家に帰る母親を病院の待合室で見送った後、久保はその足で真っ直ぐ屋上に上がった。
時間は午後4時。
まだ明るい初夏の空は青く光り、穏やかな風は微かな湿り気を運んでくる。
『これで、このフェンスさえ無ければ最高なのに』
安全配慮の為というフェンスは3メートルくらいの高さがあり、上の方50センチほどは内側へ反り返っている。人が乗り越えられないようになっているんだろうと思うと、少し嫌な気分になった。
面会時間が終わっていない屋上は、自分の他には誰も居ない。
それでも念のためにドアから死角になるだろう隅を選んで、フェンスに背を預けて座り込む。
もう一度周りを見回して誰も来ないのを確かめると、カーデガンのポケットに忍ばせていたタバコと100円ライターを取り出した。
自動販売機で人目を忍んで選んだのはたぶん日本で一番有名な銘柄で、それでも『ライト』を買ったのは罪悪感があったからだ。
側面の警告文を小さく声に出して読んでみる。
「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」
そんな解りきったこと、言われなく立って知っている。もちろん未成年の喫煙が許されていないことだって重々承知だ。現に産まれてから一度だって口にしたことがない。
なのに今、自分の手にそれはある。
タバコを買ったのは、衝動に駆られたからだ。
たとえ法律で許される年齢になっても、絶対に手にすることなんか無いと思っていた。
喫煙は心肺機能を低下させる。そんなばからしいこと一生するまいと決めていたのに。
セロハンを剥がし封を切り、1本だけつまみ出して唇でくわえる。
甘いような不思議な香りと、フィルターの頼りない固さが最後の決意を促した。
ライターを点けると、息を吸い込むようにしてタバコへ火を移す。
途端に口いっぱいに広がった苦い煙を、ゆっくり肺まで引き込む。
気持ち悪さに咳き込みたいのを我慢して、そのまましばらく息を止める。
こんなのおいしいなんて思えない。それどころか苦みが肺の中を浸食して穴を開けていきそうだ。
息が苦しくなるまで我慢していると、自然と目尻に涙が浮いてきた。
限界を感じてタバコを右手で摘み取ると、それと同時に激しく咳が出てしまう。
しばらく涙を流しながら咳き込んでいると、なぜだか笑いたくなってきた。
「大人なんて、こんなもんか」
苦くて気持ち悪いのに、これが美味しいらしい。
こんなのもういらない。
こんなもの二度と吸わない。
大人になんてならないから。大人になんてなれないから。
涙をタバコを持っていない左手で拭う。
右手に持ったままのタバコから、灰がポトリと床に落ちた。
立ち上るままの煙を目で追うが、それは風に吹き散らかされて空の青に溶け込んでしまう。
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