水の中を漂う感覚は、胎児の頃に母親の羊水に守られていた遠い記憶に繋がるのだという。
プールに背泳ぎの体勢で浮かびながら、久保はそんな事を考えていた。
ちょっと思いついて身体を反転し、前転をするようにして水に潜る。
耳元を、ゴボゴボと泡混じりの水音が擽る。
潜ったまま見上げる水面からは揺らめく陽の光が差し込み、幻想的な光景を作り出した。
その光景の美しさに見惚れ、そのまま水中にしゃがみ込む。自分が鼻から出す息が気泡となって、揺らめく光で虹色の光彩を纏い、水面に昇っていった。
やがて息が苦しくなって来る。
名残を惜しみながら水面に顔を出す。
途端に現実が戻ってきた。
BGMのポップス、子供達のはしゃぎ声、女の子達の妙に甲高い笑い声。市営の地味なプールだけど、夏休みも終盤に入って最後の跳ねのばしと洒落込んでいるのだろう。結構人が多い。
まぁ、自分達もその部類なんだけど。
―夏休み中サッカー漬けで(そのこと自体には一切不満は無いのだけれど)たまには泳ぎに行きたいと言い出したのは矢野だった。
それでなくともこの所続いている猛暑にバテ気味な一同にとって、水辺の誘惑は強烈で…午後の練習を取りやめにして男ばかりのプールツアーと相成った。
水泳は筋力トレーニングにも良いと言うし、たまにはこんなのも楽しい。
それにもう一つ、思わぬごちそうもあったし。
辺りを見回して、神谷の姿を探す。
本格的な泳ぎ専用に仕切られたコースに、神谷の姿はあった。クロールで泳いでいる。
素人目から見ても結構良いフォームだと思う。スピードも出ているし…。あのくらい泳げたら気持ち良いだろうなと、ちょっと羨ましくなる。
神谷のすぐ後ろを泳いでいるのは矢野だ。『泳ぎに行きたい』の言い出しっぺの面目躍如とでもいう風に、こちらの泳ぎもなかなかに素晴らしい。
他の部員達は皆久保のいつ水遊び用区域で、泳ぐと言うよりはナンパの方に余念がない。もっとも成功した者は居ないようだけど。
神谷をもっとよく見ようと、水から上がる。
プールサイドを回りながら姿を探すと、ちょうど神谷はもうすぐゴール地点という距離に居た。
力強く、しなやかな動き。正確なリズムで上がる水飛沫が陽光に煌めいて、伸ばされた四肢を飾る。
最後の一掻きで指先がタッチ板に着き、神谷は水面方顔を上げた。
そして、自分を待っていた久保を見つけた。
「なんだ、お前も泳ぎ派に転向か?」
「ん…いや、オレはいいよ。それより神谷、そろそろ休憩した方がいいんじゃないか?」
「う〜ん、そうだな」
休むとなると行動は早い。すぐそこまで泳いできている矢野にぶつからないように隣のコースに移り、はしごでプールサイドに上がる。
これが久保にとっての『御馳走』。泳ぐとなれば当然水着一丁で、その姿は殆ど裸同然。降り注ぐ太陽の下、濡れた身体を惜しげもなく晒してくれて、心臓が高鳴りっぱなしだ。
―肉体(そのテの)関係を結んで久しいが、神谷は最中に電気を点けることを許してはくれない。全てを見て触れたいのに、恥ずかしいから絶対に嫌なのだそうだ。今更という気もするけど、神谷に嫌われるのは本意ではないので我慢しているが…。
本当に今日は良い日だ。…我ながらスケベオヤジ臭くてちょっと苦笑モノだけど、仕方ない。
「なんか、お前、目つきイヤラしくないか?」
「やだな、気のせいだよ、神谷」
ここで『ハートマーク』付の笑顔を送れてしまう辺りに久保らしさが有り―神谷は問いつめることを断念した。余計な面倒を巻き起こしたくない。
そこにちょうど水から顔を上げた矢野が声を掛けてきた。
「おい神谷、もう上がんのかよ」
「ああ、ちょい休憩。お前は」
「もう1・2往復したら上がる」
「そっか。がんばれよ」
「おうっ!」
矢野はにっこりと笑い、コース替えをする。泳ぎ専用コースは2列あって、それぞれターン禁止の一方通行なのだ。
「それにしても矢野が水泳って、意外だったな」
久保の呟きに、神谷が笑う。
「率先してナンパに走りそうに見えるんもんな」
「結構本格的なフォームだし」
「あいつ、小学校の時にサッカーにするか水泳にするか、マジに悩んだjこともあるんだと」
「へぇ〜、道理で上手い訳だ。でもそう言うお前も泳ぎ上手いな」
「そうか?う〜ん、まぁ得意な方かな。泳ぐのは好きだぜ。気持いいじゃん」
「サッカーよりも?」
「馬〜鹿、んな訳あるか」
泳ぐのも気持いいけど、サッカーと比べるなんて論外だ。きれいにパスが決まった瞬間やゴールを決めた時の快感は、何物にも代えられる訳がない。個人競技の水泳より、久保(こいつ)や仲間達とボールを追う方が、何千倍も楽しい。
「プールに来たんだから泳ぐのが当然だろ?ただの水遊びなんてもったいない」
「真面目なんだな」
「ひねくれ者だよ」
カラカラと、楽しそうに笑う。
そんな神谷に微笑みを返し、久保は手首にゴム紐で巻いたロッカーの鍵を指し示した。
「タオル取ってくるよ。ついでになんか、ジュースでも買ってこようか?」
問いに神谷は暫し考え込んだ。そう言えば少し、喉が渇いている。
「ん、ポカリかアクエリアス」
「OK」
その場に座り込んで、立ち去る久保を見送る。
こんなショボイ市営プールに来る女の子は少ないけれど、その何人かは久保を気にしている。
―まぁ仕様の無い事だ。同性の自分だって、カッコいいと思ってしまうんだから。
造りの整った顔立ちに、鍛えられて引き締まった身体。その上に気が利いていて笑顔が優しいと来れば絶対無敵だ。ナンパ中の仲間には気の毒だけど、こいつが居る限り成功するとは思えない。
ただの水遊びをしていても、誰もが彼の存在に気付く。内側から溢れる輝きというのだろうか、不思議なオーラを纏っている。
そして、久保が一番その輝きを増す場所を知っている。―サッカーの、フィールドの上でだ。
サッカーをしているときの輝きは網膜を焼くほどに鮮烈で、同じピッチに立つ者だけでは無く、観客の全てをも魅了する。
神谷は時々、夢を見ているような気分になる。
自分の隣りに久保が居ることが不思議で、一緒にプレイする事が楽しすぎて…。目が醒めたら中学二年で、部活から追い出される悔しさに、膝を抱え込んで浅い眠りを繰り返したあの頃に戻っているような不安に襲われる時がある。
だから…久保に求められるままに身体を重ねたのかも知れない。セックスは、熱と痛みと快感を伴って、圧倒的な現実感を与えてくれる。
行為の間に視界を塞いでいるのは、怖いから。
恥ずかしさも理由の一つではあるけれど、『愛している』とまで言ってくれる久保に対して、それに身体だけで答えている自分の感情は『愛』とは言い切れないから。
そんな浅ましい姿を、久保には見られたくなかった。
「なんであいつ、オレがいいんだろうな」
独り言。
久保がロッカールームに消えると、視線をプールに戻す。
水面が揺れて、輝いている。
キラキラと、プールの淡い青緑の色彩を加えて光が揺れる。
すぐ前は水遊び用のスペース。一際背の高い大塚と赤堀のコンビが、石橋をコーチしているのが見えた。石橋はカナヅチなのだ。
これが現実の世界。
仲間がいて、親友(とも)がいて…夢のような現実。
揺らめく光に縁取られて、世界がある。
神谷はおもむろに立ち上がると、再びプールに入った。今度は水遊び用の方。
泳ぐでもなく、仰向けに身体を漂わせる。
見上げる空は何処までも青い。
空の青と水の青に挟まれて、光に漂うような錯覚を感じる。
久保がタオルとジュースを手に持って戻ってきた時、居るはずの場所に神谷の姿は無かった。
「神谷?」
読んでも返事は無い。
さてはまた泳ぎに戻ったかと泳ぎ専用のコースを見るが、そこにも居ない。
もっとよく見ようとプールに近付いて、神谷を見つけた。すぐ右手の方、長割れないように縁に掴まって仰向けに浮いている。閉じた目元が、微かに笑うように緩められていた。
誘われるようにプール際(ぎわ)を歩き、近付く。
それは見惚れる光景。無防備な表情と身体が揺れて、光に包まれている。
もっとよく見ようと、しゃがみ込む。
「神谷…」
そっと呼びかける。眠っているとは思っていないけど、驚かせて溺れでもされたら大変だから。
呼びかけに、神谷はゆっくりと瞼を開いた。少しの間だけ夢見るような目つきをした後で、身体を反転させた。ほんの一掻きで、久保のすぐ前に到着する。
「遅かったな」
見られていた恥ずかしさからだろう、ブスッとした表情で久保を睨む。
「自販機が遠かったんだよ」
振って見せたのは青い缶。
「お、サンキュ」
勢いを付けて、水から上がる。
水が滴る頭に、乾いたタオルが乗せられた。
反射的に手を伸ばし、乗せられたタオルで水を拭く。次いで身体からも水滴を取った。
「ほらアクエリアス。ポカリは見つからなかった」
「ん、上等。お前の方は、うん、残念だったな。ペプシは無いか」
「仕方ないよ。ま、たまにはこっちも飲んでやらなきゃ」
コーラの缶を突きながらの久保の軽口に、神谷が笑う。
並んで座り、缶のプルトップを開ける
久保はいつもする『炭酸抜き』をせずに、そのままのコーラを口にした。
二人で水面を眺めている。BGMも回りの喧騒も気にならない。ただぼんやりと、光の揺らめきを見る。
普段ならグラウンドでボールを追っている時間に、こうして光を眺めている。
「これって、夢じゃないんだよな」
ポツリと漏らした神谷のセリフに、久保は少し驚いて顔を覗き込んだ。
「神谷?」
「ん、なんかサッカーしてないオレ達って、不思議じゃないか?ほら、矢野がメチャメチャ水泳上手だったり石橋がカナヅチだったり」
「うん、まぁ意外な一面を見たというか…」
「スポーツ万能だと思っていたお前が、水泳はそれほどでもなかったとかな」
「カナヅチじゃないぞ」
「うん、それは見てたから知ってる」
シャカリキに泳いでいても、順番待ちの間に久保の姿を探していた。気持ちよさそうに浮かんだり軽く泳いでいるのを確認すると、ほっとした。
「そこまで現状把握しておいて、なんで夢だなんて思うんだよ」
「わからない」
「わからない?」
「なんでだろうなぁ」
「神谷」
久保が身体を少し寄せる。触れるか触れないかのギリギリの距離でも、体温は伝わる。
そっと神谷の方に触れる。
神谷はピクリと小さく震えると、ぎこちない笑みを浮かべ、立ち上がった。缶を持ったまま背伸びをする。
「オレ、そろそろ帰るわ。慣れない事するもんじゃねぇな、結構疲れた。皆にはよろしく言っといてくれ」
そのまま歩き出す。
慌てて久保も立ち上がった。素早く辺りを見回して、まだ石橋に水泳を教えている赤堀と目を合わせると、大声で告げる。
「オレと神谷、先帰るから!なんか事故でもあったら、電話連絡しろよ!」
「うん、わかった」
「オレも帰りたい〜!」
「お前は泳げるようになるまで、ダメだ」
赤堀と、次いで石橋と大塚の声が上がる。
了解を取ると、久保はお急ぎで神谷の後を追った。
シャワー室の前で、神谷を捕まえる。
「オレも帰る」
「なんだよ、オレに付き合う事、無いぞ」
「神谷と居たい」
「久保…」
真剣な瞳に気圧されて、一瞬神谷の動きが止まる。
そんな神谷の腕を取り、自分の方に引いた。
「今日、オレの家に泊まれよ」
それはいつもの、神谷を誘う言葉。抱きたいという合図。
「…いや、今日はもう帰る」
「帰るな!」
思わず声が大きくなる。ちょうど通りかかった親子連れが、びっくりして二人を見た。
その事に、神谷が焦る。
急にでっかい声だすなよ。不審がられてるぞ」
「だって、仕方ないじゃないか」
「まったくもう…。おれ、さっさとシャワー浴びて着替える」
「神谷…」
「言っとくが、オレは帰るからな。まぁお前が勝手についてくるなら止めねぇけど」
「神谷」
「この時間ならまだお袋はパートだから、家には誰も居ない」
それは、神谷からの誘いだった。意外な言葉に久保の目が見開かれる。
「なんだよ、その顔は」
「い…いや、驚いて」
「来るのか、来ないのか?」
「でも神谷…いいのか?」
「いいんじゃないか?たまには…な」
「神谷」
「夢なのか現実なのか、確かめたいんだ」
この光の世界が、幸せな日常が本物なのかと。
水に身を浮かべ光に漂った感覚が身体に残っている。ユラユラ、キラキラ、漂い、流される。
「夢なんかじゃないよ」
「そう…か?」
神谷の力無い微笑み。
久保は今すぐここで抱きしめてやりたいのを我慢して、シャワー室のドアを開いた。
遮光式のカーテンを引いても、この時間では部屋の中は完全には闇にならない。
ほんの少しカーテンの緑色が混じった薄闇では、見合わせた互いの姿が良く見えた。
自分で服を脱ぎ、裸の身体を重ねる。
「目、閉じててくれないか?」
口吻を交わしながら懇願する神谷に、しかし久保は首を振らなかった。
「見ていたい」
「久保!」
「神谷も見ていて。これは現実なんだから」
夢なんかじゃないと確かめるように、素肌に手を這わせる。
触れられる肌が、確かな感覚に震える。心臓の鼓動が、スピードを上げ出した。
トクン、トクンと、満ちては引く波のスピードで血が巡る。
光る水面の、幻影が見える。ベッドの上に漂うように無防備な身体を伸ばし、光を受け止める。
「久保…」
「ん?」
「お前は、ここに居るんだよな」
「ちゃんと見えてるだろ?」
「ああ」
目の前に久保が居る。目で見え、触れられる。
恐る恐る背中に腕を回すと、身を擦り寄せる。
暖かい、確かな感触。
「好きだよ神谷。愛してる」
口吻と共に贈られる言葉。
だけど神谷は同じ言葉を返せなくて、辛そうに目元を歪めた。
久保は、解っているよという風に神谷の髪を撫でた。
神谷がどんな気持ちで自分に抱かれているのかを初めて目の当たりにしても、神谷の対する感情は揺るがない。―好きだと思っていてくれているのは間違いないし…必要としてくれているのも確かだから。
「ずっと、神谷の側にいる。お前が…必要なんだ」
今はまだでも、いつか本当に愛する想いを重ねる時が来る。全てを重ね、溶け合える。先程潜水して見上げた陽の光が、水の中に溶け込んでいたように。
「久保…」
困ったように苦労して微笑みながら、神谷の方から口吻てくる。
受け止めて深く貪り、確かめる。
見合わす表情が、ほぐれていった。微笑みが艶を帯び、やがてもどかしい想いに切なく震え出す。
肌を探り快感を互いに煽り、ゆっくりと身体が潤って行く。
世界が揺れる。
現実にしがみつくように互いを強く抱き締める。
身体を一つに繋げる頃には、ただ互いの存在だけが泣きたいほどにリアルで…。
解放の瞬間を感じ終えた後のまどろみは、間近に聞こえる相手の心音と共に、不思議な安堵をもたらした。
「大丈夫?」
神谷をいたわる久保の声が静かに響く。
部屋の中はほのかな明るさを保っている。
後始末と身繕いをしてくれる久保の手が恥ずかしくて、神谷は僅かに身を捩った。
そうする事で姿勢が変わり、久保の表情を真正面から見てしまう。
目の前に、優しい微笑みがある。抱いている間も、すっと自分を見詰めていた瞳。
「お前はここに居るんだな」
手を伸ばし、頬に触れる。暖かくて柔らかい。
その手を、久保の手が包み込む。
「オレは、ここに居るよ」
「ああ」
そして神谷の顔に、心から安堵した柔らかな笑みが浮かんだ。
終わり
この夏に、大阪の海遊館に行って、カマイルカの気持よさそうに泳ぐ姿に一目惚れして掻いた作品。
個人誌30冊目記念本(限定30部。2回のイベントだけで販売したコピー本です。
1999年8月29日脱稿
初出:「FLOW」収録(完売)