冬でも滅多に雪が降らない掛川だが、やはり夜中の外は寒い。
『車で初詣、かぁ?』
さっきから何台目だろう。
徒歩で近所の神社に向かっていた神谷は、ダッフルコートの襟元を直しながら、心の中で何度目かの文句を言っていた。
別に信仰心なんか持ってやしない。きっと大多数の日本人もそうなんだろう。
なのに、正月だ盆だ、果てはクリスマスにハロウィンだと騒ぎまくる。
『いったい何をし信じてるんだ?』
そこまで考えて、自虐の笑みを浮かべた。
『オレ、これから初詣に行くんだよな』
頭に手を当てて、自分の滑稽さに目眩を覚える。
両親は『御来光を仰ぐ』と、富士山登山に向かった。
中2までは付き合ったけれど、中3からは留守番を洒落込んでいる。――この二年、大切なパートナーとサッカーをして過ごす正月は、なんと楽しかった事だろう。
そう、パートナー。
人間不信から誰とも近い関係になろうとは思わなかったのに、いつの間にかドイツから帰ってきたあいつが、失いたくない大切な『相方』になっていた。
なのに、今、あいつは側にいない。
病気のために入院中で、見舞いに行きたくても断られる日々が続く。
曰く―
『弱っている所を見られたくない』
―…ああそうか、とは思う。
オレだって弱っている所なんて見られたくない。
それでもやぱり腹が立つ。
『男同士であ〜んな事もこ〜んな事もしたくせに』
身体が、覚えている。
心が、憶えている。
忘れられやしない。
ほんの二ヶ月前までは、どんなに拒もうが与え続けられていた結びつきだった…が…今ではきっと、一撫ででも触れられてしまえば離れられなくなる。
冷え冷えとした空を仰いで、胸の奥で叫んでみる。
『馬鹿野郎ー!』
空は知らん顔で星を瞬かせてくれた。
無言で叫ぶ神谷の横を、何台目かの車が通り過ぎようとする。
しかしその車は、いきなり急停車をした。
「な、何だ?」
思わず声を出してしまった神谷の前方10m程の所で、乗用車のドアが開けられた。
「…神谷?」
忘れられない声が、聞こえる。
車から、一時も忘れられなかった姿が降り立つ。
「久保…」
「神谷!」
走り寄って来た姿を、信じられないような面もちで迎え入れる。抱き込まれ伝わってくる温もりが、驚くほど暖かい。
本当にその人なのだろうかと恐る恐る背に腕を回すと、抱きしめてくる力が強くなった。
「…おい、苦しい、離せ」
「ああ、本当に神谷だ」
「おまえ、いつ退院したんだよ」
「ん、昨日の夜。でも3日までの一時帰宅だよ」
「―なんだ、治ったんじゃないのか」
「あともう少し…。そう、もう少しだから」
「解った。解ったから離せよ」
「あ…あ、ごめん」
力を込め過ぎた事に漸く気付いて、久保が慌てて身を離す。
遠ざかる温もりに、ひどく寂しい思いがした。
「こんな夜中に一人でどこに行くんだ?」
「初詣に決まってんだろ」
「あ…そうか」
「おまえの所もだろ?車で行く位なら遠出か?」
「うん。法多山(はったさん)まで。―!そうか、神谷も一緒に行かないか?」
見返してくる瞳が、夜目にも期待に輝いているのが解る。
口元まで『一緒に行く』と出掛かった。
しかし出た言葉は断りの台詞だった。
「スマン。法多山じゃ何時に帰れるか解らないからな。留守番だから、早く言えに帰んなきゃ」
言いながらも、なんで自分はこんな事を言ってしまうのかと悔やんでいた。―少しでも一緒に居たいくせに。
断られて、久保の表情が曇っていく。
そして気が付いた。
久保から受ける印象が『細く』なっている。
「―痩せたか?」
肩に手を置いて訊くと、
「ほんの少しだけ…な」
困ったような笑みが返ってきた。
会えない自分の辛さばかりに捕らわれていた事に、おかげで気が付いた。
―こいつの方が、ずっと辛い目に遭っている。大好きなサッカーも出来ず、病院に閉じこもって…。
思わず抱きしめようとしてしまった時に、車のクラクションが鳴らされた。
「ほら、呼んでるぞ。あ、おじさん達にも新年の挨拶しなくちゃナ」
久保の身体を車の方に押しやりながら、一緒に車へ向かう。
すると、急に久保が手を叩いた。
「法多山やめた!オレも神谷と一緒に行く」
「「はぁ?」
「どこで済まそうが初詣には変わんないもんな」
「おい、久保ぉ?」
「込んでる法多山に行くよりも、近場でさっさと済ませた方が、身体に負担かけないだろ?」
そこまで言って神谷の耳元に口を寄せ、囁く。
「少しでも一緒にいたいんだ」
言われて呆れた後に、笑いの発作に襲われた。
『なんだ、お互い様かよ』
久しぶりの心からの笑いが、とても気持ち良い。
「その笑いは、どういう意味なんだよ」
「いや、気が合うなって思ってさ」
神谷の答えの意味を悟って、久保は心から嬉しそうな笑みを浮かべた。
久保の両親を丸め込む様は見事だった。
積る話もあるからおとなしく神谷の家で待っていると、にこやかに約束する。
走り去る車のテールランプを見送って、二人は並んで神社に向かった。
目的地が近付くにつれ、参拝客の数は更に多くなった。
はぐれないように肩を寄せ合って無事に参拝を済ますと、鳥居の側で振る舞いの甘酒を貰った。
「どうせなら御神酒の方がいいのに…」
神谷は文句を言いながらも、湯気の立つ紙コップを両手で包み込むようにして、甘酒を少しずつ口に含んだ。
―本当は甘い物はあんまり得意じゃない。でも初詣の甘酒は、ちょっぴり気に入っていた。冷えた身体の内側からゆっくり温まっていく感覚は、とても気持ちが良い。
隣の久保はと見れば、とても美味しそうに甘酒を飲んでいた。
「なんだ、こんな特典があったんだ。これから毎年、初詣はこっちにしよう」
「おまえ、意外に甘いの好きだもんな」
「おかわりもらえないのかな?」
「飲みかけで良ければ、これやるよ」
「サンキュv」
自分のコップを左に持ち替え、右手に神谷のコップを受け取って嬉しそうに笑った。
子供じみた動作が、なぜだか似合っている。
そんな久保に、思わず見惚れてしまう。
手にしていた暖かさは消えたけど、甘酒から与えられる以上に神谷の身体が暖かくなった。
「なぁ久保、それ飲んだら早く帰ろうぜ。いっぱい話したい事がある」
「ああ、そうだな」
目の前の神谷の微笑みに、久保の笑みが更に広がっていく。
辺りを見回して人が見ていないのを確認し、久保は顔だけを寄せて素早く神谷に小さなキスを送った。
「神谷、明けましておめでとう」
「バ…馬鹿!」
軽く睨み付けてくる神谷を平然とやり過ごし、久保はゆっくりと甘酒を飲み干した。
帰り道の会話は、会えなかった二ヶ月の空白を埋める事に始終してしまった。
部活やクラスメートの事、病院での出来事やたっぷり出されている宿題の事。―どんな他愛のない噂話も、二人にとっては貴重な物だ。
神谷の家への道のりは、あっという間に終わってしまった。
留守にしていたのは1時間半程だったのに、家の中はすっかり冷え切っていた。
出かける寸前まで居た自室が少しだけ暖かいと判断して、久保を部屋に通す。
ストーブを点けると、灯油の独特の香りが漂った。
「なんか適当に見繕ってくるから、座ってろ」
神谷はそう指図すると、さっさと部屋を出ていってしまう。
「ちっとも変わらないな」
―神谷も部屋も変わっていない。
たった二ヶ月でそんなに変わる訳ないと頭では解っていても、入院中ずっと不安だったのだ。
見回した部屋の中で変わったのは、カレンダーだけかもしれない。まだ破られていない表紙から、笑顔の女の子がこちらを見つめている。サッカー尽くめの部屋の中で、そこだけが何となく華やいでいた。
「可愛いタイプが好きなのも変わってない…か」
ちょっと苦笑い。
両手が塞がった神谷が足でドアを開けた時も、久保はカレンダーを見ていた。
「ん?あ、その子可愛いだろ」
ガラスのテーブルにお盆を置きながら、神谷が訊いてくる。
「そうだな。モロおまえの好みだな」
「だろ?こんな子が彼女だったらいいよナ〜」
「オレで悪かったな」
「フン!心にも無いこと言って」
口調とは裏腹にニコニコ笑いながら、拗ねた久保の手に御猪口(おちょこ)を押しつける。右手にはしっかりと熱燗の入った徳利(とっくり)があった。
「おい、オレは病人だぞ」
「いいじゃねぇか一杯ぐらい。正月にお屠蘇(とそ)はつきものだろ」
軽く睨み付けて有無を言わさず酒を注ぐ。
久保は仕方なく一気に飲み干すと、徳利を奪って、神谷に空になった御猪口を手渡した。
酒を注ぐと、神谷も一気に飲み干した。
「たまには日本酒もいいよな〜。日本人に生まれて良かった、って思わないか?」
本当に幸せという表情に、吹き出してしまう。
「そう・だな。他の国だったら神谷に会えなかった」
「おまえ、相変わらず真顔で恥ずかしいこと言うな〜」
「せっかく久しぶりに二人っきりなんだから、このくらい言わせてくれよ」
「当たり前だ。誰かの目がある所で言ったら、その場で絶好だぞ」
「それは困る」
「じゃ、せいぜい気を付けるんだな」
ニッカリと笑って、もう一つ持ってきていた御猪口を久保に渡して酒を勧める。
「病院に戻ったらこんな悪さ出来ないんだろ?今のうち飲んどけよ」
「でもさ…父さん達が迎えに来た時、酔っぱらってちゃまずい」
「大丈夫だって。法多山だと今日なんかは道も駐車場も混んでるだろうし、参道登ってお参りするだけでも一時間はかかるから。ま、早くてあと三時間は帰って来ないな。それだけありゃ、いくらなんでも酒も醒めるさ」
なおも渋る久保に酒を勧める。
しかし久保は御猪口をテーブルに置いてしまった。
「なんだ、オレの酒が飲めないって言うのか?」
まるでオヤジのような台詞に苦笑する。
「そう言う訳じゃないんだけど…」
「オレ一人で飲んでちゃ馬鹿じゃないか」
「だって三時間しかないんだ」
「?」
「神谷…触っていい?」
「!」
いきなりの問いに、徳利を持つ手が止まる。
「駄目か?」
不安げに見詰めながらも、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が、神谷の頬に触れる。そのまま手のひら全体で包み込むようにした。
『暖かい』
お互いに最初に思ったのは同じ事。
触れた手頬が、触れてきた手が、とても暖かい。
神谷は手にしていた徳利をテーブルに置くと、そっと目を閉じた。―そうする事で暖かさだけに集中できる。
目を閉じてしまった神谷の無防備な姿に、久保は図に乗る事にした。
頬に触れた手はそのままに、テーブル越しに身を乗り出しキスをする。
驚いたのは最初だけ。すぐにキスは当たり前のような自然な物に変わって行く。
「おい、触るって、どこまで触る気だよ?」
キスの合間に苦笑いしながら訊ねる神谷に、触れ直す度に深いキスに変えながら答える。
「三時間分…じゃ駄目か?」
「二時間だ。証拠隠滅の時間もいるだろ?」
久保は許しの言葉を受けてテーブルを回り込むと、柔らかく神谷の身体を抱きしめた。
最初は確かめるように、やがて大胆に
互いに暖かさを確かめるように触れ合いを深めていく。
別れていた時間を取り戻すように、濃密に心と体を絡め合う。
絶頂は二人を一つに溶け合わせて…
熱が引いたあとに残ったのは、穏やかな微笑みだった。
時間ギリギリまでじゃれ合った後、二人は大急ぎで証拠隠滅作業を始めた。
部屋を片づけ風呂に入り、場所も居間に移動する。
ずっとそこに板かのように向かい合ってコタツに座り込んで体裁を整えると、悪戯をした子供のように共犯の笑みを浮かべて視線を合わせる。
「セーフ、だな」
「ったく、とんだ病人だよ、おまえは」
ドライヤーで乾かしたばかりの髪に手を差し入れ、クシャクシャに掻き回す。
「あ〜、神谷、酷いな〜」
「悪りぃ」
楽しげに笑いながら、手櫛で整え直してやる。
端から見たら新婚夫婦のようないちゃつき方なのだけれど、当人達はそんな事には気付いていない。
会えなかった分だけ、少しでも触れ合いたい。そんな願いが無意識に行動に出てしまっていた。
「父さん達、遅いな。ここに残って正解だったよ」
「下心た〜っぷり、だったみたいだけどな」
「ふ〜ん、そう言うか。じゃ、この跡はどう説明付ける?病院で誰に付けられたか暴露しちゃおうかな」
襟元を緩めて首の根本に付いたキスマークを見せると、神谷は引きつったような笑みを浮かべた。
「やっぱ、しっかり跡付いちまったな。でもオレの方が付けられた数が多いぞ」
「おまえは誰にも見せなくて済むじゃないか」
「!誰かに見せてやろうか」
ムッとした神谷の言葉に、然し久保は怯まない。
「しないだろ?」
自信満々な久保の答えに、神谷は言葉を詰まらせてしまう。
「神谷はそんな事しないよ」
「…やけに、確信してるな」
「してるよ」
身を乗り出して、触れるキスをする。
「大好きだよ、神谷」
最上級の笑顔が送られる。
笑顔を真正面から受け止めて、神谷の頬が赤くなった。
そんな自分をごまかす為に、神谷は少しだけ視線を逸らせた。
「神谷?」
「見せないよ。おまえだけだ」
ぶっきらぼうな口調でも神谷なりの精一杯な返事だと解っているから、耳に優しく伝わってくる。
「ありがとう」
「馬鹿」
一層赤みを増した神谷の横顔に、久保はうっとりと微笑みかけた。
結局その後で迎えに来た久保の両親に『お正月に一人で居るのも寂しいでしょうから、家にいらっしゃい』と拉致されて、神谷は久保の家で選手権の入場行進をテレビで見ることになった。
綺麗に整えられた緑の芝。青く澄んだ空の下、それぞれの地区の優勝旗を掲げた選手達が、夢の舞台に立った感動に胸を躍らせながら行進して行く。
先頭には深紅の大会優勝旗。
「来年は、あそこに行こうぜ」
「ああ」
神谷の言葉に頷きながら、然し久保の表情は何故か少し陰っていた。
そんな様子に気付かず、はしゃぐ神谷の瞳は真っ直ぐに『夢』を見つめている。
こうして二人で過ごす最期の年は、幕を上げたのだった。
終わり 脱稿 1996.1.26
初出:暖かな冬(azure blue)1996.1月末発行(絶版)
再録:REMIXES<passion>
1998.12.29 発行(完売)