海が見たいと思ったのは、全日本選抜の合宿から帰ってくる新幹線の車中でだった。
ほんの僅かの間、車窓から垣間見えた朝の海が、やけにキラキラと眩しく映ったのだ。
だから帰る早々神谷の家へ押し掛けて、海を見に行かないかと誘った。
「しっかしお前も物好きだな」
波に素足を洗われながら、神谷が笑う。
「そうか?」
「こんな水着の女の子も居ない時期に、何が楽しくて海なんかよ」
口では文句を言いながらも楽しげな神谷の様子に、久保の笑みも深くなる。
「衝動…かな。きれいだったからさ」
「きれい?」
「こだまからチラって見えたんだ。そしたら」
「来たくなった?」
「うん」
「単純」
「はは」
寄せては引く波に、二人の踝までが濡れる。つま先から踝、何度も何度も擽られる。
彼方に広がる水平線から、ゆったりとしたリズムを奏でて波が寄せる。
素足を擽る波。
彼方から寄せる波。
潮の香りを含んだ風が、髪の毛を微かに揺らせた。
「まぁいいか。気持ちいいし」
髪を掻き上げながら、神谷は目を閉じて深呼吸をした。
久保も真似をする。肺の奥までが海で満ちた。
身体の内側から、心までが洗われる。
今ならとても素直になれる。
「愛してる」
波音に混ざって、言葉はただの音として神谷の耳へ届いた。
閉じていた目が開く。
不思議そうな視線が返ってくる。
「なんだ?何がだ?」
しかし久保は質問には答えず、にっこりと笑った。
いつもとは少し違う―どこかしら透明にも見える表情に、神谷は戸惑ってしまう。
戸惑って、だけど視線を外す事も出来ず、ごまかすために寄せてきた小さな波を蹴った。
水飛沫が、久保の捲り上げたズボンの裾に跳ねた。
「わっ!」
驚いて反射的に後ろに退く久保の姿に、神谷はやっと笑顔を取り戻した。
「悪ぃ、濡れたか?」
「酷いなぁ。ん、でもそんなに濡れてない」
久保は屈んでズボンを確認した。大丈夫、このくらいならすぐ乾く。
神谷も一応責任を感じて近づく。
その機会を逃さずに、久保も小さく波を蹴った。
「うわっ!!」
今度は神谷が退いた。
「ひでぇなぁ」
「お返し。でもオレよりは濡れてないけど?」
「そういう問題かよ」
ブツブツと文句を言いながら、濡れの酷い方の左足を上げて確認する。
「まぁ、平気か。でも冷てぇぞ」
「すぐ乾くよ」
「だな」
顔を見合わせて、笑う。
『愛してる』
今度は心の中でだけ囁く。
これで良い。告白はしてはいけない。
きっとこの気持ちは、神谷への負担になってしまう。
彼を自分の欲望で縛ってはいけない。自由に駆ける姿こそが神谷にはふさわしい。
一緒に夢を追える幸せで、満足しなくてはいけないのだ。
だけど―
身体の中の海で、波音が高まる。
水平線の彼方から、神谷への想いが波打って来る。
寄せては去り、また寄せる。
自分はいつまで我慢できるのだろう。
「う〜ん、やっぱり海は気持ち良いな。今度は夏に来ようぜ」
波打ち際を去りながら神谷が言う。
「部活優先、だろ?」
並んで歩く久保が突っ込むと、
「んじゃ、海辺で合宿!なんてのはどうだ?」
ニヤリと笑う。
合宿も何も、まだ『部』自体が存在しないのに?入学式は来週だ。
「お前も結構気が早いな」
「誰かさんよりは、遅いぜ」
「もしかして、オレ?」
「他に誰が居るんだよ」
脱いで置いていたスニーカーを拾い上げ、中に入れていた靴下を引きずり出す。
だけど濡れたままの足で履くわけにはいかない。
久保がポケットティッシュを差し出し、二人して足を拭いた。
身繕いを整えて、改めて海を眺める。
波が、来たときよりも高くなってきたようだ。潮が満ちているのだろう。
「ありがとな」
いきなり神谷が久保に言う。
礼を言われた久保はといえば、理由が解らずキョトンとした。
「なんだよ、いきなり」
「いいじゃねぇか。言いたかったんだよ」
ほんの僅か、照れているのか神谷の顔色が赤い。
「変なの」
「お前にゃ言われたくないな」
笑われて、神谷はムスッとした。
波が寄せる。
ゆっくりと満ちて、波が高まる。
きれいな透明さに包まれて、海が光る。
波音に包まれて、二人で海を見続ける。
身体に海を抱えたまま見る現実は、眩しいぐらいに輝いていた。
終わり 2001.4.15.
…透明な話が書きたかったんですが…コケちゃった(苦笑)