らくちん第12号

「友の会の原点・この10年」


日本AS友の会会長 田中 健治

 平成12年3月31日をもって、大阪府立成人病センター整形外科における強直性脊椎炎の診療が終わりを告げました。
 私如き院外の者が、仮にも終わりを告げたなどと勝手なことを言い切ることには、私自身にもいささか抵抗が無い訳ではありません。 がしかし、日本AS友の会の顧問医第一号であり、また友の会誕生に深く係わって下さった整形外科部長の小松原良雄先生が、成人病センター退官後も嘱託医として診療を続けて来られたのが、いよいよこの日をもって退任され、あとは大阪天満にある行岡病院での週2回の診療を残すだけとなった現実。 そして、成人病センターの中にASの専門医が唯のひとりも居ないという現況を思うとき、いいしれぬ寂しさとともに、時の流れゆく様や、今を生きる知恵や勇気について、会友と語り合い、伝え合っていかねばならないと感じているところです。
 平成元年、それまで数年間にわたって、小松原先生には、診療や入院する度毎に、強直性脊椎炎の療養のことや友の会設立構想などなど、無理難題をもちかけたり、ご高見をうかがったりして過ごしておりましたが、この日、外来の処置室で、「田中君、やっと強直性脊椎炎の研究会が、七川先生を中心にして出来たよ。 これからは、いろいろと研究も進むだろうし、君の望んでいる友の会のことにも協力していけると思う」といかにも嬉しそうで、更に「東京の三井先生のところの患者さんで、T.Nさんという人に連絡をとってみれば」と連絡先を教えていただきました。
 その頃、東京には、いまは故人となったSさんが酒屋に勤めていて、平成2年3月、東京中野体育館で、T.N、S、田中(妻を含めれば4人)が初めて顔を合わせることになったのてす。 もっとも、S氏とは、昭和38年国立白浜温泉病院以来の親友でしたから、友の会設立については双手を挙げて賛同してくれました。
 その後、再び成人病センター整形外科外来処置室。 この場所でF.Nさんの同意を得ます。 こうして設立準備が進行中の平成2年12月、S氏が、カーラジオから東京都が強直性脊椎炎を難病特定疾患に指定したというビックニュースをキャッチ。 この疾患についてはごく一部の者にしか認識されていなかったと思われていただけに、なんだか足元をすくわれたかの様などよめきか走りました。 勿論、研究会の医師たちも知りません。 東京でもわからず、慶応大学本間内科教授のグループによって遂行されたことが後日判明致しましたが、私たちはこの調査を手掛けたことで、必要に迫られて友の会を設立。 平成3年2月25日付け「日本AS友の会」の誕生となりました。
 当時、小松原先生に事情を説明し、理解していただいて、「日本AS友の会」にしたいと申し上げますと、「じゃあ、医師の研究会も日本AS研究会にしよう」と言って下さり、「これからが大変だよ」とも。そして、3月か4月の研究会で、「順天堂の井上久先生に会うから話を通しておこう。ご自分が患者さんでもあるので、きっと力になってもらえると思う」と。
 想い出せばきりがありませんが、会報「らくちん」創刊号も成人病センター入院中にベッドの上で手掛けていたなとか、何かれと、友の会にとって、成人病センターは確かに原点でありました。
 先頃、写真誌フライデーに、京都在住の会友が大きく取り上げられ、大きな反響を呼んだようです。 ビューティフルライフ・障害とともに生きる「強直性脊椎炎」の文字が、大きく堂々と胸を張ってとびこんできました。
 年月がかかえるその重さは、長さだけでは決して表すことが出来ないといわれますが、まさにこの10年、遅々として進まないかの如くみえていても、少しずつ少しずつ、蒔いた種は必ずどこかで芽吹くものです。
 第10回記念定期総会会場が決まりました。 車椅子にもやさしい大阪リーガロイヤルホテルです。 世の中まだ不景気で生活するのも大変ですが一日を優雅に旧交を温めるつもりでお集まり頂ければ有り難いと思います。

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