「始まり」そして「らくちんの道」


NAOMI


戦いのはじまり!はじまり!

 思えば「膝が痛い」、この時が「強直性脊椎炎」との戦いの始まり でした。高3の時でした。両ひざに水が溜まりました。触ると ぷにょぷにょ。腫れています。近くの整形外科で注射器で水をぬいて もらいました。しばらくすると、こんどは両股関節がひどく痛い。 吹奏楽部で打楽器を担当、ドラムセットもやっていたので、練習の しすぎかなと思いました。しかし、どんどん痛みは増していき、ドラム どころか歩くこともできなくなりました。今思えば……。

 もちろん病院に行きました。この界隈の整形外科、大学病院、 はり・灸・力イロブラクティクはもちろん、ご祈梼まで。どこでも 同じ検査の繰り返し。だがはっきりした病名はつかない。すっかり 病院不信に陥りました。後から分かったことですが、この病気は 10数年かけてゆっくリ進行していきます。初期のレント ゲンには 異常がでないそうです。医者がわからなかったのもむりが 有りません。

 高校生ですので、体育が出来ないのが一番つらかった。 小さい時から体育が好きでした。かけっこが得意で、運動会の クラスリレーではいつも代表選手でした。はっきりした病名が つかないので、体育を見学する理由に説得力がないのです。 とても歯がゆい思いをしました。「何で痛いんだろう」、そればかり 考えていました。

 けれど半年ほど経つと痛みは消えていきました。これもこの病気の 特徴です。

 痛みは治まってきましたが、体を前に倒しづらくなっていました。 前屈の姿勢がとりづらい。靴下をはくのにちょっと苦労します。 幼い頃から体が固いほうだったので、「最近運動不足だから」なんて、 あまり気にとめませんでした。

 その後、短大に進み、就職もしました。その間、やはり突然股関節に 痛みが走り、全く動けないことも何回かありましたが、もう病院へは 行きませんでした。どこへ行っても治してくれる訳でなく、ただシップ 薬をくれるだけだったので。数日寝ていればだんだん痛みが柔らいで いく事を体験していくうちに、こういう状況に慣れてきたのです。 痛みさえ治まれば、あとは普通に生活できます。旅行にいったリ、 スキーをしたり、おけいこごとをしたり、いろいろ楽しみました。
 ただ20代前半にはもう走る事ができなくなっていました。職場で 避難訓練の時、私だけ走らずに笑われた事。外出先、信号が青の点滅に なっても走って渡ろうとしないこと。慰安旅行で着替えの時、鶴のように 片足立ちで靴下をはく姿が「変だ」といわれたこと。でも自分でも わからないのです。どうして走れないのか、どうして体が固くなって いくのか。股関節の他に背筋もひどく痛みました。息ができないときも ありました。もちろん腰も。こうして常にどこか痛みを抱えて過ごして いました。事務職でしたので、一日仕事を終えて帰宅するとすぐ横に なっていました。もともと痩せ型で偏食気昧、体力もないほうでした。
 いま思い返してもこの病気で痛み止めの薬も飲まず、1時間以上 かけての満員電車、よくやれたなあと思います。けれどかえって病気だ とわかっていたらできなかったかも!?。自分は悪いところは何も無い、 健康体だと信じていたからこそ「もうちょっとがんばれる」とやれて いたのかもしれません。


やっと病名をもらって

 27歳の時結婚しました。その頃、祖父が近くの総合病院に入院しました。 担当の内科の先生は、優しい感じで、見舞いにいった時、何気なく私の症状 を話したところ「ここの整形で診てもらったら?」とすすめられました。 「どうせ異常はないと言われると思うけど…」と気乗りしないまま診て もらう事に。整形の先生はレント ゲンをながめながら「これはもしかしたら 特別な病気かもしれないが、私にはハッキリ診断できません。上の先生方に (大学病院のことらしい)診てもらって意見を聞いてくるから、来週また 来て下さい」と言われました。私は、「えっ!?」と驚きました。今まで 「何でもないよ。しっぷでも出しとくから」と言われ続けてきたのに、 何かたいへんな病気なの?、もんもんと1週間が過ぎ、再診の時言われ ました。「強直性脊椎炎です。これから悪くなるかもしれないし、 ならないかもしれない。とりあえず今はする治療も無いので、なにか あったらまた来て下さい」。
 いわばおっぽり出されたのです、病名だけもらって。その先生には病気を 見つけてもらって感謝しています。けれどこのしうちはなんでしよう。 「きょうちょく…なんだって?」。初めて聞く耳慣れない病名。それだけで 不安いっぱいなのに、今後どうなるのか説明もなく、治しようが無いから ハイさようならなんて。わたしもその時もっと食いついて説明を求めれば よかったのですが、とにかくショックで、普通のかおで座っているのが 精一杯でした。


「AS友の会」 に出会って

 それから私は調べました。強直性脊椎炎とは何か?。家庭の医学書を 読み漁りましたが、書いてあるのは悲観的なものばかり。「最後は体が 1本の棒のようになり、寝たきりになる事もある」まだ27歳のわたしに 「寝たきリ」宣言はショックでした。もっと情報が欲しい。もっと、 もっと。その時、何気なく新聞の隅に「難病連絡協議会」の文字を 見つけました。どうして、普段読む事も無いそんな小さな記事に目が いったのか不思議でした。何かの力によって吸い寄せられるように、 電話をかけていました。そしてそこで「AS友の会」を教えてもらい ました。
 この会を知った事で、その後、私の人生は、大きく変わったと 言っても良いと思います。「治療法の無い難病」となり、最悪 「寝たきり」とつきつけられた時、「あーまだ子供もいないし、将来夫に 迷惑がかからないうちに離婚した方がいいのかなあ」とか、「自殺」 ということも頭にぼんやリ浮かんだ事もありました。そんな私が、 こうして子供に恵まれ母となれたのも「友の会」で正確な病気の知識を 得て、会員の前向き明るい生き方を知ったおかげです。

 最初はまず、お茶の水にある順天堂大学病院での、強直性脊椎炎専門医の 診察から始まりました。実はこの専門医、井上先生もおなじ病気なのです。 同時に「友の会」の事務局もしていらっしやいます。電話で話したとき、 私より重症らしいとわかりました。今となっては失礼な話ですが、その時、 私はお会いするのが恐かったのです。自分の行く末をつきつけられるような 気がしたのです。「お前も将来こうなるんだぞ!」と。本当になんて 思い上がった失礼なことでしようか。
 けれど実際お会いしてみると、印象はまったく違ったものでした。 医師でもあり、患者でもある。これは患者にとって、とても心強いものです。 痛みの具合や心配事は、全て医師自身が経験済みですので、こちらの気持ちを よく理解してくれます。何より熱心に患者の話を聞いてくれます。治療法の ない病気を抱えたものにとって、本当に必要なのは何なのかを分かって くれています。それから「AS友の会」に入会し、全国にいる患者と情報を 交換していくようになりました。
 「友の会」では、この病気について詳しく書かれた冊子を用意してあり、 それを読むことで正確な知識を得ることができました。全員が「寝たきり」 になるわけではなく、軽症〜重症まで、とても幅広い症状があること、 仕事や主婦業を普通にこなしている人がたくさんいることなどが 分かりました。治療法がないのは仕方の無いことなので、痛みは消炎鎮痛剤 でコントロ一ルしていきます。いよいよとなれば、人工関節の手術を 選択することもできる。

 そうしているうちにも私の股関節の強直は徐々に進行し、激痛でトイレ にも行けない、寝返りもうてないという日々が続くようになりました。 その痛みはどのように言ったらわかってもらえるでしようか?。 長い竹竿を背中に一本くくりつけられ、それにはたくさんのトゲがついて、 体を少し動かそうとするだけで痛みが走る…。例えば、朝ふとんから 起き上がろうとするたび、椅子に座ろうとするたび、今度は立ち上がろう とするたび、横になろうとするたび激痛があり、しばらくそのまま痛みを こらえて、一瞬ひいたときをねらってそろそろ体を動かすのです。 だましだまし。ひとつ痛みをクリアしても、すぐまたやってくる次の痛み。 果てしなくその繰リ返しです。夫もどうしたらいいのかわからず、 私の涙をふいてくれるばかりでした。実際その痛みは人に触られると倍増。 「お願いだから触らないで!」が口癖でした。


手術を受けて

 平成8年、左足の人工股関節置換手術を受けることにしました。 人工股関節は15〜20年ほどしか持たないため、若い時に入れると再手術が 必要となるのですが、何度も何度もは交換できないとのこと。平均寿命が 延びている今、60代以上での手術が一般的らしいのです。30代の私には 早すぎるという意見もありました。早い時期に入れれば、老後は車椅子に なる可能性が出て来るというわけです。けれど、井上先生の意見は少し 違いました。「QOL クオリティ・オブ・ライフ」、どう生きていく のか?、それが大切だと。このまま人生のうちで一番華やかな20代、30代を ただ痛みをこらえて、好きなこともせず、ベッドに寝ているだけで良い のだろうか?。たとえ将来車椅子になったとしても、若い頃しかできない、 いろいろなことを経験することのほうが大切なのではないか?。 私もそう思いました。けれど正直に言えば、この痛みから逃げられるなら 何でもいいと思ったのです。

 とにかく楽になりたかった。

 手術は、東京ディズニーランド近く浦安の浦安病院で受けることに なりました。私は首の強直があるため、全身麻酔がむずかしいとのこと。 そのため、この病気の麻酔の経験数が日本一のこの病院にしました。 また整形外科には、井上先生の先輩で股関節専門医の一青先生もいらした ので安心しました。入院は1ヶ月ほど。
 リハビリ室で、左足が大きく前に踏み出せた時、痛みが全く無いこと に感激しました。本当にパーっとバラの花が私の周りに咲いたようでした。 ただ左足の手術がまだなので不自由さは残ります。右足がストッパーに なってしまい下のものを拾う、床にすわる、イスにちゃんと座るなど、 できないことだらけです(椅子は背もたれが高いもので、なおかつかなり リクライニングしないと座れません。背もたれのない場合は、後ろ手で 上半身を支えないと座れません。ちようど臨月の妊婦さんが座るような 格好です)。
 それでも痛みが半分になったことや左足を軸にして立ち上がりやすく なったことなど、だいぶ楽に生活できるようになりました。手術を決心 して良かったと思いました。痛みが無いと言うただそれだけのことが 喜びなのです。健康なままだったら知るはずも無かっただろう喜びで した。生きる意欲がわいてきました。


出産そして子育て

 手術から1年待たずに思いがけず妊娠判明。結婚10年のことでした。 きっとそれまでは精神的にゆとりが無かったからだと思います。たぶん 顔つきも違っていたでしょう。自分の痛みと戦うことで精一杯でしたから。 もしかして神様がご褒美をくれたのでしょうか。すぐに井上先生に相談。 おなじ浦安病院で出産することにきまりました。私のように重症な患者が 出産するのは初めてというので、産科・整形外科・麻酔科たくさんの方が 準備を進めてくださいました(私は股関節がかなり強直しているので 帝王切開でしたが、軽症なら自然分娩も何の問題もないそうです。 事実そういう方はたくさんいらっしゃいます。
 一番心配だったのは、もし股関節にいつもの、いえいつも以上の痛みが でたらということでした。ふだんなら鎮痛剤で落ち着きますが、妊娠中は 飲まないぼうがいいに決まっています。あの痛みで、赤ちゃんがどうにか なりはしないだろうか。ところが不思議なことに一度も痛みませんでした。 それどころか今までで一番調子がよかったのです。その理由は医師も はっきりわからないそうです。見えない力が守ってくれているようでした。 まわりのあたふたとはうらはらに、お腹の子は何事も無く順調に育って いきました。平成10年6月17日、元気な女の子、未久(みく)の誕生です。 娘は、私をずーと心配してくれた人々に笑顔をくれました。本当にみんな 心から喜んでくれました。生まれてくれてありがとう。幸せにしてくれて ありがとう。

 そんな悠長なことをいっていられたのも退院までのはなし。子育ては 初めてだらけ。「どうして泣くの?」「なんで寝ないの?」「なぜ飲まない の?」。おむつかぶれに、夜泣きに発熱。わんさかわんさか押し寄せて きます。特に苦労したのは、おっぱいを飲ませることでした。おっぱいを くわえさせようとして気がつきましたま。自分のおっぱいを見られない!。 ほとんど動かない首では、下を向いて胸元を見ることができないのでした。 そこで考えました。鏡の前、上半身裸で飲ませました。けれど娘は思った ように吸い付いてくれません。何とか口にふくませようと、うでに抱いた 娘を動かしますが、鏡には逆さまに映っています。逆に動いてうまく いきません。お腹の空いた赤子はますます泣くばかり。わたしの首も痛く なり「泣きたいのはママのほうだよ」 。
 仕方ないのでしぼって哺乳瓶で飲ませていました。が、疲れのせいか 出も悪くなりました。助産婦さんに授乳指導やマッサージを受け、1ヶ月 頑張りましたが、あきらめました。完全ミルクに切り替えたのです。 母乳で育児は理想ですが出来ないことはしかたありません。 するとラクラク。3時間おきの夜中の授乳を、パパにかわってもらうこと もできたのです。こうして娘はパパ、じじ、ババ、ヘルパーさんと、 たくさんの手からミルクをもらって、大きくなっていきました。腕に 抱っこも長い時間はできないので、横になったお腹の上にラッコのように 乗せて寝かせました(これは2歳になった今でもお気に入り)。
 かがめないので、各部屋にべビーベットを設置。遊ぶ時は、床に 座れないので横にねっころがりました。おふろはバパの担当。飲み会の ある日は、お風呂に入れてから出かけていきました。はいはいが始まると、 大きなべビーサークルをレンタル。私も一緒に入って遊びました。 玄関にはべビーゲート。ベランダのサッシにはストッパー。とっさの 危険に助けてやれないので、あらゆる道具で防ぎました。

 このような育児お助けグッズやら、おもちゃやらで家の中は相当な ものでしたが。3ヶ月が過ぎた頃、頼りにしていた実母が腱鞘炎に なってしまいました。そこで、市の社会福祉協議会「ほほえみサービス」 という制度を利用することにしました。低料金(1時間900円)で、 ヘルパーさんが身障者の手助けをしてくれます(他にも市役所の 身障サービスもありましたが、サービス範囲が狭く利用しづらそう でした)。週2回頼みました。ヘルパーさんも感じが良く、娘も 人見知りがなかったので、たいへん助かリました。ただ(日)(祝)に 利用できない、予定外に急に頼めないなど融通が利かず、少し困った こともありました。社会福祉協議会でも、身障ママの育児のお手伝いと いうケースは初めてらしく、ややとまどっていたところもあったようです。 もっともっと身障ママが増えていけば、サ一ビスも多様化していくのだ と思います。


保育園へ

 保育園の入園準備を始めました。大きくなっていくにつれ活動範囲が 広がり、ついていけなくなりそうでした。何とかベビーカーに乗せて 公園に連れていっても、ブランコひとつ乗せてやれない。お砂場の縁に 腰掛けて一緒にお山も作ってやれない。週2回の「ほほえみサービス」 では足リなくなってきていました。

 「保育園」と聞くと「働くお母さん」とイメージがあリますが、 果たして無職でも入れてもらえるのか?。さっそく市の児童課で話を ききました。すると私のようなケースでも入園申請ができることが わかりました。年度途中では空きが無いので、2月(入園は4月)を 待つことになりました。しかし0歳児は希望が大変多いとのこと。 身障ママの場合、優先順位は高いが確実とはいえない。
 そこで近所の児童担当民生委員を訪ねました。病気のこと、育児の ことなど親身に話を聞いて下さいました。その民生委員さんが児童課に 「こういう困っている人がいる」と話してくれたようです。それまで 民生委員さんと接する機会はあまりありませんでしたが、地域の 相談に気軽にのって下さることが分かりました。保育園にも見学に 行きました。太陽の光が良く入る明るく清潔な部屋で、園児達が 楽しそうに遊んでいました。園長先生にも直接お会いして、 話を聞いていただきました。先生も股関節がお悪いとのことで、 私の気持ちをよく分かっていただけたようです。

 こうして8ヶ月で保育園に通い始めたのです。今でも「こんな小さい のに保育園?。かわいそうに。 」と言われることがあります。私自身も、 朝離れるのを嫌がって泣かれると胸が痛むことがあります。けれど 身障ママにはやはり限界があります。もちろん、がんばって自分の手で 育てている方もたくさんいます。障害の程度は百人百様。子供の性格も あるでしよう。私は出来ないことは人に助けてもらうことにしています。 もちろんやれることはがんばります。が、育児は長距離マラソン。 ムリに飛ばすと最後まで持ちません。スタミナのない私にはこの方法が べストなんだと、わりきることにしました。そのかわり、お迎えまでに 夕飯の準備は終わらせ、帰ってきた娘とずーっとー緒に遊ぶように しています。娘も楽しそうです。つたない会話で、保育園であったこと などお話ししてくれます。最近は「ママ首イタイノ?、ダイジョーブ?」 と心配してくれたリ、靴をはかせてくれようとしたり、落としたものを 「落ちちゃった?」と飛んできて拾ってくれたりと、優しく 成長しています。


これから

 まだまだママも新米です。叱った後で自己嫌悪に陥ったりもします。 娘も、思うように抱っこしてくれないママに、不満を感じる時もある でしよう。親子はこれからも不満を持ち、笑いあい、泣きあい、迷います。 それは身障ママでも、そうでなくても同じだと思っています。今までは 体力的にたいへんでした。これから先はだんだん精神的な育児に変わって いきます。自分のママが、よそのママと違うことに疑問を持つかも しれません。腹をたてるかもしれません。お友達にからかわれるかも、 同情されるかも。もっと先の話をすれば、負担になるかもしれない。 「女の子でよかったね。お母さんの役にたつよ」と言われることが よくあります。けれど娘は、私の役に立つために生まれてきたわけでは ありません。娘は娘の、私は私の人生があります。もちろん今は娘の ために大半のエネルギーを使っていますが、それももうしばらくの ことでしよう。将来「ママがいたから何もできなかった」などと いわせないためにも、これからはすこしずつわたしの道を見つけて行こう と考えています。

 それが「らくちん」の道ならいいなあ。


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