入会記念日


N.I.


 私にとって「12月13日」は、日本AS友の会への「入会記念日」。 5年前の12月に道路で転倒して脊椎の5番目を潰した。入院した病院の 若い医師に、「誰が強直性脊椎炎と言った?。どんな検査をしたのか?」、 矢つぎばやの質問をされて私は戸惑った。
 「誰がって?、あの〜神奈川の県立リハ病院の先生です。レントゲン 写真をいっぱい撮って関節リウマチではない。強直性脊椎炎だと 云われました」
 「僕が言っているのは血液検査のこと」
 「血液検査?。エエ−ッ、血液検査でこの病気のことが分かるん ですか?」

 それはそれは驚いた。股関節に痛みを感じ、初めて受診して以来35年が たっていた。結婚・出産後、病気は徐々に悪化していった。昭和34年代 の頃である。いくつもの病院を転々として、牽引療法、点滴、輸血、 抗生物質、ステロイド投薬、漢方薬、はり・灸、マッサ−ジ、それから 祈祷師と、痛みをとるためにあらゆることを試みた。
 『坐骨神経痛』『肋間神経痛』『子宮後屈』、多くの病名がつけられた。 九州のK大学病院で1年余の入院生活後についた病名は 『多発生慢性関節リウマチ』。それ以来、ずぅっとリウマチの治療を してきた。『強直性脊椎炎』と診断されたのは、初診以来20年後のこと。 初めて聞く病名であったが妙に納得した。

 思い出したくない時期がある。主人の転勤に伴い現在の地に住むように なってからは、病院と薬とも縁を切った。数年に及ぶ入院の医療費の殆どを 親に援助してもらっていたので、これ以上迷惑をかけたくなかった。 激痛との戦いが10年続いた。どんなに体が痛くとも昼間は洋服に着替え、 掃除、洗濯、炊事と最低限の家事を精一杯こなした。息子は小学校に あがり、中学生になり、高校生と成長していったが、一度も父兄会に 参加できなかった。今も心が痛む。
 平穏な生活は望めなかった。この一番苦しい時期を支えてくれたのが 近隣の人々であった。「必ずよくなるよ」の励ましの言葉にどれほど 勇気づけられたことか。「必ずよくなってみせる」と強く自分に 言いきかせた。

 痛みから解放されたとき、脊椎も両股関節も屈曲したまま動かなく なっていた。それでも、外に出られるようになったのが嬉しくて、 松葉杖を使って一生懸命歩いた。私に手を差しのべて下さった人々に 感謝し、少しでも人の役に立ちたいと思った。

 市の福祉環境調査に障害者の代表の一人として加わった。障害者団体に 入り、旅行や文化講座、各種の行事への参加と毎日が楽しく生きていて、 ほんとうに良かったと思った。『強直性脊椎炎』の患者というより障害者 としての意識が強かった。前へ前へと進んできた生活を根底からく つがえされたように思えた。

 血液検査はプラスだった。このことが「日本AS友の会」を知る きっかけとなった。送られてきた「らくちん」と「療養の手引き」を 隅々まで読んだ。病気に対していかに無知であったかを思い知らされた。 様々なことを知るにつけ悔しくて泣いた。恨んで泣いた。取りかえしの できない日々を思って泣いた。声をころしてフトンを噛んで泣いた。

 ようやく平静な心をとり戻した昨年、「日本AS友の会」の総会に 息子と共に出席した。男性に多い病気とされているが、女性の出席者も 多く、自分だけでないことが確認出来た。素晴らしい方々に出会えた ことを感謝している。総会後、しばらくして井上先生が(らくちん誌) 書かれていた、いわゆる「飛び入りAS診」を受けてきた。40年目の AS専門医による診察であった。暖かい雰囲気のなかで、「もう一度、 街中(まちなか)を歩いてみませんか」。井上先生の言葉に私の心は 揺れ動いている。“人工関節”、揺れ動きながら夢を描いている。 「いつの日か、街中を上を歩いている姿を……」


戻る

トップページへ戻る