部員達の指導を始めた。
こうなると久保は大忙しになって、自分のメニューどころでは無くなってくる。
「…ったく、しょーがねぇな」
そんな様子を見て、神谷は誰にも聞こえないぐらいの小さい声で呟いた。
放課後の練習も、久保は部員の指導だけで部活を終えてしまった。
七時を過ぎ皆が帰ってしまったグラウンドには、下校を促すアナウンスが流れ始めていた。
ここに残っているのは、久保と神谷の二人きりだ。
「おい、お前、まだ暴れたりないだろ」
シュート練習に付き合いながら、神谷が訊ねる。
「?なぜ」
「結局今日も、お前の練習は殆ど出来なかったじゃないか」
「?」
「…だから、場所を変えよう」
言うと、神谷はボールを足で止めた。
久保はいったん家に戻ると、夕食を済ませてから、改めて神谷との約束の場所へと向かった。
不思議な程、静かな夜だった。
まだそんなに遅くない時間だというのに、道を歩いていても誰にも出会わない。
街灯に照らされて足元から伸びる影が、長くなり短くなり、唯一の道連れとなっている。
ネットに入れて下げているボールが、歩くにつれて揺れて背中に当たり、軽快なリズムを刻む。
その音がまるで今の気持ちを表しているようで、少し恥ずかしい気もする。
それでも、うきうきしてしまう事は抑えきれない。
頬に当たる風も、夜の冷気も、全てが生きている実感として伝わってくる。
そして、待っていてくれる人が居た。
「遅い!」
国道沿いにある公園の入口で、神谷が待っていた。
待ち合わせの時間からそう遅れてはいないはずなのに、不機嫌さが漂ってくる。
「ごめん。出際に母さんに見つかっちゃって、厚着させられてた」
見ると、確かに重装備になっている。
ポロの上から春物のセーター。さらにはジャンパーまで羽織っている。
いくら夜はまだ冷えるとは言え、見ている方が熱くなる。
「いくら何でも、着過ぎじゃないか」
「どうもまだ病人扱いする癖が抜けてないらしい」
肩を竦めて見せると、漸く神谷に笑顔が浮かんだ。
この公園は、昼間は人も多いが、夜間は全くの無人となる。
町外れにあるので、多少騒いでも文句は言われない。たまに犬の散歩に誰かが来る位で、アベック達のデートコースからも外れていた。
夜間は止められている人工滝の前を横切り、奥の広場に向かう。
街灯に照らされた広場は、ゴールポストこそ無いものの、整地されていて絶好の練習場だ。
中学の頃から、二人は度々この広場で夜間の練習をして来ていた。―それも、久保の入院でここ半年ほどは中止していたけれども…。
「何からやる?」
ボールをネットから取り出しながら久保が訊くと、
「お前のしたいように任せるよ」
脱いだカーディガンを側の立木に引っかけながら、神谷が答えた。
二人で無心にボールを追う。
久保から神谷へ、神谷から久保へ。
ワンツーリターン、シザーズパス、大きく上げてオーバーラップ。あらゆる場合を想定して、アイコンタクトでプレーを繋げる。
まるでボールが生きているように見えた。
居ないはずの相手チームの選手が見える。
声を掛け合わなくても、お互いの動きが解る。
思った通りの場所に、相手が走り込んでいる心地良さ。面白いぐらいにパスが通り、帰ってくる。
真剣な瞳が、互いを見ている時だけ少し緩んだ。
「あ〜、気持いい!」
練習を中断し、広場から少し離れた木陰のベンチに腰を掛け、久保はジャンパーとセーターを脱いだ。
「いきなり薄着になると、風邪引くぜ」
呆れながら、神谷が手に持っていた自分のカーディガンを羽織らせてやる。
「神谷の匂いがする」
久保は嬉しそうに前をかき合わせた。
「…お前、ほんっとに二重人格だな。一年共の前じゃ立派なキャプテンしてるくせに」
隣りに座りながら溜息を吐くと、
「神谷の前じゃ、オレは『久保嘉晴』だよ」
にっこりと言い返されてしまった。
言われた方が恥ずかしくなって、視線を外す。
その視界に、やや大きめの池が入った。
池は公園が出来る以前からあったものだそうで、窪地になった底の方で濁って横たわっていた。
昼に見るとお世辞にも綺麗とは言えないけれど、夜にこうして見ると暗い鏡のようになっていて、夜空の星と月を映し込んでいて美しかった。
三日月の光が水面を揺らし、まるで光の舟が浮かんでいるように錯覚する。
いつの間にか神谷は、その光景に心を奪われていた。
黙り込んでしまった神谷の様子を窺うと、どうやら一心に池を見ている事に気が付いた。
池は月の光でぼうっと輝き、不思議な雰囲気を漂わせている。
しかし久保は、池に見入る神谷の方から目が離せなくなっていた。
普段はガキ大将のようにきつい表情が、こうして静かな表情を浮かべる事により、はっとするほど大人びて見えた。
そしてふと思う。
神谷はこれから大人になっていく。毎日を積み重ねて、未来へと人生を歩んで行く。
今はこうして一緒にいるとは言え、果たして後どのくらい同じ時間を過ごせるのだろうか?
白血病は、今は上手く化学療法で小康状態を保っているが、骨髄提供者が見つからない限り、いつその暴力的な破壊力で命を奪って行くか解らない。
不安に襲われ、久保はそっと神谷の頬に指先を伸した。
いきなり背後から、甲高いサイレンの音が響き渡った。視界の隅に、赤い警告灯が回っている。
振り向くと、国道を挟んだ向かい側にある消防署から、救急車が凄い勢いで飛び出していく。
「やだな。どこの家だろう」
我に返った神谷が久保の方に向き直ると、じっと見詰めてくる視線とぶつかった。
たじろいだ所を、伸された久保の指先が留めた。頬をそっと撫でられる。
「…久保?」
掠れた声で呼びかけても、返事は返ってこない。
黙ったままの久保の瞳に、何故か哀しみを感じてしまう。まるで孤独の寂しさを噛み殺しているような表情だ。
「どうしたんだよ…」
頬に当てられた指に手を添えると、それを合図とするように久保が神谷を抱き締めた。
あまりの必死な様に、振り解く事も出来ず、神谷はおとなしく胸に抱き込まれた。
救急車のサイレンが町の中に溶け込み消え去った頃、神谷の唇は久保のもので塞がれていた。
息を継ぐ事も忘れるぐらい、深い口吻を交わす。
互いの背に回された腕が、息継ぎの度に力を抜いて行く。昂ぶる身体と反比例して、心は次第にリラックスして行った。
口吻が自然な物に変わった時、池から風が渡って来た。
風は二人の髪を揺らし、側の木の葉をざわめかせた。
「風が、出て来たな」
口吻の合間に神谷が呟くと、
「…黙って」
久保は耳元で囁いた。
いつしか背に回されていた腕は、感覚を追い上げるように彷徨い始めた。
周囲を気にしながらも、指先が大胆に動き始める。
それでも声を抑えてしまうのは、やはり羞恥のせいだろう。
上がりかかる嬌声を噛み殺し、荒い息遣いだけで熱を発散させようとする。
しかしその行為は余計に身体の中の熱を煽り、もどかしさに身を捩らせる。
耐えきれないと言うように神谷が腰を浮かせた所を見過ごさず、久保の手は素早く神谷のズボンを下着ごと下ろす事に成功した。
外気に晒されて、神谷が我に返る。
「!お前、まさかこんな所で…」
抗議の言葉は、久保の真剣な表情で止められた。
「…だめ?」
一瞬息を飲んだ後、神谷は小さく息を吐いた。
「手加減しろよ。声を出さない自身なんて、無いからな」
言外に許しを読み取り、久保は嬉しそうに破顔する。
「大丈夫、誰も来ないよ」
久保の言葉に、神谷が少しムッとした。
「来ないことを願うぜ。こんな事、誰かに見られたら…」
「オレは知られても構わないんだけど」
躊躇いも無く言う久保に、
「…オレは面倒事はゴメンなんだ」
ブスくれたまま、神谷はそっとキスを送った。
「…ぁ…ふ…」
噛み殺せなかった声が、小さく漏れる。
久保を受け入れ、紙屋の背がベンチの上で綺麗に撓る。
胸の上までたくし上げられたトレーナーから、硬く色付いた乳首が覗く。
久保は紙屋の苦痛を気遣いながらも、より一層の繋がりを求め、方に乗せた神谷の右足を更に大きく持ち上げた。
開かされて深くに招き入れ、痛みと喜悦に翻弄された神谷は、久保の背に強くしがみ付いた。
カーディガンの上から立てられた爪が、柔らかく食い込んだ。声が出せない分、その力は強くなってしまう。
「…神谷、もっと力を抜いて…」
自分の背の痛み以上に、力がこもる事により増す神谷の負担を思い遣って声を掛ける。
上気した瞼に縁取られた瞳が、そっと開かれた。熱に浮かされながらも、真っ直ぐに久保を見詰める。
震える指先からそっと力を抜くと、神谷は苦痛を抑えて微笑んだ。
「そんな心配そうな顔すんなよ。…オレは大丈夫だから」
手を久保の首の後ろ仁回す。
誘われるように、久保は神谷に口吻た。
互いの呼吸に合わせ、ゆっくりと腰を使い出す。
深く、浅く、優しく穏やかに。
既に馴染んだ久保の律動に敏感な場所を刺激され、痛みを忘れ快感のみに浮かされて神谷の表情が艶やかに緩む。―自分しか知らない表情に、久保は愛おしさを感じるままに何度もキスを落した。
抑えることが出来なくなってしまった喘ぎが、夜の公園に流れる。
やがて頂点を極めた久保が神谷の中に溶け込むと、一瞬遅れて神谷も己を解放した。
行為の最中に公園を訪れる者は誰も無く、二人を見ていたのは空と池に浮かぶ二つの月だけだった。
しばらく互いを抱き締め行為の余韻に浸った後で、二人は身繕いのために公園の中の公衆便所へと向かった。
規定に清掃されたそこは、照明も明るく、何となく去年の夏合宿に使った宿舎と似ていた。
「背中が土だらけだ。あのベンチ、相当汚れてたぜ」
流しに張られた鏡に、背中を映して神谷がぼやく。
「おい、お前のせいなんだから、拭けよ」
濡らして絞ったハンカチを差し出す。
背を向けられて、言われるままに久保は神谷の背を拭いた。
鍛えられた背筋が、久保の目を射る。
―病気とは無縁の、健やかな身体。
拭きながら、久保の心に哀しみが去来する。
「久保?」
声を掛けられて顔を上げると、鏡の中の神谷が心配そうに見ていることに気付く。
「どうしたんだよ、そんな顔して」
鏡の中の神谷がゆっくりと後ろを向くと、本物の神谷が正面を向いた。
至近距離で見詰められ、少したじろぐ。
そんな久保の様子に心配の色を深める神谷に対し、安心させるために微笑みかける。
「…いや、明日の朝練、大丈夫かなって思って」
何を今更というように、神谷が肩を竦める。
「そんなんで、いちいち深刻な顔するなよな」
呆れて見開いた瞳と笑いを堪える口元が、久保の自然な笑顔を引き出した。
「だって神谷が動けないんじゃ、オレは誰に練習を見てもらえばいいんだ?」
笑いながら神谷を抱き締めると、
「馬鹿な事を言ってんじゃねえよ!」
言葉のきつさとは裏腹に、神谷も笑いながら久保の髪の毛を掻き回した。
どのくらいふざけ合っていただろうか、やがて神谷が久保の腕から逃れようともがきだした。
「神谷ぁ、もう少し抱かせてくれよ〜」
「いいかげん寒いんだから、服着たいんだよ」
腕を伸して流しに置いたトレーナーを取ると、そのまま久保の顔に押しつける。
「邪魔すんじゃねえよ。さっきまでさんざっぱら抱きついていたくせに」
神谷の台詞に、トレーナーから顔を離した久保が、そう言えばそうだったかという風に頷く。
「でも…やっぱりもう少し抱いていたいから、服着たらもう一度抱き締めさせてくれよ」
これには神谷も真剣にコケてしまった。
「くぼぉ…」
力の抜けた呼びかけに、
「神谷、愛してるよ」
にっこりと最上級の笑顔とキスで答える。
「…恥ずかしい奴…」
脱力した神谷は、トレーナーを着ると、逆らうことなく久保の腕の中に収まった。
鏡の中に、神谷を抱き締める自分が映っている。
神谷が見ることが出来ない表情は、我ながら情けなくなるほど哀しそうだった。
―いつまでこうしていられるのだろうか?
腕の中の温もりを感じながら思う。
不安が、神谷の背に回した腕に力を込めさせた。
「大好きだよ…神谷は?」
耳元で囁くと、
「…お前と同じだよ!解ってるだろ」
顔を肩先に埋めたまま、照れをごまかすような小さく怒鳴る答えが帰って来た。
神谷の答えに、鏡の中に映った久保の表情に、明りが灯ったような笑みが浮かんだ。
それは、何処か月の光に似ていた。
終わり
★この作品に出てくる公園が、生涯学習センターの目の前にある「北池公園」です。
聖地参りをする時には、必ず訪れるお気に入りの場所の一つv
夜中に行った時、人目がないのを良いことに男子便所まで取材しました…(笑)
1994年11月26日脱稿
初出:INNOCENT
EYES サークル・K's
「天の軌道」再録(初版・再版とも完売)