やつあたり



【1.久保】


 今日も前の席が空いているから、黒板がやけに良く見える。
 二次方程式の解き方を書いている先生の後頭部が、動きにつれて揺れている。
 薄くなった髪のせいで地肌が見えるのが、いつもならおかしいのに全然笑えない。

 何でこんなにつまらないんだろう。授業時間、長過ぎないか?

 イライラが態度に出てしまってたんだろう。黒板を書き終わった先生が、オレを見て不思議そうに顔を顰めた。
「久保、質問があるのか?」
 クラスのみんなの視線が集まるのを感じる。
「べつにありません」
 自分でもそっけなく聞こえる声で答えると、何人かがクスリと笑うのが聞こえた。


 授業時間が長いのも、誰かに笑われたのも、前の席が空いているのが全部悪いんだ。
 神谷が座っているはずなのに、風邪なんか引いて2日も休んでるから。
 あいつの姿が見えないから、声が聞けないから、
 なにより一緒にサッカーが出来ないからだ!


 腹立ち紛れに足を伸ばし、神谷の椅子を蹴ろうとする。
 だけど伸ばした足は椅子には届かなくて、それに気付いた後ろの席の奴にまたも笑われてしまった。






【2.実花】


 学校が終わって寄り道しないで帰ったのは、家でお兄ちゃんが寝込んでいるから。
 お母さんが看病してるってのは解っているんだけど、目を盗んでサッカーしにいっちゃいそうで、授業中も気が気じゃなくって困ってしまった。

 「ただいま〜」
 玄関のドアを開けると、目の前にパジャマの上にドテラを着たお兄ちゃんがふらふらと歩いている。
 家にいたのにはホッとしたけど、いかにも怠そうで可哀相になってしまう。
「風邪、治ったの?」
 急いで靴を脱いで傍に行く。
 そっと額に手のひらを当ててみた。
 うん、大丈夫。朝よりずっと下がってる。
「ちゃんと寝てたんだね」
 えらいえらいと頭を撫でてあげると、お兄ちゃんはすごく嫌そうな顔をした。
「……みが」
 あ、ダメね。まだひどい声。
 自分でもひどさが解ったのか、お兄ちゃんが益々しかめっ面になる。
 本当に、我が兄ながら、可愛いんだから。
「喉、すっかりやられちゃったね」
「明日には、治る……ゴホッ!」
「あ〜、無理してしゃべらないの。熱は下がったんだから、もう一息よ」
 咳き込み続けている背中を押して、部屋へ入れようとする。
 だけど、お兄ちゃんは動かない。
「ちゃんと寝とかなくちゃ、ぶり返したらどうするの?」
 本当にもう、病人の自覚無さ過ぎ。
 昨日も今日の朝も、熱でくらくら・咳でゼイハア言ってるのに、学校に行こうとしてたんだから。
「風邪治さないと、明日も学校に行けないわよ。サッカー出来ないの嫌なんでしょ?」
 子供に言い聞かせるように注意する。
 案の定、お兄ちゃんは首だけ回して、背中を押す私を恨めしそうに睨んできた。
「そんな目で見てもダメよ」
 伊達に生まれたときから妹はやっていないもん。ちっとも怖くなんかありません。
 もう一度力を込めて押そうとしたら……
 今度はおにいちゃんの顔色が変わった。
「……もう寝てんの嫌なんだよ」
「え?」
「部活、行かせてくれ」
 ……もしかして、馬鹿?
「くそ〜っ、今頃あいつら、サッカーしてんだぜ」
 ……とことん、サッカー馬鹿なのね。

 まるでシュートするようにお兄ちゃんが足を振り上げると、勢いで履いていた右足のスリッパが飛んで行った。
 廊下の真ん中に、スリッパが着地する。
 まるで天気占いでもしたみたい。
 ちなみに出た結果は『晴れ』

 何が晴れるのかな?と考えた時、突然玄関のブザーが鳴った。
 玄関に走り寄ると――

 曇りガラス越しのシルエットに、『晴れ』がやって来たことを教えてくれた。






【3.神谷】


 もう我慢も限界だ。
 2日もボールに触っていない。
 受験の時だって、毎日少しは蹴ってたのに!
 たかが風邪でこんな目に会うなんて、ついてないにも程がある。
「くそ〜っ、今頃あいつら、サッカーしてんだぜ」
 いつものメニューだと、ちょうどミニゲームを始める頃だ。
 今から行けば、後半にぎりぎり間に合うかもしれないけど……
 実花が呆れ果てた表情でオレを見上げていた。

 わかっちゃいるんだ。
 朝まで39度も熱があって、今も喉はものすごく痛い。
 悔し紛れにボールを蹴るまねをすると、履いていたスリッパがすっぽ抜けて、半端な距離だけ飛んだ。

 その時

『ピンポーン』
 玄関から音がする。
「は〜い!」
 すかさず実花が反応し、扉の方に駆けていく。
 セーラー服の後姿のその向こう、曇りガラスを張った玄関の扉には訪問者の姿がぼんやりと透けて映っている。

 あれは――久保っ?!

 見慣れたジャージの色、そして見間違いようが無いほど良く知ったシルエット。

 「どなた様ですか?」
 「実花ちゃん? 神谷の具合、どう?」
 扉越しに聞こえて来たのはやはり久保の声。
 自然に足が動き出していた。
 実花が扉を開けるに連れ、久保の姿が現れ出す。
 いち早くオレに気付いた久保の顔が、心配そうなものから一気に明るくなっていくのが解る。

「神谷」
 呼びかけられるのと、実花を押しのけたオレが久保の前に立つのとはほとんど同時だった。

 昨日会わなかっただけなのに、ひどく懐かしいような気分だ。
 見舞いに来てくれた? オレを?
 なんだか照れくさい。でも嬉しい。

 なのにオレから出てきたのは、かすれて非難じみた声だった。
 「お前、部活はどーしたんだよ?」
 しかし久保は、にんまりと笑った。
「部活中だよ」
 え? まさか……!
「お前……サボったのか!?」
 オレと同じ、もしかしたらオレ以上にサッカー馬鹿かなお前が?!
 だけど久保は、しれっと答えた。
「だから部活中だって。ここまでランニングして来たんだ」
「へっ?」
 学校からここまで? 電車で一駅分はあるオレんちまで?!
 改めて久保の姿を改めると、確かに息が弾んでいるし、かなり汗もかいている……

 そんなまさかと思ったのはオレだけじゃ無かった。
 玄関に立ったままだった実花が、外を見て驚きの声を上げた。
「お兄ちゃん、本当みたいよ! あ、あれ、大塚さんと赤堀さんと……その後ろにも。ね、多分あれ、そうよね?」
 指差す方に、きっと本当にみんなが居るんだろう。
「これしきの距離で遅れるなんてだらしないな。基礎体力メニュー、増やすか」
 さらりと久保が、爆弾発言をする。
「おお!実花ちゃんだ〜!」
 微かに大塚の声が聞こえてくる。
 どうやら久保からかなり離されてしまっているらしい。大塚と赤堀は、きっと同じくらいのところに居るんだろう。
 ほかのヤツは……無事にここまで来れると良いんだけど。

「神谷、風邪はどう?」
「あ、うん、明日には絶対出るから」
 サッカーがしたいのはもちろんだけど、オレが居ない間の久保の暴走を思うと、休んでなんか居られない……
「本当に?」
 久保がふうわりと、満面の笑顔で見詰めてくる。
 そっと伸びてきた手が、オレの額にヒタリと付いた。少し汗ばんだ、ひんやりとした感触。
「熱、平気みたいだな」
 自然にどアップになった笑顔に、笑い返してやる。

 その時、部活の事も風邪を引いている事も吹き飛んで、オレの頭の中は少しでも早くこいつとサッカーがしたい思いだけでいっぱいになっていた。


2002/12/1,3,4(Sun-Wed)