かにた婦人の村。。。

 

 県職員の労働組合、青年部で、自分達が住んでいる千葉県にも、

まだ戦争の時の後が残っているため、身近なところから戦争について

感じてもらい、考えてもらおうと、2回ほど千葉の戦跡めぐりを企画した。

 1度目は、南房総の地下要塞跡や海軍航空基地射撃場跡や、

特攻有人ロケットが飛び立つ計画があったカタパルトなどをみた。

 2度目は、千葉の北部の飛行機を隠す壕(えんたいごう)や、

飛行場跡。少し場所を変えて、不法投棄の現場をみた。

 

 

 1度目の企画で見学した、「かにた婦人の村」について、

去年の末に機関紙の取材があり、もう一度行く機会があり、

施設の人とも話す機会ももらえました。

 初め、施設の人は「何で話が聞きたいの?」と、

言われました。

 「戦争のときのことを、もっと身近な問題と感じてもらい、

一人一人が戦争に対する考えを持ってもらいたいから」との話から

始まり、15分くらいでしたが話ができました。

 

 

 去年の末に、組合青年部宛てにメールを書いた文を載せます。。。

この次にもまだまだ書こうと思っていたが、まだ書いていない。。。(悩)

 

 

◇「かにた婦人の村」は、日本で唯一の長期婦人保護収容施設です。

知的障害者、精神障害者、また身体障害を併せ持った、

社会復帰が困難と思われる女性が、日本全国から集まり、入所しているところです。

 

 村の中の、一番高いところに、

 

「噫 従軍慰安婦」

と刻まれた石碑がたっています。。

 

「噫」−ああーとは、胸の奥底から絞り出した深い嘆息。

人間の罪深さを嘆いている。。

(かにた物語 深津春子 薯  参考)

 

この石碑ができるにあたり、

この村に入所していた人の「1通の手紙」がきっかけでした。

その手紙を読んだ創設者の牧師さんは、

1年いろいろ考え、この碑をたてようと決心しました。。

 

 1年間考えたのは、「碑」をたてるということは、

「従軍慰安婦」制度を、認めてしまうと思ったとのことです。。

 

 碑がたったのは、1985年8月15日。

初めは木製の碑でしたが、当時、マスコミにも取り上げられ、

1年後の1986年8月15日に、

世界中からの寄付により、石碑がたちました。。

それまで、口を閉ざしていた方たちも、

この出来事をきっかけに、声を出し始めたとこことです。。

牧師さんに宛てた、「1通の手紙」を載せます。。

 

 

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深津先生へ

 

・・・軍隊がいるところに慰安所がありました。

看護婦と見まがう特殊看護婦になると将校相手の慰安婦になるのです。

兵卒用の慰安婦は1回の関係で50銭、また1円のチケットを持って

列を作っています。私たち慰安婦は死の影とともに横たわってました。

何度兵隊の首を切ってしまいたいと思ったか知れません。

半狂乱でした。

そうやって死ねば洞窟の穴に捨てられ家族にも知らされず

腐っていきました。それを私は目撃しました。

この目で女の地獄を・・・

 

・・・戦争が終わって40年が過ぎた今でも日本のどこからも、

戦争で引っ張られていった慰安婦に対する一言の声も聞こえません。

・・・戦死した兵士と民間人にたいしては、各地で弔いをしていますが、

中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島などで、

性欲欲望のため体を提供させられた女性については言及がありません。

その女性はかの地で粉々に砕け手と足は陣地の掲示板になり、

広野をさまよいながら凍りつき、山や野に食べるものを探してさまよい

野良犬や猫の餌となり骨は土となり埋もれてしまいました。

 

・・・戦争が終わって40年が過ぎても健康が回復しない私ですが、

もう幸福です。キリストを知ったからです。・・・

私は1年前から願っていたことがあります。

戦場で粉々に砕けた同僚の姿がごっちゃになって浮かび上がってきます。

どうか鎮魂の塔を建ててください。

それを打ち明けることのできるのは私だけです。

いくら気楽に生きている人でも、あのように恥ずかしい過去を話す人は

誰もいないことでしょう。・・・

 

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