獣のような細く冷たい月が、江戸の町を照らし出す。
その薄光の下、深川縁(べり)を一組の男女が道行を急いでいた。
見れば男は良家の家の出と知れる若者。女は少し年上で、安物の着物の胸元を着崩した雰囲気で、町角に立つ夜鷹の類と判る。とても似合いの二人とは言い難い。
そんな二人の行く手に、突然身なりの良い町民の少年が立ち塞がった。
三人の、動きが止まる。
静かな対峙の後、先に口を開いたのは少年だった。
「露葉、妖狐の誇りを忘れたか」
真っ直ぐに女を睨み付け、澄んだ声で告げる。
男の方は身を竦ませたが、女の方は怯まない。
「おや、可愛いお使いだねぇ」
ふふふ、と笑う。
その時川からの風がビュウと吹き、女の頭から被った薄布が捲られた。
月明かりの下、女の顔が晒される。
−白く滑らかな肌。濡れたように艶やかな黒髪。愁いを帯びた黒い瞳。紅が丁寧にさされている唇は理知的に引き締まり……それは魂が揺すぶられるほどに気高く、美しかった。
向かい合う少年もなかなかに美しかったが、この女の前では霞んでしまう。−迫力負けと言うところか。
「坊や。あんたなかなか筋が良いね」
それは余裕の言葉。美しい顔にはんなりとした笑いを浮かべ、差しのばした右手で少年の頬を撫でる。
まともにやり合っても勝てぬ。そう判断した少年はされるが儘にじっとして、女の香りを嗅いだ。
「お前、人間臭いな」
「おや、光栄」
「そこの男のせいか?」
「野暮な事を訊きなさんな」
「「好いた惚れた……か?馬鹿らしい」
「馬鹿か?馬鹿かえ。こりゃあ良い」
艶やかに、笑う。
笑わてムッとした少年が、撫でられていた手を払う。精一杯に睨み付けるが、女の笑いは止まらない。
相手にされない事に腹を立てた少年は、今度は男の方に向き直った
「この女は、人ではない」
後ろに一飛び。少年は黄金(きん)の狐へと姿を変えた。
「露葉は我が一族……齢五百を数える妖狐の雌(おんな)」
狐に変わっても、少年の声は変わらない。獣の口元がニイと笑った。
然し男は驚かない。
「お露が何者でも、私のただ一人の女だ」
毅然と言い放ち、女の肩を抱く。
抱かれて女はしなだれ掛り、嬉しそうに目を細める。その表情に、一瞬重なる獣の気配。
黄金の狐は『ほう』と関心の溜息を吐き、好奇心の溢れる瞳で二人を見つめた。
「そうまで言うのなら、今は見逃そう。妖と人、さて何処まで貫ける事か」
はっきりとした人語で言い残すと、金の軌跡を描いて闇の中に消え去る。
行く手に邪魔の無くなった二人は、再び先を急ぎ出す。
それは思いを遂げんが為の道……。
◇◆◆◆◇
ぬ〜べ〜に山間の村に起きている幽霊騒動の解決を依頼したのは、隣のクラスの生徒の伯父だった。
生徒の言えに家族で非難しているというのであって話を聞くと、一月ほど前から村に着物姿の美女の幽霊が現れ、出会った者が次々と謎の病気に倒れる事件が起きているという。
伯父と中学二年の娘さんも被害者で、女に『シンノジョウさまは何処か?』と尋ねられたあと意識を失い、三日三晩床から離れられなかったそうだ。
今では住民は皆逃げだし、村は無人になっている。
原因に何か心当たりがないか問い質したところ、幽霊騒ぎの始まった頃に稲荷神社に祀られていた水晶球が粉々に砕けるという事件があったことを娘さんが思いだした。
場所は稲荷神社。稲荷なら狐。狐の事なら妖狐に訊け。そんな単純な発想で病院に玉藻京介を訪ねた。
とは言え、さほど期待もしていなかったのだが……。
玉藻は心当たりがあると言う。
「明日から連休ですね。ご案内しましょう。露葉ならば……確かめたいことがあります」
最後の言葉に頭を捻りつつ、ぬ〜べ〜はその申し出をありがたく受けることにした。
玉藻の運転する4WDは、悪路をものともせずに山道を疾走する。
二人の格好は、野宿も想定して普段よりもラフなものだ。車には『お祓い用品一式』の他に、キャンプ用品や医療品も積み込んである。
玉藻の語る『露葉』と『新之丞』の物語を、助手席に座ったぬ〜べ〜は真剣な面もちで聞いていた。
「『新之丞』は武家の跡取りで、親が身を売る商売女と一緒になることを許さなかったんです。許婚者もいましたし、駆け落ちするしかなかったんでしょうね。−時々人間に化けて様子を見に行ってたんですが、駆け落ちした先で、跡取りの居ない商家の養子夫婦として落ち着き、皆から親しまれていまいたよ」
「おい待て、江戸時代だろ?お前、その頃は人化の術なんか出来なかったんじゃないか?」
「だから筋が良かったんですよ。ドクロが無くとも、短時間なら化けられました。尤も、同じ年頃の仲間で私ほど完璧に化けられるものはいませんでしたが」
「嫌な奴だな」
「ありがとうございます」
玉藻が余裕で笑う。
ぬ〜べ〜は笑われて『ケッ!』とばかりに顔を顰めたが、すぐにまた真剣な表情に戻った。
「人と妖怪の夫婦、か」
「先生なら、解るんじゃないですか?」
「……凄い覚悟だったんだろうな…」
人と妖怪――違う時の流れに棲む存在。共に暮らすにしても、人は先に老い、死んで行く。
残される妖(あやかし)は愛する者の居ない世界で、出会いの頃と同じ姿のままに長い時間を生きて行かなくてはならない。
ぬ〜べ〜の脳裏に浮かぶのはゆきめの姿だ。雪女の掟に逆らってまで愛すると言う彼女を、自分もまた愛した。
――それでも結ばれる事を躊躇うのは、残して逝かなくてはならない運命を思ったから。
玉藻は元気の無くなってしまったぬ〜べ〜を横目で見やると、ハンドルを握る手に僅かに力を込めた。
『ゆきめとの事を……考えているのでしょうね』
単純な鵺野の思考など、読むのは容易い。
そして目を眇める。――心の奥が痛い。
なぜこんな事になってしまったのだろう。鵺野鳴介という人間に、どうしようもなく魅かれている。
薄汚い人間の中にあって、彼だけは不思議な清さを保っていた。強大な霊力を持ちながら私欲に走らず、取るに足らない存在を守る為に命を投げ出そうとする。――もちろん俗な所もあるのだが、他の人間の腹黒さと比べれば可愛いものだ。
倒すべき宿命のライバルとして鵺野鳴介を観察し続け…いつの間にか気持ちが揺らいでいた。
彼が人間だというのなら――人間も、悪くない。
二百年前、露葉もこうだったのだろうか?
「本当にお露さんが犯人なのか?だって新之丞さんが死んだのって百五〜六十年前なんだろ?」
「露葉に時間は経っていません。砕けた水晶球というのは、露葉が自らを封印したものなんですよ」
「!?」
「夫の生まれ変わりを信じて、その時まで眠ると言っていました」
「生まれ変わっても、前の記憶があるとは限らないのに」
「新之丞が気が付かなくても、また出会い直せば良い事……って笑ってました」
「すごい女(ひと)だな」
「狐は情が深いんです」
「お前は薄情なのにな」
「おや? 私が薄情? 妖狐の力を持ってすれば、こんな車なんか使わずとも簡単にいけるんですよ。誰の為に運転手役までしてるんでようかね?」
「あ、あはははっ、感謝してます、玉ちゃ〜ん!」
「あんなボロ車で行く気でいたなんて」
「ボロで悪かったな! それに、こんな酷い道だなんて知らなかったんだよ」
「それで良く教師が勤まりますね」
「悪かったな! クソッ」
二人の間に、いつもの雰囲気が戻る。
端から見れば友人同士の楽しそうなドライブと思われることを、二人は全く自覚していなかった。
◇◆◆◆◇
新之丞が眠るように息を引き取って、ちょうど四十九日の夜。――年老いた『露葉』は村外れの稲荷神社へと出向いた。
境内には、祠が三つ。
その中の真新しい祠の前に蝋燭を置き、火を灯す。
チラつく明かりが、露葉の姿を浮かび上がらせた。
若い頃の面影を残しつつ皺を刻んだ顔、白が目立つ髪、小さく縮まったような痩せた身体。−だがその身に纏っているのは、歳に似合わぬ鮮やかな錦の着物。
悲しげな表情に決意の色を浮かべ、スイと祠の扉を開けると、納められた白狐の置物の前に持っていた水晶球をそっと据える。
その時背後に、黄金の影が音も無く忍び寄った。
「露葉、何をする気だ?」
「坊やかい?」
ゆっくりと振り向く姿から、老いが失せて行く。
完全に振り返った時、そこにいたのは40年前のままの美しい女だった。
「歳を偽るのをやめたか」
「もう人目なんか関係ないからねぇ。無理して化ける必要もないさね」
ふふふ、と笑う。
その目の前で黄金の影が揺らぎ、少年の姿を取る。
少年は笑う女を不思議そうに見つめると、もう一度『何をする』と尋ねた。
「眠るのさ。新之丞さまが居ない世の中なんて、起きていても仕様がない」
「死ぬ気か?」
「死なないよ。あの人が約束したから……絶対に生まれ変わるから、また添い遂げようってね。だから、眠るのさ。この祠はね、新之丞さまがあたしの為に作ってくれたんだよ。ここであの人の夢を見ながら待つのもオツだろ?」
「たとえ生まれ変わったとて、また逢えるとは限らんだろうに。お前を覚えているとも思えぬ」
「何処にいたって見つけるさ。覚えていなくとも、もう一度最初から愛し直せばいい事」
美しい顔が、幸せそうに綻ぶ。まるで華が咲くように、ひっそりとした微笑み。
「その着物……その時の為の、装いか」
「ほんにお前、筋が良い。きっと名のある妖狐になるだろうね」
すっと白い手が伸び、少年の頬を撫でる。指先は四十年前とは違い、生活の為に荒れていた。
「お前、人間臭い」
「人間に、なれたら良かったんだけどね」
ふふふ、とまた笑う。指を少年から離すと、祠の方に向き直った。
「坊や、一つ頼まれてくれないかい?あたしが眠ったら、あたしのドクロをあの人の墓に埋めておくれ」
「……解った、引き受けよう」
「坊や、名は?」
「玉藻」
「ありがとう、玉藻」
言葉と共に、女の姿が透けて行く。首さすまたを持った銀狐の姿が女に重なり、最後に強い光を放つと、据えられた水晶球に吸い込まれた。
全てを見届けた玉藻の正面には、露葉の使っていたドクロが転がっていた。拾い上げて祠に近づき、扉を閉める。
「お前が目覚めた時に同じ女に化けられるよう、油紙に二重三重に包み、お前の良人に守ってもらおう」
水晶球に聞こえるように言うと、約束を果たす為に墓へと向かって立ち去った。
◇◆◆◆◇
車が現地に着いたのは、もう夕方に近かった。
人気のない村の片隅に、問題の稲荷神社があった。
境内に3つあった祠を一つずつ調べて行くと、一番小さな祠の中に、懐中電灯の光に照らされて輝く水晶の破片を見つけた。
白衣観音経を構えるが、妖気は強く残っているものの、本体の姿が見えない。
「留守か」
「もうこの辺には人が居ませんし……何処か遠くまで新之丞を探すか、食事にでも行ってるんでしょう」
「そう言やお前ら何食べるんだ? やっぱ、お稲荷さんって言うくらいだから稲荷寿司だろ?」
からかうように訊いてくるぬ〜べ〜に、玉藻の悪戯心が喚起された。
――からかうのなら、お返しはしましょうね。
「油揚げは人間が考え出した『肉の代用食』にすぎません。元々が狐ですからやっぱり生肉がいいですね。生きた小動物を狩って食べるのが基本です。鳥やウサギ、蛇や蛙もイケますよ。ネズミなんかも大好物です」
食べる姿を想像して、思わずぬ〜べ〜は飛びずさった。
その姿の滑稽さに、玉藻が吹き出す。
ようやくからかわれたことに気付くと、ぬ〜べ〜は玉藻を恨めしげに睨み付けた。
「玉藻〜」
「貴方が変なことを訊くからです。人が食べるものとそんなに変わりませんよ。穀物よりは肉類の方が好きですが」
「脅かすな!」
「他にもね、手っ取り早い食事法もあるんですよ」
「?」
「人の精気を喰うんです。精気の流れに口を当てて、吸い上げる」
「げっ……」
「私はそんな悪食はしませんが、妖怪仲間ではメジャーな方法ですよ。悪霊と違って命まで取る訳ではないし、身体ごと喰う鬼よりは平和的でしょう?」
「ったってなぁ……。! そうか、村の人たちの病気って」
「『食事』ですね。封印から目覚めたばかりで空腹なんですよ。本当は交(まぐ)わりながらの方が上手くいくんですが、男女関係なく被害に遭っているからそれは無いでしょう。夫に操立てしているんですね」
途端にぬ〜べ〜が真っ赤になる。
「ま、まぐっ……交わるぅ〜!?」
「身体を繋ぐんです。今風に言えばセックス」
「せっ、セッ? せっせっせ〜のヨイヨイヨイ♪」
完全に狼狽えて、意味不明の踊りをしだす。
「何してるんです?」
突っ込むと、今度はしゃがみ込んで地面にのの字を書き始めた。
「ショックなんですか?セックスと言ってもただの食事の手段ですよ?……たまにはわざわざ子供を作る妖もいますが、例外ですね」
「手段たって、なぁ」
なおも地面に字を書き続ける姿に、玉藻は理由を思いついた。馬鹿にしたような笑みが浮かぶ。
「ははーん。先生、童貞なんですね」
その言葉に、弾けるように立ち上がった。
「ば、馬鹿にするな! 25だぞ! 経験の一つや二つ…」
「図星、ですか」
ククク、と喉の奥で笑う。
笑われて、ぬ〜べ〜はユデダコと化してしまった。
「色男はいいよな! クソッ」
いじけながらも、辺りを調べ始める。
「ここは先生に任せます。私は墓を調べましょう」
「ああ」
ひらひらと手を振って、玉藻を追い払う。その顔は霊能者としての真剣なものに戻っていた。
「私が戻ったら、食事にしましょう」
「ネズミは嫌だぞ」
「鵺野先生のお好きな、カップラーメンですよ」
「……それは給料日前の非常食」
「デザートは患者から退院祝いにいただいたマキシムのドライケーキです」
「早く戻ってきてください」
「それと、露葉が私の居ない間に戻って来ても殺さないでください。――鬼の手で切り裂かずに」
いきなりの申し出に、ぬ〜べ〜はびっくりしたように玉藻を見た。
視線の先には、困ったように笑う玉藻の真剣な瞳。からかっている訳ではない。
「玉藻……お前」
「昔なじみですから……ね」
「安心しろ。あんな話を聞かされちゃ、お露さんに新之丞さんと逢わせてやりたいじゃないか」
ぬ〜べ〜の答えに、玉藻は安心してその場を離れた。
露葉は山の中の獣道を辿って、祠に戻る所だった。
愛しい人に出逢えぬ哀しみや、絶えず襲ってくる空腹、さらにはあまりにも変わりすぎた世界が、彼女から正常な思考力を奪っている。
身体が覚えている『お露』の姿に化けてはいても、ドクロを使っていないので姿は安定しない。一歩踏み出す毎に若くなったり年老いたり、銀色の毛並みを持つ妖狐の貌に戻ることすらある。
今、頭の中を占めているのは『新之丞に逢いたい』と『空腹を癒したい』の二つだけ。
風のように走り無人の村に入る。すると稲荷神社から人間の気配がすることに気が付いた。
見れば鳥居の前に、村には無かった形の『自動車』という名の乗り物が置かれている。
「新之丞さま……?」
錦の着物が風に舞う。
獣の身軽さで、露葉は車を一飛びに越えた。
すっかり暗くなった境内を、ぬ〜べ〜は懐中電灯の明かりだけを頼りに調べ直していた。
「ここで暮らしている形跡があるんだが」
祠のすぐ裏手、大きな木のうろに藁や木の葉を敷き詰めた巣があった。中には獣の毛も落ちている。
何より残っている『妖気』が、間違えようもなく妖狐の存在を教えていた。
然しこれでは人間らしさが全く見受けられない。
「玉藻の話だとお露さんは『人間』のはずなんだが……。これじゃまるで狐に逆戻りだ」
人の精気を奪ったり、獣のような暮らしをしたり……。
「正気じゃ、ないのか?」
哀れと思う。出来るなら、助けてやりたい。
その時肌が泡だった。強烈な妖気が近付いてくる。
振り向くと、艶やかな着物姿の、美しい女が立っていた。
「新之丞さま……?」
男の名を呼ぶ。ではこの女が――
「お露……さん?」
途端に女の顔に満面の笑顔が浮かぶ。
「新之丞さま」
白い手がぬ〜べ〜に伸びる。
「俺は新之丞じゃない」
「新之丞さま」
「俺は鵺野鳴介だ。君を助けたい」
ピクリ、と手の動きが止まる。いぶかしげな表情。
「新之丞さま……?」
「ちがうんだ。お露さん、正気に戻ってくれ」
「違う?」
「君が目覚めたのなら、たぶん何処かに新之丞さんが生まれ変わったんだろう。だけど今のままの君では駄目だ」
露葉が動揺し始めた。その姿がめまぐるしく変わり出す。
女に・老女に・子供に・狐に――
後ろに下がる露葉の腕を、ぬ〜べ〜が捕らえた。
怯えさせないように細心の注意を払い抱き寄せ、鬼の手を封印した左手で背中をそっと撫ぜる。
「君は人間になりたかったんだろう?」
腕の中に収まって、男の匂いを嗅ぐ。憶えのない香り、知らない温もり。
露葉の全身が告げる。この男は違う。
「新之丞さまと、違う!」
その姿が銀色の妖狐に変わった。
ぬ〜べ〜の身体を突き放すと、首さすまたで襲いかかる。
切っ先を寸での所でかわすが、トレーナーの袖が切り裂かれ肌が露出した。
「お露さん!」
「新之丞さまは、何処?!」
かわされて、今度は狐火で襲う。それをぬ〜べ〜は白衣観音経でバリアを作り跳ね返した。
「お露さん、目を覚ませ!」
手袋の封印を解こうかとも思うが、どうしてもそれができない。この女を消すことなどしたくない。
ぬ〜べ〜の躊躇いを、露葉は見逃さなかった。素早く幻視の術を送り込む。自分がこの男の一番大切な者の姿に見えるように。
「!」
妖狐がぬ〜べ〜の目の前でゆきめの姿に変わる。
「鵺野先生」
いつもの無邪気な笑顔。抱きついて見上げて来る。
「愛してます、先生」
固まってしまったぬ〜べ〜の首筋に精気の脈動が見える。強い霊気と相まって、とても美味しそうだ。
「先生……おなか、すいちゃった」
唇を当てて喰う。今まで喰らったどの人間よりも美味い。
始めはがむしゃらに貪った。良質の『力』は驚くほどの充足感を与えてくれる。
空腹が癒されるにつれて、獲物が全く無抵抗なことに気が付いた。
耳元に優しい唄が聞こえてくる。
油紙に包まれたドクロを手にして戻ってきた玉藻が目にしたのは、銀色の雌の妖狐がぬ〜べ〜を抱きしめて首筋に口吻ている光景だった。
精気を喰われているのに、ぬ〜べ〜に抵抗している様子は全く無い。
『気』が違う。幻視の術を掛けられているのだ!
「鵺野先生! それは露葉だ!!」
駆け寄ろうとして『火輪尾』の狐火に遮られる。
炎越しにぬ〜べ〜の蒼さめた顔が見えた。目は半分閉じかけられ、乾いた唇が小さく何かを呟いている。
オーラが、弱い。
妖狐の本能と、医者としての経験が教えてくれる――−このままでは命に関わる!
「露葉! その人を離しなさい!!」
自分以外が鵺野鳴介を屠る事など許せない。
手から持っていたドクロを落とす。
髪をほどき黄金の尾を伸ばし、妖力を解放する。
炎には炎を。火輪尾の術同士をぶつけて炎を消し去り、新たな炎を露葉に向ける。
ゴウ、と音を立てて渦巻く炎が露葉の背に当たるかと思われたとき−それまでぐったりしていたぬ〜べ〜が露葉を引き剥がし、かばうように体勢を入れ替えた。
狐火が背を容赦なく焼く。髪と肉の焦げる匂い。
「ぐわぁっ!」
大急ぎで炎を引かせたが手遅れだ。着ていたトレーナーは炎で焼け落ち、剥き出しになった背中の皮膚は赤く腫れ上がり爛(ただ)れてしまった。
玉藻の目に、瀕死の身体が露葉の懐中に倒れ込んで行くのが悪夢のように映った。
こんな結末は、許されない。
「何て事を! そいつは妖狐なんですよ!」
玉藻の呼びかけに、露葉の腕の中、ぬ〜べ〜が僅かに目を開いた。
「……知って……いる、さ」
荒く浅くなった息の下から、掠れた声が答える。
「ならば、何故!?」
「精気なんて……休めば戻……る」
混乱して動きを止めた露葉に、微笑みかける。
我を忘れるほどの時を待った女が、哀れだった。
痛みを堪え立ち上がると手を伸ばし、露葉の頭を慰めるようにそっと抱いてやる。
哀しい魂が観音の慈悲もて、救済されん事を願って。
「南無……大慈大悲…救……苦救難……広大霊感……白……衣……観音」
切れ切れの息を継ぎながら唱える白衣観音経が、まるで優しい子守歌に聞こえる。
消えかけていた筈のぬ〜べ〜のオーラが、優しい色に輝きだし、露葉を包み込む。
玉藻が、露葉が、驚愕に目を見開いた。
「鵺野先生!」
「ああ……」
露葉の姿が、お露の美しい姿に変わって行く。
濃密だった妖気が薄れ、消える。
顔を上げた露葉の瞳には、正気が戻っていた。
「……お露……さん?」
「はい」
「よかった……」
安心して気力が萎えたのか、それまでぬ〜べ〜から発せられていたオーラが色を失った。同時に身体が大きく傾ぐ。
慌てて身体を支えようとする露葉より早く、駆け寄ってきた玉藻がぬ〜べ〜を抱き留めた。
「鵺野先生!」
呼びかけると、意識は無いものの閉じられた瞼が微かに動いた。
素早く診察する。背中の火傷は中度だが、傷によるショック症状は無し。息も脈も弱いが、規則正しいリズムがある。
――これならば、助かる!
抱き上げ車に向かう。あそこには治療道具が積んである。
「露葉、手伝ってくれ!」
「坊や……玉藻?」
「こんな事で、死なせる訳にはいかないのだ」
「お前の知り合いかえ?」
「鵺野先生は、全力で闘って倒したい唯一の人間。私の手以外で死ぬ事など許さぬ!」
悲痛な叫び。
そんな玉藻の姿に露葉は何事かを納得し、後について走り出した。
応急手当の後、留守の個人病院に場所を移した。
ここは無人になってまだそれほど時間も経っていないせいか、電気も水道も止められていなかった。
なによりも、清潔なベッドを確保出来た事にほっとする。
時刻は真夜中。
俯せに寝たぬ〜べ〜の顔色は良くなって来ており、寝息も穏やかだ。
「あたしの薬の効き目は確かだろ?」
露葉の言葉に頷く。持ってきた人間の薬より、露葉が山で採ってきた薬草を使って急ごしらえで作った薬の方が、火傷の炎症を即座に抑えた。
あとは『精気』の回復を待つだけ。
寝顔を見下ろし、横を向いた頬に軽く触れる。指先から伝わる暖かさが胸を熱くした。
穏やかな表情を見せる玉藻に、露葉は愉快そうに笑った。
途端にムッとする。
「何が可笑しいんです?」
「お前、ずいぶん人間臭くなったねぇ」
クククと笑い続けながら、診察室から出ようとする。
「何処へ行く?」
「てれび……だっけ?あれ見るよ。勉強になるから」
待合室に置いてあったテレビを、露葉は凄く気に入った。箱の中に別の世界が映し出され、現実や作り出した嘘の光景を見せている。――人間の行使する『幻視の術』
「その前に、露葉、尋ねたい事があります」
「何をだい?」
出掛かった足を止め振り向き、玉藻の真っ直ぐな視線を受け止める。
「あなたは何人もの人間を惑わし、懲らしめたと聞きます。そんなあなたが、何故人間なんかと夫婦になったんです?」
一瞬の静寂。そして露葉の忍び笑い。
「そうさね、そんな事もあったかね。武将だ公家だとぬかす連中をからかい続けて、その汚い性根に嫌になっちまったんだ。だから次は庶民でもからかおうかって、出来心で夜鷹になったのさ。結構愉快だったよ、新之丞さまに逢うまでは。−あの人ね、あたしを買ったのに抱きもせず説教したんだよ」
遠い目をする。昔のことを思い出しているのだろう。
「新之丞さまを知って、あたしは人間を愛おしく感じられるようになった。汚くても愚かでもいいじゃないか。あの人には真っ直ぐに相手を見つめられる勇気と、不正な事への憤りと、守りたいものの為には全てをなげうてる潔さがあった。こういう人がいるのなら、人間も悪くないと思った。一緒に生きて一緒に死ねるのならどんなに幸せだろうってね。そして40年連れ添って、本当に幸せだった」
戻ってきて玉藻の横に立ち、ぬ〜べ〜を見下ろす。その表情は愛しげに微笑んでいた。
「この人も、きっと新之丞さまと同じ気性なんだろうね。何処か似た匂いがしたよ」
「そうですね。妖怪に偏見を持っていないのは似ているかもしれませんよ。彼の恋人は妖怪…雪女です」
「ほう、では幻視の時にこの人が見たのはその女の姿。やはり懐の深い男だったね。ではお前……」
静かな表情で玉藻の瞳を覗き込む。
「辛い想いをしているんじゃないかい?」
意味深な言葉に、玉藻の鼓動が跳ね上がった。
「私が……?」
「この人間に、惚れているだろう?」
言葉が出ない。――それは無言の肯定。
動きを止めてしまった玉藻の横を、着物の裾を優雅に舞わせ擦り抜ける。
「人間と妖怪が共に生きられる時間は短い。大切におし」
言い残してドアが閉まる。
しばらくすると、ドア一つ隔てた待合室から騒がしい音楽が聞こえてきた。どうやら露葉がテレビの深夜放送を見始めたらしい。
静かだった診察室に、不明瞭な音楽と声が流れる。
そんな騒音にもぬ〜べ〜は目を覚まさない。
本心を言い当てられたショックから徐々に浮上してきた玉藻は、ドアを一瞥すると、深く息を吐いた。
「かないませんね」
ほんの少しの時間でここまで自覚させられてしまうとは。
それとも自分はそんなにあからさまだったのだろうか?
幅の狭いベッドに何とか隙間を見つけ、腰を下ろす。
寝息を確かめるように顔を近づける。
唇の端に口吻てみると、頭の芯が痺れるような感じがした。
もう一度、今度は火傷に触れないように気を付けながら上半身を横抱きに起こし、口吻る。吐く息を吸うように、吸うときには空気を送り込むように。
間近で見る表情は穏やかで、普段強い意志を示す太い眉や、霊や魔を見る瞳が閉じられただけで、こんなにも無防備になるのかと驚いてしまう。
「鵺野先生……あなただけです。こんな気持ちにさせるのは」
闘いたいという気持ちは変わらない。然しそれは相手の事をもっと深く知る為、存在の全てを確かめる行為。
三度の口吻。想いを込めた、静かな深いキス。舌で口腔内を探り、舌同士を柔らかく絡める。唇の間から微かに漏れる湿った音は、隣の部屋の音に掻き消された。
触れる暖かさと柔らかさが、心を熱くさせると同時に哀しくさせる。なぜこんなにもこの人間が欲しいのだろう。
キスを解くのにも、大変な自制心がいった。
このまま全てを手に入れたいと思う。
そんな事をしたら永遠にこの人を失ってしまうと思う。
ライバルとしてなら共に居られる。
だけども想いに気付いてしまった今となっては、いつまでも押さえられるとは思えない。
寝かせ直そうとして、首筋に先ほど露葉が精気を吸った所が紅く浮き上がっているのを見つけた。
指先で触れてみる。指の下に『精気』の流れを感じる。
いけないと思いつつもそっと唇を寄せてみる。舌先にほんの少しの精気を感じ取り、大きく身震いが走った。
慌てて身を離し立ち上がる。
その動きは意外なほど大きな振動でベッドを揺らした。
揺れに、ぬ〜べ〜の意識が一瞬浮上する。
薄目を開けた先に自分をびっくりしたように見つめる玉藻を見つけ、口元を綻ばせた。
言葉を発さずに唇だけが動く。
『なんて顔してんだ?』
自分の状態を棚に上げた質問に、玉藻は思わず吹き出してしまう。
「怪我人は寝てなさい。医師としての命令ですからね」
軽い毛布を掛けてやり、部屋の電気を消してやる。
じきに穏やかな寝息が聞こえてきた。
「先生……鵺野先生」
呼びかけても返事はなく、ほっとする。
「好きです。誰かにあなたを奪われることを思うと気が狂いそうになるくらい、あなたを思っています」
相手に聞かれることのない告白。
それでも口に出す事で心が少し落ち着いた。
露葉は水晶球に身を封じ深く眠っている時、ほとんど夢を見なかった。覚えているのはいつも『暖かいもの』に守られている感覚。
あれは新之丞の『気』だったと思う。
その暖かさに安心して眠っていられた。
しかし『気』は突然に失せた。
失ったことによる不安と、もたらされるであろう希望に目覚めたのだ。
――『気』が消えたのは、新之丞が何処か違う次元に行った事を表し、生まれ変わったという確率が高い。
完全に覚醒した今、新之丞が生まれ変わりを果たしたことを確信している。吹いてくる風が、新之丞の『気』と『香り』を運んでくれている。
生まれ変わる−妖怪と人間の『個体』としての時間は大きく違うが、魂が生まれ変わりを果たすのなら『生』自体の時間は変わらないのかもしれない。
どの魂も『永遠』に生きている。
そう玉藻たちに言ったら、どんな顔をするだろう?
露葉の心は、とても澄んでいた。
次の日をまるまる寝て過ごして、ぬ〜べ〜は復活した。
翌日の早朝、明日からの出勤の事も考えて二人は車中の人となった。
火傷も露葉の作った薬のおかげで、ひきつり感はあるものの、体を動かすのにそれほど支障もない程度に治っている。
それでも一応大事を取って、帰りは後部座席のシートに上半身を横に寝る格好を取った。
しかしそうすると車外の景色が見えず、余り面白くない。
「あとどのくらいかかる?」
「そうですね、だいたい3時間程です」
10分と間隔を空けずに聞いてくるぬ〜べ〜に苦笑してしまう。仕方なく車を路肩に寄せ、停めた。
「すこし、休憩しましょうか」
呼びかけると途端にぬ〜べ〜が座席から身を起こした。
手を貸して、車から降ろす。
車外はのどかな田園風景だった。もう山の姿は遠くにしかない。
足元が、まだ乾いていない草の露で濡れた。
深く息を吸うと、身体の内側から清められるような気分がする。
寄り添うように並んで立ち、交わす会話は自然と露葉の事となった。
「お露さん、早く見つけるといいな」
「その前に世の中に慣れると言っていましたが」
「どうやって?」
「さあ。でもテレビばかり見てました」
昨日村を出た露葉は、着物は何処かから調達してきた鞄に大切に仕舞い込み、洋服に着替えていた。流行の派手な格好で、テレビの影響が大きいことが解る。
「美人でナイスバディでテレビ好きか。芸能界デビューでもしたりして」
「……やりかねませんね」
「え? ええっ?」
「うまくいくと、見つけてもらえるかもしれないですから」
玉藻の意見に腕を組んで考え込み、やがて笑う。
「あの人なら何となく、イメージだよな」
ぬ〜べ〜の身体から優しいオーラが立ち昇る。これは露葉の幸せを願う波動。
今までこの人に勝てなかったのは、この波動のせいではないだろうか?
不覚にも見惚れてしまった玉藻に、いきなりぬ〜べ〜が向き直った。
「所でお前、確かお露さんに確かめたい事があるって言ってたよな。訊けたのか?」
「はい。おかげさまで」
「なんだったんだ? 教えろよ」
「プライバシーに関わるから、秘密です」
「なんだい、ケチ」
口を尖らすさまに、思わず笑ってしまう。
「教えられませんが……その代わりと言ったら何ですが、露葉からの礼も込みで、着いたら焼き肉でもおごりますよ」
「本当か?やった!じゃ、さっさと出発しようぜ」
いそいそと車に乗る後ろ姿に、そっと含み笑いを送る。
――実は露葉からの情報が一つ。
『両方共が滋養のある物でも食べて精気を充実していれば、行為の最中でも間違っても精気を吸うことはないんだよ。それが例え衆道でも変わるまい』
それは露葉なりの、恋愛成就の為の後押し。
先にぬ〜べ〜を後部座席に横にさせると、玉藻は運転席に着く前に、今来た方角を振り向いて小さく呟いた。
「魂は生まれ変わるにしても、共に生きられる時間は短い。そうでしたよね……お露さん」
この連休で、心の覚悟は出来た。上手く行っても行かなくても、後悔はしない。
「あなたが早く新之丞と一緒になれる日を、祈ります」
メッセージを風に乗せる。
そして二人を乗せた車は走り出した。
END(1996.12.6脱稿)
作品情報:
サークル「HALF・MOON」・橘まきとさんからのゲスト依頼。
「Private Lesson」(1996.12.28発行)掲載。
連続でコミケに落選し、暇になったので引き受けました。その翌年にももう一本、彼女の依頼で玉×ぬ〜を書きましたが……私、ぬ〜×ゆきめちゃんのノーマルカップリングが好きだったんだけどな〜(笑)
表紙イラスト(ここでは掲載しておりません)の橘まきとさんとは、かれこれ長いおつきあい。萌えジャンルは重ならないけど、リアルで友人です。
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