冷凍治療体験記


T.S.


 現在私は、新潟県東蒲原郡三川村にある三川診療所に入院し、病院の 隣にある冷凍治療を行う健康施設「レッスル」で、冷凍治療を行いながら リハビリに取り組んでいる。

 新潟県の東北部に位置した、越後山脈と飯豊連峰の山あい、阿賀野川 沿いの町にあるこの診療所に来たのは年の暮れも押し迫った12月の中旬 すぎだった。ここ数年、消炎鎮痛剤は服用していたものの症状は安定して いた。私の病気の進行は落ち着いたのかと思っていたところ昨年の9月 位から右股関節を動かすと「コツ、コツ」と音がしだした。その音が 1ヶ月ほどすると「ゴリ、ゴリ」に変わり、さらにっ「ギシリ、ギシリ」 と鳴るようになった。「コツ、コツ」の段階では歩きにくくはなかったが、 「ゴリ、ゴリ」で右足で踏ん張れなく、「ギシリ、ギシリ」で杖を使う ような症状になった。
 「コツ、コツ」から杖を使うような症状まで約3ヶ月、股関節の症状 が激しい勢いで悪化していった。杖を使うような症状になった頃には、 激痛で充分に睡眠も取れず、とても仕事ができるような状態ではなく なった。ちょうど仕事の区切りがついたところで大急ぎで入院した。

 私が冷凍治療に取り組むのは、今度で7度目である。私が初めて 冷凍治療に取り組んだのは、昭和61年、股関節が2度目の危機に 見舞われた時でした。車椅子、松葉杖を体験した最初の危機から 社会復帰して5年目、脊椎の強直が完全に近づき悪魔は、再度、 股関節を攻撃し始めた。痛みに耐えられず、最初の危機の時、面倒を 診てくれた医師のチームの一人を訪ねた。私は入院してリハビリ治療を 受けることを希望し、その医師を訪ねたのだが、入院を断られ途方に くれた。
 ちょうどその頃、私は写真週刊誌で南アフリカ共和国から大分県の 病院に冷凍治療を受けに来ていてスキー場で裸でスキーを楽しむ 強直性脊椎炎の患者の記事を目にした。私の住まいは本州最北端の 下北半島、九州まで出かけるのには抵抗があったが、「強直性脊椎炎 の患者も多く治療を受け改善されて退院している」という大分の病院 の説明を電話で聞き、その場で入院を希望し、親に借金して九州に 出かけた。

 冷凍治療は、慢性関節リウマチ治療の取り組みのなかから生まれた。 関節リウマチの治療で従来行われていた温熱治療と全く逆のこの治療 方法は、運動療法と併用することによって症状の改善実績をあげた。 それらの療法による改善内容は、血流量の増加、疼痛、催炎因子の 減少、副腎皮質ホルモンの増加、関節液代謝の促進等である。これらの 改善内容から、関節障害やアトピー性皮膚炎にもこの治療を実施、 症状の完全実績をあげた。

 大分の病院に着いて、すぐ、私は写真週刊誌に載った南アフリカ 共和国の強直性脊椎炎の患者を見つけ、「オオ、俺と同じ姿のヤツが いた」と大いに感激した。その人が、私が見る私と同じ病気の最初の 人だった。また、入院診察時に医師から私と同じ程度の症状の患者の 入院時、退院時のビデオを見せてもらった。その患者の入院期間は記憶 していないが、入院時、高さ15cm程の階段を手スリに掴まり昇り降り していたのが、退院時には、高さ30cm程の階段を駆け足で昇り降り できるようになっていた。私と同じ病気の人が入院している事や、 回復した人のビデオを見る事で、私は希望を持った。

 全身冷凍治療は、一坪程の部屋に3、4人1グループで入り行われる。 一坪程の部屋は2部屋連なっていて、各々、予備室、本室と呼ばれる。 予備室は、マイナス10度から20度程の室温で本室に入る前に身体を 低温に慣らす部屋になっている。本室はマイナス120度前後の室温 である。

 全身冷凍室へ入る時の服装は、男性は、ショートパンツに靴、靴下、 マスク、耳当て、手袋が標準スタイルである。フンドシで入る人も いたが、大勢の目があるせいかそのスタイルは少なかった。女性の 標準スタイルは、男性のそれにタンクトップを身にまとう。セパレーツ で入る人もいる。

 入院して3日目、希望に胸膨らませた私は、いよいよ、冷凍治療の 建物に案内された。

 私が入院した病院は、冷研リウマチ村狭間国立温泉病院といい、 なぜか「冷」と「温」の字が混じった、「アレッ」と思う名前だった。 その病院での生活は、一般の病院とは比較ができない、明るく、 健康的で、はたまた厳しく、辛いものだった。

 一日の生活は、朝5時半に起床ラッパで起こされ、軍艦マーチの 音楽に尻を押され6時に広場に集合し、ラジオ体操をする事から始まる。 ラジオ体操の後は、往復40分程の歩行に出かける。7時半から8時半の 間に朝食、9時半までにトレーニングルームに、障害の程度で分けた グループ毎に集合して、検温、血圧測定を行い、その日の体調を確認 する。その後、冷凍治療、グループ毎に行う運動と続き午前の スケジュールが終わる。
 午後が、1時半から1時間程のグループ運動、休憩、3時から個人別 運動、4時半に清掃、5時解散というスケジュールだった。

 そんな生活なので、日中、パジャマ姿でベッドにいる人はほとんど いなかった。夏場は屋外で運動するものだから、日焼けしてとても 入院患者とはみえぬ人もいた。運動して汗を流すものだから、夜はよく アルコールを飲んだ。運動さえしていれば、酔いがひどくならない かぎりは、病院ではアルコールを大目にみてくれた。
 入院患者は個人病院、市立病院、県立病院、国立病院、漢方薬、 針治療、祭壇を前に巫女がするお祓いといった民間治療等、さまざまな 病院をまわり、またさまざまな治療を試しても痛みがとれず、藁にも 縋る思いで入院した人達ばかりだったけれど、なぜかみんな生き生き していた。

 さて、冷凍治療の建物に案内された時には、ちょうど冷凍治療が 行われていた。間口5間、奥行8間位の間口側に予備室、本室が並び、 予備室側の出入り口に順番を待って冷凍治療標準スタイルの男女十数名 が並び、そのまわりに服装の準備をしている人がいた。看護婦が予備室 の前に1人、予備室と本室の間に1人、名前を読み上げる人と3人 いた。
 本室の前には、メーターのたくさん付いた机があり、そこで男の人 がマイクを持って、「只今、○秒経過、○○さん異常ありませんか」 と、本室に入っている人に呼びかけると、スピーカーから、 「ワッショイ、ワッショイ」という掛け声とともに、「異常ありません」 と、返答がある。

 間もなくして、「ハイ、時間です。予備室の方と交替してください」 と指示が出る。「グオン」と扉の開く音、「ドゥン、ドゥン、ドゥン」 と床を踏み鳴らして人が移動する音とともに、「ヒャー」とか「ウォー」 とか悲鳴が聞こえ、「ドゥン」と扉が閉まる音と同時に予備室の扉が 開き、床に這い出る霧とともに、「痛い、痛い」といいながら、肌が 真っ赤になった冷凍治療標準スタイルの人、4人が出てきた。4人が 出たのと入れ替えに、4人が予備室に入った。予備室から出た人は、 ジャージを着込み、トレーニング場や建物のまわりで走ったり、 屈伸したり、ウェートトレーニングなどに出て行った。
 グループが進むにつれて、最初、30秒位だった冷凍室入室時間が1分、 2分と伸び、一番最後のグループの時には3分になっていた。その時の 室温は、「只今の温度、マイナス120度」と告げられていた。
 最後のグループから終わると、また、最初のグループが入室する。 冷凍治療は、1日に2度行われるのだ。

 2回目が終わりに近づいた頃、「Sさん、冷凍の準備をして下さい。 みんなが終わったら今日は、予備室に入ってもらいます。」と看護婦 に言われ、「裸を公衆の面前に晒すのは、恥ずかしいな。」と思いながら 冷凍室に入る準備をした。2回目が終わりみんなが治療室から出る頃、 看護婦に付き添われてマイナス20度程度の予備室に3分間入った。 予備室は、「ウォー、サムイ、サムイ」という感じで、肩がすぼまり、 自然と足踏みし始める寒さだった。初日は、それで終わった。

 次の日は予備室に2回入って、その次の日は本室の扉を開け本室の 冷気を予備室に入れてその温度を肌に感じさせるという具合に1日1日 段階的に低い温度に慣らされ、一週間目に予備室、本室と本格的な治療 になった。

 本室の治療は30秒から始まり、45秒、1分と15秒間隔で伸びていく。 本室に入ると若干の湿度が凍り、霧が発生した状態になっていて視界が 悪い。本室、予備室とも壁、床、天井に暖色のオレンジ色のカーペット が張られている。本室では、そのオレンジ色の壁に沿ってゆっくり まわる。「グォン、グォン」とモーターの回る音と、「シュー、シュー」 と冷気の吹き出す音の騒音がすごい。

 この視界の悪さと騒音で本室に入った瞬間、「オォ、ヤバイ、 逃げよう」と怯む。しかし高い治療費をかけているので逃げる訳には いかない。みんなに付いて、「ワッショイ、ワッショイ」と声を出して 中を回り始める。初めは寒い感覚だが、15秒もすると段々肌が痛く なり出し、激しく身体を動かしたい衝動にかられる。30秒が過ぎて 本室から出ると、ホッとした。予備室から出ると寒いものだから、 兎に角身体を動かしたい気持ちになった。

 低温に慣れてくると、自己申告で本室への在室時間を伸ばしていく。 1分、1分30秒は、すぐに入っていられるようになった。

 1分を超えると全身が、サロメチールを塗ったようにスースーして くる。また、肌が凍傷状態に近づくので痛みも強くなる。寒いのと 痛いのとで病気の痛みは二の次になる。

 「高い金出してなんでこんな痛い思いや寒い思いをしなければ ならないんだ。アー、もう耐えられない。この部屋から逃げよう。 逃げよう」とブツブツ思っているうちに、すぐ時間が経つ。

 入院生活を始めて、1ヶ月、2ヶ月と過ぎ本室への入室時間も 2分と入れるようになっていった。入室時間が長くなれば痛みが 和らぎ、症状もいくらか改善されるものと考えていたが、経過は その逆だった。痛みは次第に強くなり、運動量も落ちてゆき、 張り切っていた気持ちも意気消沈しだした。医者が見せてくれた ビデオはやらせではないのか、と考えたりした。

 私の症状に反し、南アフリカの患者はベンチプレスで80kgも あげる、ランニングもできる。どこが病気だろうとみえる。また アメリカから二十代前半の、肌の白い、かわいい強直性脊椎炎の 女性もいて腰痛の人と一緒に運動していた。だから、私も弱音を 吐く訳にいかなかった。

 そんな葛藤と闘いながらも3ヶ月が過ぎた頃には、入院当初、 1km歩くのも大変だったのが、10kmを歩けるようになった。7ヶ月 目には、人の助けを得ながらも標高千メートルを超える湯布岳を 登山できるまでになった。そして、1年の入院で、痛みがあっても 冷やして運動する事の大切さを認識して退院、病気に臆する事なく、 社会復帰した。

 それから5年間、1月から3月にかけて毎年大分の病院へ入院し 冷凍治療を続けた。その治療のせいか、症状は平衡状態にあった。
 もう進行は止まったという気持ちになり、平成3年を最後に 冷凍治療をやめた。

 そして、昨年の9月、思いもよらず股関節の痛みが発生した。 三川診療所に入院してから2ヶ月半、大分と同じように冷凍治療と 運動療法に取り組んでいる。痛みは消えず、逆に次第に強くなって きた。今回は、この痛みに耐えられそうにない。人工関節の置換手術 も考え始めている。


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