そして旅は続く



 まるで電車に揺られているような振動に目が覚める。
 目に入ったのは向かい合わせで4人が座るタイプの座席で、どうやら本当に電車の中らしい。
 どうもおかしい。自分が乗ったのは飛行機だったはずだ。
 そうか、これは夢なのだ。
 納得したところでもう一度寝直そうと目を瞑ろうとしたとき、ふと視線の端に何かを捕らえた。
 夜の風景が流れ去っていく窓に向かって立っている後姿を確かめた途端、今まで霞がかかっていたような頭がはっきりした。

「久保!?」

 思わず呼びかける。
 懐かしい後ろ姿は、窓を開けてから、ゆっくりと振り向いた。
 窓の外から、夜風が吹き込んでくる。
 その風に乗って、一時も忘れることの無かった声が流れてくる。

「なんだい、神谷?」

 久保が17才の姿のままで笑顔を浮かべ、向かい側の席に座った。
 恐る恐る手を伸ばして久保の頬に触れると、確かに皮膚の感触と温もりが感じ取れる。
「お前、本当に……久保……?」
 かすれる声で尋ねると、からかう言葉が返ってきた。
「お前こそ、本当に神谷か? ずいぶん老けたなぁ」
「老けたって、まだ25だぞ」
 抗議を態度でも示すために触れていた頬を人差し指と親指で摘んで引っ張ろうとしたが、その動きは自分の手に久保の手が重ねられたことで止まってしまった。
 固まってしまった神谷に向けて、久保が寂しそうに呟く。
「そうか、これは8年後なのか」
「……久保?」
「なぁ。オレ達の夢は叶ったのか?」
 夢とは、たぶん自分たちのサッカーで国立に行く事だろう。
「ああ」
 答えると、更に質問が帰ってきた。
「そのとき、オレはお前と一緒だった?」
 縋るような視線と共にされた質問の意味に、神谷は少し考え込む。
「心は、一緒だった」
「……そうか」
 神谷の手を包んでいた久保の手が離される。
 神谷も、久保の頬から手を離した。



 この車輌には自分たちの他には誰も居ないらしい。
 聞こえるのは列車の走る駆動音だけ。
 二人、黙ったまま互いを見つめ合う。
 開け放ったままの窓からは、絶えず湿った夜風が吹き込んでくる。



 そういえばここはどこなのだろうと、神谷は久保から視線を外すと窓の外を見た。
 広がる星空の他には何も見えない。
 まるで『銀河鉄道の夜』みたいだなと思った。
 死んだ友と、宇宙を旅している気分だ。
 そんなことを考えていると、汽笛の音が聞こえてきた。
 列車の音にも、蒸気音が混じりはじめている。
 驚いて窓の外に頭を出して確認すると、それは本当にSLの姿になっていた。
 振り向いて久保を見ると、車内の風景までが変わっていることに気が付いた。
 自分たちが座っている座席は木に布が張られた物になっていて、床は板張り、照明は壁にはめ込まれたランタンに変わっている。
「神谷の夢も混ざったようだね」
 久保が楽しそうに笑う。
「これは夢なのか?」
 神谷の質問に、久保は首を縦に振って答えた。
「そうだと思う。だって、さっきまで病院で寝てたのに、いつの間にか夜汽車の中で、目の前には大人になった神谷が寝てて。現実の訳ないだろ?」
 言いながら、自分の頭を拳骨で殴る。途端に顔が歪んだ。
「? なんで痛いんだ」
 不思議そうに頭を捻る。
 そんな久保の姿に、ようやく神谷が笑った。
「夢でも現実でも良いじゃないか。お前と会えて嬉しいよ。ずっと、会いたかった」
 神谷の言葉に、久保があからさまに驚いた。
「やっぱりこれは夢だ。こんなキザなセリフ、お前が言うわけない」
 フルフルと小さく首を振る久保を見て、神谷は声を上げて笑った。
「そうだな。どっちかっていえば、お前の方が言いそうなセリフだもんな」
 バンバンと久保の肩を叩く。
「痛いよ、神谷ぁ」
 涙目になる久保が面白くて、背中に手を回して抱きしめる。
「お前、意外に華奢だったんだな」
 抱きしめる感覚の違和感に、小さく囁くと
「神谷が成長しすぎなんだろ」
 久保も神谷の背に腕を回し、ポンピンと優しく叩く。
 その動作は確かに久保そのままで――
「なんで泣いてるんだ?」
 久保の問いかけに、自分が泣いている事に気が付いた。
 だけどそう問いかけた久保の目尻にも涙が浮いている。
 ゆっくりと二人の顔の距離が近づく。
 触れ合った唇は、少し乾いていたが温かかった。



 汽笛が聞こえる。
 窓から吹き込む風は、微かに芝の香りが混じっている。



 触れ合うだけの口吻を終え、二人隣り合わせで座って寄添う。
 唇の代わりに手を繋ぎ、汽車の振動に身を任せる。
「なあ、この汽車、どこまで行くんだ?」
 しかし神谷の質問への答えを久保は持ち合わせていないようだった。
「知らない。でもたぶん、終着駅なんて無いんじゃないか?」
「やけに自信ありげだな」
「だって、切符がこうだ」
 久保がズボンのポケットから取り出した青色の切符には、何も書かれていなかった。
 慌てて神谷も自分の服のポケットを探す。
 ズボンには入っていない。
 胸のポケットに、青色の切符が入っていた。
 やなり切符には、何も書かれていない。
「同じ切符だね」
 久保が笑う。
「どうやら、ずっと一緒に行けるようだ」
 神谷も笑う。
 その時、窓の外から太陽の光が差し込んできた。





 眩しさに一端瞑った瞼を、さすりながら再び開いた時、そこは別の空間だった。
 低い天井と、フンワリとした座席。
 毛布の下の身体には、安全ベルトが締められている。
「よく寝てたな」
 からかうように訊いてくるのは草薙だ。見ると飛行機の小さい窓にかかっていたシェードを引き上げた直後のようだ。
「ここは?」
 神谷の質問を、草薙は現在の飛行機の位置だと判断した。
「もうじきケープタウンだぜ。予定通りなら、もう1時間もかからないな」
 そう、自分達はが全日本代表として招集され、これから最終キャンプ地へ向かうのだ。
 調整が終われば、2010年ワールドカップ・南アフリカ大会が始まる。

 神谷が目覚めたことに気が付いた女性のフライトアテンダントが近づいて来た。
 何かお飲み物はと訊いてくるのに、毛布を渡しながら熱いコーヒーを頼む。
 その時、何かが床にひらひらと落ちた。
 フライトアテンダントがしゃがみ込み、その小さな紙片を拾い上げた。
『あなたのお持ち物ですか?』
 英語での問いかけに、黙ったまま頷き手を差し伸ばす。
 笑顔と共に返された紙片を、神谷は両手でそっと包み込んだ。
 その姿はまるで、何かに祈っているかのようにも見える。




 その青い無地の紙片は、まるで切符のような小さい長方形の形をしていた。





                                   2005.02.07




 原作では2010年W.CUPはナイジェリアとなっていましたが、実際は去年5月に南アフリカと決定しました。
 そのため、飛行機の行き先をケープタウン国際空港にしています。
 ……しかしイタリアから南アフリカまでって、フライト時間ってどれくらいなんだろう?