チンとベルの音が廊下に響く。エレベーターの到着音だ。
座り込んでいた玄関の前から立ち上がり、期待を込めてエレベーターを見ると…… 出てきたのは、待ちわびていた神谷さんの姿だった!
勇んで声をかけようとしたんだけれど――
「おまえ、なにしてんだ?」
先に声をかけられてしまう。
答えようとして……
話し掛けているのはオレにじゃない事に気付く。
何だろう?右手で何かフワフワしたものを抱いていて、それに話しているんだ。
フワフワはモチョモチョと動いていて、よく見るとそれは小さな子猫だった。
「おい、ここ、ペット禁止なんだぞ?」 抱き上げた縞々子猫に話し掛ける表情と口調は、「闘将」を崇拝する人間がこの場に居たら、(いろんな意味で)ぶっ倒れそうなぐらいに優しげだ。
もっとも、本当の「神谷さん」を知る人間にとっては微笑ましい光景なんだけど。強面には見えても、この人の本質は不器用なぐらいに純粋なんだから。
そんな事を考えながら見惚れていたオレは、きっとひどく間抜けな顔をしていたのだろう。
ようやくオレが居る事に気付いた神谷さんは、一瞬の驚きの後で小さく吹き出した。
「おまえ、なにしてんだ?」
子猫にかけたのと同じ質問に、オレは 「にゃあ」 と、ひと鳴きして返事の代わりにした。
「馬堀ぃ、おまえ、来る前には連絡しろって言ってんだろ?」 子猫は抱いたまま、買い物してきた荷物を押しつけてのお言葉だ。 自由になった左手で子猫を抱き直すと、右手でズボンのポケットを探り、鍵を取り出し玄関を開ける。 「戻らなかったらどうするつもりだったんだ!」 「帰ってくるまで待つに決まってるじゃないっスか」
「……馬鹿か?」 怒られても嬉しくなってしまう。 だって、オレの事、心配してくれた。
神谷さんの後に続いて部屋に入る。
一番最初の部屋、すっかり見慣れたマンションのダイニングキッチンは、相変わらずきちんと整理されている。 気を利かせて受け取っていたレジ袋の中身を冷蔵庫にしまい込み始めると、神谷さんの口調が変わった。 「なんか、ここはおまえの家か?って感じだな」 からかうような諦めたような、そっけない感じ。 「神谷さん。冷食ばかりじゃ身体に悪いっスよ」 「うっせぇ」 「寮に戻った方が、健康管理にはいいんじゃないですか?」
レンジでチンや、鍋一つで出来る食材をしまった後に残されたのは、実に庶民的な発泡酒の6本入りパックだった。
6本で726円?これって特売品だな。年収●◎○のJリーガーのくせして……。
「あんな規則が面倒なとこ、戻りたいもんか。それにしょっちゅう誰かさんが遊びに来やがるし」 ジロリと睨まれる。はいはい、オレが悪かったです。
降参の意味を込めて軽く両手をあげて見せると、神谷さんは軽くもう一睨みしてからオレに背を向けた。
テーブルの上に、抱いていた子猫をそっと乗せる。 子猫はそれまでの暖かさを探すように、フルフルと震えながら小さな頭を上げてミャァと鳴いた。
可愛い声に誘われて、様子を見に神谷さんの隣に行く。
近くで見る子猫は綺麗な毛並みをした目がぱっちりの器量良しだった。
洋猫?……アメリカンショートヘアだったっけ。グレーの地色に黒っぽい渦巻風の縞々だ。
「その猫、どうしたんです?」 「エレベーターの中にいた」 「オレが来た時には居ませんでしたよ」 「おまえ、何時ぐらいに来た?」 「3時ちょい過ぎ」 「じゃあ迷子になったのは1時間くらいの間だな」
震える身体をそっと抱き上げてみる。
可愛い!柔らかくて暖かくて軽い!
オスかメスか調べようとお尻を見てみるけど、よくわからない。玉が無いからメス? 「なに見てんだよ」 「こいつ、女の子?」 「バ〜カ。こんなちっこいうちは外見じゃわかんないんだよ 「詳しいんですね」 「実花がな。オレのは聞きかじり」 「ふ〜ん」 なんかよくわかんないけど、まあいいや。
そっとテーブルの上に戻すと、子猫は困ったように座り込んだ。
緊張をほぐしてやる為にティッシュちぎって即席の紐を作って目の前にちらつかせてみる。すると小さい前足でじゃれつき始めた。
どうしよう、凄く可愛い!
「……しかしまいったな。どうやって飼い主探そう」 まぁそうだろうな。とてもノラとは思えないし…。このマンションの入り口って暗証番号を押さないと入れないシステムだから、外から入ってくるのは無理だ。 「張り紙するとか?」 「だめだ。バレたらヤバイ」 ああそうか。ここ、ペット禁止だったっけ。 「でも、心配してるでしょうね」 不器用にじゃれつく様が激烈に可愛いだけに、余計可哀想な感じ。 神谷さんも同感なんだろう。またそっと抱き上げて、突然オレに子猫を押しつけた。 「え、え?」 慌てて抱き直す。フワホワ、ぬくぬく。 「とりあえず、これはおまえの猫だ」 「え?」 「おまえのって事にして、ロビーで待つ」 「?あ、そうか」 ようするにここの住民じゃなければ、誰かに見咎められても言い逃れが出来る。 了解のアイコンタクトを送ると、神谷さんはニヤリと笑って頷いた。
こんな表情にオレはとてつもなく弱い。 そして気持ちを抑えるのはモットーに反する。
素早くキスを送ると、 「バカヤロウ」 すかさず罵倒が返ってきた。
でも神谷さん。顔、すこし紅くなってますよ?
ロビーで、わざと人目に付くように子猫と遊ぶ。 三人の住民が出入りしたけど、その度に『家からつれてきて、先輩に見せに来ただけ』と言いくるめて堂々とはしゃいだ。
子猫はもうオレたちに慣れて、先ほどから活発に動き回っている。
「ほーら、アツシぃ☆」 紙をくしゃくしゃに丸めて作ったボールを転がすと、勢いよくすっ飛んでいく。うん、いいサッカー選手になりそうだ。 「アツシって、可愛い!!」 名前を付けたら余計可愛くなった。 まぁ神谷さんは、機嫌を損ねたみたいだけど。
「……なんて名前つけんだよ」 小声でドスを利かすように言ってくるけど、オレには利きません。 「一番好きな名前なんスよ。馬堀アツシ、良い名前っしょ?」
あ、脱力した。
子猫のアツシの方とは、ちょっと疲れてきたらしい。紙ボールと遊ぶのを中断して、毛繕いを始めた。
あ〜あ、あんなに大股広げちゃって…うわっ、内股を舐めてる!
……アツシの内股……うう、たまらん。 本家の『篤司さん』は素晴らしくよろしいカンで不埒な想像を察して、オドロ線を背にこちらに迫ってくる。…両手を合わせ、手首をポキポキ鳴らしながら…。 あ、殴られる! 覚悟を決めて奥歯を噛みしめ衝撃の時を待ち受けた、まさにその時…
チンッ!
天の助けか、エレベーターの到着音がした。 神谷さんの動きが止まる。
二人して同時にエレベーターを見ると…
心配そうに青ざめて、視線を下の方に走らせ何かを探している若い女の人が飛び出してきた。手にはバスケットを持っている。
どうやらビンゴだ。
素早く神谷さんと無言で頷き合うと、さりげなさを装って子猫を抱き上げた。 オレ達に気付いた女性は、子猫を見つけて駆け寄ってきた。
「その子、わたしの……」 それ以上言わない内に子猫を渡す。 「可愛い子ですね」 話しかけると、女性は嬉しそうににっこり笑った。
三人で出かけた公園のベンチで、本格的に子猫を引き渡した。ここまで来れば、他の住人にばれることもないだろう。 女性は既婚者で(ちょっと安心)、旦那が残業続きで遅くにしか返ってこない寂しさを紛らわすために、悪いことだとは思いつつ猫を飼ってしまったそうだ。ちなみにまだ子供はいないという。 子猫がなんでエレベーターに乗り込んでいたのかは、誰にも解らなかった。 ただ姿が見えなくなったのに気が付いたのは夕食の買い物から帰ってきた後でだそうで、たぶん荷物を運び込んでいるどさくさでドアから出てしまい、何らかの偶然が重なってエレベーターに乗ってしまったんだろう。 そういえばオレが神谷さんを待っている間、何度かエレベーターが動いていた。
女性と別れて舞い戻った神谷さんのマンションのリビングで、オレはちょっとした喪失感を味わっていた。 いつものお気に入りのジャンボクッションを抱きしめ、床に転がる。クッションは柔らかいけど、子猫みたいに温かくもフワフワでもない。
そんなオレの様子を、神谷さんはソファに座って発泡酒を飲みながら、呆れたように眺めていた。
「あの子、女の子だったんですねぇ……」
アツシは本当の名前は『みい』ちゃんで、漢字で書くと『美唯』なんだそうだ。
今頃は本当の飼い主の所で甘えているんだろうな。
ほんの少ししか一緒にいなかったけど、やっぱり寂しい。 「また逃げてこないかなぁ」 思わず呟いてしまった言葉を、神谷さんは足を伸ばして腹を蹴ることで止めてくれた。 「痛い〜!」 全然痛くないんだけど、わざと転げ回ってみせる。 「冗談でもそんなこと言うなよ」
冷たい視線。
だけど口元は微笑んでいて、本気で怒っていないと教えてくれる。 「猫、嫌いですか?」 「動物はたいてい好きだぞ」
神谷さんのお言葉に、ちょっとした悪戯心が芽生える。
クッションを離し四つん這いになって…… 「みゃ〜お」 甘えて鳴いて、足に擦り寄ってみる。 一瞬ぎょっとされたけど、すぐに楽しげな笑い声が頭の上に振ってきた。 「みゃん!」 調子に乗って、さっき見た毛繕いのまねをして足を上げて舐める動作をしてみせる。 「おまえ、相変わらず身体柔らかいのな!」 神谷さんは腹を抱えて笑い出した。よし!成功!! すいっと伸び上がって、神谷さんの頬を舐める。 「こらっ!調子に乗るな」 笑いながら怒られたって、怖くありませんよ〜。 「にゃ〜」
抱きついて耳元で鳴いてみせる。うん、良い感触。子猫よりはずっと堅いけど、あったかくってオレには一番気持ちいい感触。
だけど幸せはそんなに長く続かない。 頭に拳骨が落ちてきて、神谷さんはオレの腕の中から抜け出し立ち上がった。 拳骨はかなり痛かった。痛みを堪えて頭を押さえているオレに一瞥をくれると、すたすたと寝室の方に行ってしまう。
さては怒らせちゃったのか?
ちょっと調子に乗りすぎてしまったみたいだ。もう一度クッションを抱いて、深く反省する。
だけどすぐに神谷さんは戻ってきた。
見上げると、
?
ムッツリしてるんだけど、なんか変?
神谷さんはオレの前に膝をついて座ると、銀色の物を差し出してきた。
これは…
「鍵?!」 「持ってろよ」
半ば投げられるように渡される。 手にちょっとひんやりとした感触を与え、鍵が光る。
「ね、もしかしてこれ…」 「ここの合い鍵に決まってんだろ」 ああ、照れてる。どんなにムッツリしてても隠せてませんよ。 「良いんですか?」 「ここ、ペットは禁止なんだよ。玄関前にいられたんじゃ、困る」
どうしよう、どうしよう!
嬉しくって、幸せで。
ああ神谷さんっ!
「大好きです、愛してるっ!」
勢いのままに抱きつくと、不敵な笑顔が返ってくる。 「迷子になんなよ、このデカ猫」
呼びかけに「にゃん!」と元気に返事をして、オレは神谷さんに思いっきりキスをした。
終わり 2001.03.20.
いちばん素敵な場所で、この夜の二人がしたことは…
ふふふ、教えてあげないv
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